内 輪 第390回
大野万紀
2月のSFファン交流会は2月18日(土)に、「2022年SF回顧「海外編」&「メディア編」」と題して開催されました。出演は、中村融さん(翻訳家)、添野知生さん(映画評論家)、縣丈弘さん(B級映画レビュアー)、冬木糸一さん(レビュアー)です。
写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、中村融さん、SFファン交のみいめさん、SFファン交の根本さん、縣丈弘さん、添野知生さん、冬木糸一さんです。
今回も2022年ベストなので、SFファン交流会のサイトからダウンロードできる出演者の推薦作を紹介しましょう。
■海外編■
●中村さんBEST5(順不同)
●冬木さんBEST5(順不同)
■メディア編■
●添野さんの推薦(上映順)
●縣さんの推薦(上映順)
海外編について、中村さんの推薦作紹介から。本格SFは冬木さんに任せ、そこから外れる皆が知らない本を紹介するとのこと。
『ロシアの星』の作者はフランス人。ガガーリンを主人公にした連作小説。SFや奇想小説とはいえないが宇宙開発史に興味があればとても面白い。小説的にもとても巧み。
『アフロフューチャリズム』は評論だが、黒人の黒人のためのSFを通しての世界観。アメリカにおけるアフリカ系の人は奴隷だったので故郷がない。その架空の故郷を宇宙や異世界に求めた。海中に理想郷を求めたり、UFOによるアブダクションも奴隷の境遇に繋がって、今は宇宙へと。ディレイニーやバトラー、ジェミシンを読むなかでその背景が良くわかる。ティプトリーの「ビームしておくれ、ふるさとへ」と同じような切実な想像力がある。19世紀に黒人逃亡奴隷がキューバに王国を作る話を書いていたことも近年わかった。
『塩と運命の皇后』は架空のアジア風な国のファンタジーが2本。作者はベトナム系。集英社文庫なのでSFファンの目にとまりにくい。千夜一夜物語風な語り口でカルヴィーノに近い。
『九段下駅』は北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込み、中国軍とアメリカ軍が東京に進駐し、東京が二分されてから10年。主人公は日本の警察の女刑事でアメリカ軍の刑事とバディを組むテレビドラマ的な連作。特殊な未来を舞台にしてアメリカ人のチームが書いた日本の話。ミステリとしてはもう一つだがSFとしてはとても面白い。出てくる人はみんな悪人。桜田門は中国側になっているので警視庁が九段下に移っている。
『シャーロック・ホームズ』はパステーシュだがこれまでの話は全て嘘で本当の話はこれだとワトスンが書いたというもの。クトゥルーものになっている。原典との違いは問題にならない。だってそれは(元になった事件はあるけれど)全部嘘なのだから。
次に冬木さんの推薦作。
『いずれすべては海の中に』。作者は長編より短編の方が面白い。コテコテのSFもあるが奇想系・幻想系の話が多く、それが面白かった。右腕が道路の意識をもつ話もバカ話には終わらない違和感や喪失感がある。「風はさまよう」が一番面白かった。世代宇宙船から映画や演劇のデータが失われる話。
『極めて私的な超能力』は最近読んだ中で一番好きな韓国SF。アイヒマンに犠牲者の記憶を体験させたら悔い改めるのか。予想もつかない展開になっていく。一方「アルゴル」では現実改編能力をもつ超人たちがカオス状態になり、オチはとんでもないことになる。4人目の名前が笑うしかない。
『平和という名の廃墟』は銀河帝国がある世界でその文化やありさまを重厚に描いていく。本書は前作の土台の上に未知の生物とのファーストコンタクトを描く。さらに周辺諸国との細かな政治的折衝まで描いている。帝国内部のパワーヒエラルキーが描かれ、エイト・アンチドート少年の活躍は少年マンガ風に面白い。女性同士の関係もパワーバランスが背後にあるような人間関係が繊細に描かれている。前作より圧倒的に面白い。
『三体X』は二次創作だがこっちが好き。ちゃんとオリジナル作品になっているのが良い。
『ヨーロッパ・イン・オータム』は入れるかどうかちょっと迷ったが、2014年という時に書かれた、分裂しカオスとなったヨーロッパを舞台にしたスパイ小説。お仕事スパイ小説として始まるがあまりにも理不尽な謎の失敗を繰り返し、それが最終的に明らかになる。
後半、第二部はメディア編ですが、ぼくは全く見ていないに等しく、ほとんどついていけないため、前回のコミック編と同様に詳しいレポートは書けません。申し訳ない。
とはいえ、聞いていてこれは面白そうと思った作品についてメモしておきます。
『ブラックパンサー』。前作の主人公役が亡くなってしまったのでそれを逆手に取って国王亡き後の話としている。アフリカンフューチャリズムをハリウッドの大作映画の中で実践している。超技術を持つ海底王国が今の人類に復讐するのか……。添野さん縣さんの両方の推薦作です。
『NOPE/ノープ』。これもお二人共通の推薦作。ロサンゼルス郊外で牧場経営の兄妹が遭遇するUFOものだがひと言では語れない。ドタバタやUFOの恐怖や映画産業における黒人の立ち位置など様々な要素がバランスよく描かれている。日本アニメへのオマージュもある。SF映画的には去年最大の問題作。今話題の偵察気球ともからむとのこと。
『恋は光』は縣さんの推薦。小林啓一監督の日本映画。青春恋愛ものだが、恋愛している女性が光って見えるという体質の男子学生が登場する。恋が物理的に見えるという超能力が面白く後半のサプライズにはセンス・オブ・ワンダーがある。さわやかで嫌みの無い作品。添野さんは、若い男女のキラキラに少しファンタジーが入っている映画はたくさんあるので、見落とした!とのことです。
『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』の推薦は添野さん。こちらも日本映画で監督は竹林亮。添野さんいわく、タイムループものはたくさん作られていて食傷していたが、これは面白かった。大森望に勧めたい。個人視点じゃなくて集団もの。なぜか集団ものになると『ビューティフルドリーマー』とか『サマータイムマシンブルース』とか、学生ものになりがちだが、それを日本の会社ものにしたのが画期的。日本的に上司に説明しないといけないところが非常に面白い。仕事の締切寸前で1週間前に戻ってしまう。それが定石的な話にはなっていない。ということで、これは確かに面白そうですね。地上波でやらないかな。
次回は3月18日(土)14時から。テーマは「創元SF60周年!「創元SF文庫総解説」生解説」。ゲストは岡本俊弥さん、大森望さん、渡辺英樹さん、石亀航さん
ほかとのことです。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
※こんだけ書いていても後で読み返して思い出せないことがある。ぼくの海馬はどこかへ遊びに行っているに違いない。ランゲルハンス島あたりの浜辺でぼーっとしてるんじゃなかろうか。
このアンソロジーシリーズ、だんだんとタイトルが意味不明になっていく。「黄金の人工太陽」は収録作品の題名だからいいとして、「巨大宇宙SF」って何だろう。編者は「子どものころにコミックブックで出会って大好きになったような作品――圧倒的な宇宙スケールで――頭がセンス・オブ・ワンダーで満たされる」作品を集めたという(原題はCOSMIC POWERS)。まあ要するに現代風スペースオペラということですね。ディッシュが「気恥ずかしい」というタイプのSFだ。でも面白ければそれでいい。比較的短めの作品18編を収録。全編加藤直之の挿絵付き。解説は堺三保。
チャーリー・ジェーン・アンダーズ「時空の一時的困惑」もそんなバカSF(褒め言葉)で、面白かった。作者は『空のあらゆる鳥を』や『永遠の真夜中の都市』のような現代的ファンタジイやSFを書いているが、そういえば長編でも変な設定がいっぱい出てきたような……。主人公のシャロンとカンゴはどうやら人間ではなくて〈自由の宮〉という歓楽世界で作られた者たちだが、知性ある宇宙船のノリーンと共に脱出し、いずれレストランを開く夢をもって地球政府に雇われる身となっている。今回の使命は太陽系の半分ほどもある巨大なぶよぶよ生物〈お広様〉が支配する世界で、「時空の一時的困惑」を巻き起こす超航行装置を盗み出してくるというものだ。「困惑」(Embarrassment)って、まさに「気恥ずかしさ」ですね。それは成功するが、〈お広様〉に捕らわれて精神的に支配され、崇拝するようになったカルト集団の連中に追われ、やっと逃げ出したところで船内に〈お広様〉カルトの一人の少女がジャラが忍び込んでいるのを発見する。二人の次の使命は、二人の生まれ故郷である〈自由の宮〉に潜入して究極のスーパー兵器を入手せよというものだった。二人はジャラを伯爵夫人に仕立ててこの悪趣味な快楽世界へと侵入するのだが……。モンティ・パイソン的というか、頭がおかしいような設定がいっぱいで面白かったのだが、こういう話って洋の東西を問わず好きなSF作家が多いね。ぼくも好きです。この作品、シリーズ化されていないのかな。
トバイアス・S・バッケル「禅と宇宙船修理技術」はちょっと意味不明なタイトルだが、ブラックホールを巡り何十億もの市民が住む巨大宇宙船や惑星や建造物の超巨大世界があって、大きな宇宙戦争で勝利し、降伏した人々を受け入れてといった背景は、ちょっと説明が不明確で正直よくわからない。まあ超未来のすごい世界だという雰囲気があるので、それで十分だろう。主人公はロボットというか硬甲殻形態にダウンロードされた意識で、宇宙船の修理技術者である(ようだ)。ところが先ほどの戦争で生き残った敵の高飛車な重要人物(CEO)を心ならずも助けることになり、倫理的な葛藤に苦しむ。味方のセキュリティに見つかるのも時間の問題だ。どうすればいいか、神殿に行って教えを乞う。これが禅なのか。違う気もするがまあいいか。そしてCEOと取引し、ある方法によって倫理的葛藤も解決するのだ。ストーリーはわりあい単純だと思ったが、とにかく設定が派手で面白かった。
ベッキー・チェンバーズ「甲板員、ノヴァ・ブレード、大いに歌われた経典」。『銀河核へ』でデビューした作者のこの作品は、巨大な宇宙船内でヤクをやって罰を受けた甲板員の一人称小説。人類はクレイトと呼ばれる異生物と戦っているが、あたしには勝ち目がないように思える。ところがオーガー様(予言者)によってあたしが選ばれノヴァ・ブレードという武器(経典にある、限られた者にしか扱えない最強の剣)を使う訓練をさせられる。そしてクレイトスの巣に乗り込んで女王を倒そうとするのだが……。ドジで田舎者のあたしが人類を救うヒーローになれるのか。ゲームのような展開だが、ほとんどあたしの愚痴と日常で描かれていて、それが面白い。
ヴィラル・カフタン「晴眼の時計職人」はドーキンスの『盲目の時計職人』の引用から始まる進化テーマの作品。つまりランダムな「盲目の時計職人」の手によらず、惑星上の生物を見守る創造者(の後を継ぐもの)が意図的に進化をコントロールするという、クラークでもおなじみのよくあるテーマの作品である。でも短いのでキレはいい。ただ「巨大宇宙SF」とは言いがたいと思う。
ジョゼフ・アレン・ヒル「無限の愛」。この作品もストーリーよりもイメージやキャラクターのクールな情動、そしてある種のセンス・オブ・ワンダーを重視した作品。銀河がどうやらザーザックという存在に汚染され、人々も異星人もその愛に溺れているらしい。ヒロインのアリアはビーブラックスというピンクのゼリー(知性をもち、超光速時空を移動でき、カレシみたいな口をきくやつ)に包まれて、〈溺れる王〉という巨大な惑星サイズの宇宙存在の眉に降り立ち、ザーザック汚染から宇宙を救うため、クールな宇宙銃〈シスター・レイ〉を手に、美しく無言で踊るザーザックに対峙する……。冒頭の超光速時空を移動するイメージがいい。知覚できるあらゆる方向に無数のビーブラックスとアリアの別バージョンがいて、それらがふっと収束し、既知の宇宙に放り出される。ちょっと伴名練みたいな感じだ。面白かった。
アダム=トロイ・カストロ&ジュディ・B・カストロ「見知らぬ神々」の設定も異常で、宇宙航行には神々の力が必要であり、人類が敵対的な異星人(とその神々)と戦うにも神様の力を借りなければいけないという、そんな世界となっている。ところが強力な異星人に侵略され人類とその神々は敗北寸前。一隻の戦闘艦は敵の神に放り投げられ未知の宇宙へと置き去りにされる。強い意志をもつ艦長はそれでもめげず、この宇宙にいる未知の神に救いを求める。現れた童子のような姿をした神は人類を救う代償にとんでもないことを要求するのだ。果たして艦長の決断は……。いや、実際相当にとんでもない話だった。神様の能力が対数表示で示されるというのは面白い。ドラゴンボールか。
キャロリン・M・ヨークム「悠久の世界の七不思議」では、ある女性から発して星々へと展開した数千万年にわたるポストヒューマンの、時空を超越した物語が語られる。まさに「巨大宇宙SF」だが、物語はむしろ幻想的で静謐である。時空を超え神のごとき存在となった彼女たちの、いくつかの星々で残した遺物――火星の巨像、エウロパの灯台、空中庭園、霊廟、アルテミス神殿、天空神像、大ピラミッド――そう「悠久の世界の七不思議」である。ここまでくるとSFというよりファンタジーであるが、その美しいイメージ喚起力はまさにセンス・オブ・ワンダー。ただ空間的な壮大さよりも時間の流れの遠大さを感じさせ、ぼくには手塚治虫の「火の鳥」が思い起こされた。
アラン・ディーン・フォスター「俺たちは宇宙地質学者、なのに」はファーストコンタクトものの宇宙SFで、あまり「巨大」ではない。異星の地質を調査する宇宙地質学者たちの一行が、軌道上に放棄されたような大きな人工物を発見する。接近して中に入ってみると、自動装置が起動して彼らに様々なサービスを提供しようとするが、ほとんどは何のためのものかもわからない。専門家ではないので何にも手を触れず調査だけして帰還し、当局に報告しようという隊長に対して、金になるかも知れないので自分たちで持ち帰ろうと主張する隊員もいる。巨大な武器のように見える装置も発見され、ついには人工冬眠しているような異星人の姿も。そして隊員の一人は暴走し……物語は謎を抱えたままに終わる。金儲けなんて話が出てくるから焦点がぼやけるが、これは人間の知的好奇心へブレーキをかけることがテーマだ。ファーストコンタクトの倫理からすれば当然の結論だが、答えを知らないままにするというのは確かに辛い決断だろう。主人公にとっても。読者にとっても。
カール・シュレイダー「黄金の人工太陽」は本書の表題作であり、宇宙論的なとほうもなく遙かな時間を背景にした本格SFだ。とはいえ物語そのものは数千年オーダーのものである。凍りついた惑星サジッタへ再び陽光が放たれ、世界は解凍されようとしている。その大地を一人歩くのは女性型のアバター、エオス。彼女こそこの惑星を凍結させ、今再び解凍している人工太陽そのものなのだ。もともとはこの植民惑星を照らす人工太陽だったが、ある事件(それは宇宙論に関わる哲学的な発見によるものだ)がきっかけで、惑星を照らすのを放棄したのだ。今それを反省し、再び日照を戻して人々に謝罪しようとやってきたのである。サジッタの人々は氷の下の都市で人工冬眠しているはずだった。だがたどり着いた彼女を、都市の人工知能は拒否する。そこへ一人の男が現れ、エオスにその理由を話す。それはエオスが惑星を見捨てたのと同じニュースによる人々の意識の分断だった。宇宙論における無限とほぼ無限の違い。それが引き起こす致命的な分断。ぼくなんか、正直それが本当に意味のある問題なのかよく理解できないのだが、超光速の存在しない宇宙での様々なガジェットやキャラクターの描き方、凍りつき解凍されつつある世界の描写など、とても面白かった。
A・マーク・ラスタッド「明日、太陽を見て」。これもまた未来の叙事詩。太陽王たちが支配する世界。死者を組み合わせて作られた幽鬼体のメアは残酷な金の太陽王の宮廷で死刑執行官をしている。今、反逆者、狼王の処刑を行った。狼王はかつてのメアを知っていた。愛していた。だがメアにその記憶はない。そのメアを宮廷から救い出した者がいる。センチュリー。彼女は自分がメアを作ったという。生体宇宙船で宇宙へと脱出し、別の太陽王の宮廷へと向かう。明かされる過去の記憶。解放されたメアは最後の闘いへと向かう……。SF的なガジェットは出てくるが、こういう遠未来の神話的英雄譚はほとんどファンタジーに等しい。重く残酷な世界。でもその暗いイメージには美しさがある。
ショーニン・マグワイア「子どもたちを連れて過去を再訪し、レトロな移動遊園地へ行ってみよう!」。こういうタイトルを見るとなろう系かと思ってしまうが、実はタイトルはあまり関係ない。主人公がやっている職業のキャッチコピーみたいなものだ。ダイソン天体(といっても人工太陽の回りに作られたごく小規模なやつ)の世界ではバーチャルな遊園地はたくさんあるがリアルなものは一つもない。そこで主人公のノーラはおんぼろ宇宙船に古いゲーム機や娯楽装置を詰め込んで訪れ、移動遊園地を開いている。だが船の重力発生機が故障し、その修理費用のためにゲーム機を1つ売ることになった。ところが……。お話はドタバタコメディだが、ノーラはある女優が死後にゲノムを公開し、そこから生まれた多数のクローンの一人という設定はいいアイデアだと思った。
アリエット・ド・ボダール「竜が太陽から飛び出す時」。これは『茶匠と探偵』に既訳ですね。アメリカ大陸を西から中国人が、東からスペイン人が発見したもう一つの時間線の世界〈シュヤ宇宙〉を舞台とするシリーズの1編である。単行本版と微妙に訳語が違うのでとまどうが、大越帝国の属国であるキュトと敵対するロ連邦との戦争で太陽が攻撃を受け、キュトの住む惑星は廃墟となり人々は難民となって狭いステーションに暮らしている。現在は和平条約が結ばれて平和が戻っているが、主人公のランは母親から昔話を聞き、友人からその裏にある真実という話を聞いて、ウソの物語を語る母を恨み、ロ人を憎む。これは戦争と難民と民族間の相剋を描く作品だが、それは現在のわれわれ自身に響いてくる物語である。
リンダ・ナガタ「ダイヤモンドとワールドブレイカー」は太陽を巡る多数の人工世界〈九千世界〉が舞台の母と娘の物語。〈九千世界〉を統括する人工知能マキナはこの世界に不安定さが必要と考え、テロリストや革命家を存在させている。それは危険なゲームだ。革命家は一般人をリクルートすることができ、そうなると任務を遂行するまで社会から切り離されてしまう。そんな〈悪役〉を倒すハンターであるヴィオレッタは、12歳の娘ダイヤモンドがリクルートされたことに気づく。彼女の任務はマキナを破壊する超兵器ワールドブレーカーをマキナの所まで運ぶこと。ダイヤモンドはそんな〈悪役〉になってウキウキしている。ヴィオレッタは娘を救うため、その任務を遂行させ、かつマキナの破壊を防がねばならない。かくて母と娘のスリルに満ちた冒険が始まる……。よく考えるとちょっと無理があるように思うが、設定が面白く、楽しく読めた。
ユーン・ハ・リー「カメレオンのグローブ」は〈六連合〉ものの一編。これは『ナインフォックスの覚醒』や『レイヴンの奸計』を読んでいないと背景がわかりにくいかも知れない。主人公がかつて属していた〈ケル〉というのは六連合で主に軍事を扱う属である。かつてケルだったが、ある事件で追放されたリーアンは、相棒のリュッスと美術品を盗もうとしていたのだが、そのどさくさにケルに捕まり、ケルに復帰させるからといって秘密の任務を押しつけられる。それは銀河の半分を灰にするような超兵器を研究所から奪って逃走したケルの英雄カヴァリオン大将を追って、その兵器を奪還して欲しいというものだ。リーアンには触覚のカメレオン能力というべきジェイハナーというたぐいまれなスキルがあり、それによって様々なセキュリティを突破できるのだ。彼人(かのと)(この世界では性別は重要でないためこの三人称が用いられる)は任務を引き受け、相棒と、目付役のケルの軍曹と共にカヴァリオンの待つ指令艦へと向かう。だが彼人らがそこで知ったのは……。六連合で重要な〈暦法〉は出てこず、普通に面白いバディもののスペースオペラとなっている。ルパン三世みたいな感じもあって、スピンオフの連作短編で読みたい気がする。
カット・ハワード「ポケットの中の宇宙儀」はショートショートで、SFというより科学で味付けした幻想小説。今では否定されたが惑星の軌道を調和の取れた数学的な関係で表すティティウス・ボーデの法則が事実であるとする世界。宇宙の星々は音楽を奏で互いに共鳴し合うのだ。主人公は精密な機械的宇宙儀を作っているが、ポケット宇宙が発見され、中にはそれを身にまとう人も現れた。主人公の友人カリーナもその一人で、黒髪を背景に星をまたたかせている。星々はカリーナのような守護者によって共鳴を教えられ歌を奏でるのだ。主人公も彼女に勧められて守護者になり、ポケット宇宙を育てるのだが……。昔、稲垣足穂の小説を読んだときのような味わいがあるが、あれほどの鮮烈なイメージはなく、そもそも「巨大宇宙SF」ではないよなあ。
ジャック・キャンベル「目覚めるウロボロス」はバロウズ〈火星シリーズ〉やシャーロック・ホームズへのオマージュも含まれる超未来の物語。何しろ10億年後の未来が舞台だ。世界は巨大なダイソン球の中にあり、人間は不老不死となって無数にある世界を冒険している。オスカーが今訪れたのは第二火星。そこへアイコと名乗る女が現れ、彼に協力を求める。宇宙の終わりが近づいていてこの世界の終末も遠くない。10億年前に1兆いた人間も、バーチャルでなく実際に存在しているのは今やアイコとオスカーの二人だけなのだ。エネルギー節約のため誰も訪れないバーチャル世界はシャットダウンされている。アイコはこの世界を作った建設者であり、システム管理者だという。オスカーの強力を得て、この世界を修復しようというのだ。二人はベーカー街の地下にあるこの世界のシステム領域へと降りて行くが……。こういう話は好きだ。テーマ的にはポール・アンダースンの作品など、SFファンにはおなじみのものだが、宇宙が滅びるというのにあっけらかんとしていて、軽くロマンチックで、楽しく読める。
カメロン・ハーレイ「迷宮航路」では世代宇宙船500隻の移民船団が交差してきた〈異体〉と呼ばれる謎の存在に切り裂かれ、動けなくなってしまう。エンジンは止まったが裂け目には異体の物質が詰まり、空気は漏れずに人々は生き残った。だが船団はあてどもなく漂流し、何世代後かには資源が尽きて滅びる運命である。主人公のあたしは第3世代で、母の世代のように絶望してはおらず、この状態を日常としている。船団の他の船との間で船間輸送をする輸送艇のパイロットとなった姉と共謀して廃棄された船を手に入れ、船団からの脱出をしようと画策する。ところが思いがけない真相が明らかとなる……。この設定もなかなか面白い。閉塞状況でそれなりに日常が続く動けない宇宙船団。そして異体の真の姿。絶望的な中にほのかな希望を示す結末も良かった。
ダン・アブネット「霜の巨人」はキレのいいアクション中心の宇宙SF。人類が危険な異星人ウーシュンと結ぶ平和条約。だがその文面の細目には人類に敗北をもたらす内容が含まれているという。その文書は調印前に宇宙空間にある厳重に防御され侵入不可能なノックス拠点に保管されている。主人公のドワイヤはそれを奪うように依頼された。彼こそ、ノックス拠点を構築したその人であり、そのセキュリティを破って侵入できるのは彼しかいないのだ。ドワイヤは4体のクローンを使い、1体が破壊されれば意識をもう1体に移して戦う。トラウマは残るがやむを得ない。残機4のアクションゲームというわけだ。かくて彼は死をもいとわない(というか3回までなら死ねる)激しい戦いに身を投じる。相手はノックス拠点を買い取った今の所有者にして最大の富豪、フロストジャイアント。ウーシェンが人類を支配したあかつきには銀河最大の権力者となる男だ。ノックス拠点のセキュリティシステムを自らもまたクローンの体で実証しようというのである。スピード感ある派手な戦闘シーンの連続。とはいえ、ドワイヤが勝利したら待っているのは人類とウーシェンの戦争だ。今の時代、ちょっと後味の悪い結末となるのだが、それでいいのか。
『帝国という名の記憶』の続編。前作もそうだったが、いきなり長いカタカナ名前の奔流でとまどう。前作の続きとして始まるのだが、ぼくはこの物語のややこしい背景を覚えておらず、どうしたものかと思った。だが下巻を見ると人名や用語の一覧があって、こっちを先にチェックすれば良かったと気づく。上巻の半ばくらいまでは状況がよく頭に入らずに混乱したが、その後は物語が大きく動き出してがぜん面白くなった。混乱したのは複数の主観人物によるいくつかの物語が並行して描かれ、敵味方も混在していて登場人物たちの関係性がはっきりしない(単にぼくが覚えていないだけだけれど)からだろう。下巻にある冬木糸一さんの解説がわかりやすいので、先に読んでおいた方がいいかも知れない。
前回の主役であったルスエル・ステーションの大使マヒートとその恋人(といってもいいんだろうね)となったテイクスカラアン帝国情報省の特使スリー・シーグラスは今回も主役。前回よりさらに百合度(?)は増している。ただ解説にもあるようにそこには意識されない差別の問題も存在している。内部に別人格が存在していてややこしいマヒートもいいけど、やっぱり微妙なユーモア感覚のあるスリー・シーグラスがとてもいい。最高のカップルだ。
物語は、一時的にルスエルに帰還したマヒートの前に再びスリー・シーグラスが現れ、二人は謎の異星人と戦闘中の帝国艦隊へと向かうことになる。何らかの言語を持つようには見えるが、コミュニケーションの取れないこの異星人と停戦交渉をしようというのだ。そこに帝国の内部での複雑な政治劇――それは艦隊内においても軍団司令官(ヤオトレック)であるナイン・ハイビスカスと1艦隊の艦隊司令官シックスティーン・ムーンライズとの対立となって現れる――がからむ。新皇帝ナインティーン・アッズと前の皇帝のクローンで今11歳の少年、皇位継承者であるエイト・アンチドートの関係性も面白い。解説にもあるが、この少年の行動がまるでジュヴィナイルの正義のヒーローぽくって痛快だ。ちょっと泣き虫だけど。やるときゃやる子だ。
意思疎通のできない恐ろしくヤバイ異星人との宇宙戦争、それでも意思疎通の試みをしようとするマヒートとスリー・シーグラス、異星人に究極の破壊兵器を使おうとする艦隊とそれを押しとどめようとするエイト・アンチドート少年。さらにルスエル内部でのマヒートに対する政治的な動きもからんで複雑に展開する物語だが、SFとしての魅力は第一にこの戦闘機や兵士を溶かしてしまう危険な異星人とのファーストコンタクトにある。そのポイントが実は人類も一部で実現していた技術と共通なものにあったとするのが面白い。もっとも基本的にはスペースオペラなので、相対性理論は完全に無視されているのだが。
なお本書ではいくつかの謎が未解決なまま放置されている(と思われる。もしかしたらぼくが気づいていないだけかも知れないが)。なので二部作完結編といいながら、ひょっとしたら第三部か、あるいは外伝のようなものが書かれるのではないかと期待している。
事故で右足を失ったダンサーが、AI義足を身につけて新たな表現を模索するという物語――なのだが、これが強烈に読者の心を揺さぶる作品となっている。傑作である。
まず何より文章でダンスを表現すること。身体の動きを主観的・客観的に言葉で表現することはもちろん、ここでは人間の肉体の内部に分け入って、筋肉や骨の、その力学を描くことにまで踏み入っている。それはダンスの相手が人間ではない機械――AI義足やダンスロボット、はては工業用ロボットアームまで――だからなのだろう。AI側に主観はない。もちろん人間が見て「~したいのだろう」と共感的に擬人化することはあるが、作者はストイックなまでにAIに意識があるかのような表現は避けている。それでも読者はそこに、主人公の体の一部やパートナーとなって自在に動くAIに生き生きとした生命を感じることができるだろう。作者がずっと追求しているアナログハックの、姿形ではなく動きに対応するそれの、一つの完成形がここにはある。プロトコル・オブ・ヒューマニティ、人間性のプロトコルとは、人と人とが互いに認識し合うための手順であり、言葉より前に存在したコミュニケーションの形である。それがAIに実装されたなら、少なくとも人間から見た時、まさに人とAIとのファーストコンタクトが実現できたといえるだろう。
とはいえ、それは一足飛びに可能となるものではない。
2050年代の日本。主人公の護堂恒明は才能を認められた27歳のコンテンポラリーダンサーである。
ぼくは知らなかったのだが、コンテンポラリーダンスというのは振り付けや表現方法に決まりがなく、形にとらわれない自由な肉体表現で踊るダンスであり、ストーリー性やわかりやすい表現を廃した感覚的なダンスということだ。フリーであるだけに、ダンサーと観客、ダンサー同士の関係性に、それこそ「プロトコル・オブ・ヒューマニティ」を構築していくことが求められるのだろう。
彼はこれからプロとしてキャリアを築いていこうとする矢先、交通事故にあって右足を失う。だが同じダンスカンパニーにいてAIや技術に詳しい谷口裕五が、知り合いの会社で開発中のAI義足のモニターになってみないかと彼に持ちかける。その義足を使えば再びダンスができるかも知れないのだ。その申し出を受け、恒明は開発者たちの支援を受けながらAI義足によるリハビリを始める。ただ単に歩けるようになり日常生活ができるだけでなく、ダンスが踊れるようになるまでAIを教育しながら……。
まだまだ途中経過ではあるが、それなりに展望が開け、谷口は護堂と自分のダンスカンパニーを立ち上げる。それはロボットと人間のダンスを通じて「プロトコル・オブ・ヒューマニティ」を見いだすことを目的とするものだった。しかしテンポラリーダンス界の大ベテランであり、50年間第一線で踊り続けている恒明の父、護堂森にロボットとのダンスを見てもらったとき、父はそんなものはダンスではなく、何の価値もないと辛辣な言葉を言い放つ。恒明と共にAIを育て調整してきた技術者たちは反発するが、恒明には父の言葉が正しいことがわかっていた。
再び練習を重ね、技術者たちは難題を一歩一歩解決していく。このあたりの技術的なディテールもとても興味深い(とはいえ本当にこれが実現できるにはソフト面だけでなくハード面の大きな壁があるようにも感じるが、それだけリアルに描かれているということだ)。
だが、とんでもないことが起こる。恒明の父が自動運転車を手動で運転して交通事故を起こし、同乗していた母は死亡、父は重症を負う。恒明に父の介護の重圧が襲う。退院した父には認知症の症状が出て、恒明は実家に戻って一人で父を介護しつつ、バイトに明け暮れ、ダンスの時間が十分とれない状況となる。家族や親戚の支援も受けられず、財産はなく、行政の支援も十分ではない。父の認知症は容赦なく進行し、普通に話ができるときもあるが、支離滅裂なときもある。プライドばかりが高く怒ってばかりの父との衝突。やがて徘徊や排便障害もはじまり、恒明の心は今にも破綻しそうになる。このあたりの描写もリアルで(いくらかは作者本人の実体験が反映しているようだ)、とても身につまされる。
だがそんな日常への慣れと、周囲の人々との関係性の中でほのかな明かりも見えてくる。そこには彼のことを思ってくれる恋人の存在も大きい。ロボットと踊る公演の日程も決まった。認知の壊れた父でもダンスは肉体が覚えている。父と子が再びダンスをする一幕もすばらしい。そこには紛れもなく、かつての大ベテランダンサーがいる。読者が温かい気持ちになれる救いのあるシーンだ。そしていよいよクライマックスのダンス公演。人間とAIロボットが競演し、観客も巻き込んでの、緊張感と躍動感に溢れた身が震えるような凄まじい描写だ。工業用の巨大なロボットアームとのダンスなど、実際に目の前で見ているような凄さがある。
素晴らしい傑作だが、この結末は少し物足りない。バッドエンドではないがハッピーエンドとも言えず、ややあざとい唐突な終わり方である。作者はここで何とか主人公を解放してやりたかったのかも知れないのだが。