内 輪 第388回
大野万紀
12月のSFファン交流会は12月17日(土)に、「SFヒッチハイクガイド」と題して開催されました。出演は、池澤春菜さん(作家、声優)、三村美衣さん(書評家)。
写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、SFファン交のみいめさん、三村美衣さん、SFファン交の根本さん、池澤春菜さんです。
今回は議事録風に書いてみましたが、その場のメモを元にしているので、間違いがあるかも知れません。修正いたしますのでご指摘ください。なお発言通りでは無く、一部省略やわかりやすいように補完しているところがあります。
みいめ:今回はSFブックガイドがテーマです。前半は春菜さんの本について、後半は美衣さんにSFブックガイド全般について語っていただきます。
池澤:『SFのSはステキのS+』はSFMの連載をまとめたもの。途中で隔月になったので8年かかった。連載100回までを収録。帯コメは自分で劉慈欣さんにメールしてお願いした。細かい内容は分からないけど「推薦」と書くのはいいよと言ってくれた。初版には月報をつけた。月報は今回伴名練さんに「誉めて」とお願いした。めちゃくちゃ誉めてもらったので、もう死ねる。またSF作家クラブの座談会を入れた。前回は用語集をつけたが今回は巻末小説を載せた。これが商業誌掲載2本目の小説。
三村:死んでもいいといいながら1月にもう一冊出るんだよね。100万回生きた池澤春菜だね。来年出すのはSF入門書……。
池澤:SFガイドブックを作るという話が今年の7月にあった。実際に動き出したのは9月から。P-VINEというキノコSFアンソロジーとか出した出版社。音楽系の本が多い出版社だが、なぜか「FUNGI」が出てメチャカッコ良かった。それでP-VINEを覚えていた。実は韓国文学のガイドブックも出している。これもすごく良かった。これでSFガイドブックを出したいというのはとても良いと思い、監修をすることにした。作家のセレクション(50人ずつ)と作家紹介、コラムのテーマ決定、それからそれぞれ誰に書いてもらうかを決定して編集に依頼した。
三村:リストを選んでいるときが一番楽しい。
池澤:リストを選ぶのには方針をはっきり決めて思い切りが必要とわかった。翻訳は1つしかなくてもオコラフォーは入れたいとか、英語で書いている日本作家ユキミ・オガワも入れたい。
三村:古典や今の作家はいいが、中間の作家が難しい。ギブスンは必要かとか。
池澤;泣きながらマキャフリーを切った。最近の作品はいつ出ているのかという観点で。旅行のガイドブックもそうだが、今どうなっているかを重要視したい。入らなかったところはコラムでしっかり書いてもらう。ライターは若手を重視して起用した。15~20人。自分でも10人くらい書いたけど。
三村:ジョン・ヴァーリイは悩んだね。結局入らなかった。新しい作家をできるだけ入れたので残りの枠が少なくて入らなくなる。伊藤典夫編「SFベスト201」(2005)の時は選ぶのに2年かかった。ラノベやなろう系のガイドを作ろうとするともの凄いスピードで出るので、書こうとするとすでに内容が変わっている。旅行ガイドでも紹介した店がもうつぶれているということがあるけど、それで怒るということはないでしょ。
池澤:古いガイドブックは取っておいて、ああここは変わったのだなと思って面白い。
三村:SFブックガイド、古いところから。70年代にSFを読み始めた子供たちが聖典としたのが筒井康隆編「SF教室」 ブックガイドであると同時にSF的な物の考え方を示し、SFマニアになるように鼓舞される。
池澤:アマゾンで見ると少年十字軍のことしか書いていないのだが。
三村:それはたぶん別の本。でも「SF教室」は子供たちに熱狂を与えてSF十字軍にするというものではある。SFが好きな俺たちいけてるぜといった感覚を持てる本。これを読むと紹介されている本を全部読もうとする。でもディックの『高い城の男』だけが手に入らなかった。そこで私も中3か高1のころに星群に入ってここなら『高い城の男』を持っている人がいるだろうと。
池澤:星群って何ですか?
三村:京都のSF同人誌で、菅浩江や山本弘やいろいろな人がいた。
池澤:西軍、東軍で戦うのかと思った。
三村:一番好きなブックガイドは文庫目録。子どものころ本屋で文庫目録をもらう幸せ。家に持って帰って紙に書いて欲しいものを選ぶ。
池澤:わたしも自分が持っている本をチェックして、まだ読んでいない本がこんなにあると嬉しくなる。
三村:あの100文字少しの紹介で内容を想像する楽しみ。裏切られ泣かされても好き。昔は本の情報が文庫目録ぐらいしかなかった。
池澤:アマゾンでは知っている本を買いに行く。本屋は知らない本を見つける楽しみがある。文庫目録もそうではないかな。
三村:その後はハヤカワの「SF入門」。これも作品紹介よりSFの歴史などが多い。その後は「総解説」。私は評価やジャンル分けよりあらすじ紹介だけでいい。その点「世界のSF小説総解説」はオチまで書いてある。わたしはネタバレが気にならないタイプ。関西では浜村淳が映画のオチまで全部話すので、それに慣れていた。
池澤:わたしたちの世代は総解説的なものがなくて、SFが読みたいやハヤカワ文庫総解説のような個別のものしかない。
三村:出版社別や年度別はあるけれど、網羅的なものはないか。
みいめ:「SF入門」は2001年のSF作家クラブ編が最後か。
三村:情報が欲しいのかあらすじが欲しいのかということもある。
みいめ:自分がどのSFが好きなのだろうと知りたくて、ディックが好きならディックが含まれているのはどのサブ・ジャンルで、そのジャンルには誰がいるのかと深掘りしていく。
池澤:今だとテーマにはまらない本がたくさんある。高山羽根子はどのジャンルに入るのか。
三村:高山羽根子や円城塔は例外にしないといけない。一方児童向けアンソロジーではすごくふわふわなテーマわけがある。『大人だって読みたい!少女小説ガイド』ではジャンル分けしているが「謎解き」「歴史」のようなものの他「友情」「青春」「京都」「鎌倉」といった検索タグをつけた。SFでもそれがやりたかった。ディックなら「自分以外はみんな狂っている」とか。今欲しいのはタグをいっぱいつけて検索できるようにして、それを視覚的に見えるようにしたい。昔、小説に出てくるお店屋さんガイドみたいなのを集めてショッピングモールを作りたいと思った。
池澤:映画に出てくるグルメガイドみたいな本はありますね。
三村;そのショッピングモールに本を置いてあればいいなと思ったのだが、その後そんな本が山ほど出たので書けなくなった。ショッピングモールでは収まらない。
池澤:増殖するショッピングモール。SFですね。
――といったようなお話で、とても興味深い内容でした。特に三村美衣の昔話は懐かしすぎ。そういえばぼく自身「世界のSF総解説」にも原稿を書いていたのだ。すっかり忘れています。確かに深い批評的な本も大事ですが、お二人が言っているように、広くこんな本もあるよという網羅的なガイドブックは必要ですね。個人的にはぼくがシミルボンに時々書いているテーマ別の記事は、こんな面白いSFがあるからぜひ読んでみてほしいということを意図しています。
次回は1月21日(土)14時から。テーマは「2022年のSF回顧 国内編・コミック編」とのことです。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
突然現れた傑作アンソロジー。〈小説現代〉2022年4月号と10月号に掲載された、石川宗生、宮内悠介、斜線堂有紀、小川一水、伴名練の「改変歴史SF」5編が収録されている。いずれも読み応えある短篇集である。
石川宗生「うたう蜘蛛」。16世紀ごろのスペインが支配するナポリを舞台に、享楽的な老総督が主人公の奇想歴史小説。イタリア南部の町タラントで奇怪な疫病が発生する。人々が奇声を発し、死ぬまで踊り狂うのだ。タランティズムと呼ばれたこの疫病は、次第にナポリにまで迫ってくる。総督は有名な錬金術師で医師のパラケルススに対策を依頼するのだが……。Wikipediaによれば、タランテラは、イタリア・ナポリの舞曲で、毒蜘蛛のタランチュラに噛まれると、その毒を抜くために踊り続けなければならないとする話から付けられたという説もあるほか、その毒の苦しさゆえに踊り狂って死に、それを表現したという説もある、と書かれている。この作品では疫病級にスケールアップしたその災厄に対して、時を越える魔人パラケルススが音楽には音楽でと対処するのだが、その音楽というのが……。病人たちが踊りながら歌う「ゲバ、ゲバゲバ、ゲバゲバゲバァ! ゲバァトウェユワンビロン!」なんて響きには、かつての筒井康隆がこだましているかのようだ。
宮内悠介「パニック ――一九六五年のSNS」は1965年の日本に国産大型コンピュータによるSNSが実現していたらという発想による、書きっぷりとしてはオーソドックスな改変歴史SFである。SNSといってもピーガーといって回線がつながるかつてのパソコン通信に近いイメージのものだ。だがその内容は……。1965年2月にアメリカ軍に従軍してベトナム戦争取材中の開高健がベトコンに包囲され、200人中生還したのは17人という悲惨な戦闘に遭遇したのは事実だが、それが「ピーガー」と呼ばれるSNS(当時の磁気ディスクの容量からカナのみの短文ですぐに消去されるというのがそれっぽい)でリアルタイムに炎上する。「ヒトニ メイワク カケルナ」「バイメイコウイ」そして「ジコセキニン」のオンパレード。どこかで見たような話だが、これがウェブ史上最初の炎上事件なのだという。物語は現在の時点でその炎上事件を調査しようとする主人公が資料に当たり、当時の生き残りに聞き取りをしていくルポルタージュとして描かれるが、岸信介や鳩山一郎、そして三島由紀夫の描かれ方が面白い。ウェブの炎上が開高健の「パニック」にある、一匹だと利口であるはずの鼠が集団だと狂気に陥るという記述を連想させるというのも興味深い。また自分も「ピーガー」をやるようになった開高健が「カイコウ デス ナニカ キキタイコト アル?」というひと言から始めたというのには笑った。やっぱり今のSNSというより2チャンだなあ。
斜線堂有紀「一一六二年のlovin'life」も改変歴史というより、もし和歌が英語で詠まれなければいけないものだったらというifを、後白河法皇の皇女、和歌の名手として知られる式子(しょくし)内親王を主人公に描いた作品である。万葉集の時代から、和歌といえば和語で詠むだけでなく、それを詠語(えいご)に訳して発表しなければ認められないものだったのだ。でも式子は宮中の歌合でも詠訳が苦手なため和歌が詠めず、皆に嘲笑われているのだった。実は彼女も詠語はできる。だが自分の歌の美しさに似合う訳ができないだけなのだ。そこへ彼女の女房として帥(そち)という下級貴族の娘が仕えることになり、状況が変わる。帥は恐れることもなくずけずけとものを言うような娘だったが、詠語の才能があり、式子の詠んだ歌を見事に詠訳してくれるのだ。二人は名コンビとなり、以後式子は希代の歌詠みとして名声を高めていく。二人の関係性がじっくりと描かれるので、こういうのも百合っていうのかも知れない。そしてついに別れの時が来る……。しかし思い切った設定だ。よく考えつくものだと思う。ところでこの英訳はやはり著者が訳したものなのだろうか。それとも現実にあるものなのか。雰囲気は伝わっているが、ちょっと説明的すぎるんじゃないだろうかと思った。
小川一水「大江戸石廓突破仕留(おおえどいしのくるわをつきやぶりしとめる)」。小川一水がこんなストレートな改変歴史SFを書くとは。明暦3年の関東地方。江戸の西10里、玉川上水が流れる羽村の地。水道奉行の息子吉水忠直(よしみずただすぐ)とその従者である大男の雷王は玉川上水の見回り中に、上水に毒を流し江戸の壊滅を狙う謎の老人と男女二人の集団に遭遇し、その企てを阻止しようとする。だがこの江戸はわれわれの知っている江戸ではない。周囲を高い石造りの城郭「大江戸石廓」で囲まれた城塞都市なのだ。いったいどこでわれわれの歴史と食い違ったのか。そして謎の三人はなぜ江戸を滅ぼそうとしているのか。結末で明かされるその真相は実に壮大な時間SFとなっている。毒による大量虐殺に失敗した賊は、最後には江戸に大火災を起こそうとする。明暦の大火だ。そして……。物語も面白いが、主人公の忠直と雷王のキャラクターが楽しくて魅力的だ。まるでヨーロッパのような巨大な石造建築の立ち並ぶ江戸の景色も映像的で、ぜひこの目で見て見たい。
伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」では量子コンピュータ上でシミュレーションされる仮想歴史が描かれる。シミュレーションする対象はジャンヌ・ダルク。タイトルからもわかるように、同じ歴史を微妙にパラメータを変えながら、結果が出るまで何万回も繰り返すのだ。SFのアイデアとしてはありがちだが、本作でのその内容は実にぞっとするようなものだ。未来のフランスで極右政権が倒れ、新たな政府は前政権の国家主義者がイメージ戦略に使っていたジャンヌ・ダルクの再検証を行うことを決定する。それは量子コンピュータを用いて歴史のifをシミュレートし、当該人物の真の姿を露わにしようとするものだ。条件を変えながら何度も試行することでたまたまの偶然ではない当該人物の本質が、その本心が現れるだろうと。そして当該人物とはジャンヌ・ダルクであり、シミュレーションするのは彼女が火刑となるその1日なのだ。検証者の目的はジャンヌが国家主義者が賛美したような英雄ではないと暴露されること。そのために彼女の記憶を継続させたまま火刑の1日を何度も何度も繰り返させるのである。コンピュータ上では百分の1秒の間に。何とおぞましい魔女裁判! シミュレーションのジャンヌは何度も牢の中で目覚め、前回の記憶を持ったまま火刑を逃れるための新たな試みを行う。何百回もの失敗の末、ジャンヌはついに火刑を逃れルーアンを脱出することに成功する。彼女は天寿を全うするが、死の瞬間、またも次のループに囚われてしまう――。だがここからが作者の真骨頂だ。ジャンヌ・ダルクが生き延びる可能性から真の改変歴史SFが始まるのである。ジャンヌが生き延びることによって現れる新たな歴史、新たな世界。それも1つだけではない。いくつもの世界。そして20001回目の周回でついに――そこには静かな、そして確かな感動がある。この作品で描かれるのは、どんな絶望的な状況でも、例え中世の素朴な少女であっても、記憶と学習の繰り返しによって、そしてやり通そうとする信念によって、運命を変えることができるということである。それは伴名練の、人間の知性に対する熱い信頼なのだ。それにしてもこんな再検証を計画したやつこそ、コンピュータ内の疑似人格などに人権はないと思っているのだろうが、量子コンピュータに突っ込んでやりたいね。
「飲鴆止渇」で第10回創元SF短編賞の優秀賞を受賞した作者の初短篇集。7月に出た本だが、やっと読んだ。創元SF短編賞の方は書籍に収録されておらず読んでいなかったので、kindleで購入。作者はシリコンバレーや英国や中国でソフトウェアエンジニアとして働いていたということで、なるほど確かな知識がある人なのだ。それと同時に、社会や人間関係にも鋭い目をもっているのを感じた。これからも注目していきたい作家である。
表題作「ギークに銃はいらない」はハッカーに憧れるアメリカの高校生二人の物語。現代のハイテク技術を背景にしているが、内容は学校社会で孤立し、ヒエラルキー下位のオタクである少年たち(勉強もきらいで、すごい技術力があるわけでも何でもない)が、見よう見まねで学校のネットに侵入し、監視カメラでヤバイ情景を目撃してしまうという話。SF的な要素はないが、日常とはまた別のレイヤーで今のリアルな世界が動いていることを、ハッカーだ何だといった言葉だけでなく、未熟な高校生のドキドキ感も含めて描き出している。少年二人とそれを取り巻く人間関係も(ヒリヒリはするが、外部から見ればさほど致命的ではないところもまた)良く描かれている。アメリカの若手作家が書いたといっても通じそうだ。ちょうど宮内悠介の短編と似た雰囲気もあるように思った。
「眠れぬ夜のバックファイア」はゲンロン新人賞の受賞作。脳内物質をコントロールして快適な睡眠と良い夢を見させるというガジェット、In:Dreamをキーアイテムとしているが、ねじれた人と人との関係性、とりわけ怪物的な母に支配される娘というこじれた家族の関係性を掘り下げて描く、重くて暗い心理ドラマとなっている。表題作以上にヒリヒリするが、とても読み応えがある。物語はIn:Dreamのユーザとなった中口葉子(ヨウ)と、サポートセンターで彼女の専属アドバイザーとなった間宮とエンジニアの大磯の視点から進んでいく。初めは楽な客だと思えたヨウが、なかなかIn:Dreamの効果が出ずに不眠と悪夢を訴え、やっかいで大変気にかかるユーザとなっていく。In:Dreamから送信されたモニターのデータとサポートセンターではわからない個人の内面とが交錯し、センター側の不安も高まる。ヨウの側の物語から読者にはその原因は明らかで、早く病院へでも行けばいいのにと思うのだが、大学時代につき合っていた治人の物語がからむと、そんな簡単なものじゃないこともわかる。物語は一段落するが、これで終わりとは思えない。この次があるとしたらそれはグレッグ・イーガンのような、心と機械を結ぶ話になっていく気がする。
後半の「春を負う」と「冬を牽く」はひとつながりの物語である。どことも知れぬ寒々とした地方。異世界かも知れないし、この世界の北極に近いような遊牧民の世界かも知れない。そんな地方の高山にタツェの村はある。主人公の少年ツァンクーは村の長の息子だが、生まれつき体が弱い。それでも賢者の血脈チェギ・ルトを引き継ぐ、次の村長候補である。そのためには父と共に聖なるラシャの山へ行き、チェギ・ルトを襲名する儀式を受けねばならず、その時に前のチェギ・ルトである父は死ぬという。春になると、ふもとの村ツェチュからゲレクタシという名の交易びとの青年がやってくる。タツェでは手に入らない金属製品や小麦粉、野菜などと、タツェの干し肉や乳製品、薬などとを交換するのだ。厳しい自然とその中で暮らす人々の営みが、そしてそんな素朴な社会の中でも存在する家族や人々の複雑な関係性が、細やかに描かれていく。人間の友である犬や、羚羊ならぬ羚鹿と呼ばれる使役動物、森や草原、そして険しい山々……。「春を負う」では儀式の後に起こった交易びとゲレクタシの遭難、そして彼の後継者となる少年ドゥクチェンの姿が描かれるが、儀式で何があったかは語られない。「冬を牽く」では若くしてチェギ・ルトとなったツァンクーが冬の気配が訪れる中、一人で交易に来たドゥクチェンをツェチュ村まで送っていくが、村の子どもが迷子になるという事件が起こる。急激に気温の下がる中、子どもを見つけたツァンクーは岩陰に身を休め、あの儀式での出来事を思い出す。そこで物語のモードががらりと変わる。お話が完全にSFとなってこの世界の秘密が明かされるのだが、ツァンクーにとってはそれはどうでもいいことである。彼らはその後もこれまで通り暮らしていく。森の秘密を守り、親子の関係性に葛藤しながら。犬や羚鹿と共に。
7月に出た本。柞刈湯葉のWEB小説を中心にした短めの作品14編(書き下ろし2編を含む)とあとがきが収録されている。
「まず牛を球とします。」というのはぼくも知っている物理学モデルの単純化についての理系ジョークだが、ここでは文字どおり球形の牛が工場で飼育(栽培かも知れない)されている。後半にはその話と直接関係なさそうな「外人」と呼ばれる異星生物によって破壊されていく地球の話が語られるが、二つは「共感性関数」というアイデアで結びつく。再読だが面白かった。
「犯罪者には田中が多い」は作者あとがきで「実在の属性に対する架空の差別」という方針で描いてみたとあるが、面白い視点だと思った。いわれのない社会的差別というのはこれと同じ構造を持っている。風評被害もそうだ。この作品ではとあるマンガ家が主人公で、直接差別される側ではないが、実作者がそれにどのように向き合うかということが淡々と描かれている。
「数を食べる」はショートショートだが、3つのリンゴからリンゴそのものと「3」という抽象的な数を剥ぎ取るという行為が描かれ、さらにその剥ぎ取られた「3」を食べる女子高校生が登場する。抽象概念を具体化すると何だかふわふわニュルニュルしたものになるのが面白い。味はあんまり美味しくないそうだ。
「石油玉になりたい」もショートショート。作者は球が好きなのだろうか。石油王ではなく石油「玉」である。死んだら宇宙空間で分解されて石油の玉になりたいと彼女はいう。なかなかシュールで絵になるイメージだ。あとがきによれば、1モル匹のモグラが宇宙に出現したら石油の塊になるのだそうだ。
「東京都交通安全責任課」はデビュー以前に書かれた一番古い作品で、連作短編『未来職安』の原型になったという。AIが人間の仕事を奪ったため、人間がするのは責任を取ることだけになったというお話。都庁に務める公務員が責任を取るというのはある種の皮肉なのか(大阪なら間違いなく皮肉だ)。
「天地および責任の創造」は創世記を扱ったショートショートで、イヴが知恵の実を食べて罰を受けるが、じゃあその責任はどこにあったのかという話。
「家に帰ると妻が必ず人間のふりをしています。」もショートショートで題名通りの話だが、これは好き。妻は人間じゃないらしいのだが、夫はかまわないようすで、普通に暮らしている。ほのぼのとしていて後書きにあるような恐怖感は全然ない。
「タマネギが嫌い」は宇宙が舞台の楽しいショートショートで、これまた題名通り。いや本当にそれだけの話なのだ。
「ルナティック・オン・ザ・ヒル」は既読。ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」が元歌だが、月面の丘に腰かけているルナティック(月人)は月生まれの兵士である。地球と月は戦争をしており、主人公は戦友と丘の向こうで行われている戦闘を眺めているのだが、人工知能の指令がないのでそこに座って酸素が尽きるのをじっと待っているのみ。攻撃も防御もシステムの指示に従うだけの、ほとんど無意味でうんざりするような戦場に、しだいに狂気が高まっていく。このむなしさは心に染みる。
「大正電気女学生~ハイカラ・メカニック娘~」。「はいからさんが通る」が後書きで言及されているが、大正時代の文学少女な女学生が主人公で、彼女の友人になるのが電気機器が大好きな理系メカニック娘。その子が作ったラジオにはなぜか未来の放送が流れてきた……。こっちの装置で時空を歪ませて未来の電波を受信するのですわ、と軽く言う彼女。テーマ的には伴名練の作品につながる重いものがあるのだが、主人公二人の性格もあって、あくまでも二人が中心の軽めな作品に仕上がっている。
「令和二年の箱男」は書き下ろし。タイトル通り安部公房『箱男』へのオマージュ作品だが、こちらは段ボール箱を頭にかぶったバーチャルユーチューバーである(実際作者はそんな3Dモデルも作っている)。主人公はコロナ禍で自宅にこもってテレワークしているサラリーマン。試しにYouTubeに投稿してみたがぱっとしない。ところが宅配便のダンボール箱を実際に頭にかぶって外に出るとそれを誰かがネットにアップし、評判になる。だが、それが自分だとは誰にも気づかれず、ネットミームとして広がっていくばかり。世界的な流行になりながら自分とは無関係なむなしさ。現代の箱男は誰でもなく存在証明のないままでも有名になり得るのだ。
「改暦」は科学歴史小説。元の時代の天文官たちはそれまで日蝕の予報は当たらないことが多いので、大目に予報して、外れれば皇帝の徳により日蝕を免れたと言えば良かった。主人公の若い天文官はそんな詭弁に疑問をもっていたが、むしろ当たらないのは宇宙に内在する不確定性のためだと思い当たる。ところが、クビライはイスラム科学をもとにした新しい暦、授時暦を導入する。授時暦は以前の暦に比べ遥かに正確に日蝕を予報することができた。ならばこの世に不確定性があるのは正しくなく、実は全ての事象は数理的に厳密に定められているのではないか。この問いはラプラスの悪魔の呪いとなって現代にまで尾を引くものなのだ。
「沈黙のリトルボーイ」は書き下ろしで、「改暦」の対となるような傑作。作者は後書きで「改暦」がラプラスの悪魔なら、この作品は量子論の世界観を反映したものだと書いている。この作品の世界では、広島に落とされた原爆(リトルボーイ)は爆発せず、(こちらの世界でいう)原爆ドームに引っかかったままとなっている。長崎では爆発し、日本は無条件降伏して、進駐した米軍はこの不発原爆の処理に頭を悩ます。何しろ不発となった原因が不明で、いつ爆発するともわからないのだ。主人公は原爆開発に参加した専門家で、普通の不発弾処理のエキスパートとともに、この「沈黙のリトルボーイ」を処理することになる。物語は主人公の過去と現在を描きつつ、彼の考える量子論の真実をこの爆弾の不発に当てはめようとする。結末も意外性があって、じわじわ来る。
最後の「ボーナス・トラック・クロモソーム」はおまけではなくて、短いが、これも本格的な遺伝子操作SFの傑作。主人公は遺伝子操作で人間を幸福にしようとしている科学者。こういうとマッドサイエンティストっぽいが、ここで描かれるのはとてもまともで、本当にシリアスに人間の多様性や個人の尊厳、自己決定権を犯すことなしに人間を幸福(ウェルビーイング)にする遺伝子というものを考えているのだ(でも書き方はとてもユーモラス)。その結論がタイトルであり、ボーナストラック、いわば裏メニューの染色体である。この発想はとても面白く、実際に研究されているものなのかも知れない。それが実現した世界を考えると、主人公の理想だけには終わらない問題が出てくるような気がするが、それでも非常にSF的で興味深いものになるだろう。これはぜひ長編化して深掘りして欲しい。