続・サンタロガ・バリア  (第233回)
津田文夫


 Ⅰヶ月以上経つのに、ロシア軍のウクライナ侵攻が続いてますね。ウクライナ軍や同国民の抵抗が奏功した結果でしょうけど、でも早く停戦になって欲しい。ロシアの行為に沈黙している国がかなりあるけれど、以前イラク戦争を仕掛けたアメリカにいの一番で支持を表明した日本にそれらの国を批判する資格は無いんだろうなあ。

 のっけから暗いので、昨年から今年にかけて聴いたCDのことでも書いておこう。この1年で一番驚いたのが、昨年末に出て評判の良いカエターノ・ヴェローゾ10年数年ぶりの新作『meu coco』(「僕の脳ミソ」という意味らしい)。御年80才になろうかというのに、ジャケットも白髪のカエターノの額から上を合わせ鏡に映したもので、見開きにも腕を組んだカエターノをおでこを中心にしたユーモラスな全身写真がが収められている。ポルトガル語は分からないけれど、70年代後半頃から続くカエターノのイメージを裏切らないアルバムだった。云ってることは分からなくても、カエターノが敬愛するブラジルポップス界の有名歌手たちの名前が歌われている曲が複数あり、「ANJOS TRONCHOS」という曲では、シェーンベルク、ウェーベルン、ケイジといった現代作曲家の名前が引用され、歌の終わりにはいま流行のビリー・アイリッシュまで出てくる。ミュージシャンになった子供たちや昔なじみのベテランの力を借りて衰えを感じさせない作品だ。そういえば昨年は50代半ばの女性歌手マリーザ・モンチも新作を出していて、ついでに聴いてみたらこちらも元気いっぱいな良作だった。

 クラッシックの方は数年前からアンドリス・ネルソンス指揮のボストン交響楽団でショスタコーヴィチの交響曲全集を買うようにしているのだけれど、こちらはまだ2番3番12番13番の4曲が出ていない。ネルソンスはラトビア人なのでロシア指揮者追放策にはかからないと思うがハテ。クラッシックではほかに、これが出るのかとビックリしたのがバーンスタインが50年前に出した自作の『MASS』(ミサ)。50年前は2枚組LPだったと思うけれど、当時高校生だった身には優先度が高くなく見送った1枚(2枚だけど)。今聴くと当時のフォークロックを取り入れた折衷的な綜合舞台芸術(ミュージカル?)みたいで、ミサのラテン語文を使ってはいるけれど、どちらかというと「ウェストサイド・ストーリー」的な感触が残る。

 ロックの方は新しいものは聴かずじまいになりつつあって、ちょっと前に出た「ロック黄金時代の隠れた名盤60~70年代」から昔気になっていたけれど買わなかったものを中心に20枚位聴いた。その中で一番気に入ったのがサンディ・デニー。もちろんツェッペリンの「限りなき戦い」は半世紀前にリアルタイムで聴いていたけれど、その時は大して気にしていなかった。ところが20年位前のSHM-CDサンプル版に入っていた「Listen, Listen」が妙に耳に残っていて、その詩的なタイトルを覚えていたファースト・ソロアルバム『海と私のねじれたキャンドル』(これは日本独自のタイトル)を買って聴いたら俄然ハマってしまい、セカンド・ソロやフェアポート・コンベンション時代のものも集めたのだった。まだフォザリンゲイや31歳で亡くなる前のソロなどは聴いてないけれど、魅力的な声の持ち主だったと思う。

 全集最終巻『広瀬正・小説全集6 タイムマシンのつくり方』は10ページ以上の短篇8作とそれ以下のショートショート16作、それにハインラインの時間テーマの代表的中篇を徹底的に読み解いた「『時の門』を開く」を収めた1冊。解説に筒井康隆。
 巻末の初出を見ると昭和46年の発表作が3篇、それ以外はすべて昭和36年から39年までの作である。解説で筒井康隆が言うように広瀬正には初期短篇時代と空白期と後記長編時代があるのだということがよく分かる。しかも昭和39年に念願の『SFマガジン』に平賀源内ものの「異聞風来山人」と日本海海戦ものの「敵艦見ユ」を載せたところで、短篇断筆状態に入っていると筒井は云う。編集長の福島正実(及びSFマガジン読者)の広瀬作品への評価の低さにその原因があったと見ているようだ。また筒井は、このころ(昭和38年)から広瀬正は長編を書き始めていたと推理し、自分が東都SFシリーズの編集者に長編を見せて没にされたとき、その編集者が広瀬正の長編をも没にしていたといい、筒井はそれが『マイナス・ゼロ』だったのではないかとしている(このことは東都SFシリーズの編集者だった原田裕が2010年に書いた文章で眉村卓の『燃える傾斜』に続く第2弾として用意していたのが『マイナス・ゼロ』だったと回想している)。
 本来は広瀬正の短篇群の感想を書くべきなのだけれど、筒井康隆の力の入った解説が強い印象を残したので、ついそちらへ気が惹かれてしまうのだ。筒井は「『時の門』を開く」における広瀬正の徹底したタイムパラドックスの読解を読者に知ってもらうために、「時の門」自体が当時入手困難(HSFSの『SFマガジン・ベストNo.4』の収録作)であるとして7ページを費やしてその物語の要約を作成しているのである。人気が出て忙しくなったプロの作家が、故人となった作家への思慕の強さを伝えるためにここまでやったことには感心する。また高齋正が以前の月報で書いていたように、筒井もまた『マイナス・ゼロ』を単行本化した河出の編集者龍円正憲に言及しその功に報いており、広瀬正への、この全集を以て瞑すべし、の思いが伝わる。

 めぼしい新刊SFが減った時期に、文庫落ちした作品をいくつか読んでみた。
 六角光汰『太陽系時代の終わり』は、元本が2017年に出た「第1回草思社・文芸社W出版賞金賞受賞の本格SF」とあるが、全く記憶にないのでググってみたけど言及した読書人がほとんどなく、キップ・ソーンのノーベル賞受賞にちなんだ堀晃さんの心優しい紹介文くらいしか見つからなかった。
 目次を見ると、プロローグがあって第1章「5億年ぶりの邂逅」、第2章「さまよえる小惑星」で、エピローグとなっている。普通は第1部と第2部だろうに、とか思いつつプロローグを読むと―
 火星・木星衛星連合と地球連合に齟齬が生じている2270年代、テラフォーミング中の火星の軌道上ステーションにいる15才の少女が登場。地球出身で、「祖先」と呼ばれる超古代種族(5億年前)が残した失われた技術である「慣性質量制御装置/IMC」の研究を木星軌道の施設で行っている父から、彼女が6歳の時に発生したというIMC研究施設での事故に関する父の報告書が、突然彼女の脳内量子AIに送られてきた。驚いた彼女はその報告書を読み始める・・・ということで、報告書の中身が第1章と第2章になっている。
 この小説が不思議なのは、結構手堅い科学的考証がなされているのに、物語はスペースオペラ時代のプロットを採用していることだ。超一流の科学者の書いた事故最終報告書がスペースオペラでは、いくら現代科学の用語や理屈を分かった風に並べられてもまともな評価は得られないだろう。
 エピローグでは報告書を読み終えた少女が、IMCを含め「祖先」の研究を決意するところで終わっているが、本来タイトルが意味する物語はここから始まるべきものなのだった。だから、目次が2章分なのは正しいのだ。

 倉数茂『名もなき王国』は、親本が2018年に出た1冊。帯に大森望が引用されているが、解説とかは付いていない。
 さすがに『太陽系時代の終わり』のあとで、小説の企みでいっぱいの作品を読むとその文体や仕掛けがちゃんと機能していることにちょっとした安心感が生じる。「序」で「作者」は、この物語には作者を含め物語という病に憑かれた3人の主要な登場人物がいると云い、そこには「作者」の2018年現在の倉数茂と同じプロフィールが書かれているが、この「作者」は私自身もまたひとつの虚構であるとメタフィクション宣言をして、読者を幕開きに誘っている。
 実際の物語はさまざまな長さの物語の集積になっていて、3人のそれぞれが書いたファンタジックなものから夫婦の別れ話や「作者」の社会人としての転落物語などが語られていく。どのエピソードもエンターテインメントとして充分機能しているが、行き先は見えないまま最後まで読者を引っ張る。そして最後の最後で訪れるいわゆる屋体崩し的結末はなかなかに印象的だ。
 この作家は以前『始まりの母の国』を読んだ覚えがあって、本連載のバックナンバーを参照したら、物語づくりのバランスが悪いみたいなことが書いてあった。それに較べるとこの作品はバランスがどうのとか云うレヴェルを超えた構成になっていて、その点ではマスターピースを達成していると云っていい。

 親本が出たとき改変歴史SFとしても評価の高かった佐々木譲『抵抗都市』も読んでみた。2019年の作。少し前にこの作者のSF/ファンタジー系短編集を読んだときは、手堅いエンターテインメントが書ける作家だと思ったが、文庫で600ページを超える刑事(作品内では特務巡査)捜査ものの長編でもその手堅さは変わりない。
 物語は、日露戦争に負けた日本の東京を舞台に戦争帰りの警視庁の刑事を視点人物にして、彼が西神田署の巡査部長とコンビを組み、ロシアの統監府が置かれた東京の街で起きた殺人事件の身元不明の被害者を特定する捜査進める形で動いていく。 そこへ警視総監直属の官房室(高等警察)が絡み、ついにはロシア軍憲兵隊の中尉も絡んで、被害者の特定と殺された理由を調べる内に話のスケールはどんどん大きくなっていく。
 作者は、大津事件をなぞったプロローグで始めているものの、日露戦争敗戦の理由とかにはあまり言及せずにロシア統治下の東京の様子を細かく描いており、あくまで必要な舞台のリアリティ以上に改変歴史の経緯には立ち入らない。それはそれでひとつの見識で、あくまでも刑事捜査ものとしてのエンターテインメント性を優先し、所謂プロパーSF的な理屈を避けて読み手には余計な負担がかからないようにしている。物語の面白さのためにSF的な設定の骨組みに言及しないことが作品世界のリアリティをつくり出しているのだろう。ここら辺がSFファンとミステリファンの境界線なのかな。

 文庫化されたものがたまたまに目に付いたときに読みたくなる作者と云うことで、堀江敏幸『オールドレンズの神のもとで』を読んでみた。親本は2018年、3月に文庫化。
 真っ白な表紙にタイトルと作者名、真っ黒い帯には「大事なことは、少し遅れてやってくる」という収録作品(見開き2ページ足らずの掌編)からの引用と、「彩り豊かな至高の18篇」とシンプル。「至高の」はさすがに言い過ぎだけれど、50ページ弱の長い短篇と短い短篇/掌編17篇で200ページしかない1冊。巻末に作者の各編の初出にまつわる解題と感想が付いていてお得感がある。
 いろいろなところからの主に掌編の注文に応じて書かれた短い作品の中で、唯一長い短篇である「果樹園」は、1990年代中頃に『文学界』から依頼されていた1篇で、実際に雑誌に掲載されたのが2007年というシロモノ。話は、ケガをした老齢の飼い主に代わって、こちらは事故からのリハビリを兼ねて軽い運動と小遣い程度の収入を得るため、人なつこい犬2匹の散歩を引き受けた語り手の散歩道中ものである。語り手は2匹の犬の動きの様子から犬同士の関係をかなり細かく観察している。枝葉末節はいろいろあるが話の基本はそれだけである。それで充分なところにこの作者の魅力が浮かび上がる。
 この作品は、収録作をⅠ、Ⅱ、Ⅲに分けている内のⅠに入っている。この分けの説明はないが、Ⅰに入れた作品には現実からの飛躍があまりなく、Ⅱの中の作品はすこし毛色の変わったものが、そしてⅢには巻末の表題作のように、写真家植田正治の写真集のいくつかの写真をもとに書かれたシュールレアリスティックともいえる作品が入っている。
 表題作の解題で植田正治はベス単カメラを使って写真を撮ったという話がでてくるが、最近どこかでベス単の話を聞いたような気がするのだけれど、ハテ。

 月初めに出ていたのに20日頃まで気がつかなかった佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』は、18世紀フランドル地方の街の亜麻糸商人の家に生まれた男女双子の姉ヤネケと、商人の親友だった父を失い商人に引き取られた少年ヤンが共に育ち、結婚こそしないが共に白髪の生えるまでを描いたコメディ。これまでの作品の中では『醜聞の作法』や『金の仔牛』と感触が似ている。
 ヤネケは超聡明なリケジョタイプ。性の目覚めのころには、やっぱり聡明な双子の弟テオでは用を為さないので、率直でデキる男の子ヤンを相手に手に入れたポルノを参考に48手を繰り返したあげく妊娠、10代で子を産んだのち近くの一般女性信徒のための疑似修道院ベギン会に入れられる。ヤネケは趣味の天文学や経済学に没頭できるとヤネケに恋い焦がれるヤンを置き去りにしてベギン会に居座り、その間に弟テオが早死にして、ヤネケは商家の実質経営者となって結婚適齢期を迎えたヤンに、父のライバルである市長の娘と結婚をそそのかす始末。とはいえヤンは結局ヤネケの云い分に従ってしまうのだった・・・。
 ヤネケに作者の性格を見てしまうのはファンなら当然で、作者もそのように仕掛けていると思われる。最終的にはフランス革命がやってきて歴史的には豊かなフランドルもグチャグチャになるのだけれど、その時には物語の方が終わっている。
 どうして佐藤亜紀が直木賞作家でないのか不思議だ。

 発行日がこの3月28日とバリバリの新刊が岡本俊弥『夏の丘、ロケットの空』、なんと著者岡本さんの6冊目の短編集。牧眞司さんの解説付き。
 先ずビックリするのがカバー。裏表紙まで全体に一枚の絵を使い、この絵がまたタイトルによく似合っていて、まるでブラッドベリの短編集の表紙絵なのである。なんじゃこりゃと、思わず奥付を確認したらなんとゲッティ・イメージズではないか。イヤ感心してしまいました。
 今回の収録作10篇もテーマ的にはバラエティに富んでいて、個々の作品を比較するとその振り幅は大きい。今回は、牧眞司さんが解説の中で各収録作について簡潔かつ的確な紹介兼寸評をモノにしているので、ぜひそちらを参照していただきたいが、そこではこれまで書かれてきたSFと岡本作品との関連が語られていることが多い。その点では、岡本作品は、形式と知見においてジャンルSFに忠実な形態をを採っているといえる。
 そういう観点から収録作を見ると、個々の作品の対比上の振り幅は大きいとしてみたけれど、冒頭の「子供の時間」と巻末の表題作は、共にSFが得意とする時間もの、その点では「パラドクス」も時間SF。また「ソーシャルネットワーク」と「スクライブ」はしゃべり言葉だけで成立している言語SFで、失読症というか文字情報が理解できなくなる「銀色の魚」もここに入るかも。その伝で行くと「空襲」と「ネームレス」は前者はまったく理屈抜きの、また後者はSFとしての幽霊譚ということになる。でも残った「インターセクション」と「さまよえる都市」には共通する見立ては無いようだ。「さまよえる都市」は世代を重ねる点や世界の支配者というところに眼を向ければ「パラドクス」に近いかも。
 好みからすればやはり表題作か。ヒロインがずうっと少女と呼ばれるところはやや違和感があるけれど。「さまよえる都市」の結末はいかにも岡本作品らしい。あと仕事柄「空襲」はイヤだなあ。

 7巻を迎えていまだ収束への道筋が全く見えないのが冲方丁『マルドゥック・アノニマス7』。ここまで来るともはやウフコックは脇役であり、主役は敵役ハンターとヒロインのバロットの2人になってきた。もはや戦闘活劇で人が死ぬことも残酷な拷問も稀となり、作者の興味は超能力合戦から「法の支配」に移ってしまったようだ。
 相変わらず語りはなめらかではあるものの、全体の印象は軽く広くなってかつてのバトルものの興奮とは別の物語に移行した感が強い。

 『空のあらゆる鳥を』が面白かったチャーリー・ジェーン・アンダーズ『永遠の真夜中の都市』は、単行本で上下2段組400ページという長編。
 設定は、太陽に向かって月と同じような自転/公転周期を持つ惑星で、人類の生存できるエリアがいわゆるトワイライトゾーンしかない植民惑星を舞台に、2大都市の一方シオスファントの学寮で同室となった内気なソフィーともう一つの都市アージェロ出身の積極的なビアンカの話から始まる。ビアンカは反体制運動家でもあり、ある日警察に捕まりそうになったビアンカの身代わりになったソフィーは、警察に暗黒面に追放され闇の異星生物「ワニ」に喰われそうなところで、「ワニ」に助けられる。一方、亡びた「道の民」最後の生き残りの女性マウスは過酷な都市間密輸を行う「運び屋」。政府転覆を狙うビアンカに取り入って権力側が隠している「道の民」の聖なる書物を手に入れようとしているが、その相棒アリッサは気にくわない。物語はこの2組の女性カップルのうちソフィーとマウスがそれぞれ視点人物として出来事を交互に語っていくスタイル。
 もう一つの重要な設定は、冒頭に置かれている訳者附記で、この物語自体もとはシオスファント語とアージェロ語で書かれたいたものを「いくつかの惑星などで誰もが読むが誰も話さない」とピーク英語(古典ラテン語ですね)に翻訳したしたものだということだろう。翻訳からくる違和感の典型は、物語中ソフィーの運命にビアンカ以上の役割を果たす「ワニ」で、多くの触手を持つ知的生命体だ。解説の三村美衣氏は「ワニの着ぐるみを着たクトゥルーさん」とイメージしているが、この惑星の闇側の生物は基本的に触手ウニョウニョ型で、人類を捕食するものもいてそれは「バイソン」と訳されている。
 こういう風に書いているとまるでハードSF的な感じがあって、ソフィーと「ワニ」(ソフィーは「ゲレト」と呼んでいる)の物語はSFとしてよくできているけれど、実際物語全体を覆っているのは、2組の女性たちの絡み合いとその成り行きである。これら4人の女性たちの道行きには、多くの暴力と死が絡みついているが、本人たちはそれほど気にしていないようにもみえる。またSFとしては本来の展開が始まる前に物語が終わっているように思えるが、作者は4人の女性の関係が一定の結末を迎えた時点で物語を終えている。そこら辺をどう捉えるかで読み手の評価は変わるだろう。


THATTA 407号へ戻る

トップページへ戻る