内 輪 第391回
大野万紀
3月のSFファン交流会は3月18日(土)に、「創元SF60周年!「創元SF文庫総解説」生解説」と題して開催されました。出演は、岡本俊弥さん(レビュアー)、大森望さん(翻訳家)、渡辺英樹さん(レビュアー)、石亀航さん(東京創元社)です。
写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、岡本俊弥さん、石亀航さん、SFファン交の河田さん、SFファン交の根本さん、大森望さん、渡辺英樹さんです。
WEBに掲載中の創元SF文庫総解説について語るというのが本来の趣旨だったようですが、話は出演者にとっての創元SF文庫、あるいは創元推理文庫SFマークについて語るということに傾き、ほとんど創元文庫の60周年を振り返る思い出話の会となりました。出演者の世代には開きがありますが、若い頃に読んでいたのがたいてい創元で(ハヤカワSFシリーズは手に入りにくく、ハヤカワ文庫は青背が出るまで間があった)、大体そうそうで話が通じる。まあぼくも同じですけどね。
渡辺さんのホームページには資料がたっぷりありますが、渡辺さんや岡本さんから出版点数の推移やハヤカワ、サンリオとの比較などのグラフが色々と示されました。それが単なる数字じゃなくて、このころ何を読んでいた、何をしていたというような思い出としっかりつながっているのです。
創元文庫のSFは1963年にフレドリック・ブラウンの『未来世界から来た男』からはじまり、65年の「火星のプリンセス」が大ヒット。65年~72年くらいが創元SFの基礎の時代で、シリーズものが中心だがバラードやメリルもあってエンタメ路線だけではなく多様性があった、と渡辺さん。
72年のオイルショックで紙質が悪くなり冊数も減って低迷期に入るが、78年にSF映画ブームが来て、加藤直之さんの表紙や、古い作品ではないリアルタイムな新刊(クリストファー・プリースト『スペース・マシン』など)が出るようになった。大森さんはいきなり同時代のプリーストが2冊も(『スペース・マシン』と『ドリーム・マシン』)出てびっくりしたという。
80年にジェイムズ・ホーガン『星を継ぐもの』が出て大ヒットした。石亀さんによれば今も100刷りを越えて売れ続けているとのこと。83年にデュマレストなどシリーズものが出て年間最高点数になったと渡辺さん。今年が60周年ということで創元SFの還暦とみなし、人生に例えればこの頃がちょうど青年期。86年からの〈ダーコーヴァ年代記〉シリーズで第二のピークを迎える。91年、創元推理文庫SFマークから創元SF文庫となり、28歳にして親元を離れ独立したと渡辺さんが言うと、いや今でも公式には独立しておらず継続しているということになっています、と石亀さん。2007年には日本作家もスタートし、現在の形になっていった。
後半は総解説の話というより、やはり各人が何が好きで面白かったかという話になって、大森さんはブラウン愛を語り、総解説では長編も含めて1つにまとめられたのが納得いかないと。渡辺さんが「みみず天使」愛ですね、と言えば大森さんは今は「天使みみず」。アップデートしないとダメとツッコミを入れる。そうか、今は「天使みみず」なのか! ぼくもアップデートしなくては。それから岡本さんがバラードを語り、大森さんがメリルを語る。渡辺さんはプリーストの話。なるほどこれが「生解説」ということですね。
二次会はぼくも顔出ししてバラードの話などに参加しました。バラードはすごく面白くて読みやすく、特に短編は大好きだったと話すと、みな賛同してくれ、バラードが難解だというのはコンデンストノベルの印象があるからじゃないかとの意見も出ました。でもコンデンストノベルって、今で言えば北野勇作さんのマイクロノベルみたいなものじゃなかったのかなと思ったり(やっぱりちょっと違うか)。二次会では渡辺さんの双子の兄弟、渡辺睦夫さんも顔出しして絶妙な双子トークが炸裂していました。面白かった!
次回、4月はお休みで、5月はSFセミナーに合わせて6日(土)の夕方からとのこと。テーマは未定ですが、SFセミナーに久々にリアルで参加するという水鏡子も顔を出すとの話でした。
アカデミー賞受賞で話題の映画『エヴリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス』(タイトルが長い!)を見てきました。あまり予備知識なしに見たので、想像以上にドタバタなカオスさにびっくり。すごく面白かったけど、ちょっと繰返しが多かったかも。
中国系移民の一家のバタバタした日常に、突然マルチバースの危機が突入。宇宙を救うため、何もわからないままお母ちゃんが大活躍するSFコメディです。基本的には母と娘、それに夫婦のごたごたにマルチバースの運命がからむという物語。派手なカンフーアクションや小ネタがとても良かった。昔の筒井康隆のスラプスティックなSFを(ちょっと下品なところも含めて)思いっきり見せてくれる感じでした。
思うにこれは少年少女のではなく、家族のセカイ系といえるのでは。
個人的には谷口裕貴の『アナベル・アノマリー』を読んだ後だったので、指がソーセージになっちゃうなどすごくアノマリーだなと思ってドキドキしました。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
SFマガジン掲載作4編とオリジナルアンソロジーの1編、それに書き下ろし1編を含む6編が収録された著者の第2短篇集である。帯に「(祝)柴田勝家(武将)生誕500周年」とあって、おおそれは凄いと思ったが、あれ……?
著者は民族学、オタク文化、VR、死と生、宗教といったテーマをSFで包み込んでパッケージ化して見せる。中短篇ではそれが特にうまく作用しており、いずれの作品も読み応えがある。
「オンライン福男」。この行事で有名な西宮の住人としては特に面白く読んだ。以前に『ポストコロナのSF』で読んだ時も感じたが、コロナのためにリアルでは開催できなくなった正月の福男選びをバーチャル空間で行うという、今ではSFでも何でもないアイデアを(仮想の)宇宙空間にまでエスカレーションするところが面白い。競技者の個性が豊かに描かれていてeスポーツ風に盛り上がる前半から、後半へのSF的なぶっ飛び感が弱く(結局VRだからか)、そこがちょっと物足りない。それがリアルに回帰する結末はとても良い。
「クランツマンの秘仏」ではいわゆる「イワシの頭も信心から」のような、信仰と物質の関わりが描かれる。人々の信仰心を失って消えつつあった古い神様が新たな信仰によって復活するというような話はマンガやアニメでも多いが、ここではもっと即物的に「信仰すれば無にも質量が生じる」という仮説を、厨子に入ったまま誰も見ることの出来ない秘仏の調査を通じて、スウェーデン人の東洋学者クランツマンが検証しようとする。彼は日本を訪れ、厨子をX線で撮影したり、同じ重さの二つの箱を信者にどちらが重いか判別させるなどの「信仰実験」を繰り返す。厨子の中に像があるのと何もないのと二つのX線写真が出てくる後半はほとんどミステリのように読めるが、クランツマンの孫が語るその結末は果たして正しいのだろうか。
「絶滅の作法」は人類を含め生物が全て絶滅した後の地球、東京で、異星人が人間そっくりのロボットの中に情報として入り込み、過去の日本人がやっていたことを体験しているという、これもVRテーマに近い作品である。ただしかつての日本の環境が全て再現されているわけではなく、生活しているのも「背景生物」というNPC(ノンプレイヤーキャラクター)たちだ。そんな東京で主人公たち2人はアパートに住み、日本人となって暮らしている。ある時、2人は本物の寿司を食べてみようと、古代の種子貯蔵庫から種籾を入手し、バケツで稲を育てることから始めるのだ。そうした生活の中で2人の異星人はしだいに「本物」の人間のような気がしてくる。淡々とした物語だが、滅びた文化への敬意があり、しんみりと寂寥感がにじんでくる傑作である。
「火星環境下における宗教性原虫の適応と分布」は『異常論文』にも収録された架空論文。宗教やイデオロギーといったものが、人類と共生する宗教性原虫という生物によるものだという論文だが、最初に読んだ時はそれってただミームを言い換えただけのように思っていた。でもそれを単にミームというのでなく寄生のための針を持つとか、色々と生物的な性質を考察することでその裏の意味を想像することができ、より味わいや深みが出ているといえる。
「姫日記」も始め異世界転生の仮想現実ものかと思ったが、すぐにひどいシミュレーションゲーム(クソゲー)を真摯にプレーするオタクの、つまりは著者の物語だとわかった。戦国時代に軍師となって日本統一を目指す『信長の野望』(ぼくもやってました)タイプのシミュレーションゲームだが、戦国大名が美少女ばかりなのはいいとして、まともに進められないような不条理なバグが満載のいわゆるクソゲーである。のちに柴田勝家と名乗ることになる主人公は、三つ編みのメガネっ娘、毛利元就に仕えて戦国の覇者となろうとするのだが……。笑えるようなバグの連続。味方にだけ一揆が起こり、調略したはずの武将は知らない間に寝返り、糧食のないはずの敵の城が何事も無いように持ちこたえている。それでも元就を支えて頑張っていた軍師はついにリセットボタンに手を伸ばす……。このゲーム『戦国姫』は実在のゲームだ。それに300時間、数千ターンを費やしたというのはたぶん著者のリアルな体験なのだろう。ゲームは違うが同様なことをやっている人間(水鏡子といいます)を知っている者としては、よーやったと感動の涙(と笑い)しか出てこないよ。
「走馬灯のセトリは考えておいて」は傑作だった。ぼくにはアイドルや推し文化のことはよくわからないけれど、人の魂は死なないというテーマは強く心を打つ。かつては記憶の中だけだったものが文章や写真、動画などの外部記憶にも宿り、そしてAIの時代にはライフログとビッグデータの中に宿るのだろう。タイトルの意味は最初よくわからなったが、読めばわかる。死の直前に見るという人生の走馬灯とはライフログであり、そのセトリ(セットリスト)を考えておいてというのはまさにこの小説そのものである。主人公の小清水イノルは依頼を受けて故人のライフキャスト(バーチャル人格)をデジタルで作り上げるライフキャスターである。彼女に依頼したのは柚崎碧という75歳の老女。病気で余命わずかとなり、かつての自分が演じて大変人気のあったバーチャルアイドルである黄昏キエラを復活させて「卒業ライブ」を行いたいというのだ。ただそれは柚崎碧本人でなくあくまで黄昏キエラとしてという条件がついている。イノルはそれを引き受けるが、黄昏キエラのこともアイドル文化のこともよくわからない。父親に話をすると、父はなんとかつて彼女の大ファンだったという。ノリノリとなった父にも往時の話を聞き、柚崎と相談しながらイノルはキエラの存在を復活させていくのだが……。華やかなバーチャルアイドルとその「中の人」との対比、二つの存在の間に隠されていた秘密、そういったものを徐々に明らかにしつつ、仮想現実の時代における魂の存在といったものを浮き上がらせていく。さらにイノルと父の関係性にも変化が現れる。卒業ライブのシーンは圧巻だ。『甲殻機動隊』を例に出すまでもなく、機械の魂というモチーフは珍しいものではないが、この作品ではそれが(意識の問題などの哲学的な深みにははまらず)ごく素直に人間的な心の話として、ストレートに共感を呼ぶように描かれている。それは架空のものにも魂を感じる人間の感覚でもあるのだが(長谷敏司ならアナログハックと呼ぶだろう)、大上段に振りかぶらず日常の延長として描くことで大きな感動を呼ぶのだ。
自身がVtuberである届木ウカさんの解説も、短い中にテーマの現代性をしっかりと指摘していて実感があり、説得力があってとても良かった。
22年9月に出た創元日本SFアンソロジーの第5巻。5編と第13回創元SF短編賞受賞作が収録されている。 なお〈GENESIS〉は今号で終了し、〈紙魚の手帖〉8月発売号に移動するとのこと。
八島游舷『応信せよ尊勝寺』は近日中に出版予定の長編版、その冒頭部になるという短編。物理学ならぬ佛理学が発達した世界を描くシリーズだが、この作品はまだ宇宙へ飛び出す前の地上編だ。尾道にある寺に預けられた少年がいじめにあったりしながらやがて自らの中にある力を知り、天駆することを誓う。物語の中心にあるのは佛理学が日常化した世界を描きつつ、宇宙へ飛び出す6つの寺の一つ、尊勝寺の駆動実験で発生した事故と、命がけで摩尼車を止めようとした3人の宇宙僧の活躍である。この3人の活躍が迫力あって読み応えがある。キャラクター的にはその一人、ズールー族出身のンベキが良かった。イヤホンでズールーの声明をラップのように聞いているという描写が面白い。「佛(ほとけ)パンク」という感じだ。一方、まるでハードSFのように佛理学の詳細が書かれているが、既存の物理学の用語を仏教用語に置き換えた(うまく置き換えているとは思うが)だけで、そこにはあまり魅力を感じなかった。後半では仏教的世界観をもとに破天荒に想像力が飛躍していて、その方が面白かった。
宮澤伊織「ときときチャンネル#3 【家の外なくしてみた】」は変人の同居人で天才科学者の多田羅未貴の研究結果を配信して儲けようとする十時さくらのシリーズ3作目。今度は家の外に出てみようというのだが、プライバシーを守るため自動的に背景にスクランブルをかける装置が大変なことになる。何とこの装置、背景を画像処理するのではなく、まわりの空間を「変換」してしまう装置だった。部屋の外に出ようとしたら、そこはまた廊下になっていたり、何となく記憶にあるようなないような、めちゃくちゃ豪華な部屋だったり、家の「外」が無くなって無限に広がる家の「中」だけの世界になってしまった。この異様な世界が、なかなか雰囲気があって面白い。作者の〈裏世界ピクニック〉シリーズにもありそうな、どこか幻想的でどこかホラーな世界となっている。でも二人のぶっ飛びかげんが、それすらも異化していて、不条理だがコミカルに落としている。
菊石まれほ「この光が落ちないように」。〈階層〉と呼ばれる暗闇の世界に生きる人々。光を生じる植物を育てているウトウ博士とその助手のイカル。イカルは頭に鹿のような角をもつ〈トマリギ〉という種族だ。イカルはウトウ博士を尊敬していたが、その博士が事件にあって死亡する。博士のいなくなった助手は何と廃棄物として処理されるのだ。しだいにこの世界の背景が明らかになる。過去に大きな戦争があり、その後も人工生物である〈ユズリハ〉と人間の間に戦争があって、その対立は今も続いている。地下に逃れた人々。地上に残った人々。その分断は、人はなぜ争うのか、そしてどうすれば争いのない世界を築けるのかというテーマに繋がっている。SFにはありがちな話だし、設定にやや乱暴なところもあるが、次第に自分に目覚めていくイカルの成長が描かれていて読ませる。
水見稜「星から来た宴」は宇宙SFで音楽SF。そして犬SFでもある。土星の衛星タイタンを巡る軌道上にある観測衛星。主人公の僕はそこで外宇宙からの電波を観測している。観測衛星にいる人間は僕一人。他にはバディのAIとラブラドル・レトリーバーのショーンがいる。タイタンの地上近くにはもう一人、サリナがいる。二人はもう何年もたまにしかない補給を頼りに孤独に暮らしている。月には宇宙開発機構の基地があるが、地球は環境破壊でずっと混乱が続いているのだ。二人とも音楽の素養があり、それは宇宙からの信号を言葉ではなく音楽として捉える可能性を考えているからだ。そしてある日、以前に超新星爆発を起こしたベテルギウスの方向から電波信号が届く。ショーンはそれに反応して歌うような吠え声を出す。それは滅びた惑星からの歌声(かも知れない)への反応なのだろうか。サリナにも変調が現れる。AIたちも含め、ここにはとても人間らしい(犬も含めて)感情が溢れている。静かな、孤独と寂しさと、そして豊かなメロディに満ちた作品である。
空木春宵「さよならも言えない」は中編で、何と服飾SFでファッションSF。ただし『カエアンの聖衣』のような服飾そのものがテーマではなく、ファッションに関する社会システムがテーマだ。個人の人種や知識やセンスや社会的地位などによる差異を廃した、個々の美の平等で公平な最適化。それでいて強制されることなく尊重される個性と多様性。そういったものが各人に「スコア」として見える化された社会システムの中で、それからはみ出した少女とシステムを運営する側の女性との出会いと別れの物語である。遠い未来、とある恒星系に植民した人類は惑星ごとに3種類の人類に進化し、過去にはそれぞれ戦いがあったが、現在は統一された世界となっている。3種類の人類とは(差別的とされる言い方をすれば)、ろくろ首とのっぺらぼうと土蜘蛛だ。スコアシステムを管理する〈服飾局〉の部長、52歳のミドリ・ジィアンは、クラブで踊っていた信じられないほど低いスコアをもつ少女ジェリーと出会う。彼女はスコアを全く気にせず、自分だけの感性でカワイイと思うものを好きなように着るのだと主張する。はじめ非常識だと思っていたミドリだが、彼女とつき合う内に次第にそれを面白いと思うようになっていく。しかし……。人間は矛盾したものである。差別をなくし公正さを目指そうとするシステムはしばしば抑圧をもたらす。結末は重く、辛く、寂しい。
創元SF短編賞の受賞作は、笹原千波「風になるにはまだ」。これもまたある意味服飾SFだ。とはいえ、ここで描かれる服飾とは、ファッションやその素材そのものであると同時に、人間と外部の世界との皮膜、インタフェースとしての意味合いを持っている。それはまた主人公である生身の肉体を持つ女子大生のあたしと、元アパレルデザイナーで今は情報となって仮想現実世界に生きている楢山小春との関係性を示すものでもある。あたしはアルバイトで1日楢山さんに自分の肉体を貸す――自分の五感で見る、聴く、触る、味わう、感じるもの全てを、情報存在である楢山さんの生きている端末となって、リアルタイムに共有するのだ。楢山さんの精神に肉体を支配されるということではなく、あたしはあたしのままで彼女とリアル世界のインタフェースになるということである。この作品は評者がこぞって絶賛しているように、そのインタフェースの描写、衣服の手触り、食べ物の食感といった感覚の描き方が素晴らしい。楢山さんがあたしを借りたのは、学生時代の友人たちが開くパーティに生身の感覚を持って出席するためである。後半の、この同窓会的なパーティの楽しさがまた素晴らしい。相応に歳を取った彼女たちは学生時代の気分を取り戻し、本当に若いあたしを、あたしであると同時に楢山さんとして遇する。そこには違和感もあるが、大人としてちゃんと折り合いをつけているのだ。何ともハッピーな、幸福感に溢れる物語である。読んでしあわせな気分になる傑作だ。
著者いわく「ディストピア×ガール」がコンセプトの短篇集。書き下ろし1編を含む6編が収録されている。いずれも力作であるが、6編を読了した感想としては、ここでいうディストピアというものが、実際にありそうなものからいかにも作り物めいたものまで含めて、その表面的なシステムよりも、個人にとっての重い、閉塞した、先のない、理不尽なものという感覚で捉えられているように思えた。中でも全編に共通するのが、理不尽な死の強制である。その感覚が基本的には社会批判の方向へは向かわず、むしろ主人公たち個人の、その理不尽を自分たちで打ち砕き、檻を抜けだしてもっと先へ進もうという方向へ向いていることで、全体に明るく前向きな印象を与えているのである。
「六十五歳デス」はその典型だといえる。このディストピアは(タイトルから想像できると思うが)ずいぶん無茶で理不尽な世界である(ぼくなんかとっくに死んでますがな)。機械的に定められた死(とはいえそこに厳密ではないある幅があることが物語に深みを与えている)と、それに抗う老女。主人公の紫はガールというよりおばあちゃんなのだが、これがパワフルですこぶるカッコイイ。彼女に拾われてバディとなるのがスラム出身の少女(ガールもちゃんと出てくるのだ)桜。裏稼業で稼ぐ二人の活躍がとても小気味よく、世代をつなぐ結末も余韻があっていい。社会のルールを変えようというのではないが、背筋を伸ばして外の世界へと歩み出す桜の姿が颯爽としている。
「太っていたらだめですか?」は「痩せたくないひとは読まないでください。」を改題。健康診断のBMI値が高くて会社をクビになり、政府が主催するダイエットバトルに強制参加させられ、美食の誘惑と戦わされる27歳元デザイナーがこの作品のガールである。リングネームはリバウンド。空腹感を増す薬を打たれ、とびきりの料理人たちが作る豪華な料理を目の前にして一口でも食べれば失格して地獄行き。共に戦う5人にはそれぞれの事情があり、性格がある。中でも自分の命より、大食いアイドルのナツメちゃんといっしょに食事できるならという24歳の青年ナガラグイの決断はすごいね。以前に読んだ時も書いたが、結末はちょっと弱い。もっとスラプスティックにぶっ飛んでもよかった。小林泰三ならどう書いただろうか。
「異世界数学」は「数学ぎらいの女子高生が異世界にきたら危険人物あつかいです」の改題。あとがきによれば大きく改稿されているという。主人公のエミは数学嫌い(といっても頭は良く、数学も暗記するだけなら得意)な女子高生。それが試験の点数を見て、数学なんてなくなっちゃえばいいのにと叫んだ瞬間、中世ヨーロッパ風(というかファンタジー風)の異世界に転移してしまう。そこは権力者が数学を禁止し、簡単な算術以上の数学を使うものを捕らえて処刑するという世界だった。うっかり解の公式を使ったばかりに彼女は捕まるが、数学好きの人間が集まった秘密組織に救われる。だがエミに良くしてくれて数学の(というか論理的に考えることの)楽しさを教えてくれた彼らもまた捕まってしまい、このままでは処刑される。エミは何とか彼らを救おうとするのだが……。本書のメインにあるのはストーリーそのものよりも、数式を使わない数学パズルや、暗記した公式ではなく論理だけで問題を解こうとすることの楽しさである。そういう意味で他の作品とはちょっと毛色が違っている。そんな練習問題がいくつかそのまま描かれていて、数学があまり得意でないがパズル好きという高校生や、頭の体操がやりたい高齢者にも楽しめるものとなっている。
「秋刀魚(さんま)、苦いかしょっぱいか」のガールは小学5年生のちはる。夏休みの自由研究が土壇場まで決まらず、ふとカレンダーの「秋刀魚の日」が気になりアシスタントAIの力を借りて調べ始める。秋刀魚は50年前にはさかんに食用にされていたが今はほとんど食べられなくなっているのだ。この作品でのディストピアとは、消えていく食品や食文化という現実的で実際にわれわれの身近にあるものである。曽祖母に通話して聞いてみると食べたことがあるという。塩焼きが一番美味しかったという感想を聞き、その再現をテーマに決める。検索できた秋刀魚の塩焼きのレシピは2行しかなく、定年退職した水族館の元飼育担当者に話を聞いたり、古い文学作品や記事から情報を抜粋したりして、3Dフードプリンターにデータ入力するが情報不足でエラーとなる。AIの助けを借りて色々と苦労しつつやっと秋刀魚の塩焼き(らしきもの)が再現できたが、曽祖母と味覚共用モードで一緒に食べてみるとやはり足りないものがあるという。さらにがんばるちはる。そして……。いい話だ。他の作品に比べてもディストピアの暗さが薄く、前向き度が高いと思ったら、これはSFプロトタイピングとして書かれた一編だった。テクノロジーによって失われたものを再現してもそれは決して同じものにはならない。だがそれをテクノロジーの敗北とは捉えず、新たな創造として捉えること。小学生の創作料理コンテストへの挑戦のように。うん、ステキだ。
「ペンローズの乙女」はちょっと複雑な構成をもっていて、様々なテーマを含んだ作品である。超超大な宇宙的時間を描く宇宙SFであると同時に、南の島でのボーイ・ミーツ・ガールな異文化SFであり、社会や文化の持続可能性についてのSFでもある。大きく現代パート(南の島)と宇宙パート(宇宙の終わり)に別れていてその間にフェルミのパラドックスに関する(歴史のこだま)が挿入される形式だが、現代パートの主人公はクルーズ船から落ちて南海の孤島コンデイ島に漂着した中学生のヨーイチ。島には原住民の他に日本人のコジマと人類学者のボルダーがいた。ヨーイチはコジマの通信端末を借りて家族に連絡し、2週間後にクルーズ船が戻ってきたとき拾ってもらうから安心するようにと話す。彼は島で出会った美少女、サヨに心を引かれていたのだ。この島には生贄の風習が残り、そのため国際社会から孤立していた。ずっと昔日本の統治領だったことから少しだが日本語が通じる。ヨーイチはこの島の暮らしに魅惑され、サヨに恋して長ずれば島の巫女となりうる特別な力を持つ彼女に竜宮の乙姫さまを重ねる。だが、生贄とは……。後半になって突然出てくる宇宙パートではいきなり想像を絶する遠未来の、宇宙の終末が描かれる。ヨーイチとサヨの物語を読んでいたサヨヒメとはもちろん人間ではない。虚空に浮かぶ超巨大回転ブラックホールをのぞき込む精神のみの存在、ペンローズ族の一人である。生贄となることが運命づけられていたサヨと同様に、サヨヒメはブラックホールの事象の地平線へと向かっていくのだが……。関係があるとは思えないサヨとサヨヒメの不思議な結びつき。宇宙の終焉で、サヨヒメの命と引き換えとなるダークマターの衣が次の乙女を形づくる元となる。何と尊い……。
「シュレーディンガーの少女」は書き下ろしで、これまた複数のテーマを持っている。量子力学SFであり、ゾンビSF、パンデミックSFであり、ロリータ衣装で装った美少女AIロボットとわがままな人間の少女とのシスターフッドSFであり、その美少女ロボットが活躍するバトルSFでもある。まあ盛りだくさん。文体は2人称中心で(一部1人称あり)、それはこの物語が量子力学の観測問題を扱っているためだ。観測者は「あなた」。あなたは物理学者の友人からシュレーディンガーの猫実験への協力を依頼される。もちろん本物の猫を使うのではなく猫型ロボットを使うのだ。猫の生死ではなく機能停止しているかどうかを観測して彼に知らせるというもの。あなたは承諾する。この「実験」のパートは、物語の中心にある「世界」パート、ロリータ衣装の美少女「紅」とそのフレンドAI「藍」のストーリーに出てくる「量子自殺」の概念を読者に理解してもらうために存在するのだと思う。「世界」パートの観測者である「あなた」はおそらく「実験」パートのあなたではなく、この物語の読者そのものだろう(だがその視点は「作者」によってコントロールされている。ややこしい!)。「世界」は人間がゾンビ化するパンデミックに襲われている。感染予報が出ているにもかかわらず、紅は渋谷へ出かける。藍は引き留めようとするが、強引に出かけようとする紅の安全を守るために一緒に出かける。だが渋谷でクラスターが発生し、ゾンビ化した人間に襲われて紅は100%の致死性があるウイルスに感染してしまう。藍は彼女を助けるため、彼女に量子自殺を提案するのだ。50%の確率で死ぬ自殺を無数に繰り返し発生する多世界の中から彼女の助かる世界を選択するために……。原理は違うが、伴名練の「二〇〇〇一周目のジャンヌ」にも通じる考え方だ。とんでもないアイデアと少女二人の(一人はAIだが)未来を賭けた試みが心を打つ物語である。
全体に通して小ネタが散りばめられている。AIアシスタントや通信装置がモラヴェックと名付けられているのもその一つ。ハンス・モラヴェックは後書きでは「量子自殺」の提唱者として紹介されているが、普通はロボットや人工知能の研究者として知られている。だからAIアシスタントはモラヴィックなのである。海外のSFでも言及されることが多く、SFと親和性の高い人だ。他にも数学者や物理学者の名前が使われていたり、多くの女性に色の名前がついていたり、他にも各作品で共通して手形が重要な役割を果たしていたりする。そういうのも面白かった。
22年前の〈SF Japan〉誌に掲載された史上最悪の超能力者アナベルによる凄まじい災厄を描いた中編2編「獣のビーナス」と「魔女のピエタ」に、20年ぶりの書き下ろし2編、前の2作を合わせたよりも長い「姉妹のカノン」とエピローグ的な短編「左腕のピルグリム」を加えた連作長篇である。伴名練の29ページにおよぶとんでもない解説がついている。
伴名練の解説には収録された各話のあらすじが要領よくまとめられているので、ここではあらすじ紹介は省略しよう。ただ「圧倒的な情報密度をもち、視点人物が錯綜し、世界各地を駆け巡る物語」であり、読者は情報量に圧倒されて迷子になるだろうと解説者も認めているような作品であるため、用語と設定は押さえておかなければいけない。
50年前に誕生した「レンブラントプロセス」は超能力者(サイキック)を生みだすための研究(計画?組織?方法論?)であり、そこから多くのサイキックが生みだされた。中でも最悪だったのが「アナベル」という12歳の少女。覚醒した彼女の能力は世界の現実を異様に変容させること。天井が溶けたタールになり、注射器は葉巻になり、人間は生きたネオンになる。
研究者たちの多大な犠牲の上に彼女は殺害されるが、異変はそれで終わらなかった。「アナベル・アナロジー」と呼ばれ、禁忌となった何種類かの事物、アナベルという名前それ自身、彼女の故郷や家族にかかわるもの、彼女がかつて好きだったものなどを依り代として、死んだ彼女とその能力が顕現し、都市を破壊し多数の人々を死に至らしめる。それが「アナベル・アノマリー」だ。そこにアナベルの意思や人格は認められず、「呪い」のように不条理に荒れ狂う災厄があるのみ。ほとんど大規模な自然災害のようなものだ。
アナベルを殺害した研究者たちの生き残り5名は「ジェイコブス」という組織を作り、自分たちのコントロールできる6人の強力なサイキック「Six」を使ってこれに対抗する。「Six」は複合人格で、出現したアナベルに戦いを挑み、周囲を巻き込んで甚大な被害を出しつつ彼女を何度も殺害するのだ。それがもう十数回続いている。「ジェイコブス」は超国家的な組織で、アナベルを抑えるためなら大都市を破壊しても咎められないくらいの強い権限を持っているのである。
他に「ジェイコブス」の組織に属するもっと人間的な能力者もいる。エージェントとなって現場でアナベルの痕跡を嗅ぎ取るテレパスや、他人の記憶にもぐり込んでそれを改変する能力をもつ者たち。本書で視点人物となるのはそういう者たちである。
そういったことが第1話「獣のビーナス」に全て含まれている。詳しく説明されないにもかかわらず、そのイメージ喚起力は圧倒的だ。超能力者による迫力ある異能バトルなどは描かれない。個々の超能力の詳細やサイキックの個性についても描かれない。描かれるのはそれが起こったことによる惨状であり、巻き込まれる人々の姿だ。「獣のビーナス」ではその名前で呼ばれる民芸品が新たな「アナベル・アナロジー」となる。それが生みだされた過去の出来事も語られる。ある人物がキーとなって、ナイジェリアのスラムに暮らす人々にアナベルの災厄が襲いかかる。しかしそれはアナベルだけでなく、それに対抗するジェイコブスの非人道的な狂気によるものでもあるのだ。本書でぼくが一番気に入っているのがこの作品である。もちろん他の作品も面白かったが、ここで描かれる不条理な哀しみがとりわけ強い印象を残すのだ。
書き下ろしではジェイコブスのエージェントとして他人の過去の記憶に潜り、それを改竄することのできるサイキックの姉妹が登場する。それまでの作品より視点が固定されていて読みやすい。深くは描かれないが魅力的な登場人物も何人か出てくる。最後の作品ではほとんど悪の組織のようになったジェイコブスの狂気が描かれ、一つの結末を迎えるが、これでもう二度とアナベル・アノマリーが起こらないといえるのだろうか。変化した世界で、まだまだ物語は続くように思えるのだ。
伴名練解説では本書の解題とともに、徳間書店のSF出版についての詳しい経緯や作者の他の作品についての解説が含まれる。一時期SFから撤退していた徳間書店が、今再び本書のような優れたSFを出し続けていることはとても嬉しいことだ。