続・サンタロガ・バリア  (第229回)
津田文夫


 チケット予約システムがよく分からず、最初の抽選で当たったチケットが期限までに代金の振り込みがなかったと云うことで流れていたので、再度今度はクレジットカード払いで予約したら、1階11列というこれまで3回行ったときとは大違いの良い席がまわってきた。
 ということで、見てきたのがキング・クリムゾン大阪公演初日(12月2日)。場所は2015年同じ中之島フェスティバル・ホール。その時は2階席最前列左端で音圧はあったけれども床から突き上げる振動はなかった。それが今回はベースとバスドラ、バスタム類でぐわんぐわん床が揺れる。一番印象に残ったのはそのことだったなあ。
 2014年に始動して断続的に足かけ7年、基本的に同じメンバーでアレンジを煮詰めていった結果、このバンドは半世紀近い間につくられたどの曲も同じ強度で演奏が出来てしまうという恐るべき状態に達している。それはアカペラではじまるPEACEからハードを極めたレヴェルVまで実に一貫した印象をもたらす。
 今回も1部2部ともトリプル・ドラムの威力を見せつけるドラムアンサンブルから入るが、曲はセカンド・アルバムからの「冷たい街の情景」で始まり、さまざまな時期の楽曲を披露して第2部の最終曲が「スターレス」で一旦終了。アンコールに「21世紀の精神異常者」を演ってステージを終えるという構成は、いかにもフェアウェル・コンサートらしく感じたが、さっき自分が書いた2015年の公演の感想文を見返したら、その時既に解散コンサートみたいだとあったので、クリムゾンは7年間ずっと解散コンサートをしていたのかも知れないな。
 観客の入りは1階席だけ使用で8割方は埋まっていた。演奏する方がもはや後期高齢者がいるバンドなので、ほとんどがオヤジで女性もちらほら、ただし若い人はいない。会場スタッフ以外に20代らしき人は見なかったような気がする。2015年の時は隣に若い女性がいたけれど。
 結局4回見た最終型クリムゾンのコンサートで、一番印象に残った演奏は2018年の大阪グランキューブでのものだった。

 出来れば全部読んでおきたいと思ったので、前回に続き『広瀬正・小説全集2 ツィス』を読んだ。
 ツィスがドイツ語でCシャープ(嬰ハ音)を意味することは、今なら知っているけれど、大学に入りたての頃はCを知っててもツィスは知らなかったので、何のための原稿だったか忘れたが、そこで本作を『ツイス』と書いて岡本俊弥さんに直されたことがある。以来『ツィス』は鬼門だったのだけれど、40年も経てばそんなこともどうでも良くなるものだ。
 神奈川県内の街で耳鳴りに悩む若い女性が、精神科医に「ツィス」に近い音程だ告げたところから、精神科医は「ツィス」の耳鳴りがする患者と親しかったので、彼女を音響学の教授に紹介すると、今度は教授が街の「ツィス」を測定するようになり、「ツィス」は徐々に広がりだし、音圧レベルも次第に上がってきて、その間に教授はテレビ・ラジオで解説者として活躍する。やがて東京でも「ツィス」が確認されだした・・・。
 本書が変わっているのは、若い女性も精神科医も、しばらくは物語の中心人物になる教授でさえも主人公ではないことだ。主人公らしきキャラクターは途中から出てくる後天的に聴力を失った若いイラストレーターである。しかし彼にしても「ツィス」現象に対して何かするわけでもなく、現象の説明は最後に精神科医の口から語られるのだが、その説明が真実かどうかは読者の判断に任されてまま終わる。すなわちこの作品の特質は「ツィス」現象の発生から収束までをキャラに頼らずに小説にして見せたことにあり、「ツィス」のエスカレートで東京が封鎖される一種のパニック小説であり、当時の云い方だと疑似イベントものということになる。
 それにしても『マイナス・ゼロ』の星新一といい本巻の司馬遼太郎といい、作者本人との付き合いがほとんど無いのが面白い。本巻の月報の半村良も作者とは生前の付き合いが僅かしか無かったというが、思い入れのある文章になっている。

 今回読むのにいちばん時間がかかったのが、樋口恭介編『異常論文』。なかなか斬新なカヴァーで、帯も編者の「異常論文とは、生命そのものである」という意味不明なフレーズと収録作家名のみというカッコよさ。
 帯にある24人のうち8人の名前がなじみのないもので、その点も新鮮と云えば新鮮である。収録作品が22点なのは、2人1組が2チームあるため。
 SFマガジンの「異常論文」特集号掲載作品10点が収録されているが、小川哲や柞刈湯葉、陸秋槎はその時に読んだ。その他は初読のはずだが、柴田勝家は読んでいたかも。
 「異常論文」が何かは編者が序文でああだこうだと定義しているけれど、分かるような分からないようなシロモノである。円城塔や松崎有理、飛浩隆に高野史緖など当方がそのジャンル作品を多数読んできた作家たちは、その作風からしてほぼ期待通りの面白さで、柴田勝家などはこれをイスラム教でやったら現実的脅威が発生しそうな1作だった。得意技という点ではまさに期待通りの出来で、もちろん出色の逸品である。しかしSFプロパーでない作者の作品の「異常」ぶりが新鮮で、その点は編者樋口恭介の人脈と目配りが効いているといえる。
 個々の作品のひとつひとつに言及すると長くなりそうなので、まずは公募入選作という青島(あおじま)もうじき「空間把握能力の欠如による次元拡張レウム語の再解釈およびその完全な言語的対称性」は、いかにもなタイトルの付け方から過去の「異常論文」作品を継承しているし、内容とその報告形式もきっちりと編者やSFファンが面白く読めるだけの実力を示している。気になるのはこれが「注文」に対する模範解答になりすぎているところで、次作が読みたい。
 同じく公募入選作の久我(こが)宗綱「『アブデエル記』断片」は、シンプルなタイトルだが、それから予想されるように中東で発見された考古学的文書の紹介論文を擬してある。驚くのは巻末にある、原型となった作品が早稲田大学のマンガ系と思われるサークル会誌に掲載されたものである、というコメントだろう。
 やはり公募入選作の難波優輝「『多元宇宙的絶滅主義』と絶滅の遅延 ―静寂機械・遺伝子地雷・多元宇宙モビリティ」も副題をつけた長いタイトルになっている。青島作品もそうだけど、「論文」のタイトルらしくちゃんと本文からのキーワードでタイトルが出来ていて、内容の方向性を告知している。こちらはタイトル通りのスペースオペラ・タイプである。
 これらに較べるとベテラン作家といえる保坂和志や倉数茂の作品は安定した文学作品として読めるものになっていて、「異常論文」という意味での斬新さは別としてホッとするものになっている。
 編者がわざわざ酉島伝法「四海文書注解抄」と編者が参加した笠井康平との合作「場所(Spaces)」を並べたのは、前者が古本屋で入手したノートの注解で後者がコロナ禍のリアルタイムなやりとりという全く別の主題を扱っているにもかかわらず、双方ともワープロから繰り出した記号類を駆使した異言語を持ち込んでいるためだろう。その効果は酉島伝法の作風を思えば分かりやすく、後者では初めてということもあり分かりにくい。
 ほかにも取り上げるべきものはいくつもあるけれど、集中いちばん驚いたのが、鈴木一平+山本浩貴「無断と土」。これは表題がゲームのタイトルというもので、「Without Permission and Soil」がその英語タイトルになっており、作中では「WPS」と略される。って、このタイトルは作品の内容を(作中何度も「WPS」に言及しているにもかかわらず)一切反映していない。すさまじい情報量を詰め込んであるが、これは圧倒的無内容、積極的誤読の詐術、すなわち「いろはすもも」的作品である。
 本当の解説を神林長平が書いていて、編者の前書きをすっきりさせてくれている。
 それにしてもこんなコムズカシ話ばかりが沢山並んでる分厚い文庫が売れているのか。

 表紙に左右反転印刷されたタイトルと訳者名が目立つ(出版社名も反転しているが帯に隠れてる)キース・トーマス『ダリア・ミッチェル博士の発見と異変』は、博士が第一発見者となった宇宙から届いたパルスにより人類「上昇」現象が発生し数十億人が地上から消えたという事件を、人類「上昇」後に「上昇」しなかった作家が、その経緯をさまざまな資料と地上に取り残された人々へのインタビューによって報告書にまとめた形を取った1作。現象自体は全世界的だけれど、物語はアメリカ合衆国での話である。
 裏表紙に「ファーストコンタクトをノンフィクション風に綴った、異色のモキュメンタリーSF」をコメントされているように、ちょっと『巨神計画』のレポートが思い出されるが、人類「上昇」自体は、ソフトウェア版『幼年期の終わり』といっていいようなアイデアだ。
 宇宙から届いたパルスが、政府機関の専門家委員会で人間のものより遙かに高度なプログラムだと判明するまでや、それを受けての大統領とその周辺の動きなどは、いわゆるサスペンスものだけれど、パルスにより最初期の「上昇者」になった第一発見者ダリアのエピソードの方がSF部分を担っている。
 ソフトウェアが、『幼年期の終わり』のオーバーマインドに誘われる人類と同じように、人類を改変できるというメイン・アイデアは、そこに至る説明がないので説得力に欠けるように思われるのだけれど、それは『幼年期の終わり』のオーバーマインドだって大きな違いは無い(でもオーバーマインドの方が素敵だ)。この作品が『幼年期の終わり』のような人類変貌の宗教的な壮観を持ち得ないのは、現代のアメリカの息苦しさを反映する形で地球に残された側からの報告書になっているからかも知れない。
 作者については、訳者の佐田千織さんのあとがきにもあるようにあまり情報が無いようだ。

 韓国新世代SF作家登場!と帯にあるけれど、チョン・ソンラン(千先蘭)『千個の青』は、これまた若い女性作家によるよくできたヤングアダルト小説的長編。
 物語は、競馬騎手用アンドロイドが落馬するところから始まるが、このアンドロイドは偶然騎手用ではないチップが搭載され、競争馬から伝わる走る喜びを感じながら青い空に見とれて落馬し壊れたのだった・・・。このアンドロイドを10代の姉妹(競馬場に馬を見に行く趣味のある車椅子の姉と機械工作が好きな無口な妹)の妹の方が貯金をはたいて引き取ったことから物語が展開していく。
 姉妹の家庭は消防士だった父が事故で亡くなっており、元女優だった母が食堂を切り盛りして生活している。この女性3人の家庭はそれぞれが互いに遠慮している関係で、いまひとつ明るさに欠けるが、強い波風が立っているわけでもなかった。それがアンドロイドを引き取った事により、このアンドロイドが乗っていた、いまは走れなくなった馬のことも含めて、この家族に大きな変化が訪れる。
 SFとしての斬新さはなくても、爽やかに読める物語はやはり好ましい。

 わりと入手しにくい翻訳作品の初文庫化が続けて出たので読んでみた。
 オクテイヴィア・E・バトラー『キンドレッド』は30年前に山口書店(いまは英語系教科書専門出版社らしい)から出ていたものを文庫化。文庫化に際しての訳者あとがきによれば、共訳者すでに鬼籍に入ったという。
 話の方は、作品が書かれた現在である1976年新しい家に引っ越してきたばかりの白人男性と黒人女性のカップルのうち、女性の方が1815年の奴隷制盛んな頃の南部の州にタイムスリップしてしまうというもの。女性はその時代のある白人の男の子が溺れそうになっているところへ現れ、男の子を助けたあと現代に戻るが、再びその男の子が少年に成長した時代へと呼び戻されてしまう・・・という設定。女性は少年の時代に捕まって黒人奴隷としての経験を何度かのタイムスリップと共に深めていくわけだが、作者がいうようにタイムスリップ自体は「縁」によるものなのでファンタジー的である。それでも黒人差別をテーマにしたご先祖との対決という点でSFとして読める物語ではある。
 現代部分が思い出話以外は新居の中だけで、メインの舞台となる奴隷制時代南部州の農場のお屋敷は当然古く、時間耐性をまとっているわけで、デジタル時代のいま読んでもまったく古びた感じがない。
 まことにレアな作品の文庫化なので売れるといいですね。

 もう一つは、こちらも初版から30年のオラフ・ステープルドン『スターメイカー』。こちらは訳者の浜口稔氏があとがきで書いているように、初訳時以降にイギリスのステープルドンゆかりの地を訪れ、本書の注解になる資料も充分読むことが出来た上での改訳となったらしい。そのおかげで訳者あとがきが非常に詳しいものになっている。
 昔の国書刊行会版は読んだ覚えがあるけれども、中身をサッパリ覚えていないので、ちゃんと読んでなかったかも知れない。今回読んでみたら、とても分かりやすい話で、これはあらゆるスペースオペラの舞台カタログになっている作品だと気がついた次第。 クラークはもちろんレムの『インヴィンシブル』や『ソラリス』さえ舞台としてはこの中に入っているし、人類のアップグレードエスカレーションは、ほとんどの超人類ものSFの初期カタログとしてよめる。少し前に読んだ『最終人類』などもこの作品の中で用意されたカタログの一例に過ぎないと思えるくらいだ。とはいえ第1次世界大戦後の作品という時代的な制約はあって、1930年代当時の天文学・科学的な知識の限界が目立つし、宇宙の知的生命を、形態はともかく、人間準拠でしか想像できないという点では確かに古めかしい。しかし古典としてのパワーはいまでも充分にあるといえるだろう。新訳版『シリウス』とか出ないかな。

 第2次世界大戦前夜時代の改変歴史SFとして、実際の歴史では目の回るようなスピードで情勢が変化し続けていたけれど、こちらはゆっくりしたペースで物語が進行しているように感じられるのが、林譲治『大日本帝国の銀河 4』。この作品内でもヒットラーやスターリンがあっさり暗殺されて急転直下の大動乱のが生じているのだけれど、オリオン太郎に代表されるオリオン集団の大使館「ジン・ガプス」がついに日本の北の海上に開設されるにあたって、新しい日本人の女性キャラが登場するエピソード等を読んでいると、なんとなくゆっくりした進行に見える。
 その一方で、本巻のスペクタクル・シーンとなる「ABD艦隊」と「レイテ島沖海戦」は、ヒットラーやスターリンの暗殺と同じようにあっさりしたものに仕上げているように見えるが、実際の歴史からすると日本人としてはあんまり気軽に楽しめないところではある。
 それにしてもタイトルの意味が分かるようになるまであとが長そうだなあ。未だにこのタイトルからは海軍一式陸攻の後継機「銀河」以上のイメージが湧かない。銀河/ギャラクシーなんだろうげど。

 以前、いつか呉明益(ウー・ミンイー)『歩道橋の魔術師』を読んでみようと書いたら、11月に文庫化されたので読んでみた。
 訳者解説によれば、これは台北にあった台湾で初めてのショッピングモール「中華商場」(コンクリート3階建てが8棟、道路や鉄道を挟んで南北1キロにわたって続いていた、1961年完成、92年に取壊された)の2階部分をつなぐ跨線橋の連絡路がふたつあり、物語はその橋のひとつを舞台にした連作短編集。著者はそこで育ったという。
 親本は、20ページ前後の短篇10本で構成されていたが、文庫本化にあたり未収録だった関連作1編が追加されている。
 タイトルは、冒頭の短篇のタイトルでもあり、また10編の作品すべてに、多寡はあるものの橋上で商売する手品師(子供の目からは本当の魔術師でもある)が出てくることから付けられている。タイトル作は、商場の靴屋の息子である少年が、橋の上で出店を出して家の商売を手伝っていた頃の話である。
 その橋には手品師も店を張っていて、簡単なマジックを見せては、そのマジックの道具を客に売るという商売をしていた。あまりに見事な手際に少年は夢中になって、売上をちょろまかしてついそのマジック道具を買ってしまうのだった。手品師と顔見知りになって、あるとき留守番を頼まれた少年は・・・、というこれはタイトル通りの手品師/魔術師が主題の一編。少年の日々の魔法と喪失を鮮やかに描いてみせる。
 基本的に大人になってこの商場と橋での出来事を回想する形の話になっており、話者は違っても、それぞれが子供時代には友達や知り合いだったりする。この著者はどれほど子供時代の奇蹟や大人時代の残酷さを描いても羽目を外すことなく、読後感は静謐な感傷が残る。
 それにしても呉明益の作品が立て続けに文庫化されたり新刊で出たりした年だなあ。

 発刊が遅れに遅れてどうなったのかと思っていた、大森望編『ベストSF2021』がいまになってようやく出た。
 当然編者の序と後記を真っ先に読んだわけだが、めずらしく弱気な大森望の文章だった。伴名練の過激アンソロジストぶりにはわりと泰然としていたようだけれど、『異常論文』の樋口恭介に対してはなんとなく敗北宣言的な書きっぷりが感じられる。還暦ぐらいで年寄り臭くなってはいけません。
 年間SF傑作選自体の作品選びは、樋口恭介のアジ文ほどの者かどうかはともかく、編者自ら自負するようにあいかわらず変化球的な作品が多い。おかげで既読は3篇にとどまる。
 冒頭から円城塔「この小説の誕生」と、コワモテかと思いきや「良い夜を持っている」が思い起こされる日本語/英語変換の操作から生み出されるマジック。
 柴田勝家「クランツマンの秘仏」は、ウソツキとしての鉱脈を見つけた著者の好調ぶりが窺える1篇。題材のアブナさとの距離の取り方がすばらしい。
 柞刈湯葉「人間の話」は再読。初読時よりシンミリ度が増したような気がする。
 牧野修「馬鹿な奴から死んでいく」も《異形コレクション》第49巻で読んだので再読。牧野節が冴える好短篇。
 斜線堂有紀「本の背骨が最後に残る」は、牧野作品と同じく《異形コレクション》第50巻『蠱惑の本』からだが、こちらは読んでないので初読。ブラッドベリのブックピープルを、異本を認めないルールで正邪を決め、火あぶりに処すというもの。ちょっと呆れるが、作品の叙述は普通。
 三方行成「どんでんを返却する」は、編者の1ページ紹介によると、小説投稿サイト「カクヨム」に、読者をビックリさせるためだけの「どんでん返し部門」があるそうで、本作はそこに投稿されたものではないが、「カクヨム」に投稿されたという6ページしかない掌編。中身はタイトル通り「どんでん」を返そうと奮闘する話(意味不明)。でも作風はこれまでの三方作品と同様の感触がある。
 集中一番長い伴名練「全てのアイドルが老いない世界」は、タイトル通り女性アイドルだけの世界で展開する不死者の愛憎の物語。集英社のエンターテインメント文芸誌『小説すばる』掲載作。集英社に限らずここ数年のうちにSFファンがプロパーと見なす作家のSFが、エンターテインメントの短篇アンソロジーに収録されることが増えてきて、ロートルSFファンとしては半世紀の移り変わりに感慨を催す。
 長い伴名練作品のあとはまたわずか9ページの掌編、勝山海百合「あれは真珠というものかしら」は、VG+(バゴプラ)が主催の「第1回かくやSFコンテスト」受賞作とのこと。コンテストお題が「未来の学校」とのことで、これはモダンスペースオペラに出てきそうな学校だけれど、タイトルは現代語訳伊勢物語からという、ものすごい圧縮度で書かれた1作。ちょっとビックリする。1ページの著者あとがきで、宇宙怪談(落語?)を披露しているのもなかなか。
 麦原遼(はるか)「それでも私は永遠に働きたい・・・・・・」は、これまでの麦原作品にくらべリニアーな物語になっていて分かりやすい。働くことが快感な時代に24時間戦えるようになりたい人間はどう行動したかが綴られている。サタイアに見えないところがスゴイ。
 編者が年間ベスト短篇と推すのが、藤野可織「いつかたったひとつの最高のカバンで」は、20ページに満たない短篇。物語は、コールセンターみたいなところで働いていた非正規の女性が出社しなくなり、結局親に連絡が行き、この女性は借家に大量のカバンを残したまま失踪していたことが判明・・・、というプロローグから、タイトル通りの果てまで暴走していく1篇。なんで?という疑問は湧くが、そういうものかも知れないとも思わされる。
 巻末の堀晃「循環」は再読。著者の社会人としての小説的回想録ではあるが、主人公の動きが会社の沿革を再現し、その動きがまた大阪の川沿いの土地の案内でもある充実した1篇。SF的イメージは、技術者として計測器の開発にあたって、たまたま発見した謎の部品の存在に代表されている。

 ノンフィクションは浅羽通明『星新一の思想 予見・冷笑・賢慮のひと』のみ。
 星新一伝は最相葉月の決定版があるけれど、こちらは作品を読み解いていくことで星新一像を描こうという大冊(に見えるけど本文は420ページくらい)。
 当方も70年代前半浪人生くらいのころには、星新一を読まなくなっていたような気がするけれど、この本で取り上げられている作品の内、代表作的なものは大体読んでいたような気がする。いまでは、再録アンソロジーなどでたまに星作品が入ってものがあればそれを読むていどで、それ以外に星新一を読む機会がないことは確かだ。
 著者の星新一への視点は、各章のタイトルに現れているようなので、それを並べておこう。
 第1章 これはディストピアではない
 第2章 〈秘密〉でときめく人生
 第3章 アスペルガーにはアバターを
 第4章 退嬰ユートピアと幸せな結末
 第5章 「小説ではない」といわれる理由
 第6章 SFから民話、そして神話へ
 第7章 商人としての小説家
 第8章 寓話の哲学をもう一度
 以上にプロローグとエピローグが付く。またそれぞれに副題としてその章で取り上げる作品名が記されている。
 星新一の特異な思考法と小説作法は、小松左京や筒井康隆のいわゆる人間社会の文学的捉え方と全く異質なものであると著者は云う。それが星新一の「ディストピア」「ユートピア」の描き方に現れ、また小松や筒井の制度的文学へのルサンチマンが星にはないことが「小説ではない」ことの大きな理由であると説/解く。星新一の所作にアスペルガー的性格を読み込むことが正しいかどうかは分からないが、すくなくとも著者は星新一を読み続けた結果、そう設定することで作家星新一への理解が進むと考えているようだ。
 結論としては第8章の通りだが、「星新一の思想」と題されているように、一般的な作品論や作家論よりは、作品全体から読み取れる星新一の思考法と経歴と所作から読み取れる星新一の行動原理の両方を視野に、副題である「予見・冷笑・賢慮のひと」を引き出して見せているといえる。


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