内 輪 第378回
大野万紀
2月のSFファン交流会は2月19日(土)に、前回の国内編に続いて、「2021年SF回顧「海外編・メディア編」と題して開催されました。出演は、中村融さん(翻訳家)、添野知生さん(映画評論家)、縣丈弘さん(B級映画レビュアー)、冬木糸一さん(レビュアー)です(肩書きは紹介ページより)。
写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、冬木さん、中村さん、縣さん、添野さんです。
なお今回の資料はSFファン交流会のサイトからダウンロードできます。
まず、冬木さんと中村さんによる海外編の総括から。パンデミックな年を反映したものとして冬木さんは人々が接触しなくなった世界を描く代表作としてサラ・ピンスカー『新しい時代への歌』を挙げ、中村さんは石塚久郎監訳『疫病短編小説集』を、その中でも収録作のJ・G・バラード「集中ケアユニット」を人が人と会わなくなった話として紹介されました。また昨年は古い名作の新訳や昔の作家の未訳の作品が多く翻訳された年として、J・G・バラード『旱魃世界』やオラフ・ステープルドン『スターメイカー』、スタニスワフ・レム『地球の平和』の話や、R・A・ラファティの短篇集が一気に出たことなどが話題になりました。さらに中村さん自身が訳したC・L・ムーア『大宇宙の魔女』の内輪話では、昔人気だったのにシャンブロウが全然出ていないので資料を集めて調べ、ファンジンに載ったものを見つけてボーナス・トラックとしたこと。ムーアはアクションがなく心理描写ばかりなので翻訳がとても大変。ぬるぬるとかヌメヌメとかそんなのばかり入れなきゃいけない、といった話がありました。
中国SFも盛況で、劉慈欣『三体』の完結、中国SF短編の濃密なところが収められたアンソロジー『中国SF短篇集-移動迷宮』、壮大なラブロマンスSFもあって時間SFとして面白い宝樹『時間の王』などが挙げられました。中村さんは『三体』を(目が悪くて分厚い本が読めず)第一部しか読んでいないというので、冬木さんが「第一部は三体文明が攻めてくるぞというだけの話だが、第二部がエンターテインメントとして面白く、スケール感やジャンル感が切り替わっていく。そして第三部はSFファンが最も好みそうな壮大な話になっている」と紹介。
中村さんも冬木さんもこぞって推すのがアンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』。一人のおじさんの主人公が科学を武器にがんばる『火星の人』フォーマットでそれに宇宙生物SFとファーストコンタクトものが加わっている、と。宇宙生物SFは他にもあり、冬木さんはエイドリアン・チャイコフスキー『時の子供たち』を、クモが知性を獲得して文明が発展していくさまを描き出しているクモSFとして推薦。
冬木さんはまたN・K・ジェミシン『オベリスクの門』を、三部作の第二作目だが第一部『第五の季節』でストップしている人が多いように思うのでプッシュしておきたいと。文明崩壊後に生き延びている人類の話だが第一部ではほとんど明らかにならない世界の謎がここでSF的にハードに明かされていく。さらにこれだけは紹介しておきたいというのがアンドルス・キヴィラフク『蛇の言葉を話した男』。ファンタジーだが、古い民族の古い文化と近代文明の摩擦を描き、そこで古い文化がどう生き残っていくかという話。描写は派手で、蛇の言葉を話す人間が1万人集まるとサラマンドルが呼び覚まされるという、少年ジャンプみたいな盛り上がりがあり、クライマックスは手が震えるほどすごいとのこと。
韓国SFの話題もありました。『私たちが光の速さで進めないなら』も良かったがチョン・セラン『声をあげます』も本格的SF短篇集で、ゾンビものもあれば巨大ミミズが世界を滅ぼすエコSFもあって面白かったとのことでした。
第二部は添野さんと縣さんによるメディア編。最後に堺三保さんも混ざって大盛り上がりだったのですが、配信ものやマーベルものなど話に上がったほとんどの作品をぼくは見ていないので話題についていけず。聞いていてこれは面白そうと思った作品は以下のようなものでした。
映画ではまず『JUNK HEAD』。仰天の大傑作だというストップモーションアニメ。うん、これはぼくもぜひ見たいと思っていて見られなかったのだなあ。
『サマーフィルムにのって』は高校部活の青春映画だが実はSF映画。時代劇をとりたい女の子がバックトゥフューチャーやる話。部活タイムトラベルものとしては『サマータイムマシン・ブルース』に匹敵する傑作。SF研がないので映画研と天文部に入っているという少年がSFファンとして描かれていてとてもいいとのこと。
『パーム・スプリングス』はタイムループものの時間SF。ロジックで見せるのではなく人生の停滞というメタファーからどう抜け出すかということを描いている。月刊アフタヌーンの四季賞みたいに感じた、と縣さん。
『サイコ・ゴアマン』。これは完全にカルトな映画。子供が宇宙最強のモンスターを封じこめた宝石を見つけ、オモチャにしてしまう話。ストーリーより悪ガキの悪ガキぶりやモンスターの造形が面白いそうです。
配信ものでは、皆が絶賛の『リック・アンド・モーティ』がとても気になりました。多元宇宙を行き来できるパラレルワールドSFとしてすさまじいアイデアがたっぷりのアニメで大傑作。主人公もおじいちゃんも何度も死ぬし人類も何度も滅びるという、ひどく強烈な話。SFファンは見るべき、だそうです。
今回も大変盛り上がり、楽しい時を過ごせました。関係者のみなさん、ありがとうございます。次回は3月26日(土)に開催で、テーマは「第9回ハヤカワSFコンテスト受賞作家に訊く(仮)」。受賞者の人間六度さん、安野貴博さんがゲストの予定です。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
「SFが読みたい!2022年版」で4位、SF大賞候補ともなっているのにまだ読んでいなかったという不覚。それにしてもプーチンの戦争が始まる前に読めて良かった。始まった後だと素直には読めなかったかも知れない。
ロシアと日本の、本来混ざり合わないような要素をリミックスした短篇集ということで、ちょっとオタクなノリのパロディないしパステーシュが多いのかと思っていたが、実際読むと印象が違った。リミックスには違いないが、そこから現れてくるのはストレートで独自な、美しい幻想である。それぞれの作品の冒頭に作者の解題が掲載されており、元ネタを知らなくても楽しむことができる(もちろん知っていた方がより楽しいことに違いない)。
「アントンと清姫」では安珍・清姫伝説(ここではむしろ歌舞伎の娘道成寺)とクレムリンの割れた巨大な鐘のイメージが混ぜ合わされ、そこにSF的な時間改変のモチーフが加わった作品である。
しかし主な舞台は東京上野。ラトヴィアからの短期留学生の主人公が、叔父の物理学者が筑波で行う時間改変の実験のことを知る。それはアントン(ソ連のスパイだった)に捨てられた清姫が、蛇体と化してモスクワまで彼を追い、クレムリンの鐘に身を隠した男を焼き殺すという事件(すでに事実として語られている)に干渉しようとするものだった。
だが物語はそれをストレートに追うことはせず、満開の桜の下、上野とクレムリンで開かれる幻想的なイベントを描写していく。長唄の節と三味線、そしてパラライカの調べ、白拍子の踊りと鳴り響く鐘の音。何とも豊饒で美しい、リズミカルで夢幻的な幻想が繰り広げられる。その幽玄な世界には酔いしれた。
「百万本の薔薇」はミステリ風の話だ。恋する女優のホテルの窓の下を赤いバラで埋め尽くすという「百万本のバラ」の歌をモチーフに、グルジア(今のジョージア)にあるバラの品種試験場へ派遣されて、そこで相次いだ関係者の不審死を内密に調査することになった男の物語である。
確かに謎を巡るミステリには違いないのだが、男は次第に不条理な、ホラーめいた状況に入り込んでいく。最後にそれはSF的な結末を迎えるのだが……。そういう謎解きよりも、モスクワから来たエリートが地方の不可解で夢幻的な世界に迷い込んでいく話として面白く読めた。その不条理感はソビエト連邦というものの持つ不条理感と近しいのかも知れない。この作品はリミックスと言わなくても成立している話ではあるが、そうかSFとミステリのリミックスなのか。
「小ねずみと童貞と復活した女」は以前読んだ時も驚愕したが、再読してもまた驚愕。そのSFオタク向けリミックス度というか、もはやリミックスというよりドロドロのスープ状態。何でも出てくるソラリス状態。もちろん傑作である。
もともとは『屍者の帝国』をシェアードワールドとするアンソロジー『NOVA+ 屍者たちの帝国』に収録されたものだが、ドストエフスキーの『白痴』をフィーチャーし、そこに『ドウエル教授の首』や『アルジャーノンに花束を』が重ね合わされる。
始めのうちはまだ大人しい。死者に霊素を上書きすることで屍者として復活させ、彼らを使役する『屍者の帝国』の世界。そのペテルブルクでは、殺したはずのナスターシャが裁判に出廷してきたため無罪となった『白痴』のロゴージンが、彼女を復活させたケルン教授に連れられてその研究所へ向かう。一方その時のショックでまた白痴状態となったムイシュキン公爵もスイスの研究所付属病院でアルジャーノンのような知能向上を見せ、やがて隠されていた研究所の真実を知る。
これだけでも結構な物語なのに、そこにドウエル教授が関わり、舞台がスチームパンクなロンドンに移るともう大変。様々なSFや映画のセリフやシチュエーションがごった煮となって噴き上がり、それが何ともいえず『屍者の帝国』の世界観に溶け込んでいるのだ。悪趣味なバカ騒ぎというよりも、メタな意識が見渡したSF世界のパッチワーク。それがスチームパンクっぽいグロテスクな世界の魅力を描き出していて圧倒される。堪能した。
「プシホロギーチェスキー・テスト」。難しいタイトルだが、これは『心理試験』のロシア語訳らしい。ドストエフスキーの『罪と罰』と、それに触発されたという江戸川乱歩の『心理試験』(ぼくは未読)をリミックスしたということだが、ほとんどその通りにストーリーは進む。
なぜ未来に書かれるはずの『心理試験』(のロシア語版)がドストエフスキーの時代に存在するのか。そこはちょっとしたSFで、歴史が(というか物語のミームが)ウロボロスの環を形成するという面白さがある。ただしこの作品の中ではそこはあまり重要ではない。それよりラスコーリニコフをいよいよ裁判に召喚するという日、ポルフィーリー判事が読んだ本により、物語は予想外の方向に向かう。何というか、乱歩の世界がドストエフスキーの世界を上書きしてしまうのだ。これはすごいよ。この後いったいどうなるのだろう。
「桜の園のリディヤ」はチェーホフの『桜の園』と佐々木淳子の短編マンガ「リディアの住む時に・・・」のリミックス作品。「リディア」は1978年の作品で長い間入手しづらかったが、この前創元SF文庫から出た『SFマンガ傑作選』に再録されたのでぼくも読むことができた。
著者が書いているとおり、本作の基本のストーリーは『リディア』に準じているというかほとんどそのままであり、登場人物と舞台はおよそ『桜の園』のものとなっている。ぼくは『桜の園』もざっと粗筋を知っているくらいでちゃんと読んだことはない。でも落ちぶれていくロシアの地主階級の雰囲気はこの作品に膨らみを与えている。
ラネフスキー家の、8歳ずつ年の違う、同じ顔をした家族。その一人、16歳のアーニャに呼び止められてこの家を訪れた主人公ペーチャは、初対面のはずの彼女らに「あなたのことはよく知っています」と言われる。時間SFである(今のSFファンならすぐ思いつくタイムループものとは微妙に違うアイデアだ)。著者はそこに同時代のアインシュタインの名前を出し、さらに最後に大きな仕込みを入れることでSFとしてより完成度の高い作品に仕立てている。両方の原作にある結末の寂寥感は薄れ、わずかではあるが未来への希望が生じている。面白かった。
巻末の「ドグラートフ・マグラノフスキー」は書き下ろし。タイトルからもわかるように夢野久作『ドグラ・マグラ』とドストエフスキー『悪霊』が合体し、さらに乱歩や横溝正史も混ざってきているようだ。実は『悪霊』もちゃんと読んではいないのだが、この作品のストーリーは基本『ドグラ・マグラ』をベースに展開している。登場人物の名前も主に『ドグラ・マグラ』から取られており、『悪霊』からは地名や一部の人間関係が取り込まれているようだ。
主人公はブウウーーンという時計の音で目覚める。自分が誰かもわからず、どうやら精神病院に閉じ込められているらしい。彼を「お義兄さま!」と呼びながら泣き叫ぶ謎の少女の存在。そして現れるワカバヤーシン博士。ルイセンコ医科大学精神科のマサツキー教授の部屋で見つかる小説は『ドグラ・マグラ』ではなく『悪霊』だ。そこに描かれたスクヴォレーシニキでの殺人事件と主人公は何らかの関係があるらしい。あるいは彼自身が犯人なのか。そしてそのマサツキー教授は瘋癲(ふうてん)行者に身をやつしてチャカポコチャカポコと各地を放浪したという。
ここまではいい。そこに突然VRゴーグルが出てきて、それをかけた主人公は『ドグラ・マグラ』と『悪霊』の様々なシチュエーションがごた混ぜになった悪夢の世界を繰返し繰返し経験することになる。VRゴーグルが出てくることを気にしてはいけない。著者の小説ではこういうのは良くあることだ。だがここで主人公が体験する何重にも入れ子になった多層構造の異常な世界はまさに「胎児の夢」かも知れず、本当に「混ぜるな、危険!」だといえる。
室町時代の播磨国(兵庫県南西部)を舞台にしたファンタジー。でもことさらにファンタジーというより、日常の中に普通に怪異があっただろう時代の、当たり前の物語として描かれている。陰陽師や式神の存在も日常生活と地続きで、特別なおどろおどろしさはない。むしろとても穏やかな連作で、妖怪や山の神や亡霊も地域の風土に溶け込み、のびやかに優しく描かれている。猿楽や花の精の踊りも美しく、雅で心地よい。なお、登場する地名の多くはほぼ姫路市とその周辺に実在するものである。
主人公の呂秀は、藤原道長の時代に安倍清明と戦ったという蘆屋道満の血を引く法師陰陽師である。法師陰陽師というのは、都で陰陽寮に務める官人の陰陽師と違い、地方で物の怪などを退ける祈祷を行う者である。呂秀には物の怪の姿が見えるのだ。兄の律秀も法師陰陽師だが、弟と違って合理的な人間であり、物の怪などは見えない。燈泉寺という寺にゆかりの薬草園で薬草を栽培し、漢方薬の薬師として病気になった村人たちを診ている。陰陽師としての修行をし知識もあるので、弟と共に出かけて祈祷をすることもある。
第一話「井戸と、一つ火」ではその呂秀のもとに、かつて蘆屋道満の式神だったという鬼が現れ、三百年ぶりにその主となってくれと頼まれる。恐ろしい姿をした赤鬼だが、呂秀はそれに「あきつ鬼」と名付け、自身の式神とする。とはいえ、何でも言うことをきくわけではなく、わりと自由にふるまい、必要な時に呂秀や律秀を助けてくれるといった存在である。ごつくて言葉はエラそうだが、けっこう可愛い。
第二話「二人静」は村を訪れる猿楽師一座の話。二人静を舞う先輩と後輩の猿楽師に怪異が起こり、呂秀たちが呼ばれたのだ。芸道話に死霊が関わる因縁の物語だが、それをあきつ鬼が断ち切る。死霊とはいえ美しく派手で、恐ろしさはなく、静かな美の中に物語は終わる。
第三話「都人」では、都から陰陽寮の天文生(占星術を行う天文博士の仕事を助ける役職)大中臣有傳(おおなかとみありもり)と下男の三郎太がやって来る。北方の山で星の観測をするためだ(余談だがこの話に出てくる神社や地名は実在し、近くには現在西はりま天文台がある)。この有傳と三郎太がいいコンビで、有傳はいかにも都の学者という雰囲気だが人はいい。三郎太は下人だが賢く器用で世間知もある頼もしい人物だ。この話では怪異らしい怪異はないが、白蛇が重要な役割を果たす。
第四話「白狗山彦」に現れるのは頭が山犬の姿をした(もちろんそれは呂秀にしか見えない)山の神である。山の神が縁あって育ててきた人間の女の子、かえでを引き取って欲しいというのだ。かえでもまた呂秀と同じく異能の目をもつ少女である。呂秀たちは有傳と三郎太に、かえでが文字を覚えられるよう教育を頼み込む。
第五話「八島の亡霊」の舞台は播磨の海、瀬戸内海である。源平の戦いで戦死した兵士の亡霊が出て海人たちを脅かすというのだ。亡霊は「都人を呼べ」としきりに呼ばわる。この亡霊に呂秀やあきつ鬼が有傳を引き合わせ、その訴えを聞こうとするのだが。もの悲しい中にユーモアがあり、さらにはあの猿楽師一座もからむ。スケールも大きく、読み応えのあるエピソードだ。
第六話「光るもの」は最終話に相応しい美しく幽玄なお話である。春の日の薬草園に桜が咲き、梨の花が咲く。その花の精が現れ、呂秀たちに助けを乞う。望みをかなえた後の、感謝の舞を舞う光るものたちの雅で美しいこと。人と人でないものたちの触れあいが描かれてほのかな余韻が残る。
アフリカ系アメリカ人作家による(われわれにとっては)エキゾチックな文化を基調にして描かれた宇宙冒険SFである。ヒューゴー賞とネビュラ賞の中編部門受賞作を第一部として、3つの中編を1つにまとめた長編だが、物語は連続しているので普通に長編として読める。
いつとは知れぬ未来。主人公のビンティは16歳。アフリカに住むヒンバ族の少女で、母親譲りの直感的で優れた数学の才能と、父親譲りの調和師の能力をもつ。調和師は〈アストロラーベ〉という芸術的な通信装置(スマホの超進化形?)を手作りし、人々の間に調和をもたらすのだ。彼女はその数学的才能によりこの銀河で最高の大学、ウウムザ大学への入学資格を得た。そして今その大学へと一人で宇宙船に乗り込むところである。民族の伝統的な規範によって故郷を離れることに反対する家族と別れ、家出同然に旅立つのだ。
現代の欧米基調の文化とは異なる未来世界である。あるいは過去の文明が滅んだ後の世界なのかも知れない。白人やアジア人はいるのかどうかすらわからない。地球で支配的なのはアフリカ系のクーシュ族だ。宇宙へも進出し、様々な異星人とも交流がある。彼らはクラゲに似た異星種族メデュースと敵対し、過去に何度も戦争があった。彼らはまた田舎者のヒンバ族を侮蔑している。とはいえ彼らが使うアストロラーベも多くはヒンバ族が作ったものなのだ。特に高級なものはビンティの父の手によるものかも知れない。
ビンティが乗った宇宙船はエビ型の生体宇宙船である。乗員のほとんどはビンティと同じくウウムザ大学へと向かう若い学生たち。彼らはクーシュ族だが、みんな頭が良く、すぐに仲良しになった。ところが……。
物語が始まってすぐ、宇宙船はメデュースに襲撃される。ここでビンティとパイロット以外は全員が殺されてしまう。彼女は持っていた古代の遺物エダンの謎の力によって救われ、メデュースの一人、オクゥという個体とつながりができる。彼女はウウムザ大学へ到達し、調和師の力を発揮してこの事件のきっかけとなった問題を解決。大学生活を始めることになる。友だちを殺したメデュースのオクゥとも一緒に……。
なかなか波瀾万丈である。異星での学園ドラマ、様々な異星人との交流、そしてオクゥとの複雑な関係。その後彼女は家出によって中途半端になった家族との関係を取り戻し、ヒンバ族として砂漠への巡礼を果たすためオクゥを伴って地球へ帰省する。そして第二部へと物語は進むのだが、ここでもまたとんでもない事態が起こる。その悲劇的でショッキングな展開には触れないが、さらにそこから第三部へと続き、砂漠の民や彼女自身を含む遠い過去からのつながり、エダンの謎などを巡って物語は目まぐるしく展開していく。その中でビンティの、オクゥや砂漠の民の少年、両親や親族との関係性が浮き彫りとなり、彼女は少しずつ真の自分に目覚めていくのだ。そして最後に訪れる大ショックとその後のドラマは圧倒的である。こんなハッピーエンドがあっていいのか。いや、いいのだ。
ビンティには数学的才能があって数学的瞑想をすると方程式が頭の中を巡り、それが調和をもたらして様々な事態を解決に導くというのだが(そして謎の数式がいくつも出てくるが)、それらははっきり言って魔法であり、魔術の呪文である。科学的・技術的要素はない。エキゾチックな宇宙船や異星人も登場し、宇宙冒険SFとしての味わいはあるが、作りとしてはジュヴナイル(いっそラノベといってもいい)のファンタジーに近い。だがここには価値観の大きな転換があり、橋本輝幸の解説にあるアフリカン・フューチャリズムという言葉が実感を持って感じられる。それは欧米的な「かくあるべき」未来観ともズレていて、例えば個人の自立した自由意志を重視するのと同様に、伝統的な家族意識や民族意識も重視するという姿勢である(必ずしも現在ある家族意識や民族意識という意味ではないが)。ユーン・ハ・リーの描く宇宙のエキゾチックな感覚とも通じるものだろう。
今から四千年ほど前、メソポタミア文明の時代にペルシア湾のバハレーン(バーレーン)に栄えた海洋国家ディルムンの、歴史と発掘について書かれた本である。ぼくはそんな国があったことも知らなかった。ディルムンはメソポタミア神話に出てくる南の海の楽園で、実際に古代のペルシア湾の海上交易を独占し繁栄を極めた王国だったという。何ともロマンがあり、想像力をそそられる。
著者は2015年から日本の発掘調査団を率いバハレーンの遺跡を調査している。本書は第1章でバハレーンという島国の地理や気候など現在の環境を簡潔に記し、第2章で19世紀半ば以降の考古学者たちによる発掘と研究の歴史を語る。個性的な学者たちが登場し、物語性があって面白い。例えば1878年に初めてバハレーンの古墳を発掘したイギリス人将校のデュランドは、モスクの壁に埋め込まれていた楔形文字の記された石を、イスラム教で禁じられている偶像にあたると言ってモスクの責任者を騙し、イギリスに持ち帰ったという。だがその石は第二次大戦のロンドン空襲で行方不明となった。また大金持ちの夫婦で世界中の遺跡探検に明け暮れていたベント夫妻もデュランドの10年後にバハレーンに来て古墳の発掘をしている。アラビアのロレンスで有名なロレンスも一時ディルムンの調査を依頼されていたという。
第3章と第4章はそのようにして研究され、明らかになったディルムンの歴史が、紀元前5千年の黎明期から、海洋王国としてメソポタミアの諸王国と交易し繁栄した紀元前2千年ごろの文明期、そして紀元前1700年ごろの滅亡まで、年代を追って描かれる。何も無かったペルシア湾の小さな島に人々が住み着き、メソポタミアの古代文明、シュメールからバビロン、またペルシア、そしてインダス文明とも交流する。やがて遠い砂漠から渡ってきた人々が新たな王国を築き、バハレーンの真珠やオマーンの銅の交易を独占して大いに栄える。だが、バビロンのハンムラビ王がメソポタミアを統一して地中海との交易ルートが開かれると、この国は急速に衰退し、歴史から姿を消すことになるのだ。何千年も前の古代文明の時代から、グローバルな経済が国々の運命を支配していたということには現代まで通じる何か感慨深いものがある。
第5章では発掘でわかったこの国の人々の当時の暮らしぶりが描かれ、そして第6章でディルムン王国崩壊後の古代から中世に至るバハレーンの歴史が淡々と描かれる。短い章だが、ぼくにはこの第6章がとても印象的だった。歴史の表舞台からは消えたが、メソポタミアやペルシアの強大な国々の支配が及ぶ一地域としてバハレーンは途切れ途切れに史料に現れる。バビロニアのカッシート王朝、サルゴン二世の新アッシリア、ネブカドネザル二世の新バビロニア、ダレイオス一世のアケメネス朝ペルシア、それを打ち破ったアレキサンダー大王の王国とその家臣が築いたセレウコス朝、紀元後2世紀のパルティア、3~4世紀のサーサーン朝ペルシアと続き、7世紀にはイスラムの支配に入る。その間、ぽつりぽつりと灯火に点されるように、この片隅の地の消息が知れるのだ。膨大な時間の流れとひっそりとした人々の生活。彼らを支配する強大な帝国も次々と滅んで去っていく。そこには四千年にわたる歴史のロマンがある。