続・サンタロガ・バリア  (第240回)
津田文夫


 既に公開が終わったところも多いだろうけれど、最近映画を2本見たので、感想を書いておこう。

 1本目は『四畳半サマータイムマシンブルース』で、これはモリミーの書いたものを四畳半アニメのキャラでテンポも含めきっちり動かした1作。よくできてるナー、という以外云うことはない。まあ、未来人「もっさりくん」が主人公の目にあのように見えていると云うことは、四畳半世界の見え方は主人公の眼に張り付いている強烈なフィルターによるものだということが明らかにされているんだろうな。アジカンの挿入歌を聴いて気に入ったので、久しぶりにアジカンのシングルを買った。デビューから4枚目くらいはアルバムを買っていたんだが、その後は手が出なくなっていた。

 もう1本はブラピ主演の『ブレット・トレイン』。7月公開で主要映画館では上映終了していたんだけれど、地元の映画館に吹き替え版がかかったので見てみた。例によって予備知識なしで、SF映画をいっぱい見ているイマジニアンの会の人がオモシロイですよといっていたのを覚えているだけ。いきなり東京らしいところでブラピがスマホ片手に女の声の指示を受けているシーンだったけれど、違和感ありまくりで、典型的な「色眼鏡のラプソディー」スタイルを意識してやっていると見当が付いた。あとはジェットコースターで、皆殺しのコメディがヘンテコな新幹線列車内て展開する。まあ頭に?マークがいくつも浮かぶが映画はお構いなしに話が進むので、あっというまにエンディングへ。最後に顔を見せる指示役の女がサンドラ・ブロックだとはスタッフ・ロールを見るまで気がつかず、原作が『マリア・ビートル』で改めて驚く(未読です)。映画館にパンフレットが無かったので後でググったら、日本での撮影はなしとのこと、違和感があるのは当然だった。

 音楽の方は、定年後地元ホールの責任者をしている同期から、安くしておくから来てちょうだいと云われ聴きに行ったのが、宮川彬が率いるオクテット(宮川のピアノを入れたら9人だけど)のコンサート。どちらかというと親子向けのプログラムで、誘われなければスルーしただろうけれど、意外と面白かった。オクテットの編成はシューベルトと同じで弦楽5部にクラリネット・ファゴット・ホルン。
 暗くしたままの舞台で1曲目が始まった。「スミレの花咲く頃」変奏曲で、宝塚市で結成されたことにちなんだこの楽団のテーマ曲と云う。感心したのはホールの響きの良さも手伝って、まるで小編成のオーケストラを聴いているような充実感。宮川彬もこの響きで昔ここに来たことがあるのを思い出したと言っていた。パントマイムやコントを入れた楽曲紹介と演奏ではあるけれど、ブリテンの「パーセルの主題による変奏曲」をコント仕立てでソロからフルアンサンブルまで増やしていくパートは、ヴァイオリン1挺から始めてデュオ、トリオ、カルテットと弦楽5部が揃うまで主題が繰り返されて、改めてこの旋律の魅力を再認識させられた。あとはルロイ・アンダーソンに宇宙戦艦ヤマト・メドレーそれにビートルズといったところ。

 今回は目先を変えて、ノンフィクションから。

 筒井康隆『誰にもわかるハイデガー』が3月に文庫化されたとき思ったのが、そうか『存在と時間』を読んでみるか、というものだった。しばらくはそんなことも忘れて積ん読にしていたが、その後書庫代わりのボロアパートで親父が揃えていたさまざまなキリスト教関係を主とした宗教哲学関係の蔵書(プラトン・アリストテレスからシュヴァイツアーやティヤール・ド・シャルダンほか果てはチェスタトン著作集、日本版では西田や矢内原に「曲学阿世の徒」南原繁ほか果ては内村鑑三で新旧2セットある)の中から中公版『世界の名著 ハイデガー 存在と時間』を発見。箱から出してみると昭和46年10月初版、なんと栞ヒモがクチャクチャな上に、昭和51年5月のハイデガー死亡記事の新聞切り抜きおよび桑木務と佐藤慶二の追悼エッセイの切り抜きが挿んであった。親父は1917年生まれなので、50代半ばで『存在と時間』を読み、それなりに感銘を受けたので記事を切り抜いたのであろう。当方があの世にいったら親父の感想を聞いてみよう。
 実際に読み始めたのは7月半ばからで、冒頭の長い解説を読んだ後、本文を読むにあたって決めたのは1日30分以内、眠くなったらすぐに読むのを止めるというもの。もはや60代も後半で、小さな活字が読みにくい上すぐに集中力が切れるのでその程度でしか読み進めない。で、読み終わったのが10月の初めだったけど、さすがに前回に間に合うように感想文を書くことは出来なかった。
 まあ、内容については知ってる人は知ってるし、そうじゃない人にはドーデモいいだろうし、当方程度の頭では、これが未完の論考だったと云うぐらいで要約も出来ないが、基本的に「存在」も「時間」も通常使われているのと違うハイデガー用語であり、この書はハイデガーが自分で定義した「存在」を同じく自分が定義したさまざまな概念用語(その代表が「現存在」)で語り尽くしたものなので、一読何を云っているのか分からない、というシロモノである。とはいえハイデガーがこの長大な自らの議論を常に自己参照しながら進めていくその思考力にはすさまじいモノが感じられて、確かにこりゃ哲学しているわと思わせられる。
 そのわからなさは、独自概念用語が使われていない部分でも相当なもので、たとえばフーンと思った代表的なものに、第1編第4章第25節の末尾の一文「しかしながら人間の「実体」は、霊魂と肉体の綜合としての精神ではなく、実存なのである。」(本書226頁、「実体」と「実存」に強調点あり)がある。まあ「実体」と「実存」が怪しいわけで、この2語は読み手に確たる理解(もしくは思い込み)がないと分からない。あと独自概念用語で日常生活の世界を語るのでそのギャップが甚だしい。
 これだけ大真面目な独自定義の概念操作を繰り広げている中で、ハイデガーは冗談みたいなネタばらしをやってのける。その代表的なものが、「現存在」とは「気遣い」であるというヤツ。初めて読む人間には強面な漢字が当てられている独自概念用語のなかで「気遣い」という日常用語がどうもしっくりしない。
 で、ずうっと読んでいると第1編第6章第42節にギリシャ神話集から「クーラの寓話」の引用が出てくる。いい加減な要約をすると、

「クーラ(「気遣い」という概念が神様化したもの)は、ある日粘土を拾って何の気なしに人形(ひとがた)をつくり、通りがかりのユピテルに精神を入れてくれと頼む、そして彼女が自分名前を人形につけようとしたら、ユピテルが名前にしろという、そこへ大地の神が割って入って、オレなんだからオレにも権利があるという、最終的に時間の神に判断を仰いだが、彼は、ユピテルはそれが死んだら精神を受け取れ、大地の神は体を受け取れ、そしてそれが生きてる間はクーラものだという。そして最後に、人形呼び名については「土(フムス)」からつくられたので「ホモ」と呼ぶがいい、と審判を下す」(アンダーラインと「の」に強調をほどこした理由はこの感想文の最後にあります)。

 ちなみに、一応、講談社学術文庫版『ギリシャ神話集』で第220挿話「クーラ」を確認したんだけれど、面白いことにハイデガーが参照(孫引き?)した論文では、この文庫本で「欠文」とされている部分も復元されていた。この文庫版の訳者たちが使った校訂済原書とハイデガーが参照した論文の書き手が見た原書は明らかに違うと云うことがわかる。
 で、当方が何を思ったかというと、このエピソード(まさに「(現)存在」と「時間」の話だ)を巻頭にエピグラムとして載せてくれていたら、これほど悩まなくて済んだかもということですね。
 この調子でいくとダラダラと続きそうなので、とりあえずの感想を箇条書きすると、

  1. これはドイツ(語)ローカルな著作である。
  2. これはドイツ語での思索行為/哲学の見本でもある。
  3. これは19世紀末から20世初頭に発達した自然科学や人文科学に対して(ドイツ)哲学(ハイデガーによれば解釈学)の優位を再確認した著作である。なお、ハイデガーは数学や物理も学んでおり、相対性理論の骨子は理解していたようだ(量子論に言及していたかは知らない)。
  4. 1920年代ドイツの文化的復興期にあって30代後半のハイデガーは気力充実、自信満々だった(美少女ハナ・アーレントのお陰という話もある?)。ちなみに『存在と時間』は映画『メトロポリス』の上映と同じ年、1927年に発刊された。
  5. 眉村卓のエッセイで書かれていた、サラリーマンの抱えていた重圧が70年代以降失われているのではないかという感覚の延長でいえば、ハイデガーの議論から受け取れる重荷は、もはや当方ごときには感知できなくなっている可能性がある。
  6. ここ数十年の日本の学知では西洋哲学思想に対して「使えるじゃん思考」で対応する傾向があるようだ。

 6は直接の感想ではないが、しばらく前に『暇と退屈の倫理学』とかいう文庫本を読んでパスカルとハイデガーの使い方に、「いいのかこんなんで?」と思ったり、「クーラの寓話」を通じて看護の現象学みたいな話が大真面目に議論されているのを知って思ったことだけど、まあ西洋哲学思想に限らず洋物に関しては昔からそういう扱いだったといえるかも(和魂洋才? 違うか)。
 なお、『存在と時間』でいろいろググっていたら、1~4の感想の理由をちゃんと説明してくれているブログ「古書比良木屋のブログ ほんまでっか?ハイデッガー!」があったのでビックリ。このブログの主は、ハイデガーが問うた「存在」の日本語訳を全集版の訳である「有」と捉え、「現存在」とは「所有」のことであると喝破して曰く、
 「・・・ゆえに、ハイデガーの言う「存在とは何か」は、日本語なら一行で済む。
 存在とは「の」である 」んだそうな。ハイデガーのフォロワー的なものが多い中で、ここまでドライに読まれてしまうとハイデガーも形無しだ。

 筒井康隆『誰にもわかるハイデガー』の文庫版まえがきによると、これは1990年の講演を文庫化したものとのことで、本文冒頭では、1988年に入院したときに1ヶ月かけて『存在と時間』を読んだとある。筒井康隆は1934年生まれなので、54歳で集中して読んだらしい。親父が読んだときと同じくらいの年齢だなあ。それはさておき。
 目次の後に「ハイデガーの基本用語」という一覧があって、講演の前半が第1講、後半が第2講と分けられ、1講では「現存在」や「世界内存在」など17項目、2講では「時間性」、「時間内存在」など25項目が取り上げられている。元の講演は多分90分くらいで、活字に起こしても文庫35字×12行で90ページ足らずという分量の中で、筒井はこれらの項目に言及して聴衆に分かるように説明している。もちろん筒井としても一読では何を云っているのか分からないものがあることもちゃんと付け加えている。
 目次を見てみると、第1講が、1なぜハイデガーか、2「現存在」ってどんな存在?、3実存とは可能性のこと、第2講が、4死を忘れるための空談(おしゃべり)、5「時間」とは何か?、6現代に生きるハイデガー、となっていて、先に『存在と時間』を読んだお陰で筒井康隆の説明がとてもよく分かる。なかでも感心したのが、「実存とは可能性のこと」で、これは筒井が若いときにフッサールを読んでいた(小松左京も読んでいたと云うから、当時はフッサールを読む大学生がそれなりにいたらしい)ことで、わりと自信を持った云い方をしている。となれば、ハイデガーの云う人間の「実体」は「可能性」と云うことになるわけで、それはそれでひとつの「読み」が成立するかも知れない。まあ、人間に「実体」なるものがあるとするかは別として。
 で、この文庫には大澤真幸による50ページにわたる解説が付いている。これって本体は新約聖書に基づくキリスト教論なんだよね。要は、キリスト復活のエピソードはキリストの死の衝撃を弱めているという独自解釈、ハイデガーが書いた「現存在」が聞く「良心」の声の出所を「神」と読み替え、ハイデガーが「死」の絶対的単独性を強調したにもかかわらず、それ故の連帯の可能性をムリヤリ論じてしまう。まあ面白いんだけれど、説得はされんわねえ。

 ノンフィクションをもう1冊。

 イターシャ・L・ウォマック『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』フィルムアート社8月刊。なんでこんなものを読む気になったのか、よくわからないけれど、アマゾンで何かを注文したときにオススメに挙がっていてポチったようだ。
 『SFマガジン』12月号で丸屋九兵衛が本書を紹介していたけれど(関係ないけど「ヴォネガット特集」のエッセイでヴォネガットとの出会いのきっかけが三原順『はみだしっ子』だった人が2人もいた)、これはいわゆるアメリカのサイファイ文化は黒人のもの(カルチャー)でもいいんだという視点を獲得した若い世代が、そのルーツを60年代70年代から掘り起こして解説したもの。日本でいえば新書のような書きっぷりである。
 著者は小学校4年生の時、ハロウィンでレイア姫になったという思い出から始めている。シカゴで生まれ育ったというから、親世代にもコンプレックスはもはやなかったのかもしれない。スターウォーズは黒人を主要脇役のヒーロータイプにして登場させた。肌の色に関係なくサイファイが大好きな子どもは、それが黒人だったらもっと良かったのにと思い続けていたらしい。著者が生まれる前にはすでにサイファイに係わるジャズとファンクの音楽ジャンルに黒人のヒーローがいたし、SF界には例外的とはいえディレイニーがいてその後にバトラーが出てきていた。もちろんスタートレックは60年代のサイファイの代表であり、その人種的多彩さは当時にあっても目新しかった。そしてそれは地下水脈か地上に開放されるようにしてこの半世紀のうちにさまざまな新しい黒人文化へと花開いた。いわく「アフロフューチャリズム」である。
 この本の中で、ウンネディ・オコラフォーがどれほど高く評価されているかを知ってちょっと感心したけれど、確かに著者のような視点からはオコラフォーは頼もしいのかも知れない。オバマ大統領時代に書かれたこの書物は晴れやかな気分に包まれていて、その高揚感は読者にも伝わってくる。

 ではフィクションの方。

 小浜徹也・高塚葉月・笠原沙耶香編『GENESIS 創元日本SFアンソロジー この光が落ちないように』は、第13回創元SF短編賞受賞作を含む6編を収録。なお編者によると、このアンソロジーは今回で終了し、あとは総合文芸誌『紙魚の手帳』のSF特集号の巻に引き継がれるとのこと。ちょっと残念。
 八島游舷「応信せよ尊勝寺」はシリーズ第2作かと思ったら、「天駆せよ法勝寺〔長編版〕序章」と紹介されているように、現在執筆中の長編の冒頭部分。そのせいか「佛理学」が前面に出てきて、この作品世界の成り立ちと共にその効用が分かるようなストーリーが用意されている。出だしの舞台が時々観光に行く尾道なので、ちょっとニヤけてしまった。もっとも話の方は新華厳宗の西海寺でイジメに遭っている名も無い童子の成長から始まって、「六勝寺計画」という佛理学による打ち上げの最初となる「尊勝寺」の打ち上げの顛末までが語られる。デビュー作よりもやや重い感じがある。
 宮澤伊織「【家の外なくしてみた】」は「ときときチャンネル#3」と副題があるようにシリーズ3作目。動画配信が趣味の語り手が、彼女の同居人でマッドな発明をする女性科学者の新発明を紹介して、毎回酷い目に遭うシリーズ。今回は「観測者の周囲の環境を元に自動再生するアルゴリズム」ということで、家の外は全部家の続き(「四畳半」ではない)となってしまい、2人がそこをうろつく話。毎回よう考えるなというところ。
 初めて読む作家、菊石まれほの表題作は、戦争が止められない人類が戦争を止めるためにつくり出したものがいる地下世界での争いの話。設定が複雑な上に登場人物が多く、人間なのかどうかも分からない柔らかい角のある少年の一人称からは、人間と人間でないものの区別が付きにくいせいもあって、最終的に父を失った人間の少女と新世界を目指す結末もなんとなく分かりにくい。多分短篇としては詰め込みすぎなんだと思う。
 帰ってきた水見稜「星から来た宴」は、舞台が前作の火星から土星のタイタンの軌道上にある、外宇宙からの信号を観測する電波望遠鏡搭載探査機になっている。探査機にいる語り手の男とタイタンの地表近くの基地にいる女性が主な登場人物だが、彼女とは昔技術学校のオーケストラで一緒だったというエピソードが紹介されているように、ここでも音楽が多用されている。SFとしての仕掛けは消滅したベテルギウスからの電波を捉えることにあるが、テーマは音楽の方に重きがあるようだ。
 空木春宵「さよならも言えない」は、ある星系に進出した人類社会が社会の安定化を目指したファッション・スコア(装いの適正さを点数化したもの)を採用しているという設定。この作者らしく体制側から見た規格外の者が、体制側の人間に影響を及ぼした場合の個人の運命を描いている。SF的空想性の中で自由/反体制を考察するストーリーはヘヴィだけれど、物語運びには魅力がある。
 最後は短編賞受賞作、笹原千波「風になるにはまだ」。酉島伝法の選評に「仮想世界のデジタル移民に肉体感覚を貸すアルバイトをしている若い「あたし」が、元アパレルデザイナーでいまはデジタル移民となった楢山小春に依頼され、楢山の学生時代の集まりに参加する」と、分かりやすく要約されており、また酉島伝法が云うように設定だけだとSF的な目新しさに欠けるように見えるが、この作品が評価されている理由は、その若い世代の感覚を描いた文学性にある。おそらくこの作品は、いわゆる文芸誌のコンテストに応募されていても一定の評価が与えられるであろうと見当される。淡泊といえば淡泊ではあるけれど、それがSFの子供っぽさを消しているともいえる。

 編者の岡本俊弥さんからいただいたのが、岡本俊弥編『眉村卓の異世界物語 トリビュート作品集』(カバー付)。
 岡本さんの編集後記によれば、先に出た『眉村卓の異世界通信』がインプレス社の「ネクパブPODアワード2022」優秀賞を受賞し、賞金も出たことで、当初予算の関係で諦めた眉村卓トリビュート作品集を出すことが可能になり、本書が実現したとのこと。見るべき人は見ているのですね。
 収録作を一覧すると、
 眉村卓「じきに、こけるよ」再読。晩年の作風がよく分かる1作。
 芦辺拓「タク先生の不思議な放送――「メトロポリスの少年探偵」序章」チャチャヤングでの眉村卓にはまだ若すぎてすれ違った経験をもとにしたフィクション。拓/卓に繋ががるのかな。
 北野勇作「奇妙な妻と娘の断片」は眉村作品にちなんだタイトルのもとに集められた100字小説。なかなかコワい。
 岡本俊弥「時の養成所【完全版】」再読でいいのかな。こちらは作者も云うように眉村作品のタイトル「養成所教官」に因むオマージュ作。
 藤野恵美「あの頃、私は週に一本の作品を書くのも大変だったのに、眉村先生は一日一話を書いていて、本当にすごいと思った」は、学生時代の作者から見た先生としての眉村卓を描いたショートショート。
 雫石鉄也「残り火は消えず」は、古希を迎えた男が、昔なじみだったバーを見つけてなかに入ると、現役時代の仕事の物語へ移る。みごとにサラリーマン小説家と思いきや、司政官シリーズ『消滅の光輪』を意識したストーリー作品であると作者解説にある。確かに眉村作品を髣髴とさせる。
 高井信「ファン二態」は眉村ショートショートに思いを馳せた、エッセイ兼ショートショート。
 管浩江「夜陰譚」は既発表作の再録。周囲の女性たちに爪弾きにされる女性の想いをホラータッチで描く。作者あとがきによると眉村卓の影響が濃い作品とのこと。
 竹本健治原作・ネーム、河内実加作画「SF作家パーティ殺人事件」は3ページで落とすギャグ・マンガ。
 竹本健治「眉村さんへ」は、若き日1編だけチャチャヤングに投稿したショートショートが眉村卓に読まれたことにまつわる短いエッセイ。その音声はいまでもYoutubeで聴けるとのこと。
 椎原悠介「ねらわれた学園 後日譚」は、台湾で学生時代の友人リン・チーミンに会いに行く関耕児の物語。その学生時代に、未来人によって学校が支配されるという事件に巻きこまれたと回想が入る。残念ながら当方に原作の記憶がないので、オマージュとして引用されるものが分からない。
 深田亨「雪の降る世のお客様」はタイトルの叙情性よりずっとSFとして力が感じられる1作。ずっと同じ落語をやり続けるロボットというアイデアも生きている。
 大熊宏俊「新・夢まかせ」は本歌取りが上手くいって、楽しめる1作。
 石坪光司「幻影の手品師」は、再就職が決まらないサラリーマンが公園で手品師の業をみて気にするところから始まる、いかにも眉村トリビュートらしいSF。
 ちょっと驚いたのは村上知子「丸池の畔で」で、てっきり父・眉村卓にまつわる想い出のエッセイかと思ったら、老齢の父と一緒にイギリス旅行したときのエピソードから紡いだ幻想小説だった。よくできてるなあ。
 トリを飾る堀晃「インサイダーSFはいかに生まれたか」。これは冒頭の説明によると、2022年7月、大阪大学経済学部に眉村卓文庫が誕生し、その寄託式の記念講演を村上さんに頼まれて講演用に作成した資料を元に、当日の講演では十分に言えなかったことを再整理して本格的な眉村SF論としたもの。とても力の入った論考になっていて、あとがきを含め参考になります。
 こうしてみると小説作品の多くに眉村卓作品からの影響が直接反映されていて、そのこと自体に眉村卓を近しく感じている作者たちの想いが窺われる。

 なんでこんなものがいまごろ出るのか、その経緯の方を知りたくなるのが、ロバート・A・ハインライン『明日をこえて』。高橋良平さんの解説にあるように、白人優位主義の『アスタウンディング』誌編集長キャンベルが有望新人作家ハインラインに黄禍論に基づいたストーリーを提案して書かせたもの。日米開戦前の1940年1月号から3回連載でに連載されたとのこと。こんなもので長編デビューさせられたハインラインも災難だったろうけれど、長い話を書く練習にはなったかも。単行本が戦後になったのもわかる気がする。
 話の方は、最終戦争に負けたアメリカが黄色人種パンアジア人の帝国の支配下に入っていて、唯一残ったアメリカ軍の新兵器開発研究所に、主人公の少佐が研究所の状況を何も知らずに着任するところから始まるんだけど、いま読むとまるで異世界転生ものように見える。元広告屋の主人公がエセ宗教を思いついてトントン拍子で帝国の支配を小さなところから破っていく展開と、新兵器の応用でほぼ無敵状態というのがそう思わせるのだろう。 長編におけるハインライン節の始まりという意味で、読んで確認するのもいいだろう。

 林譲治『工作艦明石の孤独2』は、シリーズ2作目と云うことで、ついに異星人に捕らわれた工作艦明石から派遣されたメンバーの1人と異星人とのファースト・コンタクトが開始された。いかにもこの作者らしい段階を踏んだ手順がまどろこしくも面白い。一方、ワープ・ネットワークから孤立した工作艦明石の母星系では、地道な対応策が進められる一方で、異星人がいる星系への無人機探査が始まろうとしている・・・。地味といえば地味な中継ぎ編なので、次巻での急展開を期待。

 今回一番楽しく読ませてもらったのが、アヴラム・デイヴィッドスン『不死鳥と鏡』(論創海外ミステリ288)。なので、300ページ足らずの薄さで3200円という1ページ10円以上という定価でも文句は云うまい。さすが殊能将之がデイヴィッドスンの最高傑作としただけのことはある1冊だ。
 話は、古代ナポリの地下水路で、マンティコアの群れに追いかけられていた魔術師ヴァージル(ヴェルギリウス)が、公爵夫人の従者に助けられ、行方不明者のいるところが分かるという魔鏡の製作を夫人から依頼されるが、断ったところが色仕掛けに陥落、魔術師としての大事な部分を夫人に握られ、製作不可能とされる魔鏡を自分が構える工房で造る羽目になる・・・というのがプロローグ。
 この魔鏡の製作に必要な原料のいくつかは遠くの魔境にあり、そこへ行く方法も含めてヴァージルの冒険行が展開されるのだけれど、これがムチャクチャ濃い道具立てのファンタジーになっていて読んでいる最中は感心頻り、その面白さはSFに近い。さすがに大団円は物語の解決のため、ややオーソドックスではあるけれど、たとえ内容は忘れても面白かったなー、という感想だけは長続きしそうな作品に仕上がっている。
 タイトルの「不死鳥」が何かは読んでからのお楽しみ。

 楽しめるという点ではよくできているのが、ペ・ミョンフン『タワー』。2009年刊の作者の長編デビュー作に再刊に合わせて手を入れたと2020年の新版著者あとがきにある。1978年生まれ、2005年韓国の科学小説の賞を取ってデビューというから、韓国のSF作家としては古株らしい。
 韓国小説を精力的に訳している斎藤真理子の訳者あとがきには、「本書はペ・ミョンフンの連作小説集『タワー』(文学と知性社、2020年)の全訳である」から始まって手際よく作家・作品紹介から本書の設定と掲載作の要約、そして意図するところなどがまとめられていて、なんにも云うことがないのだが、一応書いておこう。
 訳者曰く、「『タワー』の舞台は674階建て、人口50万人におよぶ地上最大の巨大摩天楼「ビーンスターク」である」明快ですね。で、それ自体が領土となっている独立国家になっていて、「21階までは外国人も自由に出入りできる非武装地帯で、その上の22階から25階までを「警備室」と呼ばれる軍隊が占拠し、そこに国境検問所もある」そして「上層階に行くほど富裕層の居住者が増えていく」というもの。
 付録に収められた掌編3編が収録作のスピンオフという以外は各エピソードに直接の関連がないので、いわゆるオムニバス連作短編集かな。なんとなくシルヴァーバーグの『内側の世界』が思い出されるが、何にも覚えてないので、比較は出来ませんね。
 冒頭の「東方の三博士――犬入りバージョン」は、付け届けに使われる高級酒がタワーの中をどう廻るのかを見ればタワーの権力構造がわかるのではと権力研究所の教授に言われ、調査を始めた3人のパート身分の若手博士たちが見たものは・・・。ユーモラスだけれどかなりきついサタイアで始まる。
 「自然礼賛」も市長とエレベーター業者の癒着という話題から入るものの、話の本体は、もとは政治批判的な作品を書いていたが圧力に負け、低層階恐怖症でタワーから出たこともないのに自然礼賛的作品を書いているKという作家の話。彼に付く編集者がDだったり、Kの書く作中作がおかしかったり、昔Kがスペインの田舎を見るために使っていたロボットのエピソードが妙に叙情的だったり、サタイアではあるもののシンミリした話になっている。
 「タクラマカン配達事故」は、長い間ほおって置かれた昔の恋人の配達物がある日タワーに住む女に届き、女が彼の消息を調べると、彼は民間防衛軍に入っていたが、つい最近敵機によりタクラマカン砂漠で撃墜されたという・・・。タワーでの話とタクラマカンで死にかけている男の話が交互に語られる。グーグル・アース的なアイデアが駆使されて一応ハッピーエンド、なのかな。
 「エレベーター機動演習」はエレベーター(高・中・低速があり、すべて有料)の路線図みている交通公務員の語りで、エレベーター輸送関係者の垂直派と各階フロアを運送する組合の水平派の対立、またタワー国家と対立しICBMで脅かすコスモマフィアとの戦争状態などが紹介されて、タワーの陸軍演習としてタイトルの演習が展開される。この作者はボヤキ芸がウマい。
 「広場の阿弥陀仏」は義妹との手紙のやり取りという形で、警備会社の騎兵隊に入った男が、なぜか象(名前がアミタブ)の担当者になって反戦デモ制圧の顛末を語る。軍隊の次は警備隊の話で、こちらもボヤキが多いという点で雰囲気は似ている。
 最後の「シャリーアにかなうもの」は、コスモマフィアとの戦争がタワー側に危機的状況をもたらしていることを心配する情報省職員と、タワーに長期潜伏しているコスモマフィア側のムスリム破壊工作員の話。作者の楽天的なスタイルの代表的な作品になっている。
 付録の掌編も面白い。

 最近は翻訳文庫も高くて、メアリ・ロビネット・コワル『無情の月』上・下は、税込みで、3000円を超える。まあページ数は上・下併せると900ページを超えるのでページ当たりのコストパフォーマンスはハードカヴァーよりは良いけれど。
 しかしこの作品については悪口しか出てこないのは我ながらイヤになる。「レディ・アストロノート」シリーズ3作目は、主人公が変わり、これまでのエルマから同期の第1世代女性宇宙飛行士カンザス州(設定ではアメリカの首都がある)知事夫人ニコール・ウォーギンになった。
 なんだけれど、夫人の1人称で語られる物語は、宇宙開発反対派が月とカンザス州で行う過激な破壊工作から生じるサスペンスと、夫人の人間関係のメロドラマに、それに伴う延々と続く夫人のグチで900ページが埋まっている。もちろん宇宙船の訓練や事故、月が舞台になることで月ならではのさまざまなシチュエーションが描かれているものの、それは舞台背景に過ぎないのだ。これはSFというより政治サスペンス小説じゃないのかねえ。リーダビリティに不足はないので読めてしまうけれど。

 『あなたのための物語』以来の強烈な長編となったのが、長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』。読んでいる最中はスゲェなあと思いながら、実はあんまりページをめくりたくなかったりもした。
 話の方は、近未来、プロの若手コンテンポラリー・ダンサーが事故で片足を失ってAI義足をつけてリハビリするところから始まる。彼の父親はコンテンポラリー・ダンサーとして高名を得た人間で、息子の方は父親に憧れて自身コンテンポラリー・ダンサーとして身を立てようとしていたところだった。70代に入った父はいまだ現役ダンサーとして家庭より自分の道を優先するタイプの男。ダンサーとしての途を絶たれるかと思った息子だが、ダンスカンパニーの仲間だった男からAIと踊る人間のダンサーで舞台を作りたいと持ちかけられ、希望を持ってリハビリに打ち込み始めたところで、父は自動車事故を起こし母を死なせてしまった・・・。
 と、SFとしてのガジェットがとても地味なのだけれど、作者はそんなことはおかまいなしにすさまじい集中力で物語を紡ぎ上げていく。コンテンポラリー・ダンスの描写、AIの可能性、生活苦とひとりでプライドの高い老人を介護するという重圧のもと、AIとの付き合いを進めながら新しいコンテンポラリーダンスへと向かう息子の想い。ヘヴィを地で行く造りだが、ヴォネガットいうところのシンデレラ・パターンの応用で、ダンスそのものと恋のはじまりによる緊張の弛緩が読み手をホッとさせる(もちろん次の谷は深い)。
 それでも読んだ後で、これはアナログ・ハックの発展型なのかも知れないな、という感想が湧く。前にも書いたけれど、人間はことばを現実と取り違えるので、それは作家が利用すべき最大のリソースだろうと思う。長谷敏司はかなり意識的にそれができる作家なんだろう。
 出版社側は、賞取りレースの本命として、今これを出してきたと見当される。まあ、正解でしょう。

 前作が面白かったアーカディ・マーティーン『平和という名の廃墟』上・下は、前作よりもテーマに沿ってきっちりと纏められた1作。
 前作の主人公、帝国テイクスカアランに派遣されて大活躍したヒロイン、ドズマーレが、故郷である帝国外の宇宙都市ルスエルに帰ったところから始まる。ヒロインはルスエルの指導的な評議会員の間で、さまざまな駆け引きに巻きこまれるが、本書は、ヒロイン以外にテイクスカアランで案内役をしたスリー・シーグラス、亡くなった前皇帝の孫エイト・アンチドートにエイリアンの侵略に対応する帝国艦隊司令長官ナイン・ハイビスカスの計4人の視点で語られる物語になっている。なお、前皇帝の孫だけが男で、あとは女である。
 スペースオペラとしては、戦いの相手であるエイリアンとのファースト・コンタクトが主たる物語の筋だけれど、4人のメイン・キャラクターは常に駆け引きを強いられており、ドズマーレはエイリアンとはもちろん、母国ルスエルの有力者や友人/恋人であるはずのスリー・シーグラス、帝国艦隊司令長官とも駆け引きしているし、スリー・シーグラスは愛するドズマーレ同様エイリアンや艦隊司令長官そして帝国と駆け引きし、前皇帝の孫は帝国政府の高官たちと駆け引きし、現皇帝とも駆け引きする。そして帝国艦隊司令長官は率いる各軍団の長と駆け引きし、間接的にエイリアンやテイクスカアラン政府と駆け引きしている。
 すなわちこの物語の大半は登場人物とエイリアンの駆け引きで埋められており、その駆け引きの状況とそれがもたらす結果、その結果が呼び寄せる次の駆け引きというふうに構成されているので、読んでる間のサスペンスが持続する。もちろんエンターテインメントであるので、大団円においてはあらゆる駆け引きが結果の成就によって停止されるが、その時点での弛緩を除けばほぼ作者の目論見は達成されていると思われる。
 アンシラリー・シリーズのアン・レッキー、マーダー・ボットのマーサ・ウェルズにシリーズ名は知らないベッキー・チェンバーズ、それにこのマーティ-ンを加えたあたりが、面白いスペースオペラを書く代表的女性SF作家(あー、ユーン・ハ・リーは元女性か)だけど、チャンバラはしないですね。


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