続・サンタロガ・バリア  (第239回)
津田文夫


 前回はF-CON体験記をダラダラ書いてしまい、気がついたら大野万紀さんに項目立てをしていただいてました。さて9月はというと特記事項がなんにも思い出せない。

 そういえば『SFマガジン』10月号が結局地元本屋に出回らず、未だに入手していないのだった。まあそのうちどこかで手に入るとは思うけれど、未だに未読なので、今度図書館を覗いてみよう。

 あと、ようやく涼しい日が続くようになってきたので、ステレオの出番かと思いHMVの輸入盤安売りを見ていたけれどいまいちピンとこない。で、あれこれ見ていたら昨年亡くなったチック・コリアの70年代ECM録音がSACDになっていたのを発見、『リターン・トゥ・フォーエバー』は出た当時、レコード屋の店内で流されていた表題曲に耳が反応して即買いしたことを覚えている。そうか50年前の話か。で、それを買ったのかというと、買ったのはゲイリー・バートンとのデュオ第1作『クリスタル・サイレンス』の方。いい音で聴きたいと思うのはやっぱりコレだよねえ。
 何年かぶりに聴いたけど、さすがSACD、わが家の貧弱オーディオとだいぶ機能が落ちたわが耳の状態でも、あきらかにCDでは出てこない響きが、質感が感じられるぜ。前にも書いたようにCDの音の弱さはSACDを聴いて初めて判るんだけれど、これを聴いていると、低音部の重厚さと芯のある高音が強い存在感を感じさせる、まさに大量の鉄と木で出来ている地上的なピアノと、鉄(アルミ合金)製短冊をマレットで叩いた音を共鳴管で増幅し機械的にヴィブラートさせて音が宙に浮く天上的なヴィブラフォンの響きが、少々音量を上げても気にならないくらい心地よい(家内/近所迷惑という話もあるけど)。というわけで、ここ数日は毎日これを聴いていた。

 結局9月刊になった大森望編『ベストSF2022』だけれど、収録作品に再読が少なくてうれしい1冊。
 酉島伝法「もふとん」はもふもふした「膚団」にくるまれて眠ると気持ちがいいという話。この作者としてはストレートなつくりの1作。今度書庫代わりのボロアパートで安部公房『笑う月』を探してみるか。
 吉羽善「或ルチュパカブラ」は10ページの掌編。初めて読む作家の作品って、ゲンロン大森望SF創作講座出身でまだプロとしての作品がわずかしかないんだから当然だ。最近はこういう作家の作品がアンソロジーに入ることが多くなった。懐かしいタイプの怪談かな。
溝渕久美子「神の豚」は再読。SF味は薄いけれどいい作品だ。
 高木ケイ「進化し損ねたサルたち」も大森望SF創作講座出身作家の掌編。第2次世界大戦のボルネオにおける、いわゆる飢餓の戦場もの。あの時代の記憶を想像することの覚悟は、しかしファンタジーになってしまう可能性を含む。小松左京が持っていたリアリティでさえ現場のものではないのだ。
 津原泰水「カタル、ハナル、キユ」は再読。わずか20ページでこのスケールの物語が完成していることに改めて驚く。
 十三不塔「艶笑世界」は、やや空回り気味な印象があった『ヴィンダウス・エンジン』よりもカチッとハマった感じがする50ページ近い短篇。スベってばかりいる解雇直前の漫才コンビに持ちこまれた仕事とは・・・。というアイデア的には逆転発想一発だけれど作品の組立がよくできていて読後感が良い。
 円城塔「墓の書」は15ページの小品だが、中身は小説内で死んだ人物の墓をめぐる一種バカSF的議論である。作者あとがきが一番判りやすい。
 鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」は再読。今回はじっくりと3回に分けて読了。でもやっぱりどこがホラーなのかサッパリ判らないし、「いろはすもも」的作品であるとした前回の印象は変わらなかった。
 坂崎かおる「電信柱より」も15ページの小品。こちらの作者は大森望SF創作講座出身作家ではないけれど、作家キャリアとしては似たような感じだ。話の方は電柱撤去業者の女性が撤去対象の電柱の1本に運命の恋をしてしまう話。奇想としてはありふれているけれど読後感は悪くない。なお作中電柱はかならず「電信柱」と表記されている。
 トリは伴名練「百年文通」。115ページもある。編者の言によれば伴名練の傑作は伴名練編のアンゾロジーに入らないので収録できたと云うことらしい。中身の方は編者解説にもあるとおりジャック・フィニイ「愛の手紙」のバリエーション。でも掲載誌が百合雑誌ということで、基本設定こそ現在の姉妹の姉と過去の姉妹の妹が「机の抽出」を通してコミュニケーションするというオーソドックスなものだが、展開はいかにも伴名練といった感じのエスカレーションを見せる。まあ面白いけれど、百合ものにあまり惹かれない年寄りとしては、再読3作の方が評価が高いかも。

 これまた竹書房文庫からヘンなのが出た。マルカ・オールダー、フラン・ワイルド、カーティス・C・チェン、ジャクリーン・コヤナギ『九段下駅 或いはナインス・ステップ・ステーション』がそれ。「ナインス」というところがナゾですね。段を登り切ったところに警察署があるという意味かなあ。九段は足で踏める階段ではないはずだが。
 話の方は、東京が中国占領下地区とアメリカ軍を主体にしたPKOが維持する地区に分かれているという設定で、PKO地区にある九段署の女性警部補が、ある事件をきっかけに日系アメリカ人の女性中尉とコンビを組まされるところから始まる。基本的にはバディ捜査モノなんだけれど、佐々木譲のロシア占領下の捜査モノに較べるとさすがにこじんまりしている。しかし、独特の面白さがあって、主人公の2人はもちろん多くの共通キャラを使った多人数の作家による読み切りシリーズは、連続テレビドラマに近い印象がある。 作家が違えば当然キャラにブレは出てくるし、設定からくる世界の印象も微妙にズレるが、読んでいる間はあまり気にならない。全10話、SFとしてはエキセントリックであることが一番の取り柄だけれど、最後の2話で話が広げられたまま終わっているので、そこら辺からSF的な大風呂敷が用意されている可能性があって、続巻が出れば読むでしょう。
 なお訳者あとがきがわりと低体温で、「本書はシーズン1とされており、続編がある模様だ」などと書いているけれど、9話10話と読んで続編が前提とされているのは明らかでしょうに。

 なぜかKADOKAWAから出た劉慈欣(これまで読みはリウ・ツーシンだったはずだけれど、ここでは日本での一般的読みであるリュウジキンになっている)の短編集2冊。もとは1冊だったらしいけれど2冊に分けて正解だったかも。
 個々の作品に言及する前に、全体的な感想を書いておくと、まず現時点ではやや古めかしい作品が多いこと、のちに「三体」3部作に取り込まれるアイデアで書かれたものも多いこと、小松左京から受け継いだSFのスタイルは感じられるものの、国情や世代の違いは大きく、キャラづくりおいて小松の情念やルサンチマンまでは受け継いでいないこと、ただし女性に対するロマンティックな思い入れは似ているかも、などである。

 未読作品ばかりで構成された劉慈欣『流浪地球』の方から読んだけれど、やはり大風呂敷的な作品がうれしい。
 表題作は文字通り、静止した地球が爆発寸前の太陽から逃れて太陽系を脱出するまでの話だけれど、バカ話ではなくて一応ハードSFの形を成している。短章で時代変化を書き継ぐスタイルといいSFの形がオーソドックスで、語り口はやや古めかしい。
 「ミクロ紀元」も地球が将来太陽フレアに焼かれることを見越して宇宙探査に出た1隻の亜光速宇宙船がただ1人の生き残りを乗せて地球に戻ってきたが、彼が見出した未来の人類の選択は・・・というもの。結末がヒドいがバカSFとまではいかない。これも語り口はやや古い。
 「呑食者」はあの「詩雲」の前日譚ということで、興味深く読めたけれど、設定の大仕掛けと結末の叙情性がわりと日本SFっぽい1作。
 「呪い5.0」は、劉慈欣と同世代の人気作家と2人がそのままの名前で作中人物になって「呪い」に振り回されるコメディ。コンピューター・ウィルスと化した「呪い」は論理式マンショニャッガーみたいな破壊力を世界に齎すが、浮浪者となった作家2人はのらりくらりと暮らしている。昔のSFファンジンの内輪ウケ作品を思い出す。
 「中国太陽」は高層ビルの窓拭きが軌道上の人工太陽を拭くまでになる1作。ワンアイデアでエスカレーションするというのもSFのオーソドックスな手法だろう。
 「山」は、一度は遭難事件で山登りを諦めた男が、岩世界に住んでいた異星人が出現させたエヴェレストよりも高い山を登る話。異星人の世界は確かにベイリーを髣髴とさせる。
 4半世紀前から10年くらい前の作品群と云うことで、今ならバカSFとして書けてしまうような大仕掛けがオーソドックスなSFとして書かれていて、シリアスな結末なのに書き方自体はわりと軽めな印象がある。

 劉慈欣『老神介護』の方は表題作が再読だけれど、その続編が「扶養人類」というので、似たような読後感かと思って読んでみたら、殺し屋/スナイパーが主人公の超高度資本主義を皮肉るちょっと悲しいサタイアだった。
 「白亜紀往事」は、恐竜と蟻が文明を発達させて共存しつつ、恐竜は共和国と帝国の2者が対立する中、蟻が恐竜社会のメンテを担っていることにかこつけて、恐竜社会の乗っ取りを仕掛けたところ、恐竜社会の致命的兵器が作動してしまう話。これも典型的なSFサタイア。
 「彼女の眼を連れて」は、若い女性の眼を連れて彼女の見たいものを見せてまわる仕事を命じられた青年の話。彼女の目の正体は・・・という、オチ一発の話だけれど、次の「地球大砲」にからむ1エピソードのようにも見える。
 その「地球大砲」は、核分裂専門家の主人公が不治の病を治すため、核分裂に関する新技術がマイクロブラックホールをつくるんだというエキセントリックな8歳の天才息子と妻を残し、40年後に目覚める約束で冬眠する。目覚めたところで、主人公は息子のやったことで恨みを買いほとんど死刑囚扱いされるが、その刑とは地球トンネル落下することだった・・・。話の方はかなりヘンテコなストーリー運びなんだけれど、アイデアのすさまじさはほとんどバカSFで、それは「地球大砲」というまるで海野十三かという古めかしいタイトルに象徴されている。全然関係ないけれど、ヴォクトの「時間シーソー」を思い出した。
 以上11篇、再度感想を書いておくと、劉慈欣の古めの短篇SFは、おおらかなバカSF的スケールを感じさせる作品が多いのと、いかに深刻な設定であろうとキャラクターの扱いが突き放した軽いものになっている、というあたりかな。

 その劉慈欣に大きく影響を与えたという小松左京『小松左京“21世紀”セレクション3 継ぐのは誰か?/ヴォミーサ』は8月刊。1と2はスルーしていたんだけれど、SF大会で買った『SFファンジン』の中で、巽孝之さんが中学生の頃初めて買った『SFマガジン』にこれが連載されていてすごく影響されたというの読んで、そうか半世紀(当方は文庫で読んだので実際は48年)ぶりに読んでみようかと思い立ち、『継ぐのは誰か?』だけ読んだのだった。とはいえ、その感想を書くついでに他の短篇も読んでしまった。750ページはそれなりに読み応えがある(なおハヤカワ文庫SFで出たときは読もうという気になってなかった)。
 『継ぐのは誰か?』を読む前に記憶にあったのは、未来のアメリカの大学のキャンパスで院生たちが延々と議論していたなあ、というもの。読んでみるとそれは前半だけの印象だったことが判ったけれど、この長編の本来のテーマである南米でのエピソードはすっかり記憶から抜け落ちていた。話の方は今読んでも十分に面白く、後半がやや荒っぽいけれど、それでも小松左京の考察のパワーは感じられる。でも一番の感想は、小松左京の若さが感じられたことだった。
 このコレクションの「“21世”セレクション編纂にあたって」や各収録作品に付けられたリード文を読んでいると、編集者の熱意が感じられてなかなか嬉しい。まあ、「未来予測」が小松SFのトレードマークというのは飽くまで売り文句のような気がするけれど。
 収録短篇の方は「Part1テクノロジーに包囲された生活」と題して、「ミリイ」「ヴォミーサ」「消えた預金」「誤解」「静寂の通路」が、「Part2拡張される“人間”そして彼方の明日へ」と題して「牙の時代」「飢えなかった男」『継ぐのは誰か?』「雨と、風と、夕映えの彼方へ」「野の仏」が収録され、エッセイとしてpart1に「『機械化人類学』の妄想」が、Part2に「『未来人』について」が収録されている。
 パートタイトルがちょっとマジメ過ぎなところはご愛敬だけれど、作品の方は各作品とも読み応えがある。今回読んで、ようやく「ヴォミーサ」の遊びとサタイアが面白く読めた。この作品を『SFマガジン』で読んだ大学生のときは悪口ばかり言っていたような気がするが、年寄りになって読むと作者の稚気と余裕が伺えて英訳されていたらアシモフも笑ったかも。一方「静寂の通路」は全く記憶になかったけれど、リード解説にもあるとおり「沈黙の春」/環境ホルモンの効果の行き着く先をSF的にエスカレートさせてホラーに仕上げた1作。現在の倫理基準からするとこれも荒っぽい作品だが、これが1970年の『問題小説』に発表されているのを見ると、ちょっと感心する。いまなら当時の中間小説誌が載せていたものが文芸誌に載るようになったといえるが、当時の小松左京のスタイルでは今でも無理か。
 後半に収められた短篇はどれも小松SFの力作で、「雨と、・・・」や「野の仏」を読むと特に前半の導入が素晴らしいことに気がつく。このコレクション、1と2も買っておくか。そういえば河出文庫の3はどうなっているのか。

 小松左京の次は眉村卓だけれど、こちらは日下三蔵編/眉村卓『仕事ください』で、竹書房文庫の日下三蔵編/眉村卓短編集の2冊目。編集解説にもあるように、これはショートショート集『奇妙な妻』をまるごと復刻した上に、1960年から61年に『宇宙塵』に掲載された「その後」「歴史函数」「文明考」を第2部として収録したもの。おまけとして『奇妙な妻』あとがきと「変化楽しや?」を巻末に収録
 『奇妙な妻』の文庫は持っているはずだが、内容が思い出せないので、読んでいないかも知れない。『宇宙塵』掲載作も未読(『傑作集』は持ってるけれど)。ということで始めて読むのも同然であった。
 いちいち個々の作品に言及はしないけれど、この作品集の特徴および個々の作品への言及は微に入り細にいる編者解説に詳しい。そして解説にもあるとおり短い枚数で奇想的なアイデアをあまり転がさずにぽんと放り出し、結末も付けずに終わるというものが多い。その分印象が強くなる作品も多い。
 しかし、読んで一番驚いたのが、巻末のエッセイ「変化楽しや?」である。これは表題作がラジオドラマ化されたとき、作者自身が脚本を任されたが、再ラジオドラマ化されたときは制作側が脚本を書いた。そして新しい方では、原作のシリアスだった主人公の苦しみとそこから産み出された奴隷がスラップスティックのように軽いものになっていて、友人に新旧のドラマを聴いてもらったところ、新しい方が面白いという感想だった。
 そこから眉村卓は、自分がサラリーマンSFを書いていたときには確かにあったあの当時のサラリーマンのだれもが持っていたはずの重い気分が、現代(このエッセイは1977年1月掲載)では失われているのではないかと危惧する。
 そして最後の結論が、「・・・自分の望ましい生活を確保するためとあれば、おのれの能力や性格はもとより、プライバシーや過去の些末事をも登録し記録されても、いっこうに誰も気にせず、愉快にやって行くという日は、意外に近いのではあるまいか?」というもの。発表年が1977年(Wikによれば日本におけるインターネット元年は1984年とされている)1月と云うことは、それ以前から眉村卓は21世紀日本のネット社会のモラルを見透していたんだなあ。さすが眉村卓、小松左京に負けず劣らずの洞察で、第1世代の面目躍如だ。このエッセイを収録した編者もスゴいけど(そういえば岡本俊弥さんも書評で同じところを引用されてました)。

 翻訳されているものとしてはいまだ最新刊 のM・ウエルベック『セロトニン』が文庫落ちしたので読んでみた。
 基本的にウエルベックの小説は鬱傾向にあるけれど、これは文字通り「鬱」しかない小説になっていた。まあ、タイトルがセロトニンなんだから抗鬱薬がキーになることは明らかだ。
 語り手は40代半ばの、農業関係の大学院を出て農業政策コンサルを仕事にしてきた男で、それまでの稼ぎでかなり裕福ではあるが、既に男性としての能力が衰えつつある。10年前に10歳下の裕福な日本人女と懇ろになったが長くは持たず、本人は彼女との縁切りにビルから突き落とすことさえ考える始末。以降、主人公は女性遍歴を回想しつつ、現代フランスのある程度裕福な知識層に属しながらも打ちひしがれ、唯一の友人といえる1000年続く貴族の末裔のところに転がり込んでも、友人自身が語り手以上の挫折感に打ちひしがれているのだった。
 陰々滅々、読んでいて何でこんな話が面白いんだろうと思いつつも、スラスラと読めてしまうのがウエルベックの小説らしい。
 語り手はフランスの現況について十分な知識を持っていて、ある意味現代風俗小説として読めるんだけれども、ウエルベックの目論見はもちろんそんなところにはない。ではこの小説は何を取り上げているのかというと、世界の複雑さについて行けないまま古典的な幸福感を信奉する現代人の運命は、もはや形式的ディストピアさえ必要とせずに滅ばざるを得ないのだとする、現代中流フランス人精神の病だろう。まあ、フランス人に限らないけど。
 ウエルベックは最初期からセックスを取り上げて、わりとオーソドックスな幸福感を描いてきたけれど、ヘンタイ描写も好きで、今回は犬と3Pする日本人女とか貴族の友人が経営するバンガローを借りているドイツ人はペドフィリアだとか、語り手はわざわざそれぞれの所有するパソコンのファイルを覗いてその内容を描写するということをしている。これって読者サービスじゃないよねえ。

 何でこんなものが集英社文庫で出るのかとビックリしたのが、ニー・ヴォ『塩と運命の皇后』昨年のヒューゴー賞ノヴェラ部門受賞の表題作と同じ主人公が活躍?するノヴェラ「虎が山から下りるとき」を合わせて1冊にしたもの。実質250ページの薄さ。「マーダーボット」シリーズの薄いヤツを思い出す。
 しかしこちらはタイトルからも予想がつくとおり、純然たるハイファンタジーでLGBTQ時代にふさわしく、主人公もその相手も全部女性で、基本的に男は脇役もしくは敵役である。「虎が・・・」に至っては、主人公を含む女二人が人語を解する雌虎たちに食べられないように主人公が伝説の雌虎と美しい人間の女学生の百合物語を語るシェヘラザードものである。こちらの話ではたくましいと思われる男は重傷を負って最初から最後までスヤスヤと眠ったままだ。
 読みやすいファンタジーだけれど、元ネタが西洋ものでなくそしてL/百合な点を除けばオーソドックス以上のモノは無いように見える。

 収録作家25名の内、既知の作家が3名程度(三方行成、勝山海百合、十三不塔、程度に入るのが佐伯真洋で1作既読)しかいないアンソロジーが、井上彼方編『SFアンソロジー 新月 #1朧木果樹園の軌跡』
 これはSF企業「VGプラス」(バゴプラが)主催する「かぐやSFコンテスト」の第1回(2020年)、第2回(2021年)開催で入選した作品及び選外作品の作者たちに呼びかけて出来上がった作品集で、クラファンを成功させて出版にこぎ着けたものらしく、まえがきやあとがきでの編者の意気込みがやや前のめりだけれど、それを除くと25編を集めても360ページ足らずの1冊である。25編は6編ずつ4つのサブタイトルのもとに分けられいるが、余った1篇は2番目に分類されている。
 いざ感想を書こうとして自分でも驚いたのは、読了後2週間あまりしか経ってないのに、25篇の個々の内容がまったく思い出せないことだった。
 ということでほぼ再読に近い時間をかけてパラパラと読み直し、また岡本俊弥さんの書評を見に行って25篇の「さわり(誤用です)」を確認してしまった。
 既にそれなりの数を読んでその作風が頭に入っている冒頭の三方行成「詐欺と免疫」でさえ、再読してみればいかにもこの作者らしい「詐欺師の口上」なんだけれど、頭に入っていなかった。
 おそらくその原因は、つぎの一階堂洋「偉業」の作風が示していると思われる。この作品は、語り手の男性が大学で出合った「ヨシダ」というサンゴの研究する女性のことを書き記す形で書かれている。表題の「偉業」は、タージ・マハールのエピソードから来ているんだけれど、「ヨシダ」という名前は語り手が初めて会ったとき、彼女がヨシダの描くタージ・マハールのTシャツを着ていたことと、それについて彼女の長い蘊蓄があったことにに因む。それだけを読んでいるとまるで村上春樹みたいなんだけれど、物語は語り手が云うように彼女からのメールをクロニクル風に並べた形で進められる。そのメールでは、彼女が沖縄で研究テーマとなるサンゴの異常なゲノミクスを発見したことから、付き合っていた男性と別れたこと、そして最後は研究テーマの客観性を放棄してサンゴに同化してしまうまでを語り手に報告している。
 この作品に見られる特徴は、語り手の女性に対する好感がほとんど熱意というものとして現れないこと、女性が研究するサンゴはSF的なものであるけれども、彼女の決断がSF的な結末を用意しているにもかかわらず、非常にスタティックな印象を与えることである。
 このスタティックさがこのアンソロジー全体を覆っていることで、また全作品がほぼ同じような長さに揃えられていることと相まって、おそらくこのアンソロジーの個々のエピソードのバリエーションを当方の記憶から隠してしまったのだと思われる。
 読後直後には、秀作揃いのよくできたアンソロジーという印象が残ったにもかかわらず、個々の短篇の内容が思い出せなかったのは、当方の忘れっぽさは当然のこととしてもやや異常だった。
 読み返すことで、個々の作品の良さは確認できたけれど、今回は上記のようなことの方が衝撃だったので、そのことを書いた次第。
 村上春樹のバタ臭い文体がわれら世代の代表的なものだとしたら、ここに集められた大多数の作品の文体は、これからのSF系作品の主流になっていくのかも知れない。それには読者がこれからも存在するという前提が必要だけれど。


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