続・サンタロガ・バリア (第234回) |
ロシアのウクライナ侵攻がまだ続いている。長引けば長引くほど、悲観的な要素が増えていくなあ。そういえば古のプログレバンド、ルネッサンスが50年前に出したアルバム『プロローグ』に「キエフ」というのがあって聞き返したらなかなか良い曲だった。
友人から広島交響楽団がマーラー交響曲第6番をレナード・スラットキン指揮で演奏するという情報があって、ついでにチケットを予約してもらった。マーラーの第6番を生で聴くのは2回目の筈だけれど、前に聴いたのがいつだったか思い出せない。スラットキンは以前、モデル並みのスタイルで日本のコマーシャルにも出ていたヴァイオリニスト、当時二十歳のアン・アキコ・マイヤースをソリストにしたセントルイス交響楽団の演奏会を聴いたことがある。その時はブルッフのヴァイオリン協奏曲にバーバーの「弦楽のためのアダージョ」をやったのは覚えているけれど、ググってみたら1990年の来日で、オープニングは現代日本人作曲家の小曲、ブルッフはスコットランド幻想曲だった。後半はアイヴズ(ウィリアム・シューマン編曲)、バーバー、ガーシュインとオール・アメリンカン・プロだったらしい。まあ、アン・アキコ・マイヤースを見たいという不心得な動機だったので演奏の中身は忘れてて当然かも。
今や70代後半となりアメリカ生え抜きのベテラン指揮者になったスラットキンの指揮するマーラー6番は、数十人の客演奏者を加えた大編成の広島交響楽団を明確で軽快なリズムに乗せて踊らせるという、これまで古い録音で聴いてきた演奏に較べて、重厚さを感じさせないものだった。もうひとつビックリしたのが聞き慣れた6番の2楽章と3楽章が逆順に演奏されていて、かなりの違和感があったこと。あとでプログラムを読むと2003年にマーラー協会が曲順を変えたらしく、2010年に新版のスコアを出したとのことで、変更後の新しい録音を聴いていなかったので、ビックリするのは当然の話だった。とはいえ演奏そのものは面白く、とくに席からよく見えたコントラバスの動きを追っかけながら最後まで飽きずに聴けた。
因みにオープニングは、細川俊夫の「オーケストラのための『さくら』」で、昨年初演の予定がコロナ禍で流れたという、演奏会場に臨席した作曲者自身の曲紹介付きで演奏された短い作品。スラットキンは自身作曲もこなす現代音楽のスペシャリストらしいので、こういう現代曲の紹介に熱心なのかも知れない。
ちょっとめぼしいSF新刊が途切れたので読んでみたのが、『小説現代』4月号。表紙に特集が「もしもブックス」とあり、まるで昔の手塚治虫の漫画みたいなタイトルだけど、惹句は「歴史を変える『if」を集めた珠玉の競作」と振ってある。並んだ作家名が、小川一水、宮内悠介、伴名練、石川宗生で、こりゃ読んでもいいかもと思い買って帰った。
冒頭の宮内悠介「パニック―1965年のSNS」は、帰宅した商社マンが先ずすることは、黒電話専用端子とつながった日本電気製パソコン「イザナギ3」を起ちあげ、SNS「ピーガー」に接続し、白黒モニターに友人たちのスレッドを表示させることだった。そして、そこに現れた最新情報は「カイコウタケシ ベトナム ニテ ユクエ フメイ」・・・。
ということで、黒電話時代にパソコンでSNSが使えるという設定で、開高健がベトナムで行方不明になったというあの当時を髣髴とさせる話題を持ちこんで「パニック」と題してあれば、本筋は開高健をめぐるものになるのは当然、、テーマが倫理的なものという点でも分かりやすいSFだ。
石川宗生「うたう蜘蛛」は、タイトルからは生物学SFを思い浮かべるけれど、これは17世紀にイタリアの都市タラントで始まったといわれる踊りタランテラを、語源を同じくするタランチュラにかけて、パラケルススにその責を負わせる話。パラケルススというところがミソかな。こちらは気楽に読めて面白い。
伴名練「20001周目のジャンヌ」はタイトル通り、ジャンヌダルクが毎回火刑に処されて20001回目を迎えるまでというヒドい話。そんなことが何で起きるかというと、それは量子コンピュータ上のシミュレーションだからということになるんだが、基本的にはタイムマシンでも可能かな。
小川一水「大江戸石廓突破仕留」は「おおえどいしのくるわつきやぶりしとめ」と読み仮名が振ってある、改変歴史上の明暦3年の話。といえば振り袖火事と来るけれど、まさにそれが大ネタではあるが、そんなことはわかりきっているので、小川一水はどう料理したかがポイント。この作者らしい探偵役2人のバディもの(時代故の身分差があっても対等なところがいかにもだ)で、改変歴史にSFのオーソドックスなパターン絡ませて分かりやすく読ませる。
4作合わせて100ページしかないが、楽しめる特集にはなっている。他の掲載作は読んでません(篠田節子だけナナメ読みしたのはヒミツだ)。
昨年9月に文庫化された呉明益(ウーミンイー)『自転車泥棒』を読んでみた。『複眼人』、『歩道橋の魔術師』につづいて3冊目。文庫で450ページの長編だけれど、読後の印象は非常に長い物語を読んだような気分になる1冊。解説の鴻巣友李子は「自転車が主人公の大河小説」と要約している。訳者解説(訳者天野健太郎氏は本書を訳して間もなく逝去されたとのこと)によれば、タイトルそのものは大昔のイタリア映画から採られているとのこと。この映画は多分子供の頃白黒テレビで見たと思う。
語り手は小説家で戦前から戦後にかけて台湾で売られた自転車のマニア。『歩道橋の魔術師』に出てくる「中華商場」育ちということで、「中華商場」をルーツに持つ物語だが、この長編の場合それが主な舞台ではない。話の源は、かつて「中華商場」で仕立て屋をしていた父が当時高価だった自転車に乗っていたが、ひょんな出来事がもとで自転車を失うことが多く、「中華商場」を出た後に最後は3台/代目の自転車ごと父の姿も失われたという家の歴史だ。そして物語は解説にもあるように父の自転車をメインに自転車をめぐる一種のサーガとして展開する。
異常に詳しい台湾における自転車の歴史に止まらず、台湾に移入された日本の自転車にも言及があり、果ては戦時中にマレー半島で活躍したという日本の銀輪部隊の成り行きも1エピソードとしてページが割かれている。そして何よりも印象的な著者による、これまた異常に精緻な各種自転車のイラストのおかげで、ますます自転車が読み手を驚かすアイテムとして機能するのである。もちろん作家の家族や出合った人々がもたらしたエピソードもまたこの小説の面白さを支えているけれど、それらの人間ドラマをつなぐ自転車のモチーフの組立てが素晴らしい。
呉明益の語りのスタイルは落ち着いたものだけれど、語り手が女性関係に言及する部分はちょっと村上春樹を思わせるものがある。
どこかで今年はジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』が出版100年を迎えるという話を読んで、そういや書庫代わりのオンボロアパートにあったよなと、見に行ってみたらちゃんとあったので読んでみるかと思ったのが3月の初め頃。モノは河出書房新社版世界文学全集全100巻の内、第2集の第13巻と14巻。昭和39(1964)年の発刊で、持っていたのは上巻が昭和49(1974)年の15版で下巻が昭和50(1975)年の11版。
浪人時代にドストエフスキーを読んだと以前に書いたことがあるが、その最初がこの全集の『カラマーゾフの兄弟』だった。昭和50年は大学に入った年で多分勢いで買ったのだろう。その証拠に上巻の栞ヒモはクチャクチャだが、下巻は新品同様で全く開いた痕がない。おそらく当時のボンクラな若者には話が退屈な上に大学で遊ぶのが忙しくなってほっぽらかしたものと思われる。もっともいまや高齢者となった身には小さくて掠れのある活字、とくにルビが非常に見えにくいのに閉口することになったが。とはいえ一応ひと月半ほどかけて「イエス」で始まり「イエス」で終わる最終18章まで読み終えた。ちなみにこの最終章は「おおえどいしのくるわつきやぶりしとめ」みたいに全部ひらがなのつながった文章で訳されている。
『ダブリン市民/ダブリナーズ』も『若き芸術家の肖像』も読んでないのにいきなり『ユリシーズ』を読むのはやはり邪道だなあ、というのが基本的な感想だけれど、20世紀の記念碑的な創作といわれる作品の片鱗はちょっとだけ感じ取れた気はする。未だに全訳としてはこの丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳がスタンダード(改訳版が文庫で読める、この訳に不満な柳瀬尚紀訳は未完で同じく研究者訳もあるけれど一般的ではない)なのはいかがなものか思うけれど、この60年近く前の翻訳でも原作の奇っ怪さは充分汲み取れる。要は若きインテリ、スティーヴン・ディーダラスと中年(まだ40才前なのに)の新聞の広告取りレオポルド・ブルームが1904年6月16日にダブリンでどういう一日を過ごしたかというレポートではあるんだが。ただし最終章には、ブルームの妻であるモリーのとりとめないが圧倒的な「意識の流れ」が置かれており、そこではスティーヴンもブルームもその素材となって(読み手も一緒に)渦に巻かれている。
ジョイスが行った有名な叙述実験は、いかに日本語で工夫を凝らそうとおそらく原文のもつ感覚とはかけ離れていると思われるが、その「読みにくさ」の工夫が原文の持つ「読みにくさ」を反映していることはある程度信用していいかもしれない。現在はプロジェクト・グーテンベルクで原作の全文が読めるので、これはというところをいくつか見てみたところ当方の英語力では理解不能な文章もいっぱいあるが、すくなくとも分かる範囲では基本的には26文字しかない英語の文章の方が漢字カナまじりにルビの多用という煩雑な日本語よりはすっきりして見えることは確かだ。
さて、これを読んで思ったことはいくつかあるけれど、そのひとつがエンターテインメント性はどこから来るかと云うことだ。
作者によれば1904年6月16日にダブリンで若者と中年の男が過ごした1日は、いわゆる平凡な1日であるとの設定である。メインキャラ2人の主な行動をごく簡単にまとめると、スティーヴンは朝、友人と別れて勤め先の校長の頼みを聞いて行動し、ブルームは妻モリーに朝食をベッドまで運んだあと広告取りの仕事と知人の葬式へ故人の友人に混じって出席するという日常の雑事をこなす。午後には海岸で休んでいたブルームが、たまたま近くに遊びに来ていた美少女をネタにオナニーをするなどと云うケッタイなエピソードを挟んで、知り合いの女性の出産見舞いに病院へ行き、そこにはスティーヴンを含め何人もの男が集まり、出産を見届けたあとスティーヴンはいかがわしい店で酔っ払い、付いていったブルームは悪夢のような店からスティーヴンを連れ出して馬車屋の休憩所で酔い覚ましをしたあと、ブルームは家へ連れ帰るが、スティーヴンは泊まって行けというブルームの勧めを振り切って出て行ってしまう。そして最後の「イエス」で始まり「イエス」で終わるモリーの「意識の流れ」に行き着く。
まともなあらすじが知りたい人はググってもらうのが良いとして、なんでこんな雑な要約をしたかを云うと、ダブリンの2人の若者と中年男のこれと云って重要なこともない一日の動きを追っただけという設定が、作者のもくろみによって『オデュッセイア』における10年に及ぶ放浪と冒険に見立てられ、原作にある最後の復讐劇と物語の成就は女の官能の言葉で埋め尽くされて、物語全体は寝取られ亭主の帰還/帰館というセックスと笑いの喜劇にすり替られたことで、他人(読み手)にとって退屈な他人(キャラ)の一日の成り行きがまるでオペラ・ブッファ/喜歌劇の様相を呈するものに仕上がっているということを云いたかったからだ。
無名の人々のありふれた1日の行動と思考を創作して、エンターテインメントとしてどれだけの魅力を発揮させることが出来るかを考えると、『ユリシーズ』から作者の企みにあたる操作を取り除いて、冒頭のスティーブンの友人(?)が朝のヒゲ剃りをする場面の叙述をそのまま続けていけば、見事な文体で書かれていてユーモラスでエキセントリックな良作だが、エンターテインメント性はあまり強くない作品に仕上がっていただろうと思われる。ジョイスが『オデュッセイア』の放浪する英雄の物語という骨組みを凡人の1日の行動にシンクロさせて目の回るような実験的な叙述を纏わせることで、次元の違うエンターテインメント性を生み出すことが出来ると思いついて、何年も掛けてそれを満足いくレベルで実現して見せたことで、後の読者はその読みにくいことこの上ないその工夫から尋常ではない面白さを感知させられて、最後の読みにくさマックスなご褒美にたどり着く。
ジョイスが30才から40才になるまでの10年弱をこの作品の執筆に費やして出来上がった発明は、100年経つあいだに小説作法の道具(日常生活の神話化の作法)として(縮小)再生産されてきたのかもしれない。マルケスに代表される中南米のマジック・リアリズムや、もしかしてSFやファンタジーも含めて。その点、近代日本の「純文学」はエンターテインメント性を独特のスタイルに育てたような気がする。まあ、ジョイスの方法論はいまさらどうこういうこともないという意見もあるでしょうが。
1904年の6月なので、日露戦争真っ最中だなあ(チラッとだけ言及がある)とか、アインシュタインの相対性理論発表直前の時代にジョイスのテクノロジーに対する理解は的確だとか、ほかにも感想はあるけれどまたの機会に。
新☆ハヤカワ・SF・シリーズから出た郝景芳(ハオ・ジンファン)『流浪蒼穹』は600ページを超える分厚い1冊。お値段も税込みで3000円超。
時代は火星が地球との独立戦争に勝って暫く立った頃。戦争の英雄たちは年老いて表舞台から去って行ったが、火星総督は未だ健在だった。そんな時代に物語の主役である総督の孫娘ロレインは、若者で構成された地球への使節の一員としての役目を終わって火星に帰ってきた・・・。
自由主義的な地球の体制と厳しい自然条件の中で独立を果たして厳格な統制の下に社会を運営する火星、その両方の文化を経験した特権的立場にあることを含め、自分の生き方に悩む若い女性・・・となれば現代の中国と西側諸国の対立をナイーヴに映し出したヤングアダルトSFというのが本書の基本的な印象であるのは間違いない。
600ページを超える物語の中で、スペクタクルというべき出来事も多くはなく、それもセンセーショナルな形では描写されない。この作者の創作作法がそちらに向かわないことは、あの豪快なアイデアを実現した「折りたたみ北京」の描き方を見ても明らかなとおりだ。だからこの物語の真価は、祖父が総督であることで両親を早くに亡くしたヒロインをはじめとした主要キャラクターの思いと行動、それがここに設定された火星環境ではどのようになるのか若しくはなったのか、そういうことがじっくりと書き込まれて読み手を引っ張っていくところにある。ハオ・ジンファンはル・グィンに近いのかも知れない。
文庫書き下ろしという林譲治『不可視の網』は、そのタイトルからしてAI監視型ディストピアものを予想させるけれども、そして確かにそういう骨組みなんだけれども、物語としてはなんとノワールだった。
予想のナナメ上を行った物語を読まされて思ったのは、SFとノワールは相性が悪いんじゃないかということ。まあ、この作品に限ったことかも知れないけれど。
ノワールとしては当然のプロットではあるけれど、AIテクノロジーの人間の幸福を志向するアルゴリズムや枠設定が人間の性向に寄り添うことで無意識的な自発ディストピアを達成してしまうと云うSFとしてのテーマが、ノワールの物語をメインに置いたことによりそのテーマ性が脇役になってしまっている。特にプロローグの、バールで憎い女の顎を砕いて無慈悲に殺人を犯す女が、ノワールという設定にふさわしくエピローグの時点で再起して、システムの歪みを矯正することでAI監視型ディストピアに対するワクチンとなったはずのサイバーシステム・エキスパートたちが感知できない場所に立つ、というのはSFの面白さではないだろう。ノワールとしての面白さは充分だけれど、SFとは水と油な感じがする。
『不可視の網』のすぐあとに読んだこともあって、非常に好感度が上がってしまったのが、春暮康一『法治の獣』。人類が宇宙進出することでファースト・コンタクトが頻繁に起こる様になった世界(作者によれば、「(太陽)系外進出/インフレーション」シリーズ)のエピソード3篇を収めた中編集。
デビュー単行本『オーラリーメイカー』収録の2篇もこのシリーズに入るんだそうで、自分の感想をインデックスで見たら、特に高く評価した形跡もないが不満もなかったようだ。その時に較べると今回はとても気持ちよく読み終えることが出来た。
この作者の作品が好ましく思えたのは、まずファースト・コンタクト自体をSFの共通財産としてあえて受け入れて、そこにハードSF的な考察と論理を組み込んで、あくまでも人間側のドラマとして成立させていることだ。鏡明さんが何度も強調しているように、SFとは倫理的な物語であると云うことが、この作者の物語づくりから強く感じられることで、そのチョイスがいかに理想主義的な危うさを帯びていようとも支持したくなる性質を持っている。その点は小川一水などとも共通したモラルかも知れない。
リーダビリティは書き下ろし作の方が上がっていて、巻末の「箱舟荒野をわたるは」は珍しく一気読みした。どんな話か知りたい人は山岸真さんの巻末解説を立ち読みしてね。
4月最後に読了したのが武甜静(ウー・テンジン)、橋本輝幸、大恵和実編『走る赤 中国女性SF作家アンソロジー』。14人の短篇を収めた1冊。驚くのは生年未詳の作家を除き現時点で全員30代という若さ。1984年生まれの夏笳(シアジア)と郝景芳(ハオ・ジンファン)が既訳が多くベテランに近いイメージがあるが、若手の王侃瑜(ワン・カンユー)が90年、蘇民(スーミン)が91年、靚霊(リャンリン)が92生まれで、14人もの作家を擁したアンソロジーとしては収録作家の年齢にばらつきが少ないともいえるかな。
冒頭の夏笳(シアジア)「一人旅」は宇宙を旅する老人の孤独感と立ち寄った惑星の荒涼とした感じがマッチした作品。
靚霊(リャンリン)「珞珈(ルオジア)」のタイトルは武漢大学の中にある山の名前とのこと。ブラックホール研究所の事故で、身を以て不足質量70キロを補うため、ブラックホールに飛び込んだ男の話。
非淆(フェイシャオ)「木魅(こだま)」は、幕末の日本に黒船と呼ばれた宇宙船が降り立ち、江戸幕府と結びついた異星人(木魅と呼ばれる)が貴顕暮らしをしている話。作者は88年生まれで靚霊(リャンリン)同様武漢大学出身とのこと。
程婧浪(チョン・ジンボー)「夢喰い貘少年の夏」は、こちらも舞台は日本の三重県だが、時代は近代で、名門絵師狩野家の血筋を持つ大学生がバッグに少年を詰めて東京から帰ってきたところから始まるファンタジー。主人公の名前が狩野楠なので熊楠を思い出してしまう。
蘇莞雯(スー・ワンウェン)の表題作はVRゲーム世界のエラーで「お年玉くじ(赤色)」に取り込まれてしまったしまった女性スタッフの危機を描いた1作。くじが引かれるのを免れるため走る。
顧適(グーシー)「メビウス時空」は、交通事故で首から下が麻痺した主人公が一種のロボットである副体からVR世界への移行とかいくつか勧められるままに身体を取り戻すことを試す・・・。表題のアイデアとテクノロジーによる身体復活の関係がやや分かりにくい。
noc(ノック)「遙か彼方」は4つの掌編からなる1作。サイバースペースの廃墟で幽霊に会う話からはじまるが、各エピソードはつながっていない。表題作が最後に置かれている。これは白鳥座X-1に意識を送り込む話。
郝景芳(ハオ・ジンファン)「祖母の家の夏」は田舎の祖母の家を訪れた孫がおばあちゃんのユニークさを語る話。話の旨さは格別。
昼音(ジョウウェン)「完璧な破れ」は、量子コンピュータ研究者の彼と言語学を学んだの私の恋の成り行きと、私が調査先で出合った少女とその母親を助けるための「完全言語」の追求の物語。
糖匪(タンフェイ)「無定(ウーディン)西行記」は、時間が遡行する世界に北京からペテルブルグへ道を造ろうとするウーディンがメインキャラだが、世代交代バディものでもある。ほっとけば道は出来るでしょ、とも云われる世界での執念の物語。
双翅目(シュアンチームー)「ヤマネコ学派」は、1603年に植物学を研究していた18才のイタリア青年貴族と3人の仲間によって結成された団体で、21世紀の現在も活動中の、HP(イタリア語なので読めません)もある実在の学会の名前から思いついた1篇。この作品にあるようにガリレオが会員だったのは事実だけど、本物のヤマネコが会員にいたわけではない。
王侃瑜(ワン・カンユー)「語膜」は、滅び行く母語「コモ語」に執着する母親と、母語を強制されても結局英語話者となった息子の葛藤。バベル翻訳会社の「コモ語」変換ソフト開発が絡むことによって「語膜」が出てくる。
蘇民(スーミン)「ポスト意識時代」は、説明症みたいなマニュアルしゃべりが止まらなくなった人々を描いたサタイアだが、哀しさの漂う1篇。
トリは慕明(ムーミン)「世界に彩りを」は、電子チップ付きの網膜調整レンズを目に入れておくのが流行になった時代の視覚をめぐる物語。盲目とされるホメーロスが『オデュッセイア』で描いた海の色が何度も出てくる。
どれも現代的といえば現代的な作品群で、テーマもバラエティに富んでいる。小説としては慣れているせいか夏笳(シアジア)と郝景芳(ハオ・ジンファン)が読みやすく、全体的には生真面目さが感じられる。目次では2,3編ずつまとめて内容に合わせて「宇宙」とか「和風ファンタジー」などと分けられているけれど、ちょっと中途半端かな。
なお、本書は橋本輝幸さんの解説で中国のSFメディア兼エージェンジーと説明されている「未来事務管理局」所属の武甜静(ウー・テンジン)氏(序文を担当)が企画したアンソロジーとのこと。