内 輪   第385回

大野万紀


SFファン交流会「古本と横田順彌を語ろう!」

 9月のSFファン交流会は9月24日(土)に、「古本と横田順彌を語ろう!」と題してオンラインで開催されました。出演は、北原尚彦さん(作家)、日下三蔵さん(アンソロジスト)。
 写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、日下三蔵さん、SFファン交流会の根本さん、みいめさん、北原尚彦さんです。
 まず日下さんがまとめた『平成古書奇談』の話から。
 横田さんが亡くなって日下さんが北原さんらと蔵書整理に入ったとき、最後に雑誌が残った。捨ててもいいものか判別したところ、「文芸ポスト」に載った古本の話がどこにもまとまっていないので1冊にまとめ、筑摩文庫から出してもらうことになった。それが『平成古書奇談』だということです。北原さんも古書の整理が大変だったと言います。わかるものもあったが、わからないものも多く、「文芸ポスト」も10年くらい前に出た『古書狩り』に入っていたのではと思ったら、実は未収録だったとのこと。
 内容について日下さんは、「古本あるある」な話については、実際に横田さんが経験したことだと思われると。北原さんも、登場人物は若いころの横田さんに違いなく、登場するのはまさに昭和の男女で、途中で古典SF研究会の話が出てきたりするとのことでした。
 北原さんが言うには、われわれが古典SFに目覚めたのは『日本SFこてん古典』が原点であり、そのとりこになった。横田さんは自分の価値観で古本の評価を行い、古典SFというジャンルを一人で作り上げた。またまくらには本を手に入れる時のぼやき節があり、そこに人気があったとのこと。
 日下さんからも、横田さんの紹介がとても面白そうで、実際にその古本を入手して見るとつまらなかったということがよくあった。落研出身ということもあるかも知れないが横田さんは紹介がすごくうまい。ハチャハチャも読んでいたが、すごいと思ったのは『日本SFこてん古典』で、これはハチャハチャだけの人じゃないと思っていたら、その後明治ものが出た、という話があり、そこから横田さんが作っていたファンジン『SF倶楽部』の話や、お二人も参加されていた古典SF研の話、そして明治ものの話へと広がっていきます。
 横田さんは押川春浪の天狗倶楽部を主人公にした作品を書き始めます。『火星人類の逆襲』から3部作になる予定でしたが2作しか出なかった。3作目は『タイムマシン』を下敷きにした作品になる予定だたとのこと。日下さんは『火星人類』を何とかまた本にしたいとおっしゃいます。それは横田さんのユートピアだったと。
 北原さんは横田さんが実に知識の豊富な人で、ほんの1行の背後に膨大な知識があり、それらを出し惜しみせず、しかも資料を見ないでほとんど記憶されていて話してくれたとのことでした。
 2次会は横田さんと面識があった人たちも顔出しして参加。色々と貴重なお話が聞けました。ぼくにも降られたので、あの「朝だ、雨だ、浅田飴だ!」というセリフが雨の朝には必ず頭の中をグルグルする。あれってSFファンの呪いじゃないのかという話をしました。そういう人は多いみたいですね。
 次回のSFファン交流会は10月16日(日)夜に京都SFフェスティバルの合宿企画として小浜徹也さんをゲストに開催されるそうです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『三体X 観想之宙』 宝樹(バオシュー) 早川書房

 劉慈欣《三体》の著者公認二次創作(ファン・フィクション)である。最初にこれをネットにアップした時、宝樹はまだアマチュアで熱心な《三体》ファンに過ぎなかったが、たちまち評判を呼び、公認されて出版の運びとなったものだ。それだけ才能があったということだろう。ぼくは翻訳された宝樹の作品が大好きで、とりわけ歴史ものや時間ものが好きなのだが、本書でもその才能が生きている。ただここで歴史というのは《三体》世界の歴史ということになる。
 本書は《三体》三部作の中でも特に『三体Ⅲ 死神永生』を中心として、そこで明確には描かれなかった細部の謎解きや、実際には書かれていないけれど、もしかしたらそうだったかも知れない隠された物語を描いていく。訳者後書きにあるように、続編や外伝というよりも、あり得たかも知れない並行世界の《三体》なのである。ちなみに、その「あり得たかも知れない」隠された物語というのが圧巻で、本書をオリジナリティのある壮大な本格SFにしているのだ。
 というわけで、《三体》を読んでいない人には意味がない小説である。そういう人はまず《三体》を読んでから手に取って欲しい。一応巻末に『死神永生』のあらすじが収録されているが、ストーリーの流れはそれでわかるものの、本書で描かれているような細かいネタは実際に読んでいないとわからない。というか読んでいても忘れているかも知れない(ぼくがそうだった! えっ、そんな話あったっけ?と思って読み直すはめになった)。
 もちろんファン・フィクションとしてのくすぐりは、過去のSFやアニメ、そして劉慈欣自身の他の作品への言及やパロディという形でたっぷりと含まれており、ファンにはたまらない。でも中にはちょっとやりすぎと感じる人もいるだろう。
 本書は大きく3つの章に分かれ、その後に短い終章(コーダ)と、コーダ以後の章がある。主人公は『死神永生』で脳だけの存在になって三体人の所へ送られた雲天明(ユン・ティエンミン)。第1部と第2部で彼は惑星プラネット・ブルーにいる。それは彼が大学の同級生だった女性、程心(チェン・シン)にプレゼントした惑星である。だが彼の隣にいるのは程心ではなく、程心の親友であり彼女の会社のかけがえのないパートナーだった美女、艾AA(アイ・エイエイ)。ちょっとした偶然により、彼は程心と別れ別れになってしまったのだ。この惑星に二人っきりで残された雲天明と艾AAは、これまで語られなかった過去の驚くべき事実について話始める……。
 意外性があってとても面白いのだが、やはり小説というよりはオタクのファン創作である。特にこの第1部ではストーリーらしいストーリーはほとんどなくて、天明とAAのラブラブっぷりと、その会話による過去の謎解きに終始している。それも悪くはないのだが、ぼくには小説を読んでいるというより、京フェスの合宿で頭のいい人(例えば小林泰三さんとか)が話すSFバカ話、あれはこういうことなんや、きっとこうなんやで、とか言うのをうなずきながら聞いているような感覚があった。ぼくは楽しくて好きだが、いかにも内輪の気分ですね。
 第2部ではそれから数十年がたち、AAは亡くなってプラネット・ブルーにいるのは年老いた天明一人きりとなる。だが彼はかつて三体文明に囚われていた時に出会った〈霊〉によって再び若々しい体と新たな使命を与えられた。〈霊〉とはこの宇宙が10次元だったころから存在する超知性体であり、宇宙の次元を縮小させようとする(そして宇宙は今3次元にまで縮小してしまった)その敵〈潜伏者〉と桁違いにスケールの大きな戦いを戦っているのである。天明はその戦いのコマ〈捜索者〉となるよう命を受け、彼固有のポケット宇宙へと足を踏み入れる。そこに現れたのは人間の姿をした智子だった。かくて天明は今度は智子との会話で、この宇宙の真の姿、その恐るべき戦いのありさまを知る……。
 そして第3部。ここで物語はほとんどオリジナルなものとなる。『死神永生』で太陽系を2次元化してしまったあの〈歌い手〉と呼ばれる異星人、その世界が描かれるのだ。用語も独特なものに変わり、ほとんど魔法のような、神話のような物語の中で、ハードSF(というかバリントン・ベイリーのマッド科学)っぽい宇宙の悲劇が語られる。ただ用語やオーバースケールな世界観こそまさに中国的だが、その科学はずいぶんまともで、超弦理論からの引用や、真空崩壊とか、暗黒物質とか、色々と想像をたくましくさせてくれるものがある(作者はアニメ好きを公言しているのでそれが影響しているのかも)。それにしてもこのスケール感はすごい。そして宇宙創成からの戦いの勝敗は逆転また逆転。こんな百億年が一瞬のような凄まじい宇宙的スケールの中で、雲天明のようなちっぽけな存在が何をできるのかと思うが、ちゃんと活躍するんですね。それもまた女性と二人で。彼女はAAでも程心でも智子でもなく、『死神永生』に出てきたまた別の女性なのだ。ちょっとやりすぎっぽいが、ここまでくれば脱帽してカッコイイとしか言えない。
 〈歌い手〉の母世界が崩壊するシーンも迫力がある。万次元宮を背中に乗せた巨大な亀のような地載亀の死、星淵の重力井戸への落下。しかしそれもまた1エピソードに過ぎないのだ。
 訳者あとがきでは『果しなき流れの果に』が言及されているが、ぼくは同時に『百億の昼と千億の夜』の東洋的無常観と巨大スケールにも通じるものを感じた。
 そもそも『幼年期の終わり』の超存在、オーバーマインドは人間はもちろん高度な文明を持つオーバーロードにも理解出来ない、神のごとき超越的な存在だった。ところがこの作品の超存在はとても人間的で、西遊記の神仙たちのような雰囲気がある。これに限らず、日本や中国のようなアジア的多神教の世界の神々はSFにおいても同じような世界観を持つのかも知れない。
 終章(コーダ)はほぼエピローグにあたり、宇宙の果てのレストランでの登場人物たちの再開と楽しいお茶会。これもまた良きかな。
 最後のコーダ以後の章は短いエピソードの羅列で、もう一つの《三体》の断章が描かれる。そこでは《三体》の登場人物たちが変化した歴史の中でどうなったかが書かれているのだが、わりと普通で、スケール感を失った《三体》ってこうなるのかという脱力感がある。著者の書き方はなかなか現実的で辛辣だ。それは著者の独自の短編にも見られたものである。いささか悪ノリと感じるところもあるが、『果しなき流れの果に』の日常的なエピソードにも通じるものがあってぼくは好きだ。

『ROCA 吉川ロカストーリーライブ』 いしいひさいち オフィス安藤

 いしいひさいちの自費出版本でネットで評判だったので通販で購入。確かにこれは素晴らしい傑作だった。こんな傑作が書店で買えず、いしいさんが自費出版するしかないってどういうことかと思う。
 『ののちゃん』やその他に時々登場していた、ポルトガルの国民歌謡であるファド歌手志望の女子高校生・吉川(きっかわ)ロカを主人公にした4コママンガである。それをまとめて、一部を追加したものだ。歌以外はダメダメなロカの天才性とそれを支える周囲の人々、でも必ずしも予定調和にはならないところがとても心に染みる。岡山弁もいい。
 4コママンガだが、時間の流れがあり、ストーリーがある。タイトルはストリートライブとそれをかけているのだろう。主人公は高校生の吉川ロカ。そしてその親友で年上の同級生(問題児で高校1年を3回やっている)柴島(くにじま)美乃。柴島をくにじまと読めるのは関西人だけじゃないかしらん。二人は10年前の海難事故で親を亡くしているという共通点がある。ロカは高校の音楽の先生にその歌の才能が認められ、美乃の協力のもと、路上ライブをやったり、ののちゃんでおなじみのキクチ食堂で歌ったりするようになる。やがて多くの人の認めるところとなり、音楽事務所にスカウトされて本格的な音楽活動を始めるのだ。
 いしいさんの絵で4コマに切り取られているが、この背後にはおそらく長編マンガにしたら10巻を超えるようなドラマがあるはずだ。そしてこの後にはワールドミュージックの、ファドの歌姫として海外に飛翔するに違いない彼女の姿が。本書の最後では、かつて歌の練習をしていた地元の倉庫が焼け、その跡地にロカのポスターが残っているという大きなコマが描かれている。柴島をはじめ、それまで彼女を支えてきた人たちとは一つの区切りがあったことがわかる。サウダージだなあ。静かに、熱いものがこみ上げる。
 アニメだと雰囲気が変わるので、ここはちゃんとした実写ドラマで見て見たいなあと思うのだ。
 ところで気になるところが一つ。この物語には宇高連絡船の紫雲丸事故が名前を変えて出てくる。実際の紫雲丸事故は1955年に修学旅行生など168人が亡くなった大事故だった。ロカの親も美乃の親もこの事故で亡くなったのだ。その10周年に高校生のロカが参加しているのだが、ということはロカはぼくより年上なのか。少なくとも瀬戸大橋(1988)のない時代に高校生だったわけだ。そうはいっても、やはりこれは現実とは別の時間線なんだろうな。ただこの物語にわざわざ紫雲丸事故が出てくるというのは、何か音楽以外にもいしいさんの個人的な思いが反映しているのに違いないと思う。
 ところでツイッターによると続編が出る予定もあるそうだ。絶対出して欲しい。読みたい!

『極めて私的な超能力』 チャン・ガンミョン 新☆ハヤカワSFシリーズ

 著者は多くの文学賞を受賞した韓国の人気作家で、これまで『韓国が嫌いで』『鳥は飛ぶのが楽しいか』などの邦訳があるが、本書はその初めてのSF短篇集である。作者のことばや訳者あとがきを読むと、著者が実は根っからのSFファンだったということがわかる。ショートショートから中編までの10編と「日本の読者のみなさまへ」、「作者の言葉」という作品解説を含む2つの短文が収録されている。作品はいずれもSFらしいSFであり、現代の科学技術と人間へ深く切り込んだ傑作である。

 「定時に服用してください」はショートショートだが、イーガン作品にもあるような人間の心というものがどこまで化学反応の産物なのかというテーマを、恋人たちが服用すると初期の恋愛感情をずっと維持できる薬というガジェットを使ってわかりやすく描いている。いたってストレートだが、まあそんなものかも知れないなと思わせる。

 「アラスカのアイヒマン」は戦後アラスカにユダヤ人自治区が設けられたという改変世界(そういう計画は実際にあったそうだ)を舞台に、アウシュビッツの虐殺の責任者アイヒマンが〈体験機械〉によって収容所を生き延びたユダヤ人の記憶と感情を体験させられるという物語を、一人の記者によるドキュメンタリーとして淡々と語っていく。だがこれがすさまじく読み応えのある傑作だ。体験機械は人の記憶を情報として移植するというものではなく、その記憶が生みだす情動、情緒を移植するものとされている。つまり体験談や小説を読んで感じる共感に似たようなもので、それがその本人の生な記憶を元にリアルに再現されるということなのである。アイヒマン側にも交換条件があり、自分の記憶をユダヤ人側に移植することで、ハンナ・アーレントが『イスラエルのアイヒマン』(ここでは『アンカレッジのアイヒマン』となっている)で書いた、アイヒマンの〈凡庸な悪〉という主張を検証しようというものだ。すなわちアイヒマンと記憶を交換したユダヤ人の証言によって、虐殺はごく平凡な人間がシステムの中で日常として行ったことなのか、それとも邪悪な悪意をもって積極的に行ったのかが明らかになるだろうというのである。作者はその倫理的な問題、科学的な問題、さらに政治的な問題までよく考えていて、物語は驚くような衝撃的な結末へ至るが、確かに納得のいくものとなっている。それは共感という感情の危うさにもつながるものである。加害者に被害者の記憶を体験させるというテーマはSFではよくあるもので、傑作が多い。日本では山本弘「悪夢はまだ終わらない」などがすぐ思い浮かぶ。この作品ではさらにその二者の外側にまでテーマが広がっている。

 表題作の「極めて私的な超能力」はショートショート。完璧ではない小さな超能力、未来予知とか千里眼とかを持つ人々が登場する。疲れたときに夢見るように遠くの相手の姿を見ることができる主人公は、未来予知の能力を持つ彼女から自分の未来を告げられ、彼女とは別れるのだが、その姿を何度か千里眼で目にすることになる。そして別の女性に出会い、彼女にも小さな超能力があることを告げられる。ごく小さな超能力であってもそれが相手に対して使われるときは「私的」というだけでは済まされないだろう。ちょっと危険でロマンチックな掌編である。

 「あなたは灼熱の星に」では、民間企業に宇宙開発が任された未来が舞台。金星探査も炭酸飲料会社と無人自動車会社の2社がそれぞれ運営している。炭酸飲料会社の金星探査はリアリティショーとして演出されているのだ。その探査船で金星上空にいる女性科学者が地球にいる娘と暗号の手紙をやり取りする。それに目をつけた会社は、母と娘の和解、金星地表での(ロボットのアバターを使った)結婚式、科学と芸術などをテーマにして「全地球が泣いた!」と言われるショーにしようと二人に提案し、合意される。だが二人には全く別の目的があったのだ。テーマも現代的で面白いが、金星探査に使われるロボットの描写などのSF的なリアリティレベルも高く、心と肉体の乖離やその操作といったところにも気配りがされている。何より会社が企画するリアリティショーの裏をかく二人の姿がカッコよく、一方の会社側のしたたかさにも感心させられる。

 「センサス・コムニス」は作者本人が登場するフィクションで、韓国の政界を舞台に東浩紀『一般意志2.0』に対する批判を込めた作品だという。新技術による世論調査の進化形としての、国民の意思を即座に、直接的に取込んで政策に活用するための装置。討論や熟議による政治ではなく、多数の国民の気持ちをそのまま反映させるような政治という考えに反発しつつも、作家である私は、作品内容やタイトルに対する読者の好感度を事前に確実に把握できるというところに興味を示す。それは読者アンケートの進化形でもあるのだ。

 長い中編「アスタチン」は何とスーパーヒーローもののスペースオペラで超絶異能バトル、そのうえ記憶とアイデンティティ、さらに腸内細菌まで関わるポストヒューマンな本格SFでもある! 息もつかせぬバトルシーンの連続でめっちゃ面白かった。アスタチンと名乗る一人の超人が支配する未来の木星・土星系。彼は元々は地球生まれの超天才だったが、自分の作った超人工知能と意識統合し、ポストヒューマンの独裁者となった。地球人に恐れられた彼は木星や土星の衛星をテラフォーミングし、彼に賛同する人々を呼び寄せて独立帝国を築いた。ここでは死も克服されている。複製された肉体に記憶を上書きして復活することができるのだ。そしてアスタチン自身も死後に15人いる復活対象者の中から1人を選ぶことで復活する。15人を互いに戦わせ、生き残った者が彼の記憶を受け継いで次のアスタチンとなるのだ。というわけで、主人公はその15人の1人、サマリウム。15人はみなアスタチンの記憶の一部を持ち、それぞれ超人的な知力と肉体を持っている。戦いは権謀術数、協力や裏切りが繰り返され、超人同士の知力と異能を尽くした壮絶なバトルロイヤルとなるのだ。いやあカッコイイ。エンターテイメントとしても文句なしだが、単にバトルするだけでなく、作者の、人間のアイデンティティというものは記憶と遺伝子だけにあるものだろうかという疑問が物語にうまく生かされている。

 「女神を愛するということ」はショートショートで、ミュージシャンの彼女が本当の女神だったらというお話。そんな彼女に別れるといったらどうなるのだろうか。でも神様の世界ってなかなか複雑そうだよねえ。

 「アルゴル」もスーパーヒーローもの。というか普通の人類からしたら彼らはスーパーヴィランだ。災厄の星アルゴルの名をつけた三人の超人がいる。能力の覚醒時に宇宙開発史上最悪の事故を3カ所で同時に起こし、以後は火星に自分たちで作った第二のフォボスに大人しく引っ込んでいる。自らの危険な力を自覚し封印しているのだ。だが地球が発射したミサイルは全部直前で止められた。そこに地球で彼らのことを研究していた語り手が招待される。最も良く自分たちのことを理解しているからと。超人たちはとても親しくカジュアルな感じで語り手に接してくれるが、やがて真実が明らかとなる。三人のアルゴルはそれぞれ昔の有名な魔法使いの名前を自称していたのだが……。悪役は群れてはいけないという著者の思いは分かるような気がする。面白かった。

 「あなた、その川を渡らないで」はショートショート。韓国の古い歌から作られたということだが、ここではポストヒューマンの世界の悲しい愛を歌っている。とはいえ、ポストヒューマンだろうがヒューマンだろうが、訴えかけるものは同じである。

 「データの時代の愛(サラン)」。映画館で出会った二人は歳の差を超えてカップルとなったが、年上である彼女は保険会社が作ったというライフサイクル予測分析を受けてみる。ところがその結果は容赦ないもので、二人が5年以上つき合う可能性はほとんどなく、10年続くのは奇跡に近いというものだった。データ分析から、彼の方が性格的にも遺伝学的にも浮気性で長続きしないタイプだというのだ。彼女がついにその話をしたとき、彼は怒り、悩み、アルゴリズムには屈しないと宣言して彼女に結婚を申し込む。そして……。ここまでなら現代でもあり得る話だし、占いで不吉な未来を予言されたカップルの話でもある。だがウェアブル機器があらゆる個人データを収集する近未来、データは個人の幸福度まで冷酷に示す。彼は自分が彼女といる時よりも彼を慕っている別の女性といる時の方がずっと幸福度が高いと知るのだ。当然二人は破局するのだが、その後の展開はぜひ実際に読んでみてほしい。テクノロジーによる社会全体の変化もきちんと描かれている。一つだけ言っておくと色々あっても最後は心温まるハッピーエンドになります。人間は未来の確実性を少しでも高めようとデータを集め、統計し、確率を求める。しかし人間の本性というのは、どうやらずっと不確実なもののようだ。

 いずれの作品もSFファンの心に刺さる傑作である。文学的なものからハードSF、派手なスペオペまでバラエティは豊かだが、科学技術と人間の関係をしっかりと見据えようとする態度は一貫している。

『化物園』 恒川光太郎 中央公論新社

 5月に出た連作短篇集。ケショウという人や動物を食う化物が共通して登場する7編が収録されている。それぞれ時代も場所も背景も異なるが、ホラーであり、ファンタジーであり、奥深い恐怖や哀しみと共にそこはかとないユーモア感も漂う物語である。タイトルは化物園であるが、最初の数編を除けば化物はほとんど影に隠れていて、どちらかというと人間たちの側の不条理、おぞましさが中心となっている。おそらくここでは人間の方が化物なのである。

 とはいえ「猫どろぼう猫」ではいきなりケショウを追う老人が登場する。ケショウは人間に化け、町から町へとさすらいながら動物や人を殺して食べる魔物なのだ。空き巣の常習犯である女がクロスボウを持った怪しげな老人に捕らえられる。老人はケショウを待ち伏せしていて間違えて彼女を捕らえたのだという。おかしな言動の老人に合わせて自分もケショウを追っていたことにした彼女だが、さっき空き巣に入った家の住人が現れ……そして惨劇が起こる。老人が変なので恐怖感は少ないが、ここではケショウがいたという「狐谷」という地名が出てきて、それがこの後のいくつかの物語をつないでいく。

 「窮鼠の旅」の主人公は42歳の引きこもりの男だが、養ってくれていた父が死に、その死体を放置したまま暮らしていると次第に怪異が起こり始める。ついには大きな猫のようなケショウが現れ「今、お父様は鼠に喰われています。お父様の後は坊ちゃまです」などと言う。男は家を飛び出してホームレスのような暮らしをするが、やがて怪しげな女と出会い、それぞれの身勝手がぶつかって事件が起こる……。ケショウは出てくるが特に何をするわけでもなく、不快で恐ろしいのは人間たちの方だ。

 「十字路の蛇」も物語の中心は人間たちの日常的な悪意である。主人公の男は田舎町に暮らしているが、その子どもの頃からの出来事が語られる。十字路でギターを弾くウエスタン男と呼ばれる変わり者の老人に友人が悪口を言い、その友人の父が不審死をとげる。主人公はウエスタン男が殺したのではないかと噂する。やがて時は流れて友人は事故死し、主人公の両親は離婚し、都会に出た主人公は大学を出て結婚し、そしてある日またウエスタン老人を目にする。そして老人は彼に蛇のように執念深く復讐を告げる……。ケショウと思われる化物は老人の話にちらりと出てくるだけだが、人々の日常的な悪意と、悪意ともいえないくらいの小さな感情がおぞましく嫌なものを呼び出してしまうのだ。

 「風のない夕暮れ、狐たちと」は時代が少し遡り、昭和30年代くらいの雰囲気がある。主人公のたえは、田舎のお屋敷で住み込みのお手伝いさんをする仕事を得る。大きな屋敷だが住んでいるのは40代くらいの美人の奥様と、いつも家にいて働いているようには思えないその息子、文の二人だけ。どうやらお手伝いさんといいつつ、文の相手をしてほしいということらしい。またたまに何でも売るという商売人の男が訪問してくる。どうやらこの家は色々と曰くがあるらしい。文と話をするようになったたえは、彼の兄や妹がケショウの出る「狐谷」にいると聞く。そしてパパは井戸の中だと。そして物語は動き、恐ろしくて悲しい展開を迎える……。これはホラーとしてもミステリとしても雰囲気のあるよく出来た物語だ。初出を見ると発表順ではこの作品がシリーズの2作目となっている。

 「胡乱の山犬」は江戸時代の農村から始まる。主人公の男は心の中に〈残虐〉を宿し、幼いころから小動物を殺していた。あるときその衝動から弟を川に突き落とし、村人に捕まる。彼は村に来た人買いに江戸へ連れて行かれて、少年が性を売る陰間茶屋に売られそこで売れっ子となるが、ときおり〈残虐〉の衝動に駆られては人を殺して肉を食うのだった。そんな彼がある怪しげな女おりくに出会う。おりくは陰間茶屋に放火し、彼を連れ出す。時が経ち、二人は旅に出て化物が出るというケシビ山へと登るがそこで事件が起きる。生き残った彼は江戸へ出てケショウと呼ばれる妖怪に襲われたが生還したという話を広め、やがて年老いて畑を山の獣たちから守る暮らしに落ち着くのだが……。ホラーの要素はあるが、時代ものとして、心に闇を持つ陰惨な人たちの物語として読み応えがある。ケショウの名前の由来もここで明らかとなる。

 「日陰の鳥」は書き下ろしで、雰囲気が大きく変わる。舞台も日本ではなく15世紀のベトナム中部、チャンパ王国である。主人公は現地の言葉がわからず港町で放浪していた少年リュク。この町にはダウォンという虎の姿をした妖魔が現れる。リュクはある事件がもとでダウォンに拾われ、山の上の寺院に連れて行かれる。ダウォンはここでは高僧ティルヤガン導師として尊敬されているのだ。ここにはリュクの他にも三つ目の少女や双頭の少年ら異能を持つ聖なる子どもたちがいた。だがティルヤガンがダウォンだと知っているのはリュクだけだ。やがて戦争が起こってチャンパ王国は敗北しリュクは山上寺院から逃れてついには琉球へと行き着く。そしてそこに一匹の猫が……。物語全体の世界が大きく広がるエピソードだが、ファンタジーとして読んでも不思議なイメージが豊かで面白かった。

 最終話「音楽の子供たち」はまた雰囲気が変わる。これはファンタジーであり、むしろSFといってもいいかも知れない。高い塀に囲まれたどことも知れぬ土地が舞台である。そこには森があり、塔と塀で囲まれたいくつかのブロックがある。ブロックの中では屋敷があり、動物が飼われていたりする。男の子が6人、女の子が6人の12人が屋敷で乳母の銀穂と暮らしていた。ときおり風媧という目鼻のない電球のような顔の女が宙に浮いて現れ、どこへともなく消えていく。部屋にある箱や通れない扉には魔法の封印がされていて、術理は何?と問いかけると条件が満たされていればそれを解く方法が示される。主人公たちは成長するに従っていくつかの封印を解き、活動範囲も広がっていく。箱の中には楽器やレコードなどが入っており、主人公の陽鍵はピアノを覚える。やがて12人がそろい、彼らは自分たちでこの世界を探検するようになる。彼らが8歳くらいの時、乳母がいなくなった。風媧が現れ、12人に風媧の前で毎週何かを演奏するように依頼する。そうすれば乳母がいなくても食事ができるというのだ。演奏の仕事が始まり、子どもたちが思春期に入り、いさかいが生じ、ついにこの世界は幕を閉じるのだが……。結末では風媧の正体が明かされ、物語全体との関係も明らかにされる。というかここまでくればはっきりとSFだろう。いや面白かった。子どもたちの冒険も楽しく、雰囲気があって読み応えがあった。


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