続・サンタロガ・バリア  (第244回)
津田文夫


 ロシアのウクライナ侵攻は1年も続いて、このままだと21世紀のヴェトナム戦争になってしまう(攻守が逆だが)。イヤな見通しだなあ。

 近頃はCDが売れなくなってLPレコードが復活しつつある、などというニュースを目にするけれど、要はモノとしての音源にあまりこだわらなくなったと云うことだろう。モバイルで音楽を聴く趣味がない年寄りは、配信系はせいぜいテレビでYouTubeを見るくらい。ステレオで聴くのが基本だけれど、トシのせいで集中力が無く寝てしまうことも屡々。
 一応昨年出ためぼしいロック系CDもいくつか聴いてみたけれど、何回も聴いたのは少ない。有名どころだと、THE 1975、MUSE、ARCTIC MONKEYS、THE SMILEあたり。もうちょっと古いのだとSIGUR ROS とか復活したTHE MARS VOLTA。全く聴いたことがなかったけれど、気になって買ってみたのがWET LEG、これはビリー・アイリッシュ時代のガールズ・ポップみたいだった。一番聴きやすかったのがTHE MARS VOLTAで昔のハードなスタイルからポップになった。

 しかし一番よく聴いたのはロックじゃなくて、カントリー畑の女性MOLLY TUTTLE & GOLDEN HIGHWAYの『CROOKED TREE』。最初はYouTubeで見かけて、驚いたのがアゴギのスーパースター、トミー・エマニュエルを上回るタイトなカントリースタイルのギターを聴かせること(ツルツルの頭にウィッグなのも驚いたが)。本人はシンガーソングライターなのでもちろんメインは歌にあるけれど、アコギのギター・ソロも抜群に上手い。 曲の方は典型的なカントリーポップソングとはいえ、声が人なつこいこともあって聴ける。そういえば一昨年出たロバート・プラント&アリソン・クラウスのデュオ・アルバムもよく聴いたなあ。ジャズ系ではロバート・グラスパーの『Black Radio Ⅲ』を何回も聴いた。

 一方、クラシックの方はあれこれと聴いてはいるけれど、ちょっと聴いてみようと思って買って面白かったのが、リッカルド・ムーティ指揮シカゴ響の演奏会形式によるマスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』
 リアリズム・オペラということで、当方には大して関心も無くこれまで聴いたこともなかったけれど、音楽自体はとても聴きやすくて、そういえばこのメロディーはこのオペラからだったと思い出した。ブックレットのあらすじを読むと、ある若者が軍隊から帰ってきたら、昔の恋人が土地の有力者に嫁いでいた。いまは母親も認めた許嫁がいるが、彼は元恋人が忘れられない・・・、ということでお定まりの悲劇が起こるというもの。タイトルは「田舎騎士道」というほどの意味らしく、最後は決闘で若者が撃たれて死ぬ。オペラ自体は許嫁、母親、元恋人の女声陣に若者と有力者の男声陣とキャストがシンプルで、オペラ自体も1時間で終わる。このCDでは悲劇のヒロイン役である許嫁の歌手に魅力が無く、あまり同情できなかったけれど、『カヴァレリア・ルスティカーナ』自体は鮮明な記憶として残った。もう1回聴きたいかとなると、ウーンと思うけど。

 女性ヴァイオリニストの弾く20世紀のヴァイオリン曲は相変わらず時折聴いていて、驚いたのは、パトリシア・コパチンスカヤがフランスのαレーベルにジョージ・アンタイルのヴァイオリン・ソナタ第1番を、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第7番とカップリングして、なおかつ現代音楽のモートン・フェルドマンとジョン・ケージの小品で挟んだこと。
 アンタイルは1900年アメリカ生まれのフューチャリスト(これは、ディッシュのエッセイ集で訳者が誤解して解説したとおりの本物の方)、第1次世界大戦後にパリでストラヴィンスキーとかピカソ、フェルナン・レジェとかジョイスとかヘミングウェイなど当時のキラ星と面識があったらしい。このヴァイオリン・ソナタはエズラ・パウンドのヴァイオリニストだった奥さんに献げられたということである。「未来派」なので、ヒコーキやスポーツ・カーに惹かれる速度狂で機械が大好き、となればその音楽は機械的フレーズがものすごいスピードで繰り返されるというもの。さすがに緩徐楽章は違うけれど。コパチンスカヤはジャケット写真も、第1次世界大戦当時の2人乗複葉機にピアニストと共にゴーグルを着けて飛行士の格好で乗り込むという凝りよう。お陰でベートーヴェンの方も非常識に聞こえるのがミソですね。コパンチンスカヤはその後もαレーベルから、今度は奇才作曲家兼ピアニストのファジル・サイと組んで、ヤナーチェクとバルトークのソナタを出している。こちらはブラームスの3番のソナタが抱き合わせ。

 協奏曲の方はグラモフォン盤が2枚。
 1枚はヒラリー・ハーンの『ECLIPSE』で、グラモフォン盤ではこの手の演奏者がアルバムにタイトルを付けることが流行っているようだ。曲目はドヴォルザークの協奏曲に、なんとヒナステラの協奏曲そしてサラサーテ「カルメン幻想曲」。バックはアンドレ・オロスコ=エストラーダ指揮のフランクフルト放送交響楽団。
 ブックレットによるとハーンは40歳になるらしい。コロナ禍で十分な練習が出来ていないと思い、録音を延期しようかと指揮者に伝えたくらい落ち込んでいたが、持ち直して録音し自信を取り戻したらしい。ということで、ドヴォルザークはなかなかの迫力。ヒナステラの協奏曲は初めて聴いたけれど、最初からカデンツァのソロが短いフレーズを繰り出しながら延々と続く1曲。1度聴いたくらいではサッパリ判らない。
 もう1枚は以前プロコフィエフを聴いたリサ・バティアシュヴィリ『SECRET LOVE LETTERS』。ここまで来るとタイトルがポップソング集みたいになっている。収録曲の構成も変則的で、フランクのソナタにシマノフスキの協奏曲にショーソン「詩曲」、おまけにドビュッシー「美しき夕暮れ」。この小曲はピアノを、協奏曲や詩曲のバックを付けているフィラデルフィア響の指揮者ヤニック・ネゼ=セガンが担当。フランクのソナタはさすがに本職のピアニストが弾いている。初めて聴いたシマノフスキの1番の協奏曲は単楽章形式のやや短い1曲。1916年作曲、1924年にフィラデルフィア響でアメリカ初演ということで、初演100年記念という意味合いもあるらしい。曲自体は第2次世界大戦後に初演されたコルンゴルトの協奏曲を思わせるロマンティックなもの。コルンゴルトの方が影響されたんだろうけど。
 最近は指揮者の名前もややこしいのが増えましたね。フランツ・ウェルザー=メストはちょっと古いか。フランソワ=グザヴィエ・ロトとか。そういえば昔もヘルベルト・フォン・カラヤンはともかくハンス・シュミット=イッセルシュテットとかいましたが。

 CDの話が長くなったけど、本の話題に移ろう。今回はノンフィクションから。

 休筆期間が長かったとはいえ、これまでの小説以外(以内のものもあるが)のすべての文章を集めたという1冊が、500ページもない山尾悠子『迷宮遊覧飛行』。あとがきによると復帰後の文章を前に、小説とも解説とも付かない文章を中に、そして休筆前の若書きを最後に持ってきたとのこと。これらの文を集めるとき山本和人氏のネット情報が役に立ったらしい。久しぶりに山本和人さんの名前を目にしたなあ。
 かなり時間を掛けてポツポツと読んでいたのだけれど、一番印象に残ったのは、これらの文章(特に復帰後)からは、山尾悠子のはしゃぎっぷりが伝わってくるなあ、という感覚だった。山尾悠子の少なくともここに収められた文章から判ることは、非常に狭い範囲の自分に関心のあること以外については一切何も語っていないかわりに、自分の愛着についてはこだわり抜いてウキウキとして語るということ。この性質が彼女の小説にも貫徹していて、山尾悠子の小説には、その一切の社会的関係に対する無関心(それは作者が自分に課しているのか天然なのか、多分後者だと思いたい、イヤ別に馬鹿にしているわけではありませぬ)によってサタイアの不在が生じている。この性質は現代の小説家には希有の資質で、多分あらゆるジャンル小説はつねにサタイアを抱え込まざるを得ない時代精神のもとに書かれていると考えれば、これは奇蹟に近い。
 山尾悠子は全身小説家ならぬ全身幻想小説家なんだろうな。とはいえ『夜想』山尾悠子特集号の磯崎純一国書刊行会編集長のエッセイによると、「・・・山尾さんのご次男は、石堂藍さんの下の息子さんと同学年で・・・私はこの二人の教育熱心な母親から、同時に息子の受験苦労話を聞かされいささか閉口した・・・」というから、普段はただのオバさんかも知れない。

 いまだポツポツと読み続けている学術文庫版中国史、今回は菊池秀明『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』。気分的には『三国志』の前後が読みたいのだけれど、なぜか手元にあったので、こちらを読んでしまった。まあ、満州時代でもあるからなあ。
 実際に読んでみると、「ラストエンペラー」とは云いながら、視点は帯の惹句にあるように、太平天国、辛亥革命、西安事変と並べて「新たな時代の風は初めて南から吹いた」ことを強調した記述になっているので、「ラストエンペラー」にはあまりごだわりがないように思えた。著者の視点は、いろいろ欠点を強調しながらも孫文に肩を入れており、当方の印象では、関東軍に爆殺された張作霖の息子張学良が蒋介石に対して体を張って国共合作のきっかけをもたらしたことがカッコイイように書かれていると感じられた。
 ここでは「ラストエンペラー」が関東軍にいいように使われる描写があるものの、満州そのものには深入りせず、あくまでも中国史上初めての近代革命の潮流が南部から沸き起こったことに注目している。とはいえ、悪霊みたいな連中が集まった関東軍だなあ。

 今回のノンフィクション3冊目は、池澤夏樹『科学する心』。角川ソフィア文庫からでた300ページもない薄い科学エッセイ集である。
 池澤夏樹の作品はほとんど読んだことがないのだけれど、たまたま朝日新聞に連載された水路部勤務の兵学校出海軍士官の話を読んだので、手に取った次第。すると文庫版あとがきで、このエッセイ集の冒頭で科学者としての昭和天皇を取り上げており、現在手を入れている物語の主人公である海軍士官にも昭和天皇との接点があった、という風につなげていた。
 当方が知らないだけだったのだが、池澤夏樹は大学では理系に在籍していて、とくに生物学関係に深い造詣を持っているようだ。また科学一般に対する関心も強く、このエッセイで強調されている、ファーブル昆虫記に代表されるような、科学の論理的なムダのない報告に文学的表現が混じると途端に魅力的なものになるという感覚は、池澤夏樹がSF的な表現に対しても親和性があることを思わせる。
 そういえば池澤夏樹がユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』を取り上げていて、解説の中村桂子もそれに反応しているけれど、そろそろ文庫にならないかな。

 ようやく文庫落ちしたので読んだのが、村上春樹『一人称単数』。短篇8作を収録して250ページもない1冊。実際30ページ前後の「短篇」多く、モチーフはそれなりにヴァラエティに富んでいる。
 とはいえ、音楽を中心とした話がタイトルからでも「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」、「ウィズ・ザ・ビートルズ」に「謝肉祭(Carnaval)」と3作もある。ジャズ・ファンならパーカーにそんなタイトルはありえないと思うし、集中一番長い50ページのビートルズものは、村上春樹がビートルズを論じてるのではなく(蘊蓄は語るが)少女幻想ものだ。「謝肉祭」はシューマンのピアノ曲で、こちらはクラシックコンサートを通して、印象的な顔立ちの醜い女と「謝肉祭」が大好きと云うことで意気投合する話。意外なオチが付く。
 しかし、一番印象に残ったのは「品川猿の告白」で、品川猿がなぜか鄙びた温泉の手伝いをしていて、たまたま訪れた語り手が猿に背中を流してもらった後、部屋に猿を招いてビールを飲みながら、品川猿の身の上話を聞く話。普通に面白い。

 「初のリーガルSF短編集。」とオビに謳った新川帆立『令和その他のレイワにおける健全な反逆に関する架空六法』は、読んでみるとほとんどSF的思考が駆動していないミステリというかエンタメというか「お題小説」とも云うべきつくりの短編集。
 「お題」は各作品の副題に付されていて、それぞれ礼和4年「動物福祉法」、麗和6年「(通称)どぶろく通達」、冷和25年「(通称)南極議定書」、隷和5年「労働者保護法」、零和10年「(通称)電子通貨法」、例和3年「健全な麻雀賭博に関する法律」の6題で、短篇6篇からなる。レイワの漢字がそれぞれのお題に合わせてあるのが判りますね。
 話の筋はそれぞれのお題に合わせてさまざまだが、基本的に視点人物が最後に酷い目に遭うというパターンが多い。
 年代からしてSFっぽいのは、冷和25年の話「シレーナの大冒険」と零和10年の「最後のYUKICHI」で、前者はなんとVR世界のNPCをヒロインにした1作。イーガンの短篇を思うとやはり安易な感じが否めない。後者はお札が使えなくなった時代にお札集めに走る話。エンタメとしては十分面白いけれど、SFと思うとちょっと肩すかしだ。
 その他は年代からも判るとおりのサタイア。

 今回は本格SFがほとんど読めないひと月だったけれど、重量級の《破壊された地球》3部作の最終巻、N・K・ジェミシン『輝石の空』はさすがに読み応えがあった。
 最終巻ともなるとこれまで歯ごたえがありすぎた話も大分読みやすくなった上に、作者はヒロインの「エッスン」、エッスンのひとり娘「ナッスン」そして冒頭から綴りの違うホアが出てくる謎の「シル・アナジスト」の3つのエピソードを繰り返す形で物語を進めてくれているので、この3つのエピソードをひとかたまりとして途中休憩を入れることが出来るようにしてくれている。
 大枠のSF的設定はサイエンス・ファンタジー的ではあるけれど、物語としてはスーパーパワーのヒロインたちも無敵ではない仕組みが生きていて、永遠を生きる「石喰いホア」の成り立ちと全体的な視点の謎を明かしていきながら、この大柄な3部作を大仰でない形で閉じたのはなかなかの力業といえる。

 収録8編の内3編が既読の陸秋槎『ガーンズバック変換』は、ミステリ畑が主戦場だったこの作者の、初のSF短編集と云う。もっとも作者あとがきで「収録作すべてがガチガチのSFというわけではない」とやや弱腰であるが。まあ、SFを「パスティーシュの文学」ととらえているくらいだから、いわゆるハードSF志向は無いんだろう。
 SFマガジンの溝口編集長の解説によると作者は石川県在住とあるが、著者はすべて中国語で書いているので、翻訳者が3人付いている。しかしその翻訳からはまったく原文が中国語とは思えないくらい、過去現在問わずの欧米や日本を舞台にした話が当たり前に盛り込まれていて、オタク魂の普遍性を考えさせる。
 作者あとがきでは、収録作品の成り立ちがどんな作家の作品に因っているかを正直(?)に書いていて、それ自体がエンターテインメントになっているが、冒頭の書き下ろしというゴーストライターと書けなくなったベストセラー作家の話「サンクチュアリ」は、イーガンを目指したところ、結局「理系の知識より文系とポピュラーカルチャーの知識を大量投入することこそ、私の特徴かもしれない」とオチを付けている。
 次の「物語の歌い手」は、素っ気ないタイトルだけれど、中身は体が弱く修道院を出された少女が、吟遊詩人に憧れ女性を隠して人気吟遊詩人になってしまう話。ラノベっぽいともいえる。作者はボルヘスとカルヴィーノから影響を受けたとのこと、どこがと聞いてはいけません。
 「三つの演奏会用練習曲」はあとがきに、香港の文学誌に依頼されて文学的な作品(と作者が考えるもの)を書いたという。古代英国風、古代インド風、南国の島ファンタジー風とそれぞれ奇策/奇作をものしている。
 「開かれた世界(オープン・ワールド)から有限宇宙へ」は日本のゲーム製作会社で働く主人公が、社長のつくり出すムチャブリ設定に説得力を持たせるアイデアを出すたびに、社長から没を食らう話。いかにも作者の得意そうな話だ。タイトルの元ネタはアレクサンドル・コイレの『閉じた世界から無限宇宙へ』だという。伴名練を見習ったか。
 「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」及び「ハインリッヒ・バナールの文学的肖像」は既読。どちらも面白いウソの物語。作家の実力を感じる。
 表題作も香港の文学誌に掲載されたということだけれど、AR眼鏡を禁止された香川県のメガネ女子学生が大阪に転居した同級生の助けを借りて違法AR眼鏡を作ってもらう話を載せてくれるなんて、実は開けた文学誌かも。もっとも『電脳コイル』をヒントに百合風近未来SFを書くのは、やはり作者の得意とする所なんだろうな。
 巻末の「色のない緑」は再読。学生時代に仲良し3人娘だった中の一人が自殺、久しぶりに顔を合わせた残りの2人が、自殺の謎を解く。SFとしてもハードな雰囲気を湛えた1作。

 平凡社ライブラリーからヤロスラフ・オルシャ・Jr、ズデニェク・ランバス編、平野清美編訳『チェコSF短編小説集2 カレル・チャペック賞の作家たち』が、短篇小説集1から4年ぶりに出た。竹書房とまではいかないが平凡社もなかなかやってくれるではないか。
 解説によるとチェコSFはソ連の侵攻を受けた1968年以来沈黙を強いられていたが、80年代に入り理科系の大学生を中心にSF倶楽部が復興し、ファン出版の中から優れたSF小説にカレル・チャペック賞を与えるようになったらしい。ということで今回収録の13篇中9篇が80年代の作品でその他4篇は90年代の作品である。
 訳編者あとがきにもあるように収録作品中4篇にビートルズへの言及があり、内1作はタイトルに使い、もう1作は主人公がつねにさまざまな楽曲を口ずさむという傾倒振りで、60年代から70年代に若者だったこれらの作家たちにとって如何にビートルズが重要だったかが知られる。まあ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードが革命を齎したともいえるお国柄だからなあ。
 ということで僅かながらユーモラスなオチを採用したものもあるけれど、一見軽そうに見えてもヘヴィーな状況を反映していることがわかるものが多い。
 冒頭のオンドジェイ・ネフ「口径七・六二ミリの白杖」は、盲目のスタントマンがその敏捷さを買われ、外宇宙探査でとらえた信号を映像で再生すると、それを目にした者が宇宙怪物に変身してしまうという事態に借り出される話。一見昔風のSFだが結末まで悲劇的でシリアスな1篇。そういえばキース・トーマス『ダリア・ミッチェル博士の発見と異変 世界から数十億人が消えた日』(なぜか『SFが読みたい』で昨年今年とどちらのリストからも洩れている)に使われている、宇宙からの判読困難なデータを受信したのち人類の脳に変異が生じるという設定を先取りしているなあ。
 次がヨゼフ・ベツィノフスキー「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」ということで、『アビー・ロード』ですね。これは女房と年金配達の男が出来てると疑うテレビでサッカーを見るのが趣味の男が、アンテナが壊れてテレビの修理費を女房に要求して断られ、そこらの熊手をアンテナにしたらいろいろな時代のリアル映像が見られるようになって、ならば女房の浮気も・・・というユーモラスな1篇。
 イヴァン・クミーネク「微罪と罰」は、宇宙からのメッセージを受信したら聖書の教えを全否定するものだった・・・。これもユーモラスなショートショートのサタイア。解説によると共産主義の綱領批判ともとれるとのこと。
 イジー・ウォーカー・プロハースカ「・・・・・・および、次元喪失の刑に処す」は、なんと体制に不満を漏らした男に3次元から1次元を削る刑が執行される話。検察兼裁判官の権力者が腹黒く、主人公は復讐を誓う・・・。なんと、2次元化処刑を『三体 死神永生』に先駆けて使っている。スケールはショボいけど。
 ヤン・フラヴィチカ「あの頃、どう時間が誘うのか」はタイトルが判りにくいように、時間の繋がりが判りにくい時間移動もの。「時間箱」というのが出てきて語り手の少年の家は引っ越しをする・・・。短い1篇だけれどユニークな書き方だ。「レノン」がチラッと出てくるのでビートルズ関連かも知れない。ちょっとだけラファティっぽい。
 エドゥアルト・マルチン「新星」は、「新星」という惑星に、仕事で立ち寄った語り手が、挨拶用語にもなった伝説の詩人チハメールとの出会いとその栄光と没落を日記に書いた1篇。日本の第1世代SF作家の誰かが書いていても不思議はないような感じがする。
 ズデニェク・ヴォルニー「落第した遠征隊」は、反重力エンジン搭載の宇宙船で銀河辺境の惑星に降り立ったベテラン調査隊が調査を始めた途端誤解が重なって尻尾を巻いて逃げてく話。50年代以前のアメリカの短篇を思わせる。
 ズデニェク・ロゼンバウム「発明家」も懐かしいタイプの叙情的な1篇。年に一度贈り物になる何かを求めてが廃墟の街にでていくという前半で、数千年後の未来であることなどの時代設定が語られ、発明家は話の後半に出てきて、彼らが何していたのかがわかる、いわゆるヒトとロボットの物語。
 ペトル・ハヌシュ「歌えなかったクロウタドリ」も懐かしいタイプだが、こちらはパニックもの。物語を紡ぐ「ものがたり機(オートマタ)」を使っていた作家から修理を頼まれた語り手が、見たこともないオートマタの修理に悪戦苦闘して遂に気づいたその正体は・・・。ちょっと奇想よりか。
 ヤロスラフ・イラン「バーサーの本をお買い求めください」は、1983年発表の、キンドル予見SF。表題の通り「バーサー」は1冊持てばあらゆる本がそれで読めるようになるというもの。話は当然思想統制に向かって違反者が狩り出されるようになる。今ならチェコではなくアジアの超大国を思わせますね。
 イジー・オルシャンスキー「エイヴォンの白鳥座」はなんと、銀河を放浪するフリークたちが結成したシェイクスピア劇団の、やはりフリークの少年を語り手にしたユニークな1篇。フリッツ・ライバーなら書いていても不思議はないようなつくりで印象的だ。
 スタニスラフ・シュヴァホウチェク「原始人」は、ある惑星に降り立った基地開発部隊が、原始的な現地種族に安物を与えて土地を奪おうとしたところ・・・という典型的なシェクリイ・タイプのショート・ショート。
 トリの90ページ超の中編、ヤロスラフ・ヴァイス「片肘だけの六ヶ月」は巻末を飾るだけのことはある作品で、ハーラン・エリスンを不良少年ものもっとヘヴィしたような1作。そういう意味ではSF味はやや薄いかも。
 施設を飛び出た主人公の少年はいつもビートルズの曲を口ずさみ、通りすがりの人間から血を奪っては換金する悪ガキチームに拾われ、「ジョン」のニックネームで呼ばれていたが、あるとき警察に捕まり、片腕切り離し没収6ヶ月の刑を受けて釈放される。腕は再犯しなければ返してもらえるのだが、悪ガキチームにも追い出された少年は、国に帰れなくなった元暗殺エージェント(少年はそれを知らない)と一緒に生活し始めた・・・。
 結末で見せる少年のプライドに泣ける。
 SFのさまざまなテーマと書き方がチェコでは80年代に花開いたことがわかる1冊。

 今回の最後は前回の大賞受賞作に続いて、第10回ハヤカワSFコンテストの特別賞受賞作、塩崎ツトム『ダイダロス』。選考会で東浩紀が推したけれど、他の委員は小川楽喜『標本作家』で一致していたという、曰く付きの1冊。さて実際読んでみるとどうだったか。
 1973年というから50年前の軍政時代のブラジルを舞台に、アマゾンの奥地へ逃げ込んでいてもおかしくない「勝ち組」日本人移民を探しに行こうとする日系ブラジル人学生が、レヴィ=ストロースの薫陶を受けた文化人類学者アランと彼に案内されて奥地の原住民調査をするバーネイズという医者に出会う。と、こういう風に紹介しては本作の物語組立を無視することになるんだけれど、細かいことは無視してまとめるとそういう出だしになっている。
 小説としては巻末に掲げられた膨大な参考書を見れば判るとおり、題材にデジャ・ヴ感があるとは云え、一から作り上げた国際情報小説に分類されるような作品で、萩堂顕の『ループ・オブ・ザ・コード』あたりと較べるとやや力不足な感があるとは云え、デビュー作としては十分ではなかろうか。
 ちょっと読みにくいのは、各章の前半が多視点(本来はアランが中心のはず)で毎章末に「怪物(?)」の一人称で自らの現況が語られていくという構成。これが最終的には崩されるので視点人物が誰なのか混乱する。そのこと自体を楽しむべきと言われれば、そうですかとしか云えないが。
 50年前のブラジルアマゾンの奥地で、この作品のように過激「勝ち組」集団と逃亡ナチ科学者が結びつき、一種の超科学的技術が達成されているという基本設定が、SFとしてあまりにもお馴染みではないかということについては、そのテーマがお勉強によってしか書けなくなった時代に、情報密度の高いエンターテインメントとして作品に仕立てた想像力と創造力は評価しても良いと思われる。
 まあ、SFの何たるかという感覚を優先すれば、たとえ物語の吟味において不足な点があるとしても、他のジャンルでは考えられないことをあえて作品にして見せた『標本作家』の蛮勇を評価したというのも頷けるところではあるけれども、こちらは360ページに長い現実の歴史と多面的な物語が閉じ込められた作品であることを考えれば、同時受賞でも良かったかとは思う。あと、タイトルの意味するところは物語中にチラッと出てくるけれど、あまり印象に残らない。


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