続・サンタロガ・バリア  (第243回)
津田文夫


 新型コロナウィルス感染状況は落ち着きつつあるようだけれど、政治日程に合わせて連休明けにはマスク不要あらゆる制限はなしというのだから、死ぬヒトはどうぞ死んでくださいねといってるようなものだなあ。まあ、他所の国もそうらしいので、せっかく自然が健康弱者を排除して人口調整をしてくれているのに手を出す必要は無いということになったのか。

 『本の雑誌』2月号の特集「本を買う!」に掲載された山本貴光と水鏡子の購入本リストが面白くて、一時はトイレ本だった(その後田中すけきよ『SFマガジン もくじのもくじ1970年代』に変わったけど)。山本リストで一番驚いたのがアミタブ・ゴーシュの新刊が出ていたこと。エッセイ集らしい。そのほかアン・カーソンが多いなあとか、和辻哲郎と九鬼周造の研究本があって英文の「時間・空間と倫理―和辻哲郎・九鬼周造及びハイデガーの哲学」なんていうのがあることに気づく。水鏡子の方ではM・R・アレクサンダー『塔の思想 ヨーロッパ文明の鍵』を見つけて驚く。学生時代に買った青い箱に入った薄いハードカヴァーを思い出す。もちろん積ん読になったけれど。それにしてひと月に300冊前後の本をそれぞれ70万円と7万円で買うとはいろいろな人が居るものだなあ(と人ごとみたいにつぶやく)。そういえば中野善夫氏が清水幾太郎を取り上げていたけど、水鏡子のリストにもありましたね。

 地元の映画館が今頃になって『犬王』を短期上映してくれたので、見に行ってみた。原作/監督/脚本/キャラデザイン/音楽と豪華メンバーが参加しての平家物語後日譚のミュージカル・アニメは、いろいろと驚かされはするのだけれど、残念ながらいまひとつ引き込まれるところまで行かず。細かいところで「?」マークが頭に浮かんでしまうつくりであった。

 正月明けに読むめぼしい新刊SFがないので手を出したのが、日下三蔵編・山川方夫『箱の中のあなた 山川方夫ショートショート集成』
 山川方夫を読んだ記憶はなかったが、大昔水鏡子が山川方夫について何か書いていたことは覚えていたので、読んでみるかと思った次第。
 ショートショート集と云うだけあって41篇も入っている。全体は3部に分かれていて、第1部は「親しい友人たち」という題で出版されたの単行本収録作23篇がそのまま収録されていて、1962年の『ヒッチコック・マガジン』に毎月掲載した作品を中心に編まれている。第2部は1篇を除いて作者死後の全集版で初めて収録された18篇を収録。1964年から翌年に『科学朝日』に掲載した作品がメインとなっている。そしておまけ的な第3部は「三つの声」と題して1961年の『別冊宝石』に掲載された星新一・都筑道夫を交えた座談会「ショートショートのすべて」と死後の1969年に出た『山川方夫全集』に寄せられた星新一の推薦文(のちの改稿版)が収められている。
 冒頭の「待っている女」は、昭和30年代後半の線路沿いの街角を舞台に、妻が外出して1日戻ってこない暇な男が、線路際で人待ち顔の若い女を気にして何度も煙草を買いに外へ出る話。いま読むとロバート・F・ヤングの書く時間ものようにも見えるが、オチは大人向きである。
 全体としてミステリ系及びSF系のショートショートはいわゆるオチ重視の面白さであるものの、星新一のバラエティや寓話的力強さには及ばないように思える。むしろ、『三田文学』掲載作を始めとするオーソドックスな文学的スタイルで書かれたものの方がいま読むと新鮮な感じがする。

 日下三蔵編をもう1冊読んだ。日下三蔵編・横田順彌『平成古書奇談』かそれ。昨年7月刊。ちくま文庫オリジナル編集ということだが、解説によると小学館の「文芸ポスト」に00年冬号から02年冬号まで掲載された全9編の連作短篇を、今回初めて1冊にまとめたものという。
 主人公の作家志望フリーライターが、行きつけになった古本屋の主人とガールフレンドでもあるその大学生の次女が毎回出てきて、毎回その設定の紹介も兼ねながら主人公が手にした古本から始まる物語。各タイトルは次のとおり。
 「あやめ日記」、古本屋の主人が手に入れた大正時代の若妻の日記には、古本屋の主人が経験した不思議な一夜の出来事と繋がっていた・・・
 「総長の伝記」、大学図書館落ちのその大学の総長の伝記を手に入れてみたら、中がくりぬかれて古めかしいポルノ小説が入っていた・・・
 「挟まれた写真」、明治末期の端本を安く手に入れたが開けてみると写真が挟まれていてなぜか半分切りとられていた・・・。
 「サングラスの男」、古本市で珍しくガールフレンドを見かけたら、サングラスの男と話をしていたので、後で訳を聞くと以前はよく古本屋に来ていたという・・・
 「おふくろの味」、友人が結婚したい彼女の実家に行くと、そこのお母さんがある料理が出来るまで許さんという・・・。
 「老登山家の蔵書」、古本屋と長い付き合いのある老登山家が蔵書を処分するというので手伝いに誘われて行って見ると・・・
 「消えた『霧隠才蔵』」、古本市の抽選で当たったというので受取に行ったら、既に誰かが自分の名をかたって受け取っていた・・・。
 「ふたつの不運」、穴埋め用とはいえ知り合いの編集者の注文に応じて書いた、初めて商業誌に掲載されるはずの短篇が編集長に没にされてしまった・・・
 「大逆転」は、連作短篇を締めるオチを付けた1作。
 全体的にホンワカしたこの作者らしい愛らしさが伺えるけれど、いわゆるホラーオチがいくつかあって、特に「おふくろの味」はタイトル通りのホラーオチなので、後味が悪い上に、こんな事件があったらもうこの3人に後の話が続けられないんじゃないかと思われる。

 収録作品のタイトルと作家の大半は覚えていたけれど、どんな話だったかはほぼ忘れていたのが、伊藤典夫編訳『吸血鬼は夜恋をする SF&ファンタジイ・ショートショート傑作選』。9編を増補したおかげで充実度は上がっていると思われる。
 伊藤さんのあとがきにもあるように、当方も前回読んだのはほぼ半世紀前なので、若いときに読んだものは忘れないとは云いながらやっぱり忘れている。
 冒頭のロン・ウエッブ「びんの中の恋人」は、どうしても中学生の頃見ていたTV番組「かわいい魔女ジニー」を思い出してしまうのだけれど、今ググってみたら脚本がシドニイ・シェルダンだった。番組は65年から放映開始というので、もしかして前年F&SF誌に載ったこの作品に影響されたのか。
 ・・・などと始めたら、切りが無いので個々の作品の感想は書かないが、山川方夫のショートショート集に較べれば、やはりこちらの方が読んでいて楽しいのは確か。基本的にオチの付け方がわかっていても何度でも読めるという作品が多い上、シャーラ「不滅の家系」パングボーン「良き隣人」ヴァン・ヴォークト「プロセス」ワイアル「岩山の城」ポール「デイ・ミリオン」そしてテヴィス「ふるさと遠く」とSFショートショートのエッセンス的なスタイルが怒濤のように並ぶ末尾の作品群が印象的だ。

 伊藤さんのアンソロジーほどではないが、こちらも何十年かぶりの新訳(柿沼瑛子)で復刊したのが、アルジス・バドリス『誰?』。前回はソノラマ文庫海外SFシリーズの1冊でタイトルは『アメリカ鉄仮面』(仁賀克雄訳)でしたね。読んだはずだけれど、当然忘れている。
 遺伝子的アイデンティティーは現在なら簡単に判明するだろうし、精神的に同一人物かどうかの判定も現在なら新しい手法が考えられるだろうが、この作品でバドリスが展開した謎は、おそらくそのレベルにない。現在読む1958年作の『誰?』は改変歴史物の強烈なサスペンスSFとして読めてしまうのである。
 冷戦を終わらせるほどの威力を持った米側の謎のプロジェクトの中心人物が、ある事故で大けがを負ってソ連側に収容され、数か月後合衆国に戻されたときには顔全体が金属の面で覆われていた・・・。サイボーグとなって帰ってきた要人がソ連で何を話したのか、何か仕掛けられているのか、洗脳されているのでは、と合衆国側の疑心暗鬼を軸にした冷戦下のスパイスリラーの変種で、パラノイアであることは間違いない。しかしナチの支配が本格化した1937年頃、東プロイセンはケーニヒスベルク(現ロシアのバルト海にある飛び地カリーニングラード)に生まれ、5歳でアメリカに移住したリトアニア人というバドリスの出自のせいか、その不安感はリアリティに満ちていて、スリラーとしての大部分はアメリカ側監視調査エージェントの視点で語られるているけれど、最終的には「仮面の男」へと焦点が移る。

 新作の読みたいSFがないので手を出したのが、村田沙耶香、アルフィアン・サアット、郝景芳、ウィワット・ルートウィワットウォンサー、韓麗珠、ラシャムジャ、グエン・ゴック・トゥ、連明偉、チョン・セラン『絶縁』。翻訳者も藤井光、大久保洋子、福富渉、及川茜、星泉、野平宗弘、吉川凪と翻訳が必要な外国語作家8名に7人付いている。1人少ないのは中国語の作家(香港と台湾)2人を及川茜が訳しているから。郝景芳だって中国語作家だけど、こちらは大久保洋子が訳している。
 チョン・セランのまえがきや巻末の編集部の付記によると、これは小学館の編集者がチョン・セランに日本の作家と同じテーマで競作を依頼したところ、チョウ・セランの方から作家を東アジアや東南アジアまで広げた方が良いと逆提案を受けて本書が成ったということらしい。
 聞き慣れない名前はそれぞれシンガポール、タイ、チベット、ヴェトナムの作家たちである。シンガポールのサアットが英語で書いているので藤井光が訳している。
 村田沙耶香「無」は、先ず51歳の母親が語り手となって、大学生の娘世代に流行る「無」ブームに関心を寄せながら、自分の生い立ちを含めいわゆる世代論を展開する。彼女の生い立ちの特徴的なものは自分の心は東京タワーから飛んでくる電波に支配されているというものである。そんな彼女に同僚から小学生の娘が「無」を見たいというので紹介してくれと頼まれ、彼女は娘の了解を取る。視点は「無」が買い上げたマンションにいる娘のものに変わって、娘は娘で自分の生い立ちと母へのまなざしを明かしながら、自らの想いで「無」には入ったもののまだしっくりこず、グループワークではリーダーの男に諭されて、かえって反感を抱いたりする。最後の語り手は「無」を見学に行った少女の視点で語られるが、その結末はSFホラーに近い。
 サアット「妻」は、イスラム教の慣習である複数妻をテーマにしたものだが、本妻である視点人物が、夫が第2妻を迎えるまでに第2妻候補となった女性への対応と夫への思いそして義務を果たした心の痛みをかたる。ウーム。
 郝景芳「ポジティブレンガ」は、「ポジティブシティでは、建物や家具は人間の感情を感知し、触れさえすれば――どの部位に触れようと――感情因子に対応して色を変える」という設定で語られる物語。となれば誰でも上機嫌な社会の筈だけれど、当然黒い色が忍び込んでくる・・・。ハオ・ジンファンらしい短篇。
 ウィワット・ルートウィワットウォンサー「燃える」は、タイの政治状況のなかで革命を夢見た男女の繋がりを5つのパートに分けて、それぞれ「あなた」がどう行動したかを綴った技巧的な1篇。最初の「あなた」は女性だが、つぎの「あなた」は男性だ。別の男性もいるが彼も「あなた」だ。そして彼らは繋がり別れる。革命はひとときの夢となりながら。なかなかスゴイ小説だ。
 韓麗珠「秘密警察」は、中国に返還された香港の現状とそこで生活する苦渋を描いた1作。作品自体は架空都市での物語で、主人公の女性はディストピアの地獄めぐりの果てに密告する・・・。現実の香港を寓話化する強靱さが必要とされていることがよく分かる。これはSF/ファンタジーにならざるを得ないだろう。
 ラシャムジャ「穴の中には雪蓮華が咲いている」は、チベットから北京のチベット語翻訳事務所に働きに出た男性が、クビになって故郷へ帰ろうとする所から始まる。彼には幼なじみの女の子がいて、少年時代に彼女と二人で羊の群れの世話をしていたとき、子羊が深い穴に落ちてしまい、少年は少女をロープで穴に下ろそうとする。怖がる少女に教えた言葉が表題である。そして彼が故郷に思いを寄せるのは、親の決めた男に嫁ぐとき彼と一緒に逃げたいと云った彼女が、生活の足しにしようと冬虫夏草を採りに車で出かけ事故死したということを知ったからだ。彼女には幼い2人の子があったという。 
 現代の北京と因習のチベットを見ながら若者の痛切な悲しみを描く1篇。
 グエン・ゴック・トゥ「逃避」は、死期が近い老婆の、まったく理解できない息子への執着を描く1篇。作者はあとがきで自ら描いた老母に自分もなることを恐れるという。
 連明偉「シェリスおばさんのアフタヌーン・ティー」。これは「無」や「秘密警察」と同様60ページの中編だが、話の方はカリブ海に浮かぶ島国セントルシアで卓球クラブの地元黒人少年2人と台湾から来た1人の悪ガキトリオが、互いを揶揄しながら、車椅子の重度障害の子がいる家の庭に何度も忍び込む話。シェリスおばさんは車椅子の子を世話している機嫌の悪い女性。
 セントルシアは元英国領で人口20万足らず。台湾との国交があり、作者は実際にセントルシアに派遣されたことがあるという。小説は3人の少年のそれぞれの事情と思いを三人称で描いているが、結末まで読むと台湾の少年にやや焦点があるようだ。「アフタヌーン・ティー」は小説の最後で用意され3人の忍び込みも最後になる。印象的な作品。
 トリはチョン・セラン「絶縁」。語り手の女性は編集スタジオのスタッフで、昔恋愛問題に苦しんでいた時に救ってくれた先輩夫婦と18年間も行き来していたのに、もう2度と会わない決心をしたところから始める。その原因は身持ちに関して評判の悪いある男性の評価をめぐって先輩夫婦に対する不信が決定的になったからだった・・・。「絶縁」に至る人の心の動きを追った1篇。SF作家チョン・セランはここにはいないが、作品自体はよくできている。
 住む国も言語も違う作家がそれぞれの「絶縁」を描いて、充実したアンソロジーになっている。

 ようやく手にした新刊といえるSFが、ユーン・ハ・リー『蘇りし銃』。3部作の最終巻と云うことで、新鮮さには欠けるけれど、おもしろさに不足はない。便宜上〈6連合〉シリーズみたいな云い方がされるけれど、訳者も引用しているように本国では〈The Machineries of Empire〉3部作と呼ばれているらしい。
 今回は意識を取り戻したジェダオ君が、なぜか士官候補生時代の記憶に捕らわれていて、今回彼を復活させた「悪の帝王」クジェンに良いように引っ張り回されるところからはじまる。チェリスちゃんは、もう一人のジェダオとして、クジェンとジェダオしか入れない辺境の記憶保存衛星へ侵入、そこに居た僕扶(ぼくふ/召使いロボット)を1体拐かして脱出。一方優柔不断の上将ブレザン君は、チェリスに逃げられ、仕方なく分裂したケルの軍団と手を結んで対ジェダオ戦を余儀なくされている。
 本書では主要登場人物の会話劇が主になっていて、ほかに登場人物としてロボットや軍艦として使われている生物船の意識も絡んできて、てんやわんやであるが、全体的には勧善懲悪的スペースオペラの骨格が守られている1作。ジェダオ君のBL的(?)エロシーンが何回も出てくるので、そういうのが好きな人にもオススメです。
 よく考えたら暦法戦争というのは現実的な歴史ファンタジーに応用できそうだ。戦国末期の陰暦で呪術が使える坊主(陰陽師でも良いか)とキリスト教の西暦で魔術を使う宣教師の戦いとか、勝負は信者の数か信仰の強さかで決まるとかね。誰か(山田風太郎とか?)が書いていそうだなあ。

 冬枯れてた早川書房が1月下旬にSFプロパーをいっぱい出してきたので、取りあえず知らない作家の作品からと思い、『ミッキー7』というタイトルに手を出したのだけれど、1章を読んだところで挫折。ポン・ジュノが映画化するというのでそれを待とう。

 ということで最初に読み終わったのが、キム・チョヨプ『地球の果ての温室で』。前回は短編集だったけれど、これはパンデミック回復後の時代から、渦中にあった時代に今は忘れられた伝説のコミュニティに起きたことを辿り直す長編。日本語版への序文で著者は「廃墟を取り巻く物語であり、それを壊して建てなおす物語でもある」と云っているが、物語は具体的で力強く、ありがちな設定とはいえ飽きさせない。なお、登場人物は基本的に女性ばかりである。
 パンデミックを起こした「ダスト」を遮断するドームやドームの外のコミュニティを経て、若い姉妹がクアラルンプール近くの森の中を車を走らせ、噂に聞く「隠れ家」へたどりついた途端ブラックアウトするプロローグで、とりあえずサスペンスを高めておいて本体に移る。
 第1章「モスバナ」では、物語の現在であるパンデミック収束後の韓国のある地方で「モスバナ」の異常増殖が報告されて、もはや大して注目されてない「ダスト生態研究センター」の若手女性研究員が、自分が子どもの頃近所の変わったおばあさんのところで、「モスバナ」から青い光が出ていたことを思い出した。この女性が物語の外枠をなす語り手となって不思議なおばあさんとのエピソードを紹介する。
 第2章「フリムビレッジ」は、クアラルンプール近くの森にあった、「ダスト」に耐性を与える物質を抽出できる精密な義手を持つ植物学者と、それを修理できる技術者が住むコミュニティ「フリムビレッジ」の興亡を軸にしたプロローグに繋がる話。
 最終章の第3章「地球の果ての温室で」は、再び1章の語り手による伝説のコミュニティの探索と伝説の事実解明そして主な関係者のその後が語られる。
 今回読んだSFとしては一番感心した作品。

 林譲治『工作艦明石の孤独3』は、異星人イビスのいるアイレム星系の惑星バスラ近くのステーションに派遣されたメンバーと、イビスに救出されて以来イビスの地下宇宙船にいる工作艦明石組長椎名ラパーナそれぞれの事情を語っているという点では、相変わらず承前のように見えたけれど、なんと最後の最後でトンデモナイ設定がありそうなことが明かされる。これってまだまだ続くフックなのか、それとも急転直下で次巻で終わるという予告なのか。はてさて、次巻が待ち遠しい。

 今回読めたSF最後の1冊は、第10回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作という小川楽喜『標本作家』
 時は西暦80万2700年(『タイムマシン』?)、人類が滅亡して久しく、現在の地球に降り立ったのは「玲伎種(れいきしゅ)」と呼ばれる超知性。人類の小説に興味があったらしく、著名な文学者を再生して不死化して、第1章のタイトルにもなっている大きな館〈終古の人籃〉で小説を書かせている。ここには第2章のタイトルにもなっている「文人10傑」と云われる英国中心の作家10人がいて新作を書いたりしている。しかし、最近は「玲伎種」も飽きてきたらしく、この10傑以外の各国作家による同様の仕組みは解消されたという。そこで10傑の一人ワイルドは新機軸として10傑共同執筆を提案した・・・。多視点だけれど語り手の中心となるのは作家ではなく、ただ一人専門読者として再生された19世紀の英国女性(名前はメアリ・カヴァン)。なお、「玲伎種」もひとり(?)しかいなくて「コンスタンス」と呼ばれている。
 最初はソローキン『青い脂』のドストエフスキーとかトルストイとかを連想したのだけれど、方向はまったく違って、これは小説愛が昂じてホラーとなるまでを描いた作品と読めるものになっていた。読んではないけれどもスティーヴン・キングのホラーに読者が作家を捕らえて恐怖を与えるとか云う作品があったと思う。多分それに近いんじゃないかと妄想した。
 架空名に変えているとはいえ、英語圏(殆どがイギリス)小説界の有名な作家たちから10人を選んで変名だけど10傑とし、その作品及び作風の解説や作家の性格・行動特性を自称他称で書いてしまうのは蛮勇としか云えないし、またその行為に関してフィクションとして逃げを打っておかないと、あらゆる小説愛好家から異論が生じてしまう虞がある。お陰で大部分は説明に終始している作品だともいえ、東浩紀の否定的な選評に頷かざるを得ない。作者自身が、この作品はこれまで4社から突っ返され、ハヤカワで拾われたと云っているが、さもありなんである。まあ、しかし、これが1人の専門読者の欲望によって10人の作家たちが滅亡するホラーだと考えれば、奇想小説として遇しても良いのかも知れない。
 変名なので、例えばワイルドの作品のタイトルがそのままだったり変更されてたりするので、読んでてイライラするところはある。作中最も重要な作品のひとつとして扱われている戯曲『サロメ』が未完という設定も、作者の自由とはいえ、当方としては引っかかりになる。

 ノンフィクションは2冊。

 もう何十年もNHK大河ドラマを見ていないのだけれど、『鎌倉殿の13人』が終わったというので読んでみたのが、細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』。2019年刊の講談社学術文庫。親本は2011年に講談社選書メチエの1冊として『北条氏と鎌倉幕府』というタイトルで出されたもの。文庫で本文230ページ足らずなので新書並みですね。 文庫化にあたって『執権』にしたのは、著者の言によれば、内容の主眼が北条氏の歴史でもなく鎌倉幕府の歴史でもない、「執権」とは何だったのか、「なぜ北条氏は将軍にならなかったのか」という疑問に応えるために書いたからということらしい。
 ということで、ここに取り上げられているのは、13人時代の「江間小四郎義時」と元寇時代の「相模太郎時宗」がメインであり、その他の人物は枝葉として動員されている。この本の著者の北条氏を中心とした武士たちへの視点は、『吾妻鏡』に出てくる、元久2(1205)年に畠山重忠討伐(二俣川合戦)を果たした後、重忠に謀反の意志がなかったことに気づいた義時の親父時政に対する気持ちを「クソ親父!オレたちを騙して、ダチを殺させたな!」と意訳したところによく現れている。東映ヤクザ映画の血で血を洗うというヤツですね。
 とはいえ学術書なので、北条氏の始まりのあやふやさや、江間小四郎だった義時が自らの意志というよりは、状況が義時を北条氏の英雄に持ち上げて伝説(著者は義時=「関東武内宿禰(たけしのうちのすくね)」伝説を重視)と化したことなどがわかりやすく語られている。また北条氏惣領が「得宗」と呼ばれるのはなぜかという疑問について、時賴時代に浄土宗から禅宗に改宗したとき、禅宗の諡である「徳崇/得宗」を義時に追号したのではないかと推理している。時宗の方は自身が独裁者として権力を揮うようになり、北条氏の絶対的地位を築いたことで、時宗が武内宿禰伝説の担い手となって自らは将軍職を必要としない孤高の存在になったという。しかし時宗没後は混乱続きで迷走して、北条家は遂に滅んだ。
 著者は鎌倉幕府を「政権運営の知識も経験もなかった東国武士たちが作った」もので、「試行錯誤を繰り返し・・・呆れるほど多くの血がムダに流されていった」としながらも「野蛮で無知だった人々は、それでも今日より良い明日を築こう」としていたと締めくくっている。

 もう1冊はダン・アリエリー『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』2013年初刷りのハヤカワ文庫NF、親本は2010年刊。今頃なんでこんなものを、と自分でも頭をひねるのだけど、たまたま古本屋でピカピカ光っているように見えたので買ってみた次第。2020年の19刷なのでピカピカしてても不思議はなかったが、「行動経済学」とやらを覗いておくのも良いかと思い読んでみた。
 行動経済学といえば21世紀初頭に行動経済学者がノーベル賞を貰っているし、この本もその流れで書かれたのだろうけれど、入門書と云うよりは読み物に近い作品。
 基本的には心理バイアスと経済行動を身近な人々(ここでは大学の学生たち)を使ってさまざまに実験して見せたもの。社会実験としてはこぢんまりしたものが多い。実験自体は20世紀末頃に行われたものが多いせいか、なんとなく風俗が古めかしくてやや時代遅れな感じがする。経済行動に及ぼす人間心理自体(絶対値と相対値の利益を取り違える性質とか)は一応原理的なものなので古びないとすれば、もう少し時間が経った方が古典として読めるようになったかも知れない。
 一番印象深かったのは、冒頭の自己紹介で、若いときにイスラエルで爆発事故に遭い皮膚の殆どを失って1年がかりで治療を終えた経験を語っているが、その経験から学んだことが人間心理の不合理を研究するきっかけとなっていることだった。
 


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