続・サンタロガ・バリア  (第231回)
津田文夫


 昨年末、知り合いにオミクロン株がヨーロッパで流行ってきた頃、日本でもあっという間に数千人になるでしょうねと書き送ったのを覚えているけれど、まさか8万人とはねえ。
驚きの1月ではありました。

 それでもたまには不用不急の外出もする。地元の映画館で『ジギー・スターダスト』がかかったので、どうせこんなものを見る地元民は僅少に違いないと思い、見てきた。思いの通りで客は当方含め2人のみ。
 デイヴィッド・ボウイに思い入れがあるわけではないので、たまたま没年に出た『ブラック・スター』を除いて、これまでレコードやCDを買ったことがない。それでも洋楽を熱心に聴きはじめた1970年ころからT・レックスのマーク・ボランのようにアヤシイ雰囲気を漂わせるヤツとして認識はしていた。もっともヒット曲以外には、グラム・ロックへの偏見があって近づかないようにしていたという感じだった。
 それでも見に行こうかと思ったのは、1973年ロンドンはハマースミス・オデオン(現アポロ)でのツアー最終公演と云うことで、当時のイギリスの音楽シーンの一端が垣間見えそうだと云うことと、ギタリストのミック・ロンソンが見たかったということに尽きる。
 実際見たフィルムは90分ほどで、あの当時ならNHKのヤング・ミュージック・ショーで取り上げられていたとしても不思議はない、最初から最後までツアー最終の1ステージを楽屋シーンを含め撮影したものだった。楽屋ではメイクアップ・アーティストの女性をはじめ、出てくる女性が印象的だが、映画の監督は客席の方も泣き叫ぶ女の子たちばかりを撮っている。肝心のステージはボウイが自分を見せる/魅せるための工夫が凝らされていて、それはそれで面白い(ボウイのグラム趣味は今でも好きでは無いが)。ミック・ロンソンはギター・プレイもハモりもちゃんとボウイを引き立てるように動く。また「スペース・オディティ」「すべての若き野郎ども」「ロックンロールの自殺者」あたりは耳ニなじんでいるし、ストーンズの「夜をぶっ飛ばせ」で盛り上がるのもなかなか良い。いかにも当時のフィルムらしい粗い画面が新鮮に見えた。ちょっと気になったのはバンド紹介で、キーボードが無視されていたことか(ググったらマイク・ガースンだった、ジャズ畠出身、後年ナイン・インチ・ネイルズなどに参加だって)。

 『広瀬正・小説全集4 鏡の国のアリス』は短い長編の表題作に、未発表作品1編と単行本未収録の2短篇を組み合わせたもの。月報によるとこの第4巻が最終配本とのこと。 毎月広瀬正の作品を読んでいると、広瀬正はSFで取り扱う題材に近いロジックを重要視して作品を作り上げているけれど、読後感はジャンルSFというよりは広瀬正の個性の方が作品を規定しているように思われる。そりゃ、星新一ほか第1世代の作家だって、作家の個性が作品を規定しているに決まっているが、広瀬正のジャンルSFから外れ感は他の第1世代の作家たちに較べてそのような印象が強いのだ。
 この『鏡の国のアリス』という短めの長編も、鏡による反転世界としてそれ以外は元の現実と変わらない一種の平行世界へ移ってしまった男の話だが、そのきっかけが銭湯の男湯がいつの間にか女湯になっていたという、いわゆるタイムスリップのバリエーションで出来ている。それからの話は、主人公の窮地を救った作家(広瀬正の分身?)の独壇場ともいえる鏡世界のロジックがしつこいほど展開されているが、それでもこれはもう一つの世界を描いた「風俗小説」にもなっているところに広瀬正の魅力が生まれる。それにしても軽い終わり方で、最後にいなくなる主人公を助け続けた作家の家族が心配になる。
 短篇では「遊覧バスは何を見た」がいかにも広瀬正らしいノスタルジアを感じさせるが、ややストレートすぎるか。月報には河野典生やジャズ評論の相倉久人が思い出を寄せているが、どちらも実際の付き合いがあったとは言えないくらい広瀬正とはすれ違っていた。

 大森望が解説を書いてるし、柴田勝家の作品がトリなので、読んでみたのが、短篇プロジェクト編『非接触の恋愛事情』。集英社文庫オリジナル・アンソロジーということで期待したのだが、さすがにこれはSFファン向きとは云えない1冊だった。収録作家は外に相沢沙呼、北國ばらっど、朱白あおい、十和田シン、上遠野浩平。巻末の出典にあるように「JUNP j BOOKS公式note」の配信作品と1編のオリジナル作品(相沢沙呼)を集めたものということで、基本的に若い人のための読書に最適なアンソロジー(って、昔大森望が角川文庫でやってたなあ)なのだった。もはや若い人の恋愛について勉強させてもらう歳でもないので、面白く読ませていただきましたというところ。柴田勝家「アエノコト」は過去の現実的恋愛と現在の非現実的恋愛に得意技を組み合わせた1作。 上遠野浩平「しずるさんと見えない妖怪~あるいは、恐怖と脅威について~」は、タイトルが長い割には若い女性2人の会話だけでできた掌編。

 『最後のライオニ 韓国パンデミックSF小説集』は昨年12月の刊。6作の短編を2編ずつ、3章に分けて、第1章|黙示録 終わりと始まり、第2章|感染症 箱を開けた人びと、第3章|ニューノーマル 人類の新たな希望、とタイトルが付けられている。
 巻頭のキム・チョヨプの表題作は、ある星系の惑星の廃墟の調査に一人出向いた、若い女性(ただし、テンプレートから複製された人間らしい)がそこでライオニという少女を待ちわびる機械たちに出合う話。先に出た短編集からもわかるように繊細な手つきのSF(設定としては独創的はないが)である。
デュナ「死んだ鯨から来た人びと」は、現地惑星で「鯨」と呼ばれるものの上で、1200年(地球年換算40年)生きてきたという「私」の説明から始まる。ここでの「鯨」は幅100~200m、長さ700m~1,5キロという海洋生物で島のように一部を外気にさらして海面を泳ぐ。そんな生活も「鯨」伝染病で崩壊の危機に瀕して・・・というもの。 以上が異星が舞台の物語を並べた第1章。
 チョン・ソヨン「ミジョンの未定の箱」は、ソウルでの住宅難を扱いながら、誰も居なくなった街を歩く主人公のシーンから始まる。ミジョンは日陰を求めて座った場所で正六面体の箱を見つける。そして始まったのが、逆めくりのカレンダー・・・。この作者らしい
パンデミック下の普通の日々が上手く描かれている。
 キム・イファン「あの箱」は、パンデミックで集合住宅の1室に閉じこもり生活をしている若者のところに、ドローンが箱を持ってきた、その時免疫があって生活補助ボランティアしている男と知り合い、若者が箱を開けると入っているはずの親の遺骨はなく空っぽだった・・・。これもほぼ現在の話だけれど、個人用のAIがあって、若者とボランティアとのAI同士が友達になるエピソードとかなかなか微笑ましい1作。
 以上が第2章。
 ペ・ミョンフン「チャカタパの熱望で」は、100年ほど未来の韓国語は、過去のパンデミックの影響で、ツバが飛ぶような激音と言われる「チャ・カ・タ・パ」の発音がなく、それを使うことは非常に下品だとされているという設定で、歴史研究のため100年前を研究史に来た主人公のお話。筒井康隆が使いそうなアイデアだが、こちらは軽いコメディ。
 イ・ジョンサン「虫の竜巻」は、気候温暖化の影響で溶けた氷の中から細菌や虫がよみがえった時代。外へ出るには危険が多いので、室内にいることが多いが、社会とはスクリーンウインドウでつながっている。主人公の女性は木彫りの人形作家でもうすぐ結婚生活に入ろうかと云うとき、製作材料を虫の竜巻予報で竜巻が来ないうちに用意しようと森に入るが・・・。スズメバチ蚊という虫がインフルエンザをもたらすし、竜巻になって旅客機も飛べなくなると云う恐ろしい時代の愛を描いている。
 以上が第3章。ということでなかなか楽しめるアンソロジーだった。

 『インヴィンシブル』に続きヘヴィ級なのが、スタニスワフ・レム『地球の平和』。第Ⅱ期スタニスワフ・レム・コレクションの第2回配本。〈泰平ヨン〉シリーズの最終話。解説によれば1984年に執筆、87年に出版されたという。
 長編としては300ページ余りのそれほど長い話ではない。脳梁切断(カロトミーというらしい)された主人公〈泰平ヨン〉は、右脳左脳が分断されたために左手(女性名詞なので「彼女」)が勝手に行動する。何だそりゃなプロローグだが、物語は、各国が平和的に生き延びるため地球での軍事行動を止め、すべての戦争機械を月に移転、月で独自に進化した戦争機械たちは地球との連絡を絶ってしまっていたという設定で、何を送り込んでも月からの情報が来ないのでついに〈泰平ヨン〉にお鉢が回ってきて、〈泰平ヨン〉の意識を「遠隔人」に乗せて月を偵察する話がメインとなる。
 後半は、任務を終えた後、地球での〈泰平ヨン〉の身に降りかかった謎めいた脅迫的コンタクトの顛末が語られる。
 自分であるのに自分でない自分が存在するという状況は、かなりディック的な悪夢を思わせる。もちろんそれが〈泰平ヨン〉シリーズとしてレムの認識を示すサタイアでもあるのだけれど、どうも〈泰平ヨン〉シリーズはいまいちストレートにわかりにくいのである。最初に書いたように読後感はかなりヘヴィであるが、それを説明するのは難しい。

 やっぱり好きだったんだなあ、この世界が、と思わせてくれたのが、M・ジョン・ハリスン『ヴィリコニウム パステル都市の物語』。40年前にサンリオSF文庫で『パステル都市』を読んで以来再読はしていなかったけれど、今回4編の関連短篇とまとめられたこの作品世界の魅力は未だ色褪せることがない。好きという点では、今回取り上げたなかではこれが一番好きかも。
 主人公テジウス=クロミス卿が、ムアコックのエルリックの強い影響の下に造形されているのは明らかだけれど、そのキャラクターは、ムアコックのそれような運命的な外枠に縛られていない分、個人志向が強くてそれが当方のような読み手の気分に合っているような気がする。また用意された舞台が常に夜的な暗さに支配されているところもいい感じだ。長編の後半はさすがに、サイエンス・(ヒロイック)ファンタジー的な甘さが強く出てきているけれど、それもまたエンターテインメントSFの約束事として許してしまえる。
 M・ジョン・ハリスンの作品の邦訳が今後も続くことを期待したい。

 今回読んで悪い意味で一番ビックリしたのが、ジェイムズ・P・ホーガン 『未踏の蒼穹』。ホーガンの作品で最後に読んだのは『造物主の掟』ぐらいで、少なくとも21世紀に入ってホーガンの作品を読んだのはこれが初めて。『星を継ぐもの』再びというキャッチフレーズに大野万紀さんの解説付と云うことで、眉にツバをつけながら読んでみた。
 結果は、まあ、眉にツバ付けておいて良かったというもの。ホーガンてここまでSFをドグマチックに書くようになっていたのか、ということがビックリした最大の理由だ。これはもう現代SFというよりゲテモノSFとして扱った方がいいと思う。
 現代の科学的人文的知見から全く離れた、初めて読むと理解しがたい設定があちこちに現れるし、何のてらいも無く金星人と称する現代アメリカ人のキャラたちが右往左往して、調査対象である戦争で滅んだ地球人たちよりも自分たちは倫理的に優れてると自負しながら、同じ金星人の「進歩派」のクズ人間に振り回されている。もはや『星を継ぐもの』の時のようにハッタリを活かすだけの技量も維持できていない。
 アメリカではID信者のSFファンが付いているのかも知れないが、さすがに日本でウケるとは思えない。

 第9回ハヤカワSFコンテスト大賞と優秀賞受賞2作はほぼ同時に読み始めたのだけれど、優秀賞作が数日で読み終わったのに対し、大賞作は1週間以上かかった。
 優秀賞の安野貴博『サーキット・スイッチャー』は、自動運転プログラム車の事故をめぐって被害者が天才プログラマーに復讐しようとして、機略でプログラマーの自動運転車を乗っ取り、首都高を走り続ける密室とした設定。これに捜査側のストーリーが絡む。まことにシンプルで無駄のない話作りは、エンターテインメントの教科書的な仕上がりを見せて読ませる。時限爆弾の解除法が肩すかしぐらいで、ほぼ完璧。ただ昨年の『10億をゲットする・・・』同様、SF的な醍醐味と云う点は藤井大洋ほどのスケール感がないので、そこら辺が弱いと云えようか。

 一方、大賞作の人間六度『スター・シェイカー』は、そのSFエンタメの各部品の出来は良いのに、それをつなぐ物語づくりにおいてかなりの乖離があり、正直かったるい1作だった。
 人類にワープ/テレポート(ググるとこの二つは違うらしい)能力が発現するようになって、その能力をコントロールするためワープボックス(WB)なるものが利用されている時代、主人公はしがないワープ運送屋だったが、帰り道ゴミ箱から音がするので開けて見たら、褐色銀髪の(美?)少女がいた。少女はWBを使わずにワープする一種の犯罪組織に追いかけられていて、定石通り、彼は彼女のため行きずりのヒーローとなるが・・・。
 ワープ能力に関するSF的な説明は量子論に負っているけれど、説得力は無い。でもアクションパートは超能力合戦としてそれなりに面白い。主人公の能力エスカレートは、ワープの体力消費という設定を無視してドラゴンボールなみにスケールアップする。一方、ワープ能力がない人間たちは廃墟となった高速道路に住みつき、サービスエリアを各集団(部族)の縄張りにしているという設定があり、主人公と少女は、彼らに助けられて逃亡目的地への移動を試みる。この設定もワープ社会に対して面白い設定なのだけれど、活用された割には、物語の上では重みがない一エピソードに見えてしまう。なお、設定の大枠としてWBを使う管理ワープ組織と反ワープ組織の戦いがある。
 選考委員の東浩紀の選評の批判「文体も構成もガタガタ」が、結局解消されてないことがよく分かる作品である。とはいえ、もったいない作品でもあるな。

 ラファティ短篇祭り第3弾、R・A・ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』は、新☆ハヤカワ・SF・シリーズから井上央さんの編訳で出た本邦初訳作品ばかりで組まれたオリジナル短編集で、9編を収録。文庫で出たベスト・コレクションが編者の牧眞司さんにより〈アヤシイ〉編と〈カワイイ〉編とされていたのに対して、こちらは編訳者井上央さんにより〈ラファティの伝奇集〉と冠されている。
 ラファティの作品に対する基本的イメージはメリル・浅倉・伊藤の3者によって形づくられたところがあるけれど、井上さんや柳下さんはそのイメージを矯正する(日本人読者には解りにくい部分が多い)方向の作品を訳してきたといえるだろう。特に井上さんは青心社から出した長編や短編集の作品撰びにその志向が顕著だ。それはこの〈ラファティの伝奇集〉で一層あらわになっている。
 とはいえラファティはラファティで書いてあることが少々分かりにくくても、楽しく読める点では無問題だ。
 編訳者の井上さんは、収録作1篇1篇に詳細な解説を付けているので、それによると、表題作が1957年に書かれた最も早い時期の作品で、巻末に収められた「いばら姫の物語―学術的研究―」が新作執筆停止宣言をした直後の1985年脱稿成った最後の作品まで、30年にわたる執筆期間から選んだ9篇を1篇を除いて執筆年代順にならべたと書いている。
 牧眞司さんのベスト版でもそうだったけれど、最初期に書かれたものはあまりSFっぽくはないけれど、語り口はすでにラファティ節の形になっていて、その後ヴァリエーションの拡大とテーマの深刻化が進んだように見える。などと思っていたら2番目の1960年作「下に隠れたあの人」が既にラファティ節全開ではないか。まあ、編訳者の井上さんでさえ、執筆時期不明だった頃に「恐怖の七日間」と似た味わいと云うことで、3番目に持ってきた「サンペナタス断層崖の縁で」が、最近1983年の作品だったと分かったりしているので、ラファティに関しては作風の変化とかはあまり云わない方がいいのかも。 難解なラファティといわざるを得ないのが次に並べられた長めの短篇「さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう」で、まるでモーツァルトの『魔笛』のテーマを思わせるようなタイトルだ。ここにはラファティの思考の突飛さが端的に表れていて、「奇妙な魚」と呼ばれる人びとを描いて躍動する物語はポカンとする読み手を置き去りにしたまま暴走し、神秘主義的な結末へと向かって走り去る。ここからの作品群は、浅倉・伊藤好みなラファティ作品に対するイメージを修正する感じがある。それは「王様の靴ひも」に対する「“ナチス的”ファシズムの影」や「千と万の泉との情事」に付けられた「いわゆるニュー・ウェーヴ作品を意識して・・・執筆したのではないか」という井上さんのコメントからも窺える。
 長くなったのでここらで切り上げよう。それにしても井上さんの読み込みの深さにはビックリしてしまうなあ。

 えーっ、最終巻なのかあ、とひっくり返ったのが、林譲治『大日本帝国の銀河 5』はなんとコマ落とし未来史という反則ワザで決着してしまった。
 著者あとがきにもあるように、1940年当時にファーストコンタクトを持ってくるという設定を無理なく進めるための準備として結局4巻が費やされてしまったと云うことらしい・・・が、あんまり信用できない言い訳のようにも見えますね。
 というのは、このコマ落とし未来史の舞台が木星圏に移って、「AE35ユニットの交換終了、帰還する」というセリフに吹き出したからで、この作品はそういうつもりで書かれていたのか、と思っているとあれよあれよという間に『三体』の宇宙人理論「暗黒森林」への反論とかが出てきて、作者のやりたいことが最初はファーストコンタクト作品の新規まき直しだったのが、設定に凝りすぎて作品が勝手に成長してしまったのかも、と思わされたからだった。そりゃ、SF読みとしては楽しいが、作品のバランスとしてはヘンテコでしょう、タイトルとも内容が一致しているとは思えないし。でも面白かったことに違いは無い。

 アンドレアス・エシュバッハ『NSA』上・下は、NV文庫じゃないのかと怪しんであんまりソソられなかったのだけれど、読んでみた。で、やっぱりNV向きの1冊ということが確認された。
 プロローグではバベッジの機械式コンピュータ発明以来、ドイツでコンピュータ技術が発展し、ヒットラーが台頭した1930年代にはネットワーク技術による通信までが国家保安局(NSA)によって把握されていたという設定が短く語られる。
 解説で山形浩生氏が指摘しているように、作者は今現在のコンピュータ/ネットワーク通信技術を設定としてナチス時代に持ちこんでいるだけで、技術的発展自体がどのようなものだったかやそれが世界にどれだけの変化をもたらしたのかというようなSF的な考察は皆無である。おまけに1100ページのうち、1000ページがいわゆるメロドラマ的サスペンスで、天才プログラマー役のお上品なヒロイン視点と、ガキの頃に受けた性的イジメの恨みを女性たちに対して晴らすことが生きがいのゲス野郎視点が交互に繰り返される構成がまた退屈を誘う。長々とした通俗サスペンスを読んでいるうちに、この二人がどうなろうとどうでも良くなってくるのだった。最後の100ページ足らずでナチが勝利した世界のディストピア・サタイアがこの二人の置かれた状況を通して語られるが、今更感が強い。昔だったら350ページで書かれていただろう。
 そういえば男が精液を搾り取られるエピソードがあるが、昔似たようなマンガを読んだ覚えがある。タイトルがうろ覚えで、なぜか『忍者部隊月光』が浮かんできたが、そりゃ子供の頃見たテレビ番組だよねえ。ま、どうでもいい話だ。

 そろそろノンフィクションのことも書いておかなくては思うが、それはまた次回にでも。


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