内 輪 第389回
大野万紀
1月のSFファン交流会は1月21日(土)に、「2022年SF回顧「国内編」&「コミック編」」と題して開催されました。出演は、森下一仁さん(SF作家、SF評論家)、香月祥宏さん(レビュアー)、岡野晋弥さん(「SFG」代表)、福井健太さん(書評家)、日下三蔵さん(アンソロジスト)、林哲矢さん(レビュアー)です。
写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、森下一仁さん、岡野晋弥さん、SFファン交のみいめさん、福井健太さん、日下三蔵さん、一つ飛ばして林哲矢さん、香月祥宏さん、SFファン交の河田さんです。
今回は2022年ベストなので、SFファン交流会のサイトからダウンロードできる出演者のベストを紹介しましょう。
■国内編■
●森下さんBEST5
●岡野さんBEST5
●香月さんBEST5
■コミック編■
●福井健太さんの推薦
●林哲矢さんの推薦
●日下三蔵さんの推薦
国内編について、まず共通に選ばれたもの以外から。
森下さん:『地図と拳』は『ゲームの王国』を超える歴史SFであり、小川さんはコンテストの時からユートピアを気にしているように思う。『大日本帝国の銀河』は『地図と拳』と時間的にはだぶる。エイリアンだんだん正体を現していき、実際の歴史とどのように関わっていくかが面白い。『新しい世界を~』を読むと日本SFが底辺からふつふつと沸き立ってくるのが感じられる。ジャンルという分け方がすばらしい。観測問題のようにもやもやしているものを、どのジャンルとすっきりまとめることによってよく見えるようになる。
岡野さん:『ループ・オブ・ザ・コード』は自分たちの国というアイデンティティを失った子供たちが現代のわれわれに重なる。『不可視の網』は宇宙SFでない林さん。『OUT』の現代版と感じた。ミステリと思っていて読んでいたら後半でSFになる。『サマータイム・アイスバーグ』はラノベだがすごくSF。横須賀に氷山が現れる。女の子たちが主人公だが、氷山はタイムマシンで、それが何をしようとしていたのかという物語となる。昔のアニメ「あの花」を思い起こしながら読んだ。
香月さん:『ifの世界線』は小説現代掲載の改変歴史もののアンソロジーだが、講談社文庫じゃなくてタイガのようなライト文芸で出したのが驚いた。今のSFアンソロジーの活況を示すものといえる。『アナベル・アノマリー』は何でも変化させてしまうすごい変容能力をもつヒロイン。彼女の呪いに翻弄され巻き込まれる普通の人たちの話が4編収録されている。『シュレーディンガーの少女』は短篇集で、ディストピアと少女の話。アイデアがすごい。奇想天外なアイデアとちょっとのほほんとしたところを残しながらりりしくかっこいい少女たちを描いている。
次に共通に選ばれた2編について。
『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』はダンスそのものがすごい。それに介護の問題やAIの問題が描かれる。ダンスの描写に人間性やコミュニケーションの考察、技術的バックグラウンドもからんですばらしい、と森下さん。岡野さんは、作者の描写力がとんでもない。AIを通して人間性とは何かを探っていくと同時に父親の認知症がえぐいくらいに描かれている。藤井太洋の『第二開国』にも認知症が出てくるが、こちらは失われていくもののきつさがすごい苦しい。香月さんは、AIはダンスを正しい姿勢に補正するが、ダンスはそれをずらすことが大切でそこに人間性というものを考えさせられる。これが直木賞候補になればよかったのにと思った。
『法治の獣』は人間と異星人のファーストコンタクトものだが、最初の作品でその失敗が明確に描かれていて、その原因をふまえつつ2作目、3作目でそれを乗り越えるという作品となっている、と岡野さん。森下さんは、宇宙生物をどうデザインするかというところが本格SFとして読み応えがある。昔のファーストコンタクトでは人間が異星に行って異星生物に出会うというものが多かったが、現代は直接の接触はダメで間接的なコンタクトが中心という科学の変化が描かれている。香月さんは、異星知性をしっかりかかれているが人間側の対応が統一的に描かれているのでとても読みやすい。
さて第二部はコミック編で、実はこちらが大変に盛り上がり、本会の後もずっと話が続くこととなりました。3人の選んだ作品に全く重複がないということからもわかるように、それぞれの出演者が様々な観点から推薦作の魅力を語られたのですが、残念ながらぼくの方に知識が無いためほとんどついていけませんでした(ごくオーソドックスなものしか読んでいないので)。というわけで詳しいレポートは書けません。申し訳ない。上記の推薦作やSFファン交流会のサイトにあるより詳しいリストをダウンロードしてご確認ください。
次回は2月18日(土)14時から。テーマは「2022年SF回顧「海外編」&「メディア編」」。ゲストは中村融さん、冬木糸一さん、添野知生さん、縣丈弘さんとのことです。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
昨年9月に出た本。著者のセレクトした中短篇11編を本書と『老神介護』の2冊に収録した短篇集。本書には6編が収められている。大森望によればざっくりいって本書が宇宙編、『老神介護』が地球編とのこと。
表題作「流浪地球」は太陽に生じた異変により400年後に地球が滅亡することがわかり、地球に巨大なエンジンを建設して太陽系から脱出し、4.3光年先のケンタウロス座アルファの惑星にするという物語。これだけ聞くと何だ「妖星ゴラス」かと思い、移民船団を仕立てるのと地球を宇宙船にするのとどっちが可能性が高いのかと考えてしまうが、実際に読むともうそんなことは気にならなくなる(もちろん「妖星ゴラス」とは全然違う)。描写の圧倒的なスケール感と、とても叙情的で心に染みるストーリー。出発から到着までは2500年かかると想定されている。その移動開始から太陽系脱出までが一人の主人公の視点から描かれているが、とてつもないエネルギーによる地球の変化と人間サイズの日常とが大きな振れ幅の中で描写され、人々の思いが沈痛さと哀しみと希望の中で右往左往するありさまが描かれる。ひとつ気になったのは最後の方で起こる悲劇的な二重のどんでん返しで、原因にもその後の決着にもちゃんと落とし前がつけられておらず、どうにも後味が悪い。そこを除けば傑作だといえる。
「ミクロ紀元」もSF本来の楽しさを思い出させてくれる好短編。太陽フレアによって地球が焼き尽くされるのは「流浪地球」と同じだけど、こちらの解決策は全然違う。それはユーモラスで夢があって明るく楽しい解決策だ。タイトル通りのこのアイデア、そんなわけにゃいかんやろと心の奥では思っても、楽しいからいいじゃないか。ゲラを読んだ筒井康隆がこの作品がイチ推しだというのもわかる気がする。恒星間飛行から帰還した最後の人類である主人公が見た荒廃した地球。だが通信が入り、まるでバーチャル世界のように人々が楽しそうに生きている様子が見える。一人の美少女が地球連合政府の最高執政官だというのだ。(以下ネタバレ)人類はミクロ化技術によって細菌サイズとなり使う資源を最小限にして生き延びたのだ。彼らはナノテクを発達させ、今や住みやすくなった金星への移住も計画している。そして主人公と彼らの交流。主人公は人類の未来に希望を見る。これもぼくの好きな傑作である。
「呑食者」は『円』に収録された「詩雲」の前日譚。というかその後日譚も含んでいるようだ。宇宙から来た恐竜みたいな呑食(どんしょく)人によって侵略される地球。呑食人は巨大なリングワールドで宇宙を旅し、惑星を包み込んでは資源を喰い尽くすのだ。本体の前に使者として呑食人の大牙(たいが)が地球にやって来る。「詩雲」にも出てくる登場人物で、いきなり人間を丸呑みにするような恐ろしいやつだが、名誉を重んずる戦士タイプのキャラクターでなかなか魅力的だ。呑食人は人類を家畜化し食用にするという。だが肉質を良くするため60歳くらいまでは安全に平穏に暮らせるというのだ。大牙に対峙するのは地球軍の大佐。彼は堂々と大牙と議論する。しかし技術的にも軍事的にも歯が立たない呑食帝国に人類は屈服し、本隊の接近を待つことになる。その間に邪魔になる月を動かし、そこに小さな人類のコロニーを残したいという要望に大牙は同意する。大佐たちは月を動かすため核爆弾を埋め込む作業に入るが、それは人類の陰謀だった……。その後日譚も含め、ギリギリの選択と勇気、絶望と希望が交錯する作品だ。そしてほんのりとペーソスとユーモアの漂う作品でもある。なぜか蟻文明の話も出てきて面白かった。作者は蟻が好きなんだなあ。
「呪い5.0」は致命的なコンピューター・ウィルスによって、人口500万の太原市が壊滅的打撃を受けるという無茶苦茶なSF。主な登場人物に劉慈欣本人がいる。その他実際のSF作家やSF雑誌も出てくるらしい。もともと太原の大学に通う特定の男性に罵声を浴びせるだけの無害なウィルスだった「呪い1.0」(その作者はこの男に振られた女性と推定されている)が、ハッカーたちの手によって進化し、さらに男を見つけたら実際に危害を加える「呪い3.0」になり、それを作品が売れず太原でホームレスになった劉慈欣が男の名前を*(ワイルドカード)に書き換えたため(「呪い4.0」)、ほとんど全てのものがネットに繋がっている時代、太原市がとんでもないことになる(高度なコンピューター・ウィルスがそんなテキスト文字列をあからさまに持っているとは思えないが)。さらに致命的な「呪い5.0」は……。昔のハチャハチャSFを思い起こさせる作品である。
「中国太陽」とは気候制御を目的に静止軌道上に3万平方キロのごく薄いフィルムで作られた巨大な反射鏡。しかしこの作品はその科学的ディテールや気候制御の内容を描くのではなく(このような方法で天候を左右するのは乱暴だと作中でも書かれている)、それを作り維持する人々、中国の農村から出稼ぎに来た貧しく小学校しか出ていない主人公が、高層ビルの窓拭きから夢をつかみ、目標を定め、ついには宇宙に出て、中国太陽の反射鏡をメンテナンスする労働者となる感動的な物語である。それだけではない。彼は(この物語の中では)100歳まで生きて中国太陽までやってきたスティーヴン・ホーキングと懇意になり、最後には思いがけない行動に出るのだ。ここには名もない農民や労働者こそが主役であるという、現代中国の理想が描かれている。それをあくまでも理想だというのはたやすいが、作者はそのことに信頼を寄せているように思え、それがこの作品を心を打つ傑作にしている。主人公の人生の目標である各パートの章題がそれを表している――まずくない水を飲み、金を稼ぐ。もっと大きな街に行き、もっと大きな世界を見て、もっと金を稼ぐ。宇宙に飛んで太陽を拭く。鏡面農夫となり、最後には人類の目を再び深宇宙に向けさせる――というように。彼は宇宙で働くうちに必要な知識は身につけているが、あくまでも腕のいい職人であって、科学者でもエリートでもない。それでも彼の視線は常に広がっていくのだ。
「山」では月くらいもある異星人の宇宙船が地球の静止軌道にやってきて、その重力で直下の海水を高さ9千メートルも引き上げ、巨大な海水の山を作り上げる。かつてチョモランマで恋人を亡くした男はその山を単身で泳いで登ろうとする。海水の山は重力で持ち上げられているので、感じられる重力は小さく、そこから落ちることはないのだ。彼が泳いでその山を登る状況は幻想的で美しく、力強い。よくもまあこんなことを想像したなあと関心する。山の頂上まで来た彼は、そこで異星人と対話し、彼らの世界の歴史を知る。惑星のコアで生まれた彼らは自然に発生した機械生物であり、長い間地中の空洞で生きてきたが、やがて新たな空間を探して地底船を作り、互いに奇想天外な戦争をし、ついに地表を突破して新しい世界を知ったのだという。この世界が異様に面白い。大森望解説ではバリントン・ベイリーを引き合いに出しているが、さもありなんと思える。ただ、後半はほとんどがこの会話に終始しており、ドラマ性には乏しくなっている。この人たち、何しに来たんだと思ってしまう。主人公と会話するためなのか。そういうわけでちょっと小説としては難ありだと思うが、山を泳いで登る描写がすごく、面白かった。
5編を収録。
「老神介護」は「神様の介護係」というタイトルで英訳版がケン・リュウ編『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』に収録されたもの。とにかく人類を進化させた創造者である神様たちが落ちぶれた情けない老人となって地球で暮らす様がいい。それが20億柱もいるというのが中国的だ。しまいには介護している家(一応手当ては出るらしいし、政府から義務として割り当てられているので、虐待すると罰を受けるのだが)からも追い出され、ホームレスとなる神様たち。食べ物を恵んでくれと哀れに頼み、風呂敷包みに少ない荷物をまとめてよろよろと家を出て行く神様。神様を追い出した家族の方も下品で口が悪く乱暴だが、根は優しいところがあるのだ。最終的に神様たちが地球を去ることにしたとき、みなこれまでの仕打ちを反省し、神様たちを見送る。神様はそんな人々に、地球の他にも神々が進化させた人類文明があり、それには気をつけろと忠告する――。
「扶養人類」はその続編であり、神様が最後に警告していた別の人類、第一地球の人類が地球にやってきて地球を征服する。この作品はその直前の出来事を描いたものだが、「老神介護」がユーモラスな作品だったのに対し、暗くて残酷なノワールとなっている。主人公はすご腕の殺し屋。第一地球(この地球より先に文明が発達したため、兄文明と呼ばれている)の宇宙船が地球軌道上に来てから3年がたっている。殺し屋は世界的な大富豪のグループから奇妙な殺人の依頼を受ける。殺す相手はただの浮浪者。その理由は明らかにされない。とはいえプロらしく相手を抹殺しようとするのだが――。後半で明かされるその理由とは、残酷な兄文明に征服された後の生き残りに必要なことだとわかる。すでに地球に来ている兄文明のエージェントが語った兄文明の姿は恐ろしく残酷な格差社会だった。地球を征服しに来たのは母星から追放された者たちだったのだ。作者は資本主義的な金儲けに反対はしていない。だがその極端な姿、意思や能力によらないひどい格差が進むことには強い問題意識を持っている。それは農村と都市の対比(作者は常に農村側に立つ)としてリアルに描こうと、この作品の兄文明のような戯画化された極端な格差(だがこれに近い富の一部への過度な集中は現実に起こっている)として描こうと同じことだ。作者が寛和策の一つとして書いているのが教育であり、それが社会の上層と下層をつなぐパイプとなる。それが遮断されるとき、取り返しのできない事態が生じるのだ。
「白亜紀往時」。作者は本当に本当に蟻が好きなんだな。「呑食者」にもそんなエピソードがあったが、ここでは白亜紀に恐竜と蟻が共存して文明を発達させていたという物語が描かれる。恐竜文明は二つの大陸に帝国を築き、宇宙へも進出していた。彼らは人類文明と良く似ていて、好奇心豊かで進取の気風に富むが、大ざっぱで乱暴、また手先が器用じゃない。一方の蟻文明は保守的だが、精密な作業やバイオ系の技術を発展させていた。二つの文明は協力し合って互いを補っていた。ところが蟻たちが恐竜の個体数増加を制限し、核兵器を廃絶して環境保護を進めるよう求めたことから蟻と恐竜の亀裂が深まり、さらに恐竜の二国間の緊張も高まって、白亜紀世界に危機が迫る。そこに反物質の発見とその兵器化という要素も加わって、世界は急速にカタストロフへの道を転がり落ちていく――。基本的にはやや乱暴なアイデア・ストーリーだがとても面白く、もしこんな世界があったらなと想像力が広がる。蜘蛛が文明を発達させるSFもありましたね。こういう話は大好きだ。
「彼女の眼を連れて」は訳者あとがきにある通り、とても切なく哀しい、強い感情を残す物語だ。眼というのは高機能なセンサーグラスで、その眼鏡をつけた者が見るあらゆるもの、何かに触れた感触、音や香りまですべての外部感覚を相手に伝える装置だ。宇宙空間にいて地球に戻ることの出来ない相手に、この眼を使えば地上の風景を伝えることができる。宇宙センターに働く地上スタッフは、休暇で出かけるときにこの眼をつけて、宇宙で働く者に地上を見る楽しみをシェアすることが求められる。プライバシーがあるので義務ではないが、社会貢献活動と見なされているのだ。主人公のぼくが休暇でタクラマカンの草原に出かける時連れて行ったのは、どことははっきり答えられなかったがどこかの無重力の船内に一人でいる若い女性の眼だった。彼女はとても繊細で草原の花々に一つ一つ名前をつけ、頬に当たる風を感じ、小川の流れに触れ、雄大な夕陽に感動する。ぼくは何てセンチメンタルなんだろうと少しうんざりする。休暇の後、ぼくは彼女がいったいどこにいたのかを知る。それは残酷で衝撃的な話だった。二度と帰れないところにたった一人で……。「冷たい方程式」とか、こういうどうしようもなく切ない物語は確かにSFで人気がある。ただそういう状況を無理やり作り上げるところにあざとさの感覚が残り、素直には感動できない部分がある。作者自身、決して自分の書きたいSFではなかったと言っているそうだが、そういうことだろう。ただ彼女のいる場所が普通思いつくようなところではないのが、いかにも作者らしいところだ。
「地球大砲」はいかにも作者のSFらしい巨大な技術的虚構と人間的な感情の溶け合ったスケールの大きな傑作である。本書の他の作品とつながるところもあるのだ(ほとんど続編のようにも読める)が、そこをはっきり書くとネタバレになってしまうので悩ましい。アイデアの核心は地球を貫いて中国から南極までつづく穴という、子どもでも思いつくようなものだ。高校生の時だったか物理の練習問題で計算したこともある。この作品ではそのディテールをSF的なアイデアとしてふくらませ、そこに社会問題と家族の問題をからませて、最後には明るい未来への展望を垣間見せつつ終わる。「地球大砲」は中国語のタイトルそのもので、日本語ではいかにも大時代な感じだが、結果的にはふさわしい。主人公は白血病で余命幾ばくも無い科学者。彼は妻と息子とともに彼が開発している〈新固体〉の実験を見に来た。それは中性子星の中にある縮退物質ほどではないが非常に高密度な物質で、地球内部のマントルやコアを突き抜けて中心まで落ちていくような物質だ。彼は未来に希望を託して人工冬眠に入る(作者は人工冬眠が大好きだね)が、目覚めたとき、彼の息子が主導した計画によって大きな被害を受けた人々に拉致されてしまう。彼の息子は新固体を使った地球縦断トンネルの開発で地球環境を劣悪なものにし、大きな被害をもたらしたのだ。そして主人公はトンネルに投げ込まれるのだが――。この作品の真の主人公はこのトンネルとその技術そのものである。その解説が物語の大きな部分を占めるが、それはストーリーと密接にからんでいるので読者には違和感なくすんなりと読めるだろう。この辺のテクニックも作者がSF作家として一歩抜きんでているところだといえる。
昨年6月に出て、山田風太郎賞を受賞し、今度は直木賞候補にもなった(読み始めた時は候補だったが、読んでいる途中でしっかり受賞した! おめでとうございます!)評判の作品だが、600ページを超える分厚さに恐れをなして読み始められなかった本だ。でも、多くの人が書いている通り、非常にリーダビリティが高く、サクサクと読み進められる。そしてとても面白い。
「歴史×空想小説」と帯にある。日露戦争前夜から満州国建国、そして第二次大戦後までの半世紀にかけて、旧満州の架空の都市、現実には奉天の東、撫順あたりに想定されている小さな町「李家鎮(リージャジェン)」が勃興し、人々が集まり、発展して炭鉱都市「仙桃城(シェンタオチョン)」となり、惨たらしい戦いがあり、そして廃墟となるまでの、街と人々の群像劇である。大勢の登場人物がいて、序章から終章まで19の章で彼らの物語が語られるのだが、どれもドラマチックだ。そして本筋とはあまり関係のない枝葉ではあるが、多数のエピソードと発見もある。例えば地図に描かれる架空の島や、ニューヨークの摩天楼の秘密とかも面白かった。
日本人、中国人、ロシア人と多数の人々が描かれ、この濃密な時間と空間の中でそれぞれに関わってくるのだが、それを貫く主要な人物がおり、主要なテーマがある。ただ彼ら、主要人物のほとんどが大学教育を受けたエリートであることは、都市を計画し歴史を俯瞰的に見るという観点から必要なことだったとは思うが、ちょっと気になる点ではある。
その主要人物の中でも最も中心となっているのが、日本軍の密偵である高木の通訳として満州へ赴いた細川である。後に満鉄社員となり大きな力を持つ丸眼鏡のこの男こそ、本書の「地図」となる人物である。いやあスーパーマンですよ。SF的に考えればタイムマシンでやって来た未来人。たぶん人間の皮をかぶったポストヒューマン。決して主役というのではないが、本書の時空に座標軸を与えている人物である。でも明男と賭け釣りをするシーンには驚いた。
小説としての主役といえるのは、この街の都市計画を行う建築家の須野明男(逆から読めばオケアノス)だろう。彼は体感で気温や湿度を正確に測定したり時間経過を計測したりできる人間計測器の能力を持っていて、そのあたりは同じように一種の超能力を持つ他の登場人物とも繋がる異能者として、本書の中でSF的というかマジックリアリズム的な要素を体現している人物の一人だ。とはいえ、それが物語上で何らかの意味を持つことは(暗喩的なものを除けば)ないといっていいだろう。彼は細川とは違い、まさに人間としてのドラマを演じているのである。とても魅力のある人物だ。
中国側では異能者の一人(不死身かも知れない)であり、この街の影の支配者でもある孫悟空(ソンウーコン)と、その娘で本書のヒロインといえる抗日ゲリラの丞琳(チョンリン)が重要だ。とりわけ抗日戦争における丞琳のドラマは読み応えがあり、明男ともども最後まで生き抜いて、さわやかな印象を残す。壮絶ではあるが、ボーイ・ミーツ・ガールの要素もある。
そして実は真の主役かも知れないのがロシア人の神父クラスニコフである。ロシア皇帝の命により宣教師としてこの地に来て、そのまま街の歴史を見てきた人物。彼もまた細川と同様、この時空の座標軸となる人物である。理想的なまでに人間的な人物として描かれているが、大勢の登場人物たちが死に、退場していく中で、細々としぶとく街と共に生き抜いていく彼こそこの街の化身であり、ソ連兵が来てほとんど廃墟となったこの街での、孫悟空と丞琳と三人での物語にはとりわけ心に染みるものがある。
さてタイトルである「地図」と「拳」については作者が細川の言葉として本書の中で語っている他、多くのインタビュー記事でも語っている通り(WEB本の雑誌のインタビューなど)、「地図」は国家であり、その領土であり、またそこに計画される建築のことでもある。「拳」とはそれを獲得し守るための暴力であり、端的にいって戦争のことである。「拳」はその通りだろうが「地図」はもっと様々な意味を含みうる。インタビューによれば本書はもともと満州の都市計画の話として(実際にあったが実現しなかった大同都邑計画をモチーフに)書き始めたという。つまり設計図であり、存在しないものを描き出すシステム設計としての「地図」が最初にあったのだ。すると「拳」はそれに対する現実的な阻害要因であり、本書はそのシステム設計の挫折の物語としても読めるだろう。それは現在も世界で起こっている対立そのものである。
ところでいくつか気になった点もある。本書で描かれている出来事や人物は、その多くが現実にあった実際の出来事や人物を反映している。それが歴史×空想小説ということでもあり、エンターテインメントにリアリティと力強さを与えているところでもあるのだが、その反面、フィクションと現実の歴史の境界を曖昧にしてしまうというリスクもある。何世代も前の話ならともかく、このような近い時代の話で、実際にあったことをフィクションとして描く場合にはより注意深くあるべきではないかと思うのだ。現実にあった虐殺事件や模擬内閣のシミュレーションなどが、事実への一つの解釈というのではなく、完全にフィクションの中の出来事として描かれることの危うさを感じた。
もう一つは本書の真の主役だとされる都市、李家鎮、のちの仙桃城のこと。残念ながらぼくにはこの都市が生き生きとした実際の街のようには思えなかった。特に仙桃城になってからは炭鉱都市としてそこそこの規模のある地方の中核都市となっているはずだが、表面的にごく一部が描かれるだけで、そこで暮らす人々の日常の息吹がほとんど感じられなかったのだ。もっともそのようなエピソードを加えていくと600ページでも収まらなかったかも知れないが。後、奉天との距離感や鉄道路線など、やっぱり本書にも「地図」をつけて欲しかった。