続・サンタロガ・バリア  (第232回)
津田文夫


 オミクロン株の感染力にビックリしていたら、今度はロシアのウクライナ侵攻が始まった。悪霊憑きを愛してしまうのは人間の習性なのか。昔スティングが歌っていたなあ、History Will Teach Us Nothingって。

 海外で評判が良いという村上春樹の短篇をもとにした映画『ドライブ・マイ・カー』が地元の橋や島が出てくるというのでローカルニュースの話題になったせいか、地元映画館で上映しだしたので、前回に続き、まあたいして観客はいないだろうと思い平日見に行った。上映5分前に入ったら、なんと30人以上の観客が後ろ半分の席にかたまっているではないか。恐るべしローカルニュースの宣伝効果。もっとも地元の島へ渡る橋や島の宿のシーンは申し訳程度に出てくるだけだったが。仕方が無いので、真ん中画面右寄りの席を確保、3時間もあるらしいのでいつでも眠れる姿勢を取る(ソーシャル・ディスタンシングのお陰で隣は空席だ)。
 村上春樹の原作短篇は当然読んではいるが、例の如く何も覚えていない。プロローグに当たる主人公とその妻の物語が進行するなかでヤツメウナギの挿話が引用されたとき、ようやくこのエピソードは知ってるなあと気がついたくらいだ。それにしても村上春樹のセリフはバタ臭くセックスという単語が平板な響きで口にされることもあって、どうも普通の日本的な会話や独白に聞こえない。
 舞台俳優の主人公にとっても不思議な魅力を持っていた妻が亡くなってから数年後、主人公は舞台監督として、広島での『ワーニャ伯父さん』公演に向けて東京から愛車を運転して到着。ところが、招聘側が過去にゲストに事故を起こされたことがあり、舞台が終わるまでは専属ドライバーを付けるという。主人公が愛車を自ら運転したいと伝えたが許されず、結局紹介されたのは主人公の娘と云っていいほどの若い女のドライバーだった・・・。ということで、『ドライブ・マイ・カー』というタイトルが見えてくるわけですね。
 面白いのは『ワーニャ伯父さん』の演劇づくりで、オーディションから日中韓の三ケ国の俳優がそれぞれの国の言葉でチェーホフのセリフをしゃべる上に、韓国手話まで入るというもの。画面でも描かれるが、それぞれの国の俳優は互いに発話が理解できなくても劇が成立してしまうと云う舞台を目指してセリフ読みを始めるのである。この『ワーニャ伯父さん』のエピソードが『ドライヴ・マイ・カー』というタイトルとは関係なしに面白く、映画をラストまで引っ張っていくので、チェーホフはやっぱりスゴイねえと感心していた。
 それに較べると映画のなかの現実のお話は嘘っぽく見えて、それも監督の計算のうちかも知れないが、まるで主人公のためのセラピー物語にしか見えなくなってしまうのだった。セラピー映画という点で、欧米の人にはわかりやすいのかも知れないな。

 『広瀬正・小説全集5 T型フォード殺人事件』は『広瀬正・小説全集4 鏡の国のアリス』同様、遺作となった長い中編である表題作に2編の短編を合わせたもの。表題作は「殺人事件」とあるように典型的な推理小説のパターンを踏襲している。もっとも雰囲気は解説の石川喬司が言うように「昔なつかしい本格探偵小説」になっていて、それはタイムスリップをしなくても、戦前(大正末期)の殺人事件があった世界と現在の世界で展開される密室殺人を解き明かす探偵物語によって、これまでの広瀬正がSFで描いてきたと同様の効果が得られることが分かる。
 物語は視点人物が隠居生活の元会社社長が新たにコレクションしたという1924年製T型フォードの見学会に招かれたところから始まり、同じく招待された数名の人々がこの車にまつわる密室殺人の話をやはり招待された元の所有者から聞かされ、その推理を始めるというもの(彼らが探偵と犯人の役割を担う)。とはいえ広瀬正なので、物語の本体は大正末期の人々と風俗にあって、そしてそれは相変わらず読み手を惹きつける世界が構築されている。広瀬正の作品がジャンルSF感を余り感じさせない理由がこの作品から分かる。広瀬正はロジック好きであるので、SFでもミステリでもその構築に不足はないが、魅力の本体は、ある時代の東京の街の雰囲気というつかみどころの無いものを克明に描き出せる点にあるのだろう。そういう意味では『ツィス』が、疑似イベントものとしての魅力のほかに、無人の東京の描写が効果的だったことにも納得がいく。
 短編2編のうち「立体交差」が高速道路建設に絡むお得意のタイムマシンものだけれど、結末はお約束にヒネリを加えた形になっている。

 読んだのはもう昨年末だったのに取り上げるのを忘れていたのが、沼野充義・沼野恭子編訳『ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』昨年10月刊。と、書こうとして気が萎えたので、またの機会に。

 昨年12月31日の奥付がある恩田陸『愚かな薔薇』は、『SFJapan』2006AUTUMN号で連載開始、『読楽』2020年9月号で完結したという季刊誌や隔月刊誌とはいえ超長期連載の1作。連載開始のときはなんとなく覚えがあったけれど、15年も掛けて完結したとは。
 恩田陸については全く良い読者じゃないので、『蜜蜂と遠雷』を読んだ知人や奥さんから、クラシックをいっぱい聴いているオマエが読んだら宜しかろうと勧められたのだが、当然未だに読んでいない。この作品も出てから暫くして購入したくらいだった。
 吸血鬼テーマの作品であることは連載が始まったときに知っていたような気がするが、終わるまでに15年かかった話がこんな展開になっていたとはさすがに思わなかったなあ。
 吸血鬼伝説と虚ろ船と宇宙パイロットの体質(ディレイニーならゴールデンか)を結びつけて、その体質を受け継いだ十代前半の少女の不安と謎を中心に進行する物語前半の伝奇小説的な雰囲気の濃さは見事だけれど、後半になってそれらのテーマが宇宙SF的な展開を始めるとやや空回りするエピソードが増えてくる。とくに『スターシェイカー』でも利用されていたけれど、人間の超能力を支えるエネルギーがダーク・マターやダーク・エネルギーと結びつけて説明されると、現在ではまだSFとして説得力に欠けるように思われる。

 前情報なしで読んだクリスティーナ・スウィーニー=ビアード『男たちを知らない女』は、まるでティプトリーの短篇のタイトル(村上春樹の短編集のタイトルでもいいが)をもじったような邦題だけれど、SFとしては男性のみが罹患し死亡率90%以上というパンデミックの設定以外にほどんど飛躍がない1作。
 文庫で500ページを超える長編だけれど、内扉見返しの登場人物の名前だけでも26人と多数を極め、それが短いエピソードで何度も入れ替わり立ち替わり語られると、読んでるうちに誰だっけこの女性は、となってくる。それでもキャラ立ちした人物も数人いて、彼女らが出てくるエピソードが待ち遠しいというもあるので、リーダビリティは悪くない。
 ただSF読みとしては、さまざまな立場の女性たちがさまざまなタイプの男性を失う話が延々と続くだけでは、物足りなく感じるのも仕方ないところ。パンデミックのワクチン開発先陣争いのエピソードとかもあるが、SFとしてはやはりこの先を描くのが本筋でしょう。

 創元推理文庫SFの翻訳テーマ・アンソロジーは今回、アンソロジストとして名高いジョナサン・ストラーン編『創られた心』。原著が2020年刊でしかも全訳という。これまでの2冊が原書から作品が取捨選択されていて、それでも玉石混淆の印象だったけれど、こちらは収録16編を読み終わって、満足のいくアンソロジーだと感心した。さすがジョナサン・ストラーン。編者の弁はあまりテンションが高くないけれど。
 巻頭のヴィナ・ジエミン・プラサド「働く種族のための手引き」からテンションが高く面白い。初めて読む作家の作品だけれど、現場仕事AIとコンサル的AIのメールのやりとりを通じて労働を考察するユーモラスなサタイアになっている。シンガポールの作家。
 ピーター・ワッツ「生存本能」はいかにもワッツらしいAIの自己意識を取り上げて残酷な結末を用意している。まあ残酷かどうかは人によるかも。
 サード・ゼット・フセイン「エンドレス」も空港運営AIの語りで始まるAIお仕事物語。話のつくりは吸収合併で解体される企業のパロディだけどハッピーエンドだ。バングラデシュの作家。
 ダリル・グレゴリイ「ブラザー・ライフル」戦闘で脳に障害を受けた元兵士がインプラントを入れて回復(?)する話。『この地獄の片隅に』に入っていても良いような。
 トチ・オニェブチ「傷みのパターン」は、いわゆるアルゴリズム問題がテーマのサタイア。ナイジェリア系アメリカ人作家。
 ケン・リュウ「アイドル」は、いわゆるスターではなくてあらゆる情報を利用するアルゴリズムを用いて一種の人工人格を作りだすこと。たとえば父のアイドルとか裁判の敵方法律家のアイドルとかである。いかにもケン・リュウらしいシリアスさとヒューマニズムが感じられる。中国系アメリカ人ですね。
 サラ・ピンスカー「もっと大事なこと」は、多くのロボットが家庭に入り込んだ時代に、大金持ちの父親の事故死を疑う息子から依頼を受けた女性プライヴェート・アイの推理もの。
 ピーター・F・ハミルトン「ソニーの結合体」は、先端テクノロジーで創られた化け物を操る闘獣士の女ソニーの復讐譚。このアンソロジーの中では古典的なストーリーか。
 ジョン・チュー「死と踊る」は、停止が近いフィギュアスケートアンドロイドのお話。台湾出身の作家。
 アレステア・レナルズ「人形芝居」は乗員冬眠型の巨大宇宙船のAIたちの物語。ハミルトン同様のオーソドックスさを感じさせる。
 リッチ・ラーソン「ゾウは決して忘れない」は人為的に創られたらしい「あなた」がバイオガンを渡されて殺しまくる話。暴力だけが目立つ1編だが、ヘンな感じがある。ニジェール出身の作家。
 アナリー・ニューイッツ「翻訳者」はAIが人間に生きがいを示す話(?)。エマーソン・レイク&パーマーの「悪の教典 第3印象」を思い出す。
 イアン・R・マクラウド「罪喰い」は教皇が出てくるキリスト教系AI宗教もの。これもオーソドックスといえるかな。
 ソフィア・サマター「ロボットのためのおとぎ話」は有名なおとぎ話を片っ端からロボット向けにパロったもの。面白い。
 スザンヌ・パーマー「赤字の明暗法」は、いじめられっ子が親から贈られた型落ちロボットで成功する話。物語は古典的だが、登場人物たちの関係は現代的。
 巻末のブルック・ボーランダー「過激化の用語集」は、「会社」で生まれた「製品」の女の子の冒険譚。面白い。
 以上、巻頭と巻末の作品が面白かったので、好印象だったのかも。アメリカやイギリスの白人作家ではない作家の多いところが21世紀の英語で書かれるSFの特徴ということか。

 地元の本屋で見当たらなかったので注文した高山羽根子・酉島伝法・倉田タカシ『旅書簡集 ゆきあって しあさって』は、宮内悠介の解説によると2012年からウェブで公開され始めたという「架空の旅先」からの書簡集。3人ともまだ単著がない頃で当方もこの連載に全然気づいてなかったと思う。
 どうも言い出しっぺは高山羽根子らしく、基本的には高山・酉島・倉田の順で他の二人に旅先からの手紙が送られるというスタイル。ただし順番が崩れている場合もある。高山の旅先は台湾やその他の島を含む東南アジアっぽいところなので、それほど架空感が強くないけれど、やはり幻想的な世界ではある。その点、酉島は当時の衝撃的な極端さがそのまま旅先に現れていて、そんなところから手紙が届くのかと思ってしまう。前の二人に較べれば倉田の旅先は端正な淡泊さがあってある意味フツーに読める。その後の3人の活躍振りを知っているとそれぞれの輝きが当然のように思われて、その点ではちょっと楽しみが減じたかも知れない。

 小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ2』は、昏魚と呼ばれる生物が大気圏を泳ぐ巨大ガス惑星ファット・ビーチ・ボール(FBB)を舞台に、若い女2人の漁師コンビが大活躍するシリーズの2作目。
 今回は2人がピンチの真っ最中にガメツイと噂の他氏族の船に助けられるところから始まり、そして舞台はヒロインの一方、操船士のダイオードが逃げたしてきた出身氏族のゲンドー家率いる巨大氏族船「芙蓉」に移っていく。
 相変わらず面白いけれど、百合な嬉し恥ずかしエピソードはさすがに食傷気味、とはいえ小川一水のハードSFというか物理学的な設定の説明の旨さは今回も感心する。次回は果たしてFBBの外へ行く話になるのであろうか。

 『リリエンタールの末裔』以来超久しぶりのオーシャン・クロニクル・シリーズもの、上田早夕里『獣たちの海』は短篇3作と160ページの長中編1作の4編を収めた250ページの短編集
 20ページほどの「迷舟」と表題作はどちらも魚舟の生態をメインに置いたワンテーマの作品だが、既に筆致は確実なイメージとともに揺るぎないものとなっている。30ページの「老人と人魚」は、主人公の死期を悟った老人と彼が偶然救った〈大異変〉を生き延びるために創られた人工生命の幼生との出会いを通じて広がりのあるストーリーが展開される。
 「カレイドスコープ・キッス」と題された長中編は、〈大異変〉が現実的な脅威となった時代に陸地民が用意した人工島へ4歳の時に両親と共に移住し、海上民と陸上民との間をつなぐリンカーという仕事に就いた若い女性の視点で語られる。彼女が男性的な補助AIの助けを借りながら、海上民の女性オサと深く付き合い、また無理解で権威的と思われる陸上民のエージェントにも振り回されながら、このヒロインがひとつの選択を成すまでが描かれる。そして彼女の経験することや考えることがこの時代のオーシャン・クロニクル世界の状況を説明している。見事な出来の1作だけれど、タイトルの由来がやや不明。なお、めずらしく著者による収録作品解題が付いている。作者のハードパンチャーぶりが窺える作品集だ。

 ちょっと予定に入れてなかったエルヴェ・ル・テリエ『異常 アノマリー』は、岡本俊弥さんの書評を見て、あわてて注文して読んだもの。
 いやあ、久しぶりに吹き出すこと数回、ツボに嵌まって暫く笑いが止まらず涙が出た。 10年前、9・11に震撼させられたアメリカ政府は、MITの20才の確率論の天才博士にあらゆる想定の下に危機管理のプロトコルをつくらせた。そして絶対に起こりえない事態に対応するものがプロトコル42だった。もちろんアノ「42」だ。10年後、プリンストン大学で教授になっていたウブな天才博士はイギリスから来た同僚の女性に玉砕覚悟で声を掛けたらなんとOK、遂にコトに及ぼうとしたときスマホの緊急アラートがけたたましく鳴った。そこにはモチロン「プロトコル42」発動通知が・・・、ダグラス・アダムズか、オマエは。もっともこのエピソードが出てくるのは100ページほど進んでから。開巻第1ページはプロフェッショナルな殺し屋のエピソードから入る。
 こんな作品が2020年度のゴングール賞受賞作で、本国フランスだけで100万部超えの大ベストセラーだと云うんだからビックリだよねえ。もっともこれがゴングール賞に値したのは「人生の真実」や「世界の真実」を小説のオール・ジャンルのパロディとして描いて見せたからで、骨組みこそSFだけれど、作者は別にSFを書いてるんじゃくて、手法を考えたときに使えるメインボディとしてSFがふさわしかったから、ということだろう。もっと云えば作者は文字で書かれた情報を現実と取り違えることのできる人間の性質の利用法を考えているのかも知れない。
 それでもこのお話には過去のSF作品から引用されたくすぐりが詰め込まれていて、「フェルミのパラドックス」に対する答を読んだときはホントに涙が出た。何にも期待しないで読んだところに意外なフックでツボに嵌まったんだと思う。

 ノンフィクションは何冊か読んだけれど、今回は小島毅『中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流 宋朝』講談社学術文庫、昨年1月の刊。親本は2005年。
 中国の歴史第4巻の『三国志の世界』を読んで結構面白かったので、久しぶりに中国通史を読もうかと思ったのだけれど、体の方がなかなかついていかない。普通は第5巻の魏晋南北朝を撰ぶ方が続き具合が分かろうというものだけれど、興味優先なので、隋唐を飛ばして宋代を選んだ。
 宋王朝といえばなんとなく弱い王朝のような記憶があったのだけれど、北宋南宋合わせて300年余り、日本だと平安から鎌倉初期に北方から押し寄せてくる金の圧力に屈しながら、それでも日本がその後も使い続けた多くの文化装置が伝播するほど文化的には栄えた時代だったらしい。日本史では国風文化という文化史的くくりの時代だったけれど、遣唐使が廃止されても仏教僧は相変わらず中国に渡り禅宗などを持って帰ったし、江戸幕府の公式学問となった朱子学の祖朱熹もこの時代の人だった。もっとも著者は朱熹が嫌いらしくてことある毎にケナしている。
 宋王朝が軍事的には軟弱な感じはこの本を読んでも変わらないが、北宋から南宋へ移る混乱期には岳飛のような悲劇の英雄なども出て、なかなか壮絶である。しかし、南宋が亡びるときはショボくて、鎌倉幕府の滅亡を思わせる。もっとも権力機構が亡びるときは大抵ショボいかも。
 とはいえ著者が何度も強調しているように士大夫(科挙)に代表される宋朝の文化的な洗練は、日本の文化の中へ染みこんで現在まで続いているというのはうなずけるところかな。次は金側の歴史が分かるという続巻を読んでみよう。


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