続・サンタロガ・バリア (第230回) |
あけましておめでとうございます。と、書いて今年も新年早々何の話題もないのであった。昨年の1月も何の話題もなかったから、そんなものか。オミクロン株は終息の前触れになって欲しいな。
『広瀬正・小説全集3 エロス もう一つの過去』は、第1巻の星新一が解説で本作の連載中はエロ系の話だと勘違いして読まなかったというくらい、ちょっとタイトルからは中身が窺えないが、副題に「もう一つの過去」とあり、帯に「パラレルに流れる二つの過去の二重奏」とあるように、第一長編『マイナス・ゼロ』の変奏的な作品になっている。 この作品の特質は小松左京の解説にもあるとおり、「この作品の新しさは、そういった「(タイム)パラドックスの新手」の創出に凝るかわりに、SFの「時間もの」のコンセプトを利用して、「風俗小説」乃至「歴史小説」に新しいスタイルを持ちこもうとした点にあるのではないだろうか?」ということになる。
『マイナス・ゼロ』を読んだとき何よりも感心したのは、銀座の風景とその感触だったと書いたけれど、この作品でも小松左京が云うように作品としてつくられた過去の姿がただの風景以上のものとして生きている。そこに広瀬正の稀な才能が見出され、そしてそれはSFとしての物語の中で発揮されているのだ。
これは「時間もの」なので、ちゃんと結末で「現在」と「もう一つの過去」が構成する大仕掛けが用意されている。ちなみにタイトルは二つの過去を織りなす男女のうち、男が作った曲に付けられたもの。
小田雅久仁『残月記』は、著者9年ぶりの単行本と云うことで、帯に絶賛を寄せた大森望をはじめ、この作者の作品集を待ちわびた感じがよく分かる。そりゃ『本にだって雄と雌があります』の作者の単行本がこんなにも長い間出ていなかったことの方が不思議だよね。
小田雅久仁はあの不気味なデビュー作『増大派に告ぐ』も出た当時読んでいるので、『本にだって・・・』を読んだときはその変身ぶりに驚いたけれど、この『残月記』もまた前2作とまったく傾向が違うのでびっくりした。
強いて言えばデビュー作の持っていた不気味さをより明確な形で物語に落とし込んだともいえる。収録3編のうち、短めの「そして月がふりかえる」はドッペルゲンガーとか入れ替わりとかに類するオーソドックスな設定、中編「月景石」は亡くなった伯母の遺品「月景石」がもたらす異世界往還もので、通常のエンターテインメントなら日常に帰ってくるが、この二編は結末で変容した日常へたどりつく。そして200ページに及ぶ長中編のタイトル作が続く。
これについては『本の雑誌』で大森望が何故このタイトル作が絶賛に値するか説明しているけれども、当方の読後感はその特質自体が作品を異物のように感じさせるのだった。 作品の舞台は改変歴史上の独裁者がいる未来の日本で、この世界には月の影響を受ける月昂症(コロナと云うよりハンセン氏病を思わせる)という感染症が存在している。タイトルにある「残月」とは、その回復者として得た超常的体力のために独裁者の趣味で催される古代ローマ風奴隷闘技会のグラディエーターにされた主人公が木彫りを作ったときに彫り込む雅号である。ただでさえ違和感が生じる設定であるが、このタイトルと物語の進行や内容とのバランスがまったく乖離しているように感じられたので、宙づりにされているような気分がもたらされたのだろう。さらに「月景石」同様異世界での人生まであるのだから、何を読まされているのか不安があるという点で、これはエンターテインメントの範疇を広げていると云えようか。
劉慈欣(リウ・ツーシン)『円 劉慈欣短編集』は、デビュー作1999年発表のデビュー作から『三体』のエピソードに取り込まれた「円」まで13編を発表年代順に並べた短編集。原本はないが、作品選択には作者の意向が反映されているという。
デビュー作「鯨歌」はいわゆる麻薬取引にクジラを使おうとする話だが、犯罪者側の視点で書かれていて、当然のことながら自滅するけれど、そこら辺の突き放した感覚が印象に残るやや古めかしいタイプのSF。ところでシロナガスクジラってヒゲクジラだったのでは。
「地火」は再読、リアリズムが強い印象をもたらす1作。ここでも主人公に対する視線は冷徹である。
「郷村教師」も貧困地区の小学校をリアリズムで描きながら、後半はスペースオペラ並みの大風呂敷につなげてしまう1編。後半のアイデアは50年代以前のアメリカSF短篇にありそうだ。
「繊維」は、多世界宇宙論シチュエーションコメディ。それぞれの世界のスレッド(繊維)が絡まって・・・というもの。コニー・ウィリスが書いていそうだ。
「メッセンジャー」は小品ながら、アインシュタイン伝説のバリエーション。
「カオスの蝶」はカオス理論で不都合な現象(ここではコソボ紛争の被害)を是正しようとして何回も失敗する話。時間SFではよくある話だけど。
「詩雲」は漢詩の国ならではのスーパースケールなバカ話だが、初読作品としては一番面白かった1作。
「栄光と夢」はオリンピックと架空のアジアの国とアメリカとの戦争を掛け合わせたシリアスな1編。2003年作だが無人のオリンピックスタジアムが印象的。
「円円(ユエンユエン)のシャボン玉」は、シャボン玉が大好きな女性が最後にはシャボン玉で気候コントロールにまで至る話。
「二〇一八年四月一日」は『三体」第三部で何度も利用された長命化の始まりを扱った小品。
大森望単独訳の「月の光」は未来の苦境を救うため、未来の自分から何をしろ指示される話。当然の結末が待っている。基本設定は「カオスの蝶」と似ている。
「人生」は母親と同じ記憶を持たされた胎児と脳科学者の博士の三人の会話劇。それは胎児にとっては悲観の材料でしかなかった・・・。というサタイア。
トリは表題作。再読。これは何回読んでも面白い。
劉慈欣は基本的に既存のSFの上にSFをつくっているタイプの真っ当なSF作家といえる。もちろんシリアスな社会風刺からハードSFやバカSFまで何でも書けるという点で恐るべき才能ではある。
お待ちかね、牧眞司編R・A・ラファティ『ファニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクション2』は、編者いうところの「カワイイ編」。といっても全編で「カワイイ」子供たちが活躍しているわけではないけれど。
個人的にはなんと云っても「せまい谷」がベスト。なにせ『SFマガジン』を端から端まで読んでいた時代、1974年11月号の8行分ぐらいの扉イラストがいまでも目に浮かぶくらいの面白さだった。「カワイイ」ことでもダントツだし。もうひとつはメリルの年間傑作選に収録されていた「七日間の恐怖」。ラファティが面白い作家だと云うことはこの2作で頭に刻まれた。メリルの傑作選には「火曜日の夜」も入っていたんだが、覚えているのは1972年の『SFマガジン』掲載版「長い火曜の夜だった(山田和子訳)」(本書では浅倉さんの訳した「スローチューズデーナイト」を収録)の方なので、1972年の『SFマガジン』ラファティ特集に選ばれた作品たちはコワモテな印象が強いのだ。
あと編者の牧眞司さんが自ら訳した初期短篇「何台の馬車が?」が、SF界で活躍する前のラファティがすでに特徴的な作品を書いていたことを教えてくれる。
前に有名な未読作品の例にアイザック・アシモフ『鋼鉄都市』を挙げてみたので、じゃあ読んでみようと、書庫代わりのボロアパートを捜索したところ、ハヤカワ・ファンタジー3016が出てきた。とても50年前からわが家にあったとは思えないほど美品なので、たぶん21世紀に入ってから、東京の古書店で買ったなかの1冊であろう。昭和34年8月初刷本。
まず登場人物の表記が古めかしい。献辞の息子がディヴィッド、刑事仲間がシムプスン、ロボット刑事至ってはダニイル・オリヴォウだけれど、まあ、こちらの方がアルファベット表記から読み取れる音に忠実かも知れない。ただ「スペーサーSpacer」を「宇宙人」と訳しているので、最初は違和感が強かったけれど、考えてみればアシモフの宇宙に「人間」以外の宇宙人はほぼ出てこないのだった。
さて話の方は、もはや紹介するまでもない。最初に思ったのは、ロボットが当時の黒人(若しくは白人以外)差別を象徴したもので、基本的なテーマはそこにあると云うことだった。アシモフには「人種分離主義者」という短篇があるくらいで、本人に有色人種の友人がいたかどうかは別として、理念として人種差別に強い反感を持っていたことは間違いなかろう。主人公のベイリが地球製のロボットと違う人間そっくりのロボット(アンドロイドですね)と組んで抱え込んだ違和感は、物語の中でアンドロイドがバディとしての地位を増すにつれ消えていき、そしてついに違和感の正体を見極めたとき、ベイリは別人のようにヒーローとなり、物語のメインプロットである殺人ミステリも解決される。
こうしてみると傑作のようにも思えるけれど、あとで読後感を反芻してみるとアシモフの登場人物づくりの図式的な面が見えてきて、ちょっと点が辛くなる。作中唯一の主要な女性キャラであるベイリの妻が「弱き者、汝の名は女なり」なので、そこらへんもつらいところ。とはいえ読んでる間はアシモフを見直した気分だったので、『裸の太陽』も読んでみようかとボロアパートを探したけど見つからなかった。まあ、そのうち、新訳版『はだかの太陽』を手に入れよう。
C・L・ムーア『大宇宙の魔女 ノースウェスト・スミス全短編』は中村融・市田泉両氏による全作新訳版というシロモノ。半世紀近い昔に早川SF文庫で読んだノースウェスト・スミスものは最初の1冊だけで、設定はともかく内容はほとんど何も覚えていなかった。
今回読んではっきりしたのは、これがモロにラヴクラフトの強い影響下というか、本家クトゥルー神話では避けられていた女の色香を前面に立てて(でも上品だ)、成った作品群だと云うことだった。
読後改めて解説と年表を見て、最初の作品「シャンブロウ」が1933年の「ウィアード・テールズ」に掲載されたとき、ムーアは銀行で秘書をしていた22歳の若き女性だったこと、そしてノースウェスト・スミスものを20代の内に書き終えているのを知り、女の色香に迷ってはクトゥルー神話的な怪異と対決する羽目に陥るヒーローの活躍を描いたスペースオペラの上品さを納得するのだった。
純然たるノースウェスト・スミスもの10篇は最初の「シャンブロウ」を読めば、あとはほぼ同工異曲のように見えるが、それでも続けて読んで飽きないのは、ムーアに描写の才があったからだろう。まあ、市田泉氏がいうようにバディものとして楽しむという観点からすれば同工異曲もひと味違うのかも。
ヘンリー・カットナー『ロボットには尻尾がない〈ギャロウェイ・ギャラガー〉シリーズ短編集』は竹書房文庫から山田順子さんの個人訳で出たけれど、解説が中村融さんということで、C・L・ムーアの解説とセットでこのカットナー/ムーア=ルイス・パジェットその他大勢、のかなり詳しい経歴が分かるようになっている(もっともペン・ネームの研究ではないので、そこらはツッコんでない)。
ギャロウェイ・ギャラガーものは、こうしてまとめて読むと結構昔のアメリカン・コメディな感じが強い。まあ、5作中、和暦で云えば昭和18年の作が4篇、残る1作が昭和23年である。太平洋戦争のまっただ中で書かれていたことを思うと、カットナーが楽しいものを読者に提供したいと考えてこれらを書いていたんだろうなと勝手な想像が働く。とはいえオチには勧善懲悪的な残酷さもあるけれど。
キャラクターとして目立つのは、やはり「世界はわれらのもの」のムクムクなリブラたち、そしてなんといっても「うぬぼれロボット」のロボット、ジョーだろう。特にジョーの設定はすばらしくイカれていてこれが単行本のタイトルに使われるのもうなずける。
ノースウェスト・スミスものがラヴクラフトの強い影響下に書かれていたことが分かったおかげで、そういやクトゥルーものだということで積ん読になってたのがあったなと思いだして読んだのが、ヴィクター・ラヴァル『ブラック・トムのバラード』。2016年作の長めの中編で、文学系作品をよく訳している藤井光の訳で2019年12月に東宣社という出版社から出ている。コロナ禍が始まる直前ですね。
物語は20才の黒人がよれたスーツに空のギターケースを抱えて、失業した父親とハーレムに住んでいるというところからはじまる。まったくジャンル小説的な書き出しではないというか、文体のかもす雰囲気が黒人文学のそれっぽいのである。
しかし青年は、白人の街に住むあるアヤシイ高齢女性から依頼を受けて魔術的性質を持つ本を手に入れたりして、ちょっとアブない金を稼いでいる。ということで、ラヴクラフト的舞台が用意されていることが分かる。その舞台もラヴクラフトの短篇「レッドフックの恐怖」を下敷きにしたことで後半、ブルックリンのエリアに移るのだけれど、ここからのクライマックスはラヴクラフトのパロディになっている。
解説では1920年代のニューヨーク各地区の雰囲気が良く出ているとあるけれど、読む方に知識がないせいか、擬古風な感じよりずっと現代的なスタイルで書かれているように見える。すくなくとも広瀬正のような魅力は無い。
それにしても「はじめて出会う世界のおはなし」というシリーズ名にはまったくそぐわない1作だなあ。
買うだけで積ん読になることが多い異形コレクションだけれど、目次を見て読む気になったのが、井上雅彦編『狩りの季節 異形コレクションLII』。柴田勝家に上田早夕里、牧野修と伴名練そして空木春宵と、まあ読む気になるラインナップであった。
柴田勝家「天使を撃つのは」は、中世ヨーロッパを舞台に「天使」を狩る男の話。「天使」が何なのかは男が説明するけれど、その真実は・・・というもの。いい雰囲気で最後の謎かけまでひっぱる。
上田早夕里「ヒトに潜むもの」は、人知れず耳掛け式の通信機器に擬態した生物が人間を乗っ取るようになって、それを狩る者がいる世界の話。メインキャラクターをいわゆる行き倒れを扱う市の福祉課職員としたことで現代的なホラーになっている。
牧野修「ブリーフ提督とイカれた潮干狩り」はタイトルからは見当が付かないが、49巻に掲載されて大森望のベストにも選ばれた「馬鹿な奴から死んでいく」と同じ魔術医が主人公の新作。タイトル通りのかなりグチャグチャな話になっているが、第1作の方がすっきりしていたかな。グチャグチャ度がアップした分、牧野修らしいけれど。
伴名練「インヴェイジョン・ゲーム1978」は、スケバンたちの連合体制に外部の敵(?)によって危機が訪れる話。伴名練は百合が好きでしょうがないんだなあ、と思わせるが、こんな表題なのは参考文献にある山田正紀の短篇「コインをもう一枚」のせいか。
本巻のトリを飾る空木春宵「夜の、光の、その目見の」は真っ黒な平面が芸術作品として評価される芸術家の女性に女性記者がインタビューする話だけれど、作者のアイデアは真っ黒な平面の素にかかわるものとインタビュアーと芸術家の関係の両方でイメージの鮮やかさを効果的に使っている。
全15編のうち以上の5作がなじみのある作家たちの作品な訳だけれど、久しぶりに読んだのが、久美沙織「夜の祈り」。これは、コロナ禍の非情な現実を挟みながら、ある憑きものを呑み込んで歳を取らなくなった少年のファンタジーの物語。
外に王谷晶、黒木あるじ、澤村伊智、清水朔、霧島ケイ、斜線堂有紀、真藤順丈、平山夢明が作品を寄せている。この中ではエンターテインメントとしてよくできている霧島ケイ「七人御先(しちにんみさき)」と吸血鬼ものとして楽しめる王谷晶「昼と真夜中の約束」(ちょっとタイトルに魅力が無いけど)が印象に残った。
まあ、面白いことにかけては十分期待を上回るのが、アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上・下。まず太陽を痩せ細らせるというアストロファージを思いついただけでも立派なSFらしいんだけれど、現代的なテクノロジーと基本的な科学知識を物理教師の主人公に語らせるテクニックがいかにもそれらしい雰囲気を醸し出すハードSFのイメージも相変わらす。
ただ、ああ面白かったと満足させてもらった割には、いろいろ文句が付けたくなってくるのも第3長編なればこそ。デビュー作以来の語りの調子の良さは保証付きだけれど、主人公の置かれた状況が火星のヒーローとまったく同じなのはいかがなものか、とか、いくらパンスペルミア仮説の補強をしようとスペースオペラとしてはファンタジーになってしまわざるを得ないだろう、とか。
うーん、文句は色々いっても宇宙船「ヘイル・メアリー」号の魅力は大きいか。