もう二か月近く前になりますが、三月で東京大学を退職された金子邦彦さんの最終講義がオンライン開催されて、聴講者800人というとんでもない会になりました。集客力にびっくりです。
金子さんと言えば、日本の複雑系研究の最先端に立ち続けた研究者で、特に近年は精力的に生命現象を議論してきました。もっとも、SFファン的には円城塔の生みの親という方が通りがいいかもしれません。金子さんがかつて出されたエッセイ集『カオスが紡ぐ夢の中で』に『進物史観』というSF小説!が収録されていて、そこでは小説を書くAIが進化し崩壊していく過程が描かれています。その小説家AIのひとつが円城塔でした(たしか、これ全体で名字だったと記憶しますが)。だから、僕たちが読んでいる円城塔の作品群も実は金子さんが生み出したAIが書いたのかもしれない。
さて、ここで取り上げたいのは、その金子さんの著書『普遍生物学』(東京大学出版会、2019)です。これはばりばりの専門書なので、みなさんに読むことをお勧めするつもりはありません。副題に『物理に宿る生命、生命の紡ぐ物理』とある通り、物理学の観点から生命現象を捉えようという野心的な内容です。
物理学と生命というと、まずはエルヴィン・シュレディンガーの『生命とは何か』を思い出します。生物は負のエントロピーを食べて生きているという有名な言葉で知られるこの本は、生物を物理の観点から捉えることを目指し、それが勃興期の分子生物学に大きな影響を与えました(この本が分子生物学を生んだと言えれば美しいのですが、歴史はそうではありません。デルブリュックはじめ、多くの研究者が似たような問題意識を同時多発的に持ったのでしょう)。
今では分子生物学は完全に生物学の主流になりましたが、じゃあ生物学は物理学的な観点を自分たちのものにしたのかというと、そこはいささか考えるべきところがあり、分子生物学はちょっと要素還元論的・部品主義的になりすぎたようにも思います。まあ、たしかに要素還元論は物理学のお家芸ではあるのですが、「生命の物理学とはそういうものでよかったのか」という疑問はあります。それなら生命の物理学はどうあるべきか、それを考えてきたのはいわゆる複雑系の研究者でしょう。
物理学は要素還元論的だと書きましたが、同時に物理学が重視するのは「普遍性」(Universality)です。たとえば、強磁性体の温度を上げると、特定の温度で常磁性体に変化する「相転移」現象があります。相転移の代表といえば、水が水蒸気に変化する現象ですが、実はこれと磁性体の相転移とは数学的に完全に同じです。原理的には全く同じ理論で記述できてしまう。これが「普遍性」です。相転移現象は初期宇宙から僕たちの身の回りまであらゆるところに見られて、それがある程度統一的に記述できる。もう少しちゃんと言うと、対象が全く違っていても対称性と空間次元が同じなら相転移現象は完全に同じになります。これは1970年頃の物理学での大発見で、いわば物理現象の見方に大変革が起きました。繰り込み群の手法によってこの方向性の主導的な役割を果たしたケネス・ウィルスンはノーベル賞を受けています。
もっと単純な話としては、ニュートンはリンゴが落ちるのと惑星運動が同じ理論で記述できると言ったわけです。これもまた普遍性です。物理学は普遍性を求める学問と言ってもいい。その点で、むしろ多様性に注目する生物学とは少し思想が違うように思います。そこに橋をかけるのがこれからの生物物理学あるいは物理生物学であろう、それを「普遍生物学」と呼んではどうか。
この「普遍生物学」という言葉を提唱したのは実は小松左京です。金子さんの本の前書きにも書かれている通り、『継ぐのは誰か』の中に普遍生物学が登場します。『継ぐのは誰か』がすぐに出てこないので、金子さんの本の冒頭に引用されている部分を孫引きで引用しておきます。『普遍生物学—この宇宙における生命現象の普遍的パターンと、そのバリエーションの可能性を探る生物学で、前世紀末から急速に拡充しはじめた。まだ理論的推論の域を出ないが...』SFファンとしてはこの普遍生物学という学問分野に注目せざるを得ません。
生命の「一回性」は長く認識されてきました。地球の生命はすべて共通祖先から進化したもので、だから僕たちはたったひとつの生命しか知らないわけです。しかし、宇宙を探査すれば全然違う生命が見つかるかもしれない。これはSFの主要なテーマで、『ソラリス』あたりがその極北に位置します。宇宙に生命を探索する理由はいくつもあるでしょうが、ひとつの大きな理由は「別の星の生命と地球の生命では何が共通なのか」を知ることです。まあ、使える物質が限られるので(水の特殊性は重要でしょう)、実際に発見してみると多様性は意外に低いのかもしれません。
1980年代末に人工生命という研究分野が生まれて、たくさんの刺激的な研究が行われました。あれもまた生命の普遍原理を探るのがもともとの動機だったと思います。だんだん工学的になっちゃって、そういう動機は薄まって変質してしまった印象ですが、サンタフェ研究所で開かれた第二回人工生命国際会議の記録は今読んでもとても刺激的です。
もちろん、ひと口に普遍生物学と言っても、現実に研究するのはなかなか難しいところがあるし、金子さんの本もひとつの方向性を示しているに過ぎないのですが、小松左京の夢を追って普遍生物学を目指す研究者たちが(多くはないにしても)いるのは希望です。いつか生命の統一原理が作られて、地球の生命も宇宙の生命もコンピューターの中の生命も同じ原理で語られる日がくるかもしれません。普遍的な統一原理はあるはずだと思うんですよね、個人的には。
普遍生物学の端っこくらいには触れられたかなという論文を最近出しました。プレスリリースがあるので、ご興味のあるかたはぜひ。
進化は変異に対する頑健性を強化し、新しい形質の出現を遅らせる―進化現象を数理的に研究するための新しい計算手法―
ここで何か普遍生物学的な創作SFを掲載できるとかっこよかったんですが、残念ながら、アイデアがまとまりませんでした。そのうち何か書ければ。
それから、ツイッターに連載したマイクロノベルを50作集めた電子書籍『飛行船の日』というのを作りました。角川のBook WalkerとAmazon kindleで販売中なので、よかったら読んでみてください。マイクロノベルは北野勇作さんが精力的に書いておられますが(既に3000作超!偉業です)、ショートショートとも違う独特の形式で、この先いろいろ面白いことが起きるんじゃないかなと思っています。
ではまた