続・サンタロガ・バリア  (第241回)
津田文夫


 もう12月ですね。毎日が日曜日のまま2年目ともなると、師走のことも忘れてしまい、何の緊張感もない。5回目のワクチンを受けたら、2日後から数日のあいだ目眩がして、はじめて副作用というヤツを経験した。でも接種会場の人がワクチンはこれで終わりですといっていたので、これからは自己判断で接種を受けろということか。第8波の後はどうなることやら。
 今年は特に暗い出来事があって、来年にも持ち越されそうだけれど、みなさまは良いお年をお迎えくださいませ。

 なぜか先月は聴くつもりがなかった広島交響楽団の演奏会を、2回も聴いてしまった。 ひとつは隣の市での演奏会。隣の市といっても車で1時間、電車なら乗り継ぎで1時間以上かかるので、曲がモーツァルト交響曲36番「リンツ」とリムスキー・コルサコフ交響組曲「シェエラザード」で知らない指揮者だったし、スルーしていたら、都合で指揮者が沖澤のどかに代わり、曲目に変更なしになった。へぇーっと、俄然興味が湧いてきて、聴きに行きたいと云ったら、奥さんと息子が別件で行く用事を作ったので、行きは車帰りは電車と云うことになった。
 沖澤のどかは、大昔若き小澤征爾が優勝したブザンソン指揮者コンクールで優勝した若手女性指揮者。今年4月から当方が40年以上前の学生時代よく聴きに行っていた京都市交響楽団の常任になっている。
 実際に目にしたこの指揮者は非常に小柄だけれど、まるで自衛隊員みたいに姿勢が良くキビキビしている。いきなり「リンツ」から入る演奏だったので、最初はやや響きが弱いような気がした。休憩後の「シェエラザード」では、コンマスのヴァイオリン・ソロで弾かれる有名なテーマを始め、各楽器の首席のソロが次々と出てくるので、オケの方はノリノリだった。まあ、聴いていて楽しければそれでいいとはいうものの、指揮者のコントロール以上に頑張っているようにも見えた。今回はファゴット奏者が良かったらしく、オケの団員が足で拍手していた。アンコールはチャイコフスキー「くるみ割り人形」のワルツ。今回はこの指揮者らしさみたいなのがあまり感じられなかったけれど、代役だしその割には上手くいっていたという所かな。
 下は帰りのJR西条駅ホームで見つめていたら地図に見えてきたのて撮った1枚。

 2回目はまだ11月だというのに、地元で開催された第九コンサート。全然知らなかったのだけれど、知人が何年かぶりに合唱団で歌うことになっていて招待券をいただいた。当方も第九の生演奏には何年もご無沙汰していたので久しぶり。行ってみると地元ホールの2階3階席が開放されていたので、これも久しぶりなので、2階席後列真ん中で聴いてみた。
 合唱団の人数はそれほど多くなく、広響も2管編成で、いっとき大人数の第九ばかり聴かされたので、却って新鮮な感じがした。基本的には合唱団の人たちが歌いたい為に、寄付を募って広響を雇った形と思われる。独唱陣も音大出身の若手で、なかでもバリトンがフィリピン出身の青年。4楽章の歌い出しは緊張したのか、やや不安定だったけれど、終了後に指揮者がねぎらっていた。客層はこういう演奏会にありがちな楽章間毎回拍手のタイプで、昔は当方もイライラしたことがあったけれど、いまや微笑ましく思えるようになった。合唱パートは最後までドライブが掛けられることなく、一定テンポでフィナーレを迎えた。まあ、練習にない加速などをやられては困ったことになったろうが。プロだと時々スピード違反なドライブが掛けられてカンカンダンス並の馬鹿騒ぎになることもあるけれど。最近はこの曲の第2楽章を聴くだけでよくなったので、その点ではまずまずの演奏でした。

 このひと月は、主に読み残しの消化みたいになっていた。では、まず8月刊から。

 殊能将之『殊能将之 未発表短編集』は2016年の単行本の文庫落ち。短編小説が3篇と『ハサミ男』でメフィスト賞を取ったときのノンフィクション風日記小説だけで、大森望の長い解説(というか故人を偲ぶ記)を入れて、200ページもない。
 冒頭の「犬がこわい」は、極端な犬嫌いの語りで進むシチュエーション・コメディ。
 「鬼ごっこ」は非道な連中のヤクザな道中記かと思いきや、地球で遊んでる話。
 「精霊もどし」は、ユニークな幽霊譚で、タイトルは所ジョージの曲名からとのこと。
 「ハサミ男の秘密の日記」は、1999年4月3日に〈小説現代5月増刊号メフィスト〉を買って「メフィスト賞『ハサミ男』!」の 選評を読むところから始まる、ほぼ実話らしい日記形式の作品。解説によると作者の名古屋大学SF研時代の友人磯達雄氏にいきなり送られてきたとか。
 以上、あまりにも収録作数の少ない作品集であるが、作家本人がこれしかないと云っているので仕方が無い。読む分にはどれも面白く、いまさらながら夭逝が惜しまれる。

 チョン・セラン『地球でハナだけ』は、2012年に書かれた作者の長編第2作に手を入れて2019年に改訂版として発刊したものという。そういえば・ペ・ミョンフン『タワー』と似た経緯かな。
 こちらはオビにあるように「一途でさわやかなSFストーリー。」で、主な登場人物は仕立て直しの店を出しているヒロインのハナと店の一角を貸している友人の画家ユリ、ハナの恋人であちこちに出かけるのが趣味のキョンミンの3人。そこへやはりオビにあるように「君(ハナ)に会いたくて二万光年を飛びこえたんだ。」というキョンミンそっくりの宇宙人がやってきて、ひたすらハナの恋人を演じる・・・というもの。キョンミン本人はどうなったかは、読んでからのお楽しみだけど、ウルトラマン・ネタといえないこともない。
 以前読んだ作品から感じたこの作者のエンターテインメント的手腕は、この作品でも十分に発揮されていて、コミカルな少女マンガの幸福感にあふれている。もちろんSFとして読んで何かの期待が充たされるようなものではないが、それは求める方がお門違いであろう。

 ちょっとした話題作だったのに、読むのが遅くなったのが荻堂顕(おぎどうあきら)『ループ・オブ・ザ・コード』。タイトルと表紙イラストからはあまりピンとこず、スルーしていた1作。
 中身を読んでみるとこのタイトルは「あやとりひも」のことらしい。「猫のゆりかご」はさすがに使えなかったか。
 既にあちらこちらに書評があがったので、どんなテーマでどんなストーリーかということは省こう。
 オビで小島秀夫、大森望の2人が伊藤計劃『虐殺器官』を引き合いに出しているけれど、ボンクラな当方はこの作品を読んで、そうか『虐殺器官』はこんなテーマだったのかと、原作はもちろんアニメも見たのに、いまさらながら思うのであった。
 非常な力作とは思うけれど、世界生存機関(WEO)所属の語り手の設定と、その任務である歴史から消されたもと独裁国家で生じた児童の異常な発作の調査及び独裁国家時代のイデオロギーをよみがえらせようとする一団との戦いは、語り手が接触する多数の登場人物との錯綜する会話劇とアクションのなかで、かならずしも十分納得のいくものには感じられなかった。おそらくこの世界を描くには個々のエピソードと大枠との関係を詰め込みすぎていて、上下二段組400ページをもってしてもまだページ数が足りないように思われる。
 それにしても日本人が出てこないSF的設定の国際情報小説がこんなにも違和感なく普通に書かれる時代が来ようとは、21世紀ですねえ。

 熊谷達也『孤立宇宙』も8月刊の1冊。地元地方紙で巽孝之さんの書評を見て、へぇーっと思ったけれど、近所の本屋には入っておらず、未入手のまま過ぎてしまった。これまた岡本俊弥さんの書評を見て思い出し、ネットで購入、最近ようやく読み終わったというシロモノ。
 これは、まあ何というか実績十分のプロ作家が書いたSFファン創作みたいなものですね。大昔、学生時代のSF研究会の会員が、SFが大好きでSFを書きたいといって創作したのはいいけれど、それまで読んできたSFの知識が却って枠をはみ出すことを妨げている、ちょっと気恥ずかしさを感じてしまうタイプの作品を思い出す。
 高校生男子時代の主人公の初恋エピソードの後に、小惑星の地球衝突後に日本のシェルターで警備隊員としてボットに入り、不審なアーマーボット型侵入者と対峙する冒頭の掴みは十分で、エンターテインメントとしてはよくできていると思うけれど、現代SFの最先端を行く作品群からすると、主人公を取り囲む主要キャラクターが固定されるにつれ、だんだんとラノベ的な会話劇になっていくところに、贅沢な不満がある。
 ニール・スティーヴンソン『七人のイヴ』みたいに嫌うような作品ではないけれど。

 9月刊が2冊。

 西崎憲『本の幽霊』はナナロク社という小出版社から出たしゃれた装幀の新書版ハードカヴァー。途中に2葉、古い洋書からの挿絵がおそらく物語とは独立して挟まっている。白いオビも付いているが、背表紙に近い下の方にタイトルと作者名だけである。
 短編6編に「あとがき」を入れて110ページしかない。「ふゆのほん」のみ電子書籍で既刊のやや長い短篇であとの5編は本書初出だけれどすべて掌編。作者はあとがきで本に関する作品が多いと書いているが、確かに。
 冒頭の表題作は、古い海外SFファンなら誰でも経験がある英米古書店からのカタログ買いにまつわる掌編。この作者なので、相手は英国でモノは古い幻想小説だけど。
 「明るい冬の窓」は、知人のスターバックスで見た風景と彼の失恋話。強いフックを使わない村上春樹みたいだ。
 「ふゆのほん」は40ページの短篇。これは詩人が書いた手塚治虫の初期鉄腕アトムのエピソードにちなんだ物語を、街中で再現しながら歩こうという変わった読書会イベントに参加した時の語り手のエピソード。静けさとエキセントリックさが違和感なく漂う。
 「砂嘴の上の図書館」は、川の氾濫の後に出来た砂嘴の上に図書館を見つけた市長が図書館を訪れる話。奇想小説的掌編。
 「縦むすびのほどき方」は、おそらく関東にいる話し手が、次の読書会が京都誠光社で開かれるというので、一度は諦めたけれど結局新幹線に乗り、京都について読書会が始まるまでのエピソード。リアルな京都ものなので、なんとなく親しみが持てる。
 トリの「三田さん」は話者が歌の教室の講師をしている友人から聞いた、三田さんという女性受講者のちょっと変わったエピソード。
 全体に西崎憲らしい静かな作品が揃っている。

 柞刈湯葉『SF作家の地球旅行記』は巻末に書き下ろしという架空旅行記2編を含む、国内外のノンフィクション旅行記。もともとはブログとして書かれたものという。
 これを読んで柞刈湯葉が研究者を止めてプロの作家に転身していたことにようやく気がついた。
 柞刈湯葉の作風やいままでのエッセイから、この人も相当ヒネくれた旅行観の持ち主だろうな、とは思ったけれど基本的に旅行が習い性となっているヒトだった。今回は海外がカナダ、上海、ウラジオストック、モンゴルの4カ国だけだけれど、カナダでは国内をあちらこちら都市を移動するのでカナダだが、モンゴルは馬に揺られて4日間の旅をするのでウランバートルにも泊まるが、草原を行くのでモンゴルである。国内の方は伊豆大島を含めて秘境めぐりと云うよりは、作者の個人的な興味を優先させる旅になっている。
 デビューして10年くらいのSF作家に海外放浪癖のある人が多そうだけれど、柞刈湯葉は、自転車で日本一周したとか乗り鉄とかがあってまたちょっと違うタイプのようだ。バイクで島めぐりとかはとても楽しそうでうらやましい。
 架空旅行記の方では「南樺太編」が改変歴史ものでなかなかアブナい。

 10月刊もノンフィクションから。

 鈴木健『なめらかな社会とその敵 PICSY・分人民主主義・公正的社会契約論』はその書名が伴名練の短編集の表題作の元となった学術書。親本は2013年で、10年ぶりにちくま学芸文庫で出た。こちらは増補版になっており、補章(とは謳ってないが)「なめらかな社会への断章 2013-2022」が巻末に追加されている。
 著者は「はじめに」を「この複雑な世界を、複雑なまま生きることはできないのだろうか」の一文で開始。1975年生まれで、14歳の時はドイツ・デュッセルドルフで日本人学校にいて、1989年5月に修学旅行でベルリンの壁を通過して東ドイツにいったが、10月にテレビで壁が崩れたことを知った。でもその意味するところは日本の新聞で理解した。そしてその時に抱いた「この世界に境界が引かれていることへのナイーブな違和感・・・」というところまで読んだときは、ちょっと期待があった。ところが、それに続く壁/膜のアナロジーを生命現象に求めて、DNAを核とする細胞と細胞膜/その成り立ちのもとなる化学反応のネットワーク(網)を持ち出して、その核・膜・網を人間社会にあるシステムに対比することで、論を立てようとしたあたりからなんとなく違うんじゃないかなあ、という感想が湧いてきた。
 著者は慶応で物理を修め、東大の院で総合文化研究科で博士号を取っている、数理と人文の両科学分野に通じた秀才で、国内外の大学や研究機関の研究者たちとのネットワークも広く持つ、いわゆる学術エリートである。そんな研究者の一種の社会改良論があまりピンとこなくても当方に理解力が無いといえば、それだけなんだけれど、普通にわかる例えの道筋もピンとこないので、おそらくこの著者の考え方とは反りが合わないんだろう。
 ここでは第1章「生命から社会へ」の冒頭「1.1 複雑なまま生きる」の1ページ目からの例えを見てみよう。「この複雑な世界を複雑なまま生きることは、いかにして可能か、本書はこの問題を対象としている」と再び1行目に書いて、すぐ知人の部屋での雨漏りの話に移る。
 部屋の貸主は公的機関で、知人の父親ほどの担当が謝りに来る。知人はそんなことしてくれる必要も無いのにと思ったという。ここで著者は責任論を展開、責任の所在はどこにあるのかの広がりを示し、それがメンテ業者の担当の見落としが原因とすれば、その見落としの原因も無数に考えられ、もしかしたら親の遺伝によるものさえ考えられるとして、雨漏りの責任は関係者「全員に少しずつ原因と責任があるかも知れない、むしろそう考える方が自然であろう」と締めくくる。これはほとんどSF的な思考で、「雨漏りという単純な事件を考えただけでも、自分の知識や想像を超えたところで世界は動いている」という。これはレムの「捜査」や「枯草熱」を思わせる思考法ではなかろうか。
 行列と数式証明を駆使した新しい貨幣論やスーパーAIの助けを借りた無限分割投票権とか、完全なネットワークによる「なめらかな」人間社会への移行とか、文庫版の前書きで著者も云っているように、これは「もともと300年後の読者に向けて書かれたものであるから」SF的なアイデアで書かれていても不思議はないのだろう。当方が最初に持った感想は、「膜」を弱めるという表現があることから、これってエヴァンゲリオン?、であった。
 多分「(細胞)膜」のアナロジーをあまりにも重要視するあまり、カール・シュミットの政治の定義(敵/味方)をはじめとする西洋政治哲学で社会の成り立ちを割り切ろうとするところに違和感があるんだろうな。(なお、本書は理系の著作なので横書き、句読点はカンマ、ピリオドである)。
 ちなみに親本刊行当時の書評で山形浩生氏の云うには、「なめらかな社会」がこの本の考え通り実現したらそれはディストピアになるだろう、というものであった。たぶんSF読みもそう思うよ。

 タイトルを見てすぐには手が出なかった小川哲『君のクイズ』は、わずか10日で2刷になっていた。
 ストーリーは非常にシンプル。クイズショーに出た若いクイズマニアが語り手で、天才的クイズマンと言われる青年と対戦してイーブンとなり、最後の一問で問題が読みあげられ始める前に相手がボタンを押し正解されて負ける、というところから始まり、語り手ががその衝撃と悔しさから、そのシチュエーションをさまざまな面から考察していくという話。あらゆる推理の最後に、なぜ問題が読み上げられる前にボタンを押すことが出来たかの謎解きにたどり着く。
 語り手にはクイズがウェイ・オブ・ライフであり、語り手のクイズ観やクイズとは何かという考察とともにそれ以外の人生の出来事にも言及されるが、エンターテインメントとしてはやはり謎解きのドライブ感が勝っているようだ。

 藤井太洋『第二開国』は、著者の郷里奄美大島を舞台にした現代小説。
 多視点で進行するが、主要視点人物は、1991年にこの島に生まれ育ち、高校は鹿児島で大学は東京、就職先も東京の大手スーパーで仕事は食品バイヤーだったが、32歳の今年島に帰って地元スーパーで働きだした青年。これに対して副視点人物として設定されているのが公安関係の高級官僚のもとで活動する刑事や、リゾート開発の現場責任者となった開発団体側の女性など。
 物語はこのリゾート開発と豪華客船の来港をめぐって、青年が勤めるスーパーの社長や同僚、役所の同級生や飲み屋の先輩など、多くの人物が登場し、また最近島の対岸にある加計呂麻島に移り住んだ島の郷土史を調べる有能だが謎めいた青年や主人公が中学時代に恋心を抱いた同級生で早くに島を離れて外国暮らしをしていた女性も姿を現す。これに先ほどの副視点人物の関係者も登場するので、400ページの物語は賑やかである。
 その福視点人物の一人、高級官僚の下で島に来た刑事は、国際リゾート開発と豪華客船の来港に中国側の影を懸念して活動するのだが、地元県警の腕力自慢を連れての捜査は難航する。
 全体としてはこの作者らしく、悪役らしい悪役もおらず、明るい結末を迎えるので、ややサスペンスに欠ける感が残るけれど、大勢のキャラクターを次々と出し入れして混乱のない400ページなので、作者が書きたかったテーマの暖かさを思えばいい作品だったと考えるのが吉でしょう。

 ということで、11月に読んだ新刊はたったの2冊。

 イアン・マクドナルド『時ありて』は、150ページのハードカヴァーで出された、2018年発表のノヴェラ。オビに英国SF協会賞受賞とある。お値段も税抜き2000円と強気だが、ダストジャケットを外せば分かるようになかなか気合いの入った装幀だ。
 話の方は、古書ディーラーがタイトルにもなった表題の詩集を手に入れ、そこに挿まれた第2次大戦当時の手紙を読んだことで、時間をめぐる2人の青年の物語が駆動し始める・・・。
 この手のSFとしてはほぼ完璧な出来で、プロット的にはありふれていても、書きようでいくらでも興味深い作品を仕上げることが可能であることを証明した1作。LGBTQ時代の時間SFとしても多分1級の出来であろうと思われるので、そちら方面に興味のある方にもオススメです。
 全然違うけれど、子どもの頃見ていたTV番組『タイムトンネル』の2人を思い出した。もしかしたらそういう裏設定があったかも(ありません!)。

 最後は好調が続く柴田勝家『走馬灯のセトリは考えておいて』。6編収録の短編集。巻末の表題作が書き下ろしの中編。既発表作の内3編が再読。
 「オンライン福男」は再読。でも今回の方が楽しめた。コロナ禍での福男を目ざして大勢の男が走るあの行事をヴァーチャルに置き換えたのは普通の発想だけど、組立は面白い。 「クランツマンの秘仏」も再読、もしかしたら3読かも。作者の得意技がきちんと発揮された1作。何回読んでも面白い。さすが元祖「異常論文」。
 「絶滅の作法」は「ある日、地球上の生物はポンと絶滅したのだ」という1文で始まる、人間のいない地球での文化人類学SF。これも作者の本領がよく現れている。
 「火星環境下における宗教性原虫の適応と分布」も再読。これも一種の文化人類学「異常論文」で、作者はノリノリである。ただ最初に読んだときも思ったけれど、これをイスラム教でやるのはさすがにコワイよねえ。
 「姫日記」は、タイトルを見たときは何かと思ったが、中身は戦国時代の武将ゲームをまんま作品に仕立て、語り手は軍師として姫姿の毛利元就に仕えて、酷いバランスのプレイを繰り返す1編。広島の話なのでとってもよく分かって楽しかったが、これが作者のペンネームの由来とは。
 巻末書き下ろしの表題作は、いわゆる老いて死を覚悟した元ヴァーチャルアイドルの中の人(?)の想いを、ライフログを利用して再びアイドルとして再生する技術者が語るウェルメイドな1作。この作者の作風は、おなじヴァーチャルアイドルを扱った伴名練のグランギニョル趣味と違って、オーソドックスな人情味を醸していて率直に読める。
 ということでこの短編集も前回同様高く評価されるでしょう。


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