内 輪 第381回
大野万紀
5月のSFファン交流会は5月28日(土)に、「春のSFきのこ狩り」と題して開催されました。出演は、高原英理さん(作家)、飯沢耕太郎さん(きのこ文学研究家、写真評論家)、池澤春菜さん(作家、声優)でした。
写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、飯沢さん、高原さん、みいめさん(SFファン交流会)、池澤さんです。
まずはどのきのこが美味しいかという話題からスタートし、それぞれが推薦するきのこSF(SF小説とは限らずマンガも含む)の話に。
池澤さんの一押しは上田早夕里「くさびらの道」(短篇集『魚舟・獣舟』に収録)。キノコの怖さと魅力・蠱惑がみごとに描かれていてキノコの好きな人はうっとりとし、嫌いな人はぞっとするとのことでした。
飯沢さんはブライアン・オールディス『地球の長い午後』。高校時代にオールディスやバラードに惹かれ、この作品に魅了されたとのこと。動植物の描写がすごい。アミガサタケが人間や動物の意識をコントロールして地球の支配者になろうとしている。伊藤さんの訳語もすごいのだが、アミガサタケは造語せずにそのまま訳していて、かえってそれが特別な存在であることを示している。
池澤さんはそれを聞いて、この作品ではアミガサタケが外付けハードディスクというか外部脳になっており、わたしはアミガサさんといっしょに生きたい!と心の叫びを。
高原さんの推薦はウィリアム・ホープ・ホジスン『夜の声』。映画「マタンゴ」のルーツであり、ここからすべてがはじまった。ブラッドベリの侵略きのこ小説である「ぼくの地下室へおいで」(短篇集『スは宇宙(スペース)のス』に収録)もここから来ている。
そこでひとしきり「マタンゴ」の話題が出たあと、高原さんの新刊『日々のきのこ』の話題に。40年くらい前に高原さんが見た夢が発端になっているとか、それまできのこに特別詳しいわけではなかったが山歩きが好きできのこは気になる存在だったそうです。2010年の文學界に飯沢さんがきのこ文学論を書いたとき、同時に短編を掲載することになった。きのこ歌人の石川美南さんもそうだが、孤立していたのに菌糸がつながって広がっていったような、何かがあった。そこで池澤さんが「胞子活動!」とひと言。
胞子活動はいいけど、行きすぎてカルト系にはならないでほしいと高原さん。池澤さんも「SFとしての理性を保ちながら行きたい。SFマガジンできのこSF特集をやってもらいたい」と話された。
飯沢さんは『日々のきのこ』について最初から最後までキノコの言葉で書かれる本当のキノコ小説であり、架空のキノコの名前がいかにもありそうで面白い。純粋キノコ小説とのこと。
その後実際に池澤さんが『日々のきのこ』から2編を朗読。菌根菌(きんこんきん)の声やばふんばふんとホコリタケの胞子の飛び出る音がいかにもそれらしく表現されて、すばらしい朗読でした。
それにしても今回は皆さんのきのこ愛が炸裂していて、その「胞子活動」には圧倒されました。池澤さんは死後は菌葬されたいそうです。みんなすでにアミガサタケに憑依されているに違いありません。
次回は6月25日(土)に開催で、テーマは「SF作家とウルトラマン」。ゲストは北野勇作さん(作家)、牧野修さん(作家)、日下三蔵さん(アンソロジスト)、東雅夫さん(アンソロジスト)の予定だそうです。それまでに映画を見ておかなくちゃ。
その「シン・ウルトラマン」より先に映画「犬王」を見てきました。古川日出男原作小説のアニメ映画化(湯浅政明監督)ですが、室町時代(足利義満の時代)を舞台に、実在したが今では1作も残っていない伝説的な能楽師・犬王を題材として、異形の犬王と琵琶法師の青年との熱狂的な音楽活動を描くアニメです。いやあメチャ良かった。特に京の河原でのライブパフォーマンスは圧巻(この時代にライブパフォーマンス以外の何があるというのか)。ツイッターで誰かが書いてた「室町ボヘミアンラプソディーでどろろ」というのがピッタリでした。最後の「どろろ」はネタバレになるので読み飛ばして下さいね。初めの方に出てくる幽霊のお父さんがランプの精みたいで可愛く、平家の怨霊たちもプランクトンみたいにわちゃわちゃして可愛かった。アヴちゃんと森山未來の室町ロックを思い切り堪能しました。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
コロナよりずっと感染力が強く危険な新型ウイルスが世界を覆う近未来。政府は《繭》と呼ばれる制度を作り、指定した期間、指定した地域からの外出を禁止した。物理的な繭があるわけではないが、人々は巣ごもりを強制され、室内で過ごさないといけない。許可されて外出が許されるのは原則として警官と、救急・消防やインフラのスタッフ、そして決められた時間内にペットの犬を散歩させる人たちだけである。ちょうどコロナで厳しい外出禁止令の出ている上海みたいな感じだろうか。ただしそうやって厳重に管理することで原則4週間程度で隔離は終わることになっている。
しかしニュースで聞く上海とは違い、こちらはみんな慣れているためか、いたって平和である。商店も閉まっているが、事前の通知で食料などは買い込んでいるし、自動運転の宅配はある。仕事はほとんどテレワーク。そんな中で主人公の警察官、交番勤務の水瀬アキオは街の見回りに出なければいけない。人気の無い街を彼は、AI搭載の猫型ロボット咲良と共にパトロールするのだ。そして事件が起こる――。
しかし何で猫型ロボット? 警察官といっしょにパトロールするなら犬でしょ。あ、そうか。犬じゃこの咲良みたいなエラそうな口をきかすわけにいかないもんね。そう、この猫型ロボットの咲良、やたらとエラそうで生意気なのである。そこがまたいいのだが。
本書は第一話から第五話、そして終章と6つの章で構成され、外出が禁止され人と人の接触が制限される中で起こる事件と、人間と猫型ロボットのコンビによりその解決が描かれる連作ミステリである。近未来の話で猫型ロボットも活躍するから、もちろんSFでもあるのだ。ミステリだからネタバレは避けるが、こんな事件が起こる。
第一話「逃げた犬と正しい《繭》の入り方」では、水瀬と咲良がパトロール中に無許可で外に出ている大型犬を見つける。人なつこいその犬の首輪のデータから飼い主の家へ行ってみると、玄関の扉には鍵がかかっておらず、一人暮らしの飼い主の男性は二階で死んでいた。事件性はなさそうだったが、水瀬はどこか引っかかるものを感じる。犬は交番でしばらく預かることになったのだが、次の日、犬の散歩を兼ねてパトロールに行くと――。
第二話「止まらないビスケットと誰もいない工場」では、街にあるビスケット工場に夜中に何者かが侵入したとの警報があり、水瀬と咲良が駆けつける。工場は完全自動化され、《繭》が発令されている中でもコンピューターにより生産ラインは稼働している。おいしそうなビスケットが次々と焼き上がる中、駆けつけた工場関係者の男性はビスケットをラインからつまんで食べ「うん。この味、この香り」と言う。この工場で働く人間は彼のような完成品の味見がその主な仕事なのだ。監視カメラに映った侵入者もビスケットをつまんでいた。他に目立った被害はなく、犯人はビスケットを食べに侵入しただけなのか。翌日、社長にも話を聞くが、水瀬はそこに何か不自然なものを感じる――。
第三話「消えた警察官と消えない罪」。同僚の警察官宮下が、《繭》もあと数日で終わるという時に交番を無断欠勤する。犯罪というわけではないが、いかにも怪しげな挙動。彼に何があって、今どこでどうしているのか。どうやら家族の待つ自宅の庭に潜んでいた様子がある。《繭》の期間にはうつ病を発症する警官がたまにいるという。宮下も何かストレスを抱えていたのか。どうやら咲良は何か知っているようなのだが、教えてくれない。日常業務のかたわら、宮下の行方を気にかけていた水瀬だが――。
第四話「猫の手は借りられない」は、4週間で終わるはずだった《繭》に突然1週間の延長が決まる。感染者の発生が続いていることからAIが判断したらしい。それまで比較的平穏だった街にそのニュースが流れると衝撃が走る。あと少しだと我慢していたのにと暴れ出す人、酔っ払ってくだをまく人、絶望してベランダから飛び降りる人……。そんな中、水瀬にはほのかなロマンスが芽ばえ、そして以前から気になっていたある家、窓も雨戸も閉め切っていた緑の家に全く物音がしないと咲良が疑惑を抱く――。
第五話「引きこもる男と正しい《繭》の終わらせ方」で、引き続きその緑の家の謎が語られる。その家には夫婦が暮らしているが、夫が部屋に引きこもったまま出てこないというのだ。妻の同意を得て咲良が様子を見に行くが夫は疲れ切った様子で顔を出し仕事に夢中になっていただけだと言う。警官がそれ以上口出しするわけにはいかないが、咲良はこの夫が何か怪しいと考えているようだ。民衆の反感を気にした政府の判断で《繭》の延長が3日に短縮され、人々がほっとした次の日、何と咲良がいなくなる。どうやらあの緑の家に拉致されたようなのだが――。
終章はいったん《繭》が終わり、休暇をとった水瀬の幸せそうな姿が描かれる。だがそこには終わらないパンデミックの不安がそっと影を落としている。でもこれが《繭》の季節を生き抜くための新たな日常なのだと、彼は心を強く持って前を向く――。
ユーモアミステリ(SFミステリ)である。パンデミックのウイルスが蔓延する封鎖された街の中で起こる事件を描きながら、殺伐としてはおらず、一人と一匹(?)の笑える会話と、死や辛いことや様々な哀しみはあっても、どことなくほのぼのと可愛らしい事件の数々。作者はもっと強烈な話も書けるはずなので、これはもちろんあえてそうしているのだろう。それはおそらく、現実にあるパンデミックへの一つの態度であり、そんなもんに負けへんでという作者なりの心意気なのかも知れない。
圧倒的な迫力と熱量。アガサ・クリスティー賞大賞受賞作にして本屋大賞受賞作。まだ新人なのにこの力量は一体どういうことなのだろう。素晴らしい。
第二次大戦の独ソ戦における女性狙撃手の物語である。戦争の悲惨さや不条理とともに、ある種のヒロイズムも描かれていて、ウクライナとロシアが血みどろの戦争を戦っている今、読むのに躊躇していた。でも今読んで良かったと思う。戦争というものそのものが持つ非人間性と、その中で生き、戦い、死んでいく人々にもそれぞれに勇気や偏見、弱さや強さ、誇りと頑なさが、そしておぞましく凄まじい環境の中でも日々の日常があることをあらためて思い起こさせてくれた。死ぬか殺されるかといった二者択一の恐怖と矛盾、命のやり取りをする場でさえ(だからこそか)現れる女性蔑視や差別、さらに現在へと続く民族問題。そういったものがセラフィマという素朴だった少女の目で描かれ、それが彼女自身の感情や意識の振り返り、見直しへとつながっていく。スナイパーとして過酷な戦争を生き抜いた後の、戦後の彼女たちのありさまを読んでほっとすると同時に、現在へと続く矛盾と理不尽さに心が締め付けられるようだ。
とはいえ、昔なら確実に一気読みしたはずなのに、もはや体力と気力が続かない。これだけ面白い話でもいったん中断すると次に手に取るまで時間がかかってしまう。とかいいつつ、後半はもう一気読みしてしまった。ドイツ軍によって村を焼かれ母を殺された主人公のセラフィマが優秀な狙撃兵となっていく前半と、実際に戦場に出てからの後半ではやはり緊迫感が違う。後半ではもう食事のために本を置くことすらもどかしかった。
前半もとても重い話なのだが、聞こえてくるのは人間のリアルな、声にならないうめきではなく、なぜかアニメの声優の声だったのはぼくの頭のせいだろうか。前半はセラフィマが女性ばかり(ほとんどがまだ10代の少女)の訓練学校で学習と訓練に明け暮れる話なので、学園もののアニメを思い浮かべてしまったのかも知れない。出てくるキャラクターの個性も豊かで確かにシスターフッドものとしても面白く読める。
だが後半にはもうそんななごやかさは影をひそめる。戦場での一見穏やかなひとときも、次の瞬間悲劇へと転ずる。今話していた彼も彼女も死体となっている。恐ろしいのはドイツ軍だけではない。味方も恐ろしい。心が折れて撤退しようとした兵士は処刑される。スパイはどこにでもいる。民間人も容赦されない。平時の倫理など通用しない。それでも、そんな中でもセラフィマは自分の信念を貫こうとする。その強さはどこから来るのか。母を殺され村を焼かれた復讐心でここまで来た彼女だが、今の彼女には変化があった。そう、同志少女にとって「敵」とは一体何なのか。
スターリングラードの想像を絶する市街戦を戦い、ウクライナ方面へ転戦し、ついにはドイツの敗戦が濃厚となったケーニヒスベルクでの戦い。あと少しでこの戦争も終わるというところでも、恐ろしいことは起こる。それにしても腕利きの狙撃兵というのは何とすごいものなのだろうか。
様々な人間が交錯し、ドラマが繰り広げられるこの小説だが、少女スナイパーの目で見るという視線に揺るぎはないので、ストーリーは混乱することはない。まあ何百万人もが戦う戦場で、こうも容易に出会いがあるというのはいささか偶然が過ぎるだろうと思うところはあるが、それは本作の瑕疵とは成らない。重い読後感ではあるが、物語にのめり込んだ。
21年の7月に出た児童書だが、今度第62回日本児童文学者協会賞を受賞されたというのでさっそく購入。何しろ短い児童書なので、重い戦争小説を読んだ後にはちょうどよかろうと、積ん読はそのままに先に読んだ。面白い。ほのぼのとしているが傑作だった。加藤久仁生さんの絵も可愛くて雰囲気があってとてもいい。
前作(といってももう7年前か)の『鈴狐騒動変化城』も傑作だったが、こちらはもっと普通に日常的な小説だ。ほのぼのとしていると書いたが、主人公の3年生の女の子モモヨはちっともほのぼのしていない。悪い子じゃないが、やたらと食い意地が張っていてちょっとオバかで思い込みが強くて元気で騒々しい。昔わが家にもこんなのがいたなあ。そしてオイモというのはモモヨの家でモモヨが生まれる前から飼っているワンコだが、とっても怖がりでちょっとしたことできゃへっと鳴いて白目をむいてはひっくり返る。でもオイモはときどきいなくなるのだ。
そして今日も暗くなったのにオイモは帰ってこない。中学生のお姉さんみどりもお母さんもあんまり気にしていないけど、モモヨは心配でごはんも食べられない。といいながらみどりのミートボールまで食べちゃった。次の日、おやつのプリンを食べてからモモヨは一人でオイモを探しに行く。田舎の坂道、河童がいるという池、竹藪を抜けると田んぼが広がり、森の向こうは裏山へと続く道がある。
そこには半分洋風の大きな家があり、レオンさんという上品なおばあさんが住んでいる。オイモはここにいた。なぜかレオンさんはオイモのことをジョンと呼ぶ。どちらの名前で呼ばれてもオイモは嬉しそう。
そんな出会いと日常を美しく懐かしい自然の描写とともにほのぼのと描きつつ、しだいに夢と現実、現在と過去が混ざり合い、モモヨの中で日常はふわふわとした曖昧なものへと変じていく。でもモモヨはそんなの気にしないもんね。リアルも幻想も過去も現在も小学3年生の女の子の中では区別はないのだ。
大人の視点で読めば、実際はどうだったのか明らかで、季節の移り変わりとともに段々と衰えていくオイモが切ない。静かな死と忘却のイメージ。中学生のみどりもわかっている。みどりは科学技術部で、アインシュタインを尊敬し、ロボットを手作りしているのだから(彼女の描写もとてもいい)。
レオンさんが不思議で、おばあさんだったり美人の高校生だったりする。モモヨは小さい頃に会ったはずだというのだが、それでは歳が会わない。やはりリアルというより、幻想の方に足を踏み入れているのだろう。レオンさんの住む半分洋風のお屋敷というのは神戸や阪神間ではよく見かけるし、雰囲気もわかる。庭からは海が見えるので、垂水から明石にかけてのどこかにモデルがあるのかも知れない。でもこれでモモヨが関西弁だったらちょっと雰囲気が変わってしまうかもな。
そしてやっぱり河童はいなかった。
『華竜の宮』、『深紅の碑文』などの〈オーシャンクロニクル〉シリーズに属する書き下ろし短篇集である。4編が収録されている。巻末にシリーズに関する作者自身の解説と収録作品へのコメント、さらに用語集がついており、新しい読者にもわかりやすくなっている。解説にあるとおり、本書の収録作はいずれも海上民からの視点で海上民の文化や生活、魚舟や海洋社会を描いている。重要な存在である魚舟については用語集にも簡単な説明があるが、ぜひ「魚舟・獣舟」を読むことをお勧めする。
「迷舟」。魚舟は台風などで所属していた海上民の船団からはぐれ、迷舟となることがある。主人公のいる船団にあるとき美しい迷舟が現れ、自分の魚舟を持たない主人公は船団のオサの許しを得てその迷舟を懐かせることにした。うまく懐けば自分の〈朋(とも)〉になってくれるかも知れない。懐かなければ去って行くだろう。それは魚舟の自由だ。短い作品だが、そんな海上民の生活や魚舟への愛情、そして地上民との違いや出産のあり方までイメージ豊かに描かれている。
「獣たちの海」では生まれたばかりの魚舟が大きく成長するまでの海での暮らしが、魚舟自身の視点で描かれている。擬人化された一人称の動物小説のようだが、魚舟はある意味人間なのだから、擬人化というのは当たらないだろう。かつての都市が海に沈んで廃墟となっている海底の様子とか、海洋生物としての環境認識、次第に目覚めてくる遺伝子の声とそれへの反発、自由への意思――それが例え悲劇を生むものであっても――が美しく、そして切なく心に迫る。
「老人と人魚」は『深紅の碑文』の後日談といえる。あの作品で暴れ回った元医師の男が、〈大異変〉を前に、今は死を待つ老人となってとある島でひそやかに暮らしている。そこへまるで人魚=ジュゴンのような見知らぬ生き物が現れる。生き物は老人に懐き、彼が島を後にして一人死出の旅に出るときもついてくる。生き物は集団からはぐれたルーシィだった。遺伝子改変され海底で生きることになった人間である。共にはぐれ者である老人と人魚の心の交流を描きつつ、やがて来る世界の破滅に思いを至らす。
「カレイドスコープ・キッス」は本書の大半を占める中編で、これもまた『深紅の碑文』からのスピンオフ作品である。作者は解説で「女性主人公とアシスタント知性体が相棒となるエピソード」を入れた作品であると書いている。だが読んでみるとそれも1つの要素には違いないが(アシスタント知性がとてもいい味を出している)、メインとなるのは〈大異変〉からのシェルターとして作られた海洋民のための海上都市に居住する「もと」海洋民の女性と、〈大異変〉を覚悟のうえ海に生きることを選択した船団のオサ(こちらも女性)の関係性を描く物語である。
船団生まれだが幼いころ両親が海洋都市に移住し、そこで育ったメイは都市と船団の調整役をする保安員となった。彼女はやがて抜擢されて巡視艇の艇長に任命され、海上都市に入りきれずにその回りを漂泊している船団を見回ることになる。その中に都市と軋轢を抱えている船団があった。メイはその担当となり、船団の新たな女性オサ、ナテワナと何度も話し合うことになる。ナテワナは伝統的な海洋民の価値観を大切にし、都市には不信感を抱いている。都市の方でも、彼女が海洋民の武装集団ラブカと関わりがあるのではないかと疑っている。さらに海洋民を敵視する地上民の事務官が現れ、メイはその調整に苦労することとなる。その中でメイとナテワナとの間にはある種の絆が生まれる。価値観の違いはあっても二人ともそれを認め合うのだ。
この種の物語では敵と味方がはっきりしていてすぐに圧制への闘争といったものに発展することが多いが、この作品では誰もが(一番悪役っぽい地上民の事務官でさえも)無益な闘争を抑え、価値観の違いを尊重してできるだけそれを摺り合わせしようと努力している。〈大異変〉という絶対的な悲劇を前にしている以上、全てが満足できるものではなく、そして『深紅の碑文』を読んだ読者はその行く末もまた知っているのだが。けれども本作はそんな大きな歴史の中での、その片隅に生きた人々によるささやかな営みを描いたものなのであり、結末まで気持ちよく読み終わることができた。キャラクターたちも生き生きとしていて読み応え十分である。