続・サンタロガ・バリア (第245回) |
このひと月のなんとなく当方の気を惹くようなSFプロパー作品の出版がすくなくて(小説以外は多い)、まあ読書欲も減退中だしそんなものかと思っていたけれど、このひと月を振り返ってみれば、視聴覚の方がわりと充実していたことに気がついた。
前回は昨年聴いたCDのことを長々と書いたけれど、3月は、ロック系コンサートとクラシック系コンサートがそれぞれ充実したものだったし、アカデミー賞を総なめにしたSF映画も面白かったので、今回はそれをメモ代わりにかいておこう。
ロック系はスティングのコンサートで、前回広島に来たときは行けなかったから、スティングを生で見るのは初めてだった。今回は奥さんが見たいと云いだしてからチケットを手配したのだけれど、アリーナの2階席ステージの反対側1列目左寄りという、年寄り向きの席だった。
今回の日本ツアーの初日ということもあり、どんなもんかいなと思っていたが、なんと最初は息子のジョー・サムナーが出てきて、エレアコ1本で、カラオケ伴奏も使い、30分の前座を務めた。ググると76年生まれとあるので、40代後半。日本語のイントネーションも確かで、本人も日本大好きと云っていた。歌も曲も悪くはないが、親父ほどの強烈な魅力は無い(ビッグ・ミュージシャンの子供で親以上に成功するのは大変だ)。本人は、ウチの子供(スティングには孫)がカワイくてねえ、などとお父ちゃん振りをアピールしてました。
スティングは冒頭からポリス時代の「孤独のメッセージ」にソロ2作目から「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」、やはりポリス時代の「マジック」と超有名曲から入って盛り上げた後、最近出したというニューアルバムから3曲、そして始まったのが「If I Ever Lose My Faith in You」「Fields of Gold」「Brand New Day」「Shape of My Heart」「Heavy Cloud No Rain」「Seven Days」という、「ブラン・ニュー・デイ」以外は30年前のソロ・アルバム『テン・サマナーズ・テイルズ』からという驚きの選曲。それにしても「Heavy Cloud No Rain」はあのビールCM曲だった「We'll be Together」によく似た感じがする。
後半もポリス時代の大ヒットをちりばめて、ポリスの最後にして最大のヒット曲「見つめていたい」でトリ、息子のジョーも加わっていたような。
アンコールは、これまたポリス時代初期のヒット曲「ロクサーヌ」で飛び跳ねた後、スティングがアコギをつま弾いて静かに歌う、セカンド・ソロ・アルバムからの「フラジャイル」でオトナっぽく閉じた。
71才で、ベースを自在に鳴らしながら、シャウトもバラードもほぼ衰えを感じさせない(見た目はやはりジイサンだけど) ステージは、見て良かったと思わせるものがあった。なお、この広島公演のセトリはその後の日程でも同じだったようだ。
バンド・メンバーはギターのドミニク・ミラー以外は知らない名前だったけれど、キーボード・ドラムス・コーラス男女1人宛それにハーモニカという編成でも十分にパワフルだった。
休憩時間にグッズの販売アピールもなく、帰りは会場近くの駅から夜10時前の列車に乗って約1時間、帰宅が11時過ぎということもあり、結局パンフさえ買わずに手ぶらで帰ったけれど、それはそれで良かったかも知れない。
クラシックの方は、何年かに1度来るNHK交響楽団の地方公演で地元ホールでの演奏。指揮者が90才を超えたフェドセーエフで、ピアノが小山実稚恵。ということでラフマニノフの2番の協奏曲にチャイコフスキーの交響曲第5番というお国もの。プーチンのお友達と言われるゲルギエフは欧米楽壇から追い出されましたが、フェドセーエフともなるとそんなことはどうでも良いのかな。
当初どうせ満員だろうしと思いチケットを手に入れようともしなかったのだが、知り合いからチケットを手配したんだけど行くかと訊かれたのでOKしてチケットを手にしたら、なんと中央後ろ寄りの一番音響が良い席だった。
当日は案の定、1600席満席という大盛況、指定席だというのに開演5分前まで長蛇の列。さすがフェドセーエフ、これを逃したら次はないかもと云うファンも多いのかも。 さて、フェドセーエフは超高齢にもかかわらず、小山実稚恵の後から歩いて指揮台に上がり座って指揮を始めた。N響が音を出し始めて気がついたのは、N響が本気で演奏していることだった。音に集中力が籠もり、各パートのバランスも見事にコントロールされて、フェドセーエフの音楽づくりに応えようとしているのがわかる。最強奏でピアノの音がマスクされるような大音量にもかかわらず威嚇的な音圧感は一切感じられず、むしろこじんまりと統制されたひとつの楽器のようにN響が鳴っている。ここまでくればラフマニノフの通俗さももはや響きの世界へと転換されてしまう。
チャイコフスキーの交響曲でもあの2楽章のポップなメロディーがさらなる響きの世界に昇華されて、チェロ奏者たちが猛スピードで弓を往復させている間でもアンサンブルとしてのオケに音圧の強さが加わることもなく、見事なバランスを保って楽器としてのオーケストラが鳴っている。
N響は輝かしい音色を持つわけでも、いぶし銀の響きを感じさせるわけでもないが、その熟練度において日本のトップ・オケであることは間違いない。これを聴くと広響はまだ若いんだなあ、と思う。
映画は話題の『エヴリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス』。
いやあ、SFファンには大笑いの1作。『異常 アノマリー』でハマったダグラス・アダムズ世界がよみがえりますね。何でもありの世界をよくここまでタイミング良く編集できたなあというのが一番の驚き。俳優陣も頑張っていて、泣けてきます。どんな大冒険でも「おウチが一番」な結末は、もちろんお約束。
上映途中で席を立った人もいたようだけれど、これがアカデミー賞最多部門受賞柞といわれて見に来た人の、なんじゃコリャという反応もよく分かるつくりではあるな。
めぼしい新刊がない中、それでもスタニスワフ・レム『火星からの来訪者 知られざるレム初期作品集』はSF2編、普通小説3編に若書きの詩群を収めた重たい内容の1冊。スタニスワフ・レム・コレクション第10回配本。
タイトル作は、全350ページ足らずの内150ページを占める長中編。タイトルの「来訪者」は、オビでは「第二次世界大戦のさなか、アメリカの州境に火星からロケットが飛来、科学者や技術者からなるチームが火星人との意思疏通を試みるが……」と紹介されているけれど、読後感からすると全然違う作品の紹介のように思える。もちろんその違和感は「科学者や技術者からなるチームが火星人との意思疏通を試みる」という「火星人」を含め古いSFを紹介するかのようなニュートラルな表現がもたらしている。
実際、1946年にポーランド人のレムによって書かれたアメリカを舞台とするSFが古くないわけがなく、その作品のSF的設定に何の新しさもないことも手伝って、ありふれたファーストコンタクトSFみたいな紹介文になっていることは仕方ないともいえる。むしろそうすることで、レムが1946年の時点で書いていたのは、『ソラリス』や『天の声』に引き継がれたテーマそのものだったという衝撃がより強調されるかも、という深謀遠慮があったのかもしれないな。まあ、小説としては大変無骨で、『ソラリス』や『天の声』を思えば、これはまだ習作の域に止まっているといっていい。
もう1作の短いSF作品「異質」はイギリスの少年が「永久運動」装置を発明してしまう話。周囲にそれを信じる大人たちがいないため、最終的に大学のホワイトヘッド教授(この作品は1946年作、ググるとホワイトヘッドは翌年死亡)のもとに持ち込まれる。ユーモア作品ではなく、「ウルトラQ」の不気味な一エピソードみたいに見える。
ある意味表題作以上に驚くのが「ヒロシマの男」。視点人物は諜報関係のイギリス人で、話もイギリスで始まるが、ドイツ降伏の時点でのアメリカの原爆実験の話題から始め、クライマックスに広島の原爆投下を持ってきた1947年発表の1作。視点人物が学生時代にサトウという日英混血の青年とドイツで知り合い、サトウは戦時中日本へ諜報員として派遣されていた・・・。当然サトウは広島入りしていて、ついに原爆投下を迎える。ここでSF的とも云うべき原爆爆発の映像が撮影されるというシーンがあり、爆発自体を描くレムの想像力はこの時すでに相当なものだったことがわかる。レムは視点人物を被爆後の広島に行かせて死期の迫るサトウに再会させるが、視点人物に勝者の立場を与えないまま物語を閉じている。解説ではジョン・ハーシー『ヒロシマ』を参考に書いたものだろうといわれている。
残り2作は、戦時下でユダヤ人扱いされて収容所に送られる羽目になった男の話と、その後の貧しい時代に産科医として出産に立ち会う男の話。まったくのリアリズム作品だけれど、レムの作家としての実力が伺える。なお、解説によると未刊行となった作品の一部らしい。
若書きの詩群については巻末解説に詳しい。
早川書房もSFはめぼしいものがなく、スザンヌ・パーマー『ファインダー・ファーガソン 巡航船〈ヴェネチアの剣〉奪還!』のみ。これ原題が『FINDER』とシンプルなのに、スペースオペラはこういうかったるい邦題がウケると思われているのかな。
冒頭から「エアロックの上方に、二十以上の人類および非人類の言語で書かれた貼り紙がある。」(月岡小穂訳)という、スペースオペラの書き出しには最適な一文(「貼り紙」!)で始めている。
「ファインダー」というのは「探し屋」で、ファーガソンがその男。タイトル通り、本来の所有者ではない者のところにある表題の宇宙船を探し出して取り戻すという、それだけの話である。
本当に昔ながらのヒーローを蘇らせたかのように書いてはいるものの、現代女性SF作家の手になるものなので、ヒーローの活躍には必ずおてんば女子の活躍が対応する。ただし、この宇宙は人類も恐れる謎の宇宙種族がいて、主人公も最終的にはこの宇宙種族の不明な意図に振り回される。そこら辺は現代的だが、ヒーローが絶体絶命な度に気絶しては生き延びるのはいかがなものか。そこまで昔風にしなくても、とは思う。
ようやく文庫になったので読んだのが、阿部和重『オーガ(ニ)ズム』上・下。「『シンセミア』『ピストルズ』から続く「神町トリロジー」完結編!」と上巻のオビ裏にある、上下巻合わせて1100ページの大長編(そういえば、『ピストルズ』の感想を書いてなかった)。
話の方は、日本の古代からの歴史に影響を及ぼすくらい力がある超能力者の家系が、阿部和重の出身地山形県神町にあることで生じたテンヤワンヤを描く、半村良『産霊山秘録』並みの伝奇SFである。というのは、まんざらウソでもないと思うけれど、今回は『ピストルズ』に較べても話がショボい。
今回の語り手は作者阿部和重で、妻(川上未映子)は映画監督(!)として神町に腰を据え撮影中。台風のような幼稚園児を独りで面倒見ているところに、外国紙の記者からインタビュー希望のメールがあったと思いきや、いきなりその外人記者が玄関に血まみれの姿でやってきた・・・、という典型的なカマシで始まるシークレット・エージェント・コメディ。
作中では、時代は2014年、国会議事堂が地下爆発で使えず、なぜか神町に首都機能が移されている最中で、オバマが訪日を予定しており、なぜかオバマは神町訪問にこだわっていて、その一方で神町の超能力一家を以前から見張っていたCIAのエージェントはトランクに詰め込まれた核爆弾が神町に持ち込まれようとしているという情報をつかんでいた。
このバカ設定の陰謀論秘密調査に巻きこまれるのが作家本人で、パラノイアな諜報員たちに振り回されるトコトン情けないキャラクターとして語り手を務める。
楽しく読めるけれど、ハメのはずしすぎな感も否めない。
1月に出ていたのが、高山羽根子『パレードのシステム』。これまでの純文系単行本と同じく文芸誌一挙掲載の短い長編。大きな活字のユルい字組で170ページ足らず。
話の方は、顔をテーマにした美術系の作品が売れ出した女性の一人称で、まず疎遠となっていた実家の祖父の葬儀には出られなかったが、ひさしぶりに顔を出したところから始まる。語り手は「ガイジン」と陰口を叩かれた祖父の死に方と久しぶりの実家に対する違和感を意識する。
また語り手は美大時代に友人となった女性の奇矯な自死への蟠りを抱えつつ、祖父の遺品などを母から送って貰った後、アルバイト先で「梅さん」という台湾出身の女性に、台湾生れだった祖父の話をしたことがきっかけで、「梅さん」から台湾で行われる「梅さん」の父の葬式(台湾の葬式は誰でも参加できるという)に来ないかと誘われ、なぜか承諾してしまう・・・ここまでがプロローグで全体の三分の一ほど。後は台湾に渡ってからのさまざまな出来事や台湾の歴史(原住民と日帝支配と戦後の国民党社会)と文化、自死した祖父の台湾時代や「梅さん」の家の葬儀で考えたことなどが語られる。
これまでの文学系作品に較べるとミスティックな雰囲気はやや後退しているが、博物館のエピソードや「梅さん」の亡くなった祖父が集めていた何十体もの壊れたペッパー君の山、また友人の自殺は大がかりなピタゴラスイッチみたいな仕掛けによるものだったな、どSF読みを刺激するイメージは相変わらず頻出する。
文芸作品としては、「顔」のイメージの連鎖やタイトルに由来する「生から死へのパレード」というシステムが読み取れると、こないだの朝日新聞で鴻巣友希子が書いていた。
1950年代後半という時代設定で、主要登場人物のうち男性3世代が黒人SFファンという、まさにアフロフーチャリズム的な1作がマット・ラフ『ラヴクラフト・カントリー』。なんだけれど、作者は白人で、他にも黒人を主人公にした作品があるという変わり種。ウーム。
巻末解説で何度も強調されているように、そのタイトルに相違していわゆるラヴクラフト・フォロワー的な性格が一切感じられない、黒人たちが白人の悪者たちを蹴散らすエンターテインメントとして書かれた物語だった。
物語は巻頭の表題作が160ページ近い長中編で、その他は40~80ページの短編7編と短いエピローグからなる全部で600ページ近い連作短編集になっていて、各編のヒーロー・ヒロイン役の黒人たちは血の繋がった2家族の構成員に割り振られ、最後のエピソードではほぼ全員で敵地に乗り込む。
この物語において、各エピソードに出てくるラヴクラフト的な仕掛けは、すべて物語を動かすための装置として使われており、個人的にはラヴクラフト全集を(半分だけど)読んでおいて良かったなとは思うが、ラヴクラフト作品に親しんでなくてもエンターテインメントとして楽しむにはそう問題は無いように思われる。もちろんこのタイトルなので、ラヴクラフトに反応する読者をターゲットにしているんだろうけれど。
ということで、ラヴクラフト的舞台と雰囲気を借りてはいるけれど、1950年代後半の黒人ヒーロー・ヒロインには、愚昧な白人たちの暴力の方が、ラヴクラフト的怪異の恐怖より、はるかに現実的な脅威なのだった。
『エブ・エブ』を見に行ったとき久しぶりに丸善のSFコーナーをみて、一瞬エッとなったのが、深堀骨『腿太郎伝説(人呼んで、腿伝)』。新刊?、と確かめたら今年2月28日の奥付が。版元は左右社。SF系の新刊情報には引っかかってなかったので、驚いた次第。
それにしても深堀骨の長編て・・・。よく見たらオビにも「あの深堀骨二十年ぶりの大復活、待望の傑作(初♥)長編!!」と謳ってた。
さっそく読み始めてビックリするのが、セリフの行替えと段落こそあるものの、章立てのない文章が正味275ページに亘り延々と続いていること。シーンはコロコロ変わるのに段落しかないので、セリフで改行したら別のシーンが始まっているという所も多い。そのため、最近のエンターテインメント小説としてはかなりページが黒い。
物語の方は、やはりオビに「干からびた女の腿から生まれた腿太郎は仲間と共に〈鬼ヶアイランド〉へ向かう・・・・・・」とあるように、いかにも「桃太郎伝説」をなぞっているような紹介がされているが、腿太郎が〈鬼ヶアイランド〉に向かうのは、物語の設定と登場人物の紹介エピソードに忙しく、100ページも大分過ぎてからだし、「鬼退治」はそれ自体では物語の主眼ではないのだった。全体的な印象は、どちらかというと「八犬伝」に近いかも。
しかしそんな物語の造りや仕掛けなぞ、はっきり言ってドーデモ良いのだ。深堀骨は20年経ってもやはり深堀骨だった。延々と続くこの猛烈な下品の塊がなんと心地よいことか、何のオチにもなってないラストシーンの悲しみを湛えた爽やかさよ(って言い過ぎ)。
ノンフィクションの方は、今回一番読むのに時間がかかった、アーシュラ・K・ル=グウィン『私と言葉たち』。
「訳者(谷垣暁美)あとがき」にもあるように、この前に読んだ『暇なんかないわ・・・』にくらべると、「歯ごたえのあるエッセイ、作家・作品論、書評がぎっしり詰まった硬派の造り」になっている。もっとも当方の印象では「硬派な造り」を感じさせるのは、文中でル=グウィンが、説教なんかしたくないし、できるだけ説教はしない、というのに、ここにはやっぱり説教と怒りの響きがこだましているからである。
さまざまな機会に行われた短いスピーチでも、エッセイでも、巻末の1週間の作家の日記の中でさえ、ル=グウィンのコワさは強く感じられる。本人も好きというベスト・エッセイ「芸術作品の中に住む」も、子供時代の想い出やその芸術的で実用的な屋敷の説明は素晴らしいが、やはり何かに向けては怒っているのである。
どうも男の読者としては、怒られてばかりいるような気がして、ゴメンナサイゴメンナサイと謝るしかないのである。
微笑ましいのは、その作品における女性の扱いがフェミニズム的には問題だがと、やや弁解気味になりながらも、ジャック・ヴァンスの描くSF/ファンタジー世界のすばらしさを褒め称えている書評。
ディックとは違った意味でプロの物書きを魅了するヴァンス。SF界のトレジャーだけど、すくなくとも日本ではSFファン以外に知られることはなさそうだ。