内 輪   第375回

大野万紀


SFファン交流会「『デューン 砂の惑星』の魅力を語る」

 11月のSFファン交流会は11月20日(土)に、「『デューン 砂の惑星』の魅力を語る」と題して開催されました。出演はSF映画評論家の添野知生さん、『デューン 砂の惑星』の新訳版を翻訳された酒井昭伸さん、ハーバートらに詳しい翻訳家の中村融さんです。写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、添野さん、中村さん、SFファン交流会のみいめさん、右上が酒井さんです。
 まず添野さんから今回のドゥニ・ヴィルヌーヴ版映画と、それまでのいきさつについての熱のこもったお話がありました。特に、ヴィルヌーヴ監督は若いころから熱心なSFファンだったということで、高校の卒業アルバムに『デューン』の言葉を引用していたというのが印象的でした。そのころから関わりがあったのですね。パンフレットがすばらしいので、映画を見た人は必ずパンフレットを買いましょう。
 酒井さんからは新訳版『デューン』の翻訳についてのお話。中でも翻訳をする中で酒井さんが気がついたことという話がとても刺激的でした。1つ目はシェークスピアが好きだったハーバートが、『デューン』を小説というより戯曲のように書いているということ。2つ目は『デューン』の背景、登場人物、組織などが、17世紀イギリスの清教徒革命の歴史と重なっているということでした。特に後者については、酒井さんの作成した対照表を見せてもらったのですが、ベネ・ゲセリットが国教会、フレメンが清教徒ないしはカトリックで、皇帝がチャールズ一世、ポール・アトレイデスとフェダイキンはクロムウェルと鉄騎隊、そして航宙ギルドが東インド会社でスパイスは香料と対応するとのこと。すごい。最後なんかまさにそのまんまですね。
 中村さんはフランク・ハーバートについての話。ジャック・ヴァンスやポール・アンダースンとの仲のいい友だちづきあいや、新聞記者時代からの生態学への興味、そして『21世紀潜水艦』でやっとSF作家として名を成したが、『デューン』は当時のSF界ではあまり高い評価はされなかったということ。エコロジーはいいが、何を今さら封建制度の話なんて、というところだったようです。これは日本でも原書で読んだ伊藤典夫さんが同じような感想を書いていました。その『デューン』がサブカルチャーの方から(主にドラッグカルチャー関連で)評判となり、毎年のオールタイムベストとなるような人気を博していく……といったお話でした。
 また石森章太郎のイラストや原書のショーンハーのイラストもたくさん見せていただき、全員でわいわいと「石森の絵柄がこのあたりで変わっている」とか「ショーンハーの砂虫の絵がその後のビジュアルを決定づけた」とか、楽しく話がはずみました。
 ところで新訳版に解説を書いた大のハーバート好きの水鏡子ですが、結局映画は見られなかったそうです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ネットワーク・エフェクト』 マーサ・ウェルズ 創元SF文庫

  あの「弊機」こと人型警備ユニットが主人公の『マーダーボット・ダイアリー』の続編。前作は連作中編集だったが、今度は長編だ。
 前作の事件でプリザべーション連合評議会の警備コンサルタントとなり、助けた人々から人格をもった人間扱いされている(基本的に人間が苦手な本人にとってはわずらわしいことだが)”弊機”は、評議会議長メンサー博士の娘アメナらの護衛として新たな惑星調査に向かう。そこでも悪い奴らの襲撃から皆を守ったが、その帰還途中、謎の宇宙船から攻撃を受ける。乗組員たちは救命ポッドで脱出したが、アメナと弊機は敵の宇宙船に囚われの身となってしまった。そこには人間のようなそうでないような謎めいた灰色の肌の敵(ターゲット)と、かれらに拉致されていたバリッシュ-エストランザ社の従業員二人がいた。そして弊機にとってショックだったのは、この宇宙船が、前作で意気投合して仲良くなった〈不愉快千万な調査船〉ARTことペリへリオン号だったことだ。
 あのARTがなぜ? どうやらターゲットたちに乗っ取られているらしい。そこにポッドで脱出したはずの人たちも合流し(ARTといっしょにワームホールに引き込まれてしまったのだ)。復活したARTと共にターゲットたちを倒す。ワームホールを出て到達したのは見知らぬ惑星だった。
 というわけで、本書では弊機とART、アメナたちプリザべーション連合評議会の調査隊員たち、それからバリッシュ-エストランザ社の従業員たち(彼らは遥か過去に植民されたものの企業倒産によって放棄された惑星を再開発しようとやって来たのだ)、そして灰色の肌をした謎のターゲットたちが、危険な異星文明の遺物にからんで複雑な敵対関係を描くことになる。
 ただ弊機の目的は明確だ。警備すべき人々を守ること。ARTの目的はターゲットたちに連れ去られたもともとの乗員たちを救出すること。そこで二人(人間ではないが弊機とARTはなかなか微妙な関係なのだ)は互いにツンツンとなじり合いながらも協力して、繰返し訪れる絶体絶命のピンチを切り抜けようとする。
 やっぱこの二人の、戦いの中でもわずかなすきあれば連続ドラマをいっしょに見て語り合おうとするラブラブな関係が楽しい。後半ではそこに、もう一体の警備ユニットが加わることになる。さらに弊機が有機体を含むとはいえ大部分が機械であることを生かしたすごい裏技までも登場する。この裏技くんとの会話も楽しい。
 体や武器を使った戦闘シーンも迫力あるが、ドローンや様々な機器を駆使し、ソフトウェア的な戦いの数々が目くるめくスピード感で描かれているのがとても読み応えがある。始めのうち、設定の説明がほとんどないのと、登場人物の性格を描写するためだけのようなエピソードが多いので少しもたつくが、本筋のストーリーに入ってからは五百ページを越える本書を一気に読み終わることができた。ひたすら弊機のぐちを聞かされるのがこんなに心地いいとは。訳者の腕が冴えまくっている。やっぱりこのシリーズは面白い。

『異常論文』 樋口恭介編 ハヤカワ文庫JA

 異常論文とは何か。昔からある論文あるいはノン・フィクション形式の小説とは違うのか。SFではアシモフやル・グィン、ラリイ・ニーヴン、もちろんスタニスワフ・レムもそうだが、昔から大変面白く優れたそのような作品が書かれてきた。最近手に入りやすいものでは石黒達昌の傑作もある。それとは別にぼくには、頭のいいSFファンが学術的な話題をネタに好き勝手にふくらませて語るバカ話というようなイメージもある(京フェスの大広間でやる深夜の放談みたいで、ぼくは大好きだが、あまり大っぴらにやるものじゃないよね)。
 本書は、編者のツイートから始まり、SFマガジンで特集され、SF界に留まらない大きな反響を呼び、そしてさらに多くの作品を追加して出版されたものである。700ページ近くあるずっしりと重い文庫本で、22編と編者の巻頭言、神林長平による解説つきだ。その巻頭言で編者は「異常論文」のコンセプトについて熱く語っている。でも正直いって何を言っているのかちっともわからない。まあ何だかすごいものだから、心して読めやと言っているようだとはわかる。
 実際全部読み終わってみると、これはSFというものにおさまらないひとつの文芸形式なのかと思う(ぼくの能力ではSFの観点から論じるしかないのだが)。正直理解出来ないものもあるが、企画の勝利だといえるだろう。以下、長くなるけど全作品についてコメントしていこう。

 冒頭、円城塔「決定論的自由意志利用改変攻撃について」が、さっそくキツイ。宇宙知性と人類が戦っているところに何かとんでもないことが起こって、それを研究した論文という体裁だが、円城塔のこれまで文学的オブラートに包んでいたものをストレートに表に出してきたような文章である。最初に「テキスト攻略」という言葉が出てくるので、リアル宇宙というよりいつもの〈テキストワールド〉ものだろうと思われる。書かれているのは決定論的な宇宙において、自由意志がどう作用するかということを数式を使って表現したものである。要するに決定論的な宇宙においては未来も過去も決まっているのだが、それを未来を想像することによって自由意志が改変できるということを言っているのだろうと思う。改変された結果もまた決定論的宇宙の中に含まれている。これはそのことをそのまま数式にしたものだ。「数学的な結果が導かれるわけでも、議論が行われるわけでもない」という注釈はそういうことだろう。ただ事物が変数や演算子のレベルに形式化されているので、具体的にどうなっているのかはさっぱりイメージがわかないのである。まあ普通の小説じゃなくて異常論文なのだからそれでいいのか。

 青島もうじき「空間把握能力の欠如による次元拡張レウム語の再解釈およびその完全な言語的対称性」はぐっとわかりやすくなる。なお作者は公募入選作でこの作品がデビュー作とのこと。21世紀の地球上に存在するレウム族と呼ばれる民族の、特殊な言語についてのフィールドワーク報告である。彼らは音声による言語ではなく、石版に図形を描くことでコミュニケーションするのだが、さらにその石版を動かすことによって四次元的な広がりを表現し、手話のように会話することができるのだ。言語自体も面白く、またARを導入しての実験なども興味深いのだが、そもそもそんなレウム族がどうやって21世紀にまで存続していたのかという民族の歴史や、日常生活がどうなっているのかといった方にどうしても興味がわいてしまう。だがそれには答えず言語的な面のみに集中する(民族学ではなく言語学の論文だから当たり前だが)。ぼくとしてはこの手法はヴァーリイ「残像」の聾唖者コロニーの言語などにも応用できると思うので、さらなる研究に期待したい。

 陸秋槎「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」はインドの魔術師がロープを空に投げるとそのまま直立し、魔術師はそれを登って消えるという、どこかで聞いた覚えのあるマジックについての考察。そのロープが実はヴァジュラナーガという絶滅したヘビだったのではないかという。ロープが直立するのもヘビが直立するのも同じくらい不思議だが、論文としての体裁は整っている。

 松崎有理「掃除と掃除用具の人類史」。これは面白かった。ぼくが昔から知っているタイプの論文形式SFだ。人類のエントロピーとの戦いを掃除というタームで捉え、基本的に怠惰な人類は掃除用具を発明することによって無秩序と戦ってきたという論文。思わずニコニコしちゃう引用や仄めかしを混ぜながら(「ダイソン型掃除機」や「カルノーサイクル」には笑った)架空の人類史から遙かな宇宙史へと発展する。何しろとんでもなく長い時間の単位である「劫」の億倍、つまり億劫(おっくう)の時代まで、人類は怠惰を極めようとするのだから。さすが論文SFを得意とする松崎さんである。軽いけれど、こういうの好き。

 草野原々「世界の真理を表す五枚のスライドとその解説、および注釈」は、草野原々の作品だから奇怪な論理が爆発する楽しい作品かと思ったら、奇怪な論理は表現されているものの、さっぱり意味不明な作品だった。真理とか天宮とか魂とか神とか悪魔とか、こちらの世界ではそれなりにイメージされる言葉が異次元の意味を包含しているようで、アルゴリズムはあってもそれが何なのか、何をしようとしているのか全くわからないプログラムを見ているようだ。メインは注釈の方にあるようだが、そこから類推してリバースエンジニアリングするのはキツイ。そこからはこの世界の異様さが想像されるが、全体像は結ばない。前提となる認識が共有されてないところでスライドの意味をくわしく説明されてもますますわからなくなる(実際にあるそういう意味不明なポンチ絵へのパロディなのかも)。

 木澤佐登志「INTERNET2」は原々の後だとほっとする。でもこれ論文じゃなく、普通に(ちょっと中二病の入った)SFだった。人類のあらゆる過去の物語が遍在し、それを私が/お前が体験する、そんな真のサイバースペース。それがINTERNET2だ。初め設定説明だけの話かと思ったら(異常論文だからそれでもかまわないけど)、その後の展開が万能感に溢れていて心地よかった。

 柞刈湯葉「裏アカシック・レコード」。これは傑作。論文というより解説文だが、きわめて科学的・論理的に「嘘」のパラドックスを扱っていて面白い。アカシック・レコードといえばオカルト方面ではこの世の全てに真実が記録されているという世界記憶の概念だが、裏アカシック・レコードはこの世界のすべての嘘が収録されている謎のデータベースである。それへのアクセス方法、検索技法、そこから派生する世界への影響、そして宇宙論までが淡々と描かれているが、どれも論理的で納得がいく。実は量子コンピュータへの皮肉もそっと込められているようだ。

 高野史緒「フランス革命最初期における大恐怖と緑の人々の問題について」。これもまたごく正統的な論文形式のSFである。読者をあっと驚かせるような要素は少ないが、フランス革命の初期に発生した農民の暴動「大恐怖」が「緑の人々」というおそらくは宇宙からの訪問者への恐れから発生したのではないかという仮説が述べられている。そしてあっと驚くというよりはうっと唸る「歴史定数」と「ノストラダムス方程式」が導入され、現代へとつながるのだ。とても面白かった。

 難波優輝「『多元宇宙的絶滅主義』と絶滅の遅延 ――静寂機械・遺伝子地雷・多元宇宙モビリティ」。著者はSFプロトタイピングを実践する美学者・批評家とのことだが、この作品が商業デビュー作。これも論文として整っており、議論やアイデアにもしっかりとSFらしさがある。現実にある「反出生主義」へのパロディとして読めるが、人類だけでなく宇宙、さらに多元宇宙を含めた全ての苦痛を感じることのできる存在に対して、生きる苦痛をなくすためには絶滅させることが正しいという恐ろしく過激な思想とその実践について書かれている。ある意味面白かったけど、内容にはとてもついていけないよ。

 久我宗綱「『アブデエル記』断片」。この著者もこの作品が商業デビュー作。イスラエルで発見された年代不詳なある宗教文書の断片と、その訳者による考察という形式で書かれていてまさに論文そのものである。文書の内容には神や天使と思われるものが現れるが、宗教書の断片であれば当然だろう。それ以外何も超常的なところはなく、それが過去にあった実際の宇宙人などとの遭遇だと思わせるところもない。架空論文だが異常ではなく、ここからミステリやSF的な展開があるわけでもない。いや読者がそれを想像することはできる。書かれていない小説へのフックとなる断片。古文書のロマンがあるので、この作品をプロローグとする長編伝奇小説や歴史小説が想像できるだろう。そうはいっても自由度が高すぎて、そのためには何かひっかかる要素がもっと必要だろう。

 柴田勝家「火星環境下における宗教性原虫の適応と分布」はりっぱな架空論文だ。宗教やイデオロギーといったものが、人類と共生する宗教性原虫という生物によるものだということが前提にある。現在は火星にまで広がったそれら宗教性原虫の分類とその系譜をさぐる論文なのだが、前提さえ認めれば普通に研究論文として読める――と思ったら途中であれっと違和感が湧き上がる。原始的な宗教性原虫は火災や落雷といった自然現象を中間宿主とするという記述があり、さらに進化したものは人間の言語を中間宿主として人類に寄生するとある。言語に寄生するって、生物じゃないの? そのまま受け取ればこれは生物ではなく、いわゆるミームであり、ミームだと考えればすべて説明がついて、逆に生物学的な記述が違和感を呼ぶ。さらに最後の訳者注により全てがまたひっくり返る。うーん、アクロバティックな作品だなあ。

 小川哲「SF作家の倒し方」は論文というより普通にジョークっぽいエッセイだ。実在のSF作家を、明るい世界を目指すSF作家と陰から日本を支配しようとする裏SF作家に分け、著者はその「SF作家」の側にいることを前提に「裏SF作家」たちを一人一人名指しし、その倒し方を考えるという内容である。バカバカしいので名指しされた作家も別に文句は言わないだろう。これこそSF大会や京フェスの合宿でやるようなバカ話である。面白いけど。裏SF作家を率いているのは大森望だそうだ。まあそうかも知れないな。でも表SF作家を率いるのが池澤春菜だというのは一応アリとしても、表SF作家にはいったい誰がいるのだろう。いや、実は表SF作家なんてものはおらず、SF作家はみんな裏SF作家じゃないのかという疑惑が浮かぶ。すると裏表はひっくり返って――あらまあ。

 飛浩隆「第一四五九五期〈異常SF創作講座〉最終課題講評」も論文というより架空の作品の講評ということで、レムを引き合いに出すまでもなくSFでおなじみの架空書評のひとつだといえる。ところがそう思って読むと、それだけには収まらないことがわかってくる。それはこの世界が〈事態〉という宇宙的な事件に遭遇し、大きく変化してしまったものだからだ。〈事態〉のあと、人類は時間と物質を好きなままに扱うことができるようになり、それは創作や芸術の分野にも及ぶ。作品はすでに小説ではなく、世界に浸透してくる何かだ。一つ一つの作品内作品が異常なのではなく、それを包含する世界全体が異常なのだ。つまりこの作品は客観性を装った異常論文ではなく、そのまま飛浩隆のいつものSF小説となっているのだ。小説のレイヤーも現実のレイヤーも異常な〈事態〉の中で混交してしまう。いかにも飛浩隆らしい小説だ。

 倉数茂「樋口一葉の多声的エクリチュール――その方法と起源」はガチの文学論文。明治初期の小説はまだ主語が明確でなく文章の切れ目もなく、複数の視点が一つの文章の中に混在して語られるなど、現代から見ると異様な文体で書かれている。著者は樋口一葉において、その「空虚な話者の位置に切実で生々しい他者の声が次々に入り込んでおのれのことを語り出す生霊のひしめく空間」を作り出したのはどのような経緯があったのかを明らかにしようとする。実際とても勉強になる。この論文ではそこに見いだされたオカルト的な体験、というのがキモだが、それは著者にも降りかかってくる。

 保坂和志「ベケット講解」はぼくには難解だった。アビラの聖女テレサの書いた『霊魂の城』という本と、サミュエル・ベケットの小説『モイラ』の文章を著者が読解していくという作品だ。どちらもぼくは読んでいないが、かなりの量が引用されているので、文章の雰囲気はわかる。読解といったが、論理的に分析していくというより著者の内面をその独特な文体にかぶせてとめどなく感想を述べていくという形である。他者とのコミュニケーション不全と言葉によって描かれる世界というものがそこにはあるようだが、真意はよくわからない。ベケットの小説によせて著者の思いを語るというレベルではわかるように思うが、この作品がこの本に収められている意味も実はよくわからない。

 大滝瓶太「ザムザの羽」。カフカの『変身』を題材に、小説における不完全性定理を立ち上げようとする論文。だが論文は途中で「私」と「妹」の家族の物語を語る自己言及的な小説となり、また論文に戻るものの、結局小説となって終わる。論文の部分で小説の無矛盾性を論じるのに対角線論法が出てきたり、想像可能な物語の数は不可算無限(非可算無限?)であるといった、理系ジョークみたいな面白い話が出てくるのだが、いや、だって小説とか物語とかはそもそも数学的な推移律を満たさないし、形式化できないでしょとすぐに疑問がわく。ところがこの作品ではそういう疑問にもちゃんと査読がついていて(麦原遼さんが査読したそうな)、その回答もついている。たとえば「無限のエピソードは想像可能・記述可能なのか」という問いに、「記述している私が存在しており、その死は確定していないのだから(つまり私は無限に生きるかも知れないじゃんってことだね)記述可能である」とか、「無限を無限で割って有限な極限値に収束したとして意味があるといえるのか」という質問に、「少なくとも本稿が存在可能となる」と返すとか、気が利いていて面白かった。

 麦原遼「虫→・・・」も難解な作品。精神に寄生する虫、あるいは情動兵器の進化形(?)がはびこり、論文の査読者を死に至らしめる、このため論文というものがなくなった――という論文のように読めるが、これも虫にやられたのだろうか、意味不明な章もいくつか含まれている。そして章題が1次元の数値ではなく(1,-π/7)のような2次元座標で表されている。ただし(座標だとすれば)一つの次元は1に固定されているので、各章は原点から±πの数直線上に存在している。プラスマイナスそれぞれに対応する章があるが、内容的に対称的なわけでもない。何か意味があるような気はするのだがぼくにはわからない。(5π/7)章に日常言語で書かれた「私はぼんやりとしている」という感覚はとてもよくわかるのだけれど。
(追記)これは直交座標じゃなくて極座標と考えるのが自然ですね(ぼけてた)。でもやっぱりわからない。

 青山新「オルガンのこと」も難解だが、こちらは普通にSFとしても読める。テーマを緻密に解明しようとする論文ではなく、テーマの中に溶け込み、それを表現し、それを悦ぶ小説として書かれているからだ。そのテーマとはまさにオルガン=臓器であり、ここでは特に大腸と腸内細菌に集中している。腸内細菌SFというものがあるとぼくは思っている。ケン・リュウの作品にもあった。『屍者の帝国』の一部もそうだろう。人間を脳みそからではなく、体内の多数の微生物を含む生命の集合体として捉える見方。この作品ではそれがさらに個人を越えて、他者や建築、都市にまで及んでいる。様々なハードSF的、サイバーパンク的ガジェットがちりばめられているのも楽しい。ただ主人公はいてもストーリーはなく、物語として読もうとすると厳しいものがある。著者のもっと普通のSFを読みたい。

 酉島伝法「四海文書注解抄」は面白かった。四海文書というのは死海文書とは関係なく、語り手が四海堂という古本屋で手に入れたスクラップブックのことである。この作品は、語り手がスクラップブックに貼り付けられた不可解で不気味な文章や写真を調べ、その注解として記したものだ。そこには主にある新興宗教(というか詐欺的でスピリチュアルな食品販売の団体)に関わる新聞記事やインタビューなどがあり、それを語り手がさらに調査した内容が書かれている。しかしそれが次第に、事故で異常な譫言(うわごと)を語るようになった男と、それを意味の分からない奇怪な文字で書き写す男の物語(それがこの宗教団体の経典となった)になり、世界の背後にある言葉の宇宙とでもいえるものの存在が想像できるようになってくる。それをはっきり示すのが、注解の最後にカッコで追記された語り手のものではない不可解なコメントである。読めない漢字や意味不明な用語で書かれたそれは、明らかに別のレイヤーに属する高次元な存在をほのめかしている。こうなるともう完全にSFじゃないですか。著者のことだから、この作品の背後にある設定がきっとすでに構築されているに違いない。ぜひとも長編化を望む。

 笠井康平・樋口恭介「場所(Spaces)」では、二人がGoogleドキュメント上で「異常論文」について協同執筆している中で現れた、開く度に内容が変わる壊れた.mdファイル(マークダウン記法で書かれたドキュメントファイル。ただのテキストファイルなので中身を変更しない限り内容が変わるはずはないのだが。本当だとしたらウィルスなのだろうか)を中心に、世界を記述すること、表現すること、解釈することについての議論がなされる。それにはSF的な妄想や与太話も含まれるということで、ここには実際に存在するものと想像したもの、創造したものが混在している。ただし語り口はストレートではなく、読者は煙に巻かれるだろう。いわば情報原理主義とでもいえる世界の見方は本書の他の作品にも多く見られる観点であり、テグマークの本など読んでいるとあるいは現実の宇宙もそうなのかも知れないと思えてくる。SFだなあ。

 鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」。何かすごくて、傑作に違いないとは思うのだが、ぼくにはレビュー不能。しっかりと本格的な学術論文(のレジメ)の形式で書かれており、きちんと読んで理解するには前提となる知識の蓄積とある種の知的な訓練が必要だろう。それは詩を中心とした芸術論、怪談などの民俗学的な文化論、天皇制や現代史、身体論、演劇論、共同体論といったところだろうか。そこではハードSFと同様、ひとつひとつの術語が深い意味を持つので、素人はおいそれとは踏み込めない。とはいえ、この作品で取り上げられているのはある架空のゲームソフトであり、それが戦前のある詩人(これも架空と思われる)をモチーフとしたものだという設定である。その詳細な分析から近現代史を怪談として見る視点や、複数の人の手により様々なメディアを通して複製され不気味に改変されていく二次創作、三次創作といったテーマも見えてくる。それはまるで都市伝説が作られていく場のようで、ぼくはあの「弟切草」を思い浮かべた(古い)。そんなぞっとする怖さがある。そういう表面的なところではとても面白く読んだのだが、そこから先には入っていけないもどかしさがある。

 伴名練「解説――最後のレナディアン語通訳」。トリを飾るのは伴名練である。架空のアンソロジーの解説という体裁だが、それは次第に破綻していく。レナディアン語というのはある日本人のSF/ファンタジー作家が一人で作り上げた架空言語で、その言語の世界を舞台にしたファンタジーのシリーズが評判になり、熱心なファンも多かったが、あるきっかけからその作家のおぞましい犯罪が暴露され、結局は逮捕されたということになっている。そこでなぜ『レナディアン文学作品集成』なんてアンソロジーが作られたのか良くわからない。伴名練がこういう体裁で書くときは、それぞれの作品がすごく面白そうに書かれるはずだが、ここでは内容そのものには簡単に触れられるだけで、大して面白そうじゃない。それよりそれぞれの作者紹介の方に力が入っている。と思っていると、その作者紹介や作品の来歴が次第に詳細になっていって、一つの恐ろしい物語を構成していくことになる。いやこれ、アンソロジーの解説という体裁は失敗だったんじゃないだろうか。それともそれが破綻するところまでが想定のうちか。この解説者が誰なのかということについても謎だ。本来はレナディアン語という人工言語の(SF/ミステリ的な)構造と、それを作った作家、彼を取り巻く人々、そして犯罪についてのルポルタージュという形で書かれるべき物語だろう。途中からの展開は凄みがあって面白かったが、これも長編化とはいわないが、もっと書き込んで長めの本格ミステリ/言語SFとして読みたかった。

林譲治『大日本帝国の銀河4』 ハヤカワ文庫JA

 『異常論文』の後で読むとほっとするね。
 初めの30ページを過ぎたところであっと驚く。あの歴史上の重要人物が暗殺されたのだ。ここからは、われわれの知っている歴史とは大きく異なる世界が展開していくことになる。いやそれを言うならオリオン集団が現れたところからすでに歴史は変わっていたのだが、これまでは何となく実際の歴史の上にオリオン集団のようなものが上書きされるイメージで読んでいたのだ。続いてもう一人の重要人物も飛行機事故(?)で死に、さらに日本も否応なく中国との戦争どころではないところに追い込まれていくことになる。
 これまで課題となっていたオリオン集団の大使館がついに日本に開設される。それは地上ではなく、銚子沖の海上に浮かぶ20万トンの巨大客船だった。そこから中国、日本、ソ連をつなぐ公にはされない大きな動きが生じ、世界経済に影響を与えていく。巨大な富がオリオン集団から提供され、人間たちの間に流通していくのだ。ヨーロッパで進行中の第二次世界大戦もその動きが鈍くなり、そうしていよいよこの物語にアメリカが登場してくる。
 オリオン集団はこれまでなぜかアメリカとは接触してこなかった。それが日本を経由して経済的に関わり、アメリカ領であるフィリピンでの事件をきっかけとして、アメリカ、イギリス、オランダの連合軍と軍事的な衝突を招くことになる。
 その後のオリオン集団の姿には、これまでのある種とぼけた牧歌的な雰囲気から何だか空恐ろしいものに変わっていく不穏な雰囲気がある。そしてこの巻から女性の役割が大きくなっている。特に、八路軍に囚われていた女医、鮎川悦子の存在がクローズアップされていくが、彼女はまるで『星系出雲の兵站』に描かれたヒロインたちのように有能で力強く魅力的である。次巻でどのように発展していくのか、目が離せない。


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