内 輪 第372回
大野万紀
大野万紀 | 牧眞司 |
8月のSFファン交流会は8月21日(土)に「SFと自由意志」というテーマで開かれました。ゲストは牧眞司さんとぼく大野万紀で、司会はSFファン交流会の河田さん。
もともとは高松で開かれたSF大会に時間を合わせていたのですが、コロナの影響でぼくが参加を断念したため、SF大会との直接の関係はなくなりました。まあオンラインなので影響はないはずですが。
今回の「SFと自由意志と」いうテーマはちょっと難しそうですが、グレッグ・イーガンやテッド・チャンを始めとして、現代のSFを語るには避けられない重要なテーマです。今回のそもそもの発端は、牧眞司さんが雑誌「現代思想」8月号の特集「自由意志」の依頼を受けて、このテーマについて「SFにおける自由意志――「私」をめぐる問いから他者論そして時間論へ」という原稿を書かれたのですが、そこでは書き切れなかった話をしたいということでした。
そこでまずは牧さんがそこに書かれた内容をざっとおさらいして(といってもクラークからヴォネガット、テッド・チャンまで盛りだくさんでしたが)、さらにディストピアSFと自由意志の問題、先ごろ創元SF文庫から新訳で出たアシモフのファウンデーションの話、そしてコードウェイナー・スミスの「アルファ・ラルファ大通り」における何重にもなった「自由意志」についてなど、興味深いお話がありました。
ぼくの方は「自由意志」というより「自意識」の方により興味があったので、SFにおける自意識と自由意志について、あわてて直前に作ったメモを元に、自意識と自由意志の違い、意識と記憶の問題、人工知能やロボットの意識、動物や異星人の意識、さらに集合意識と、SFではどんなものでも複雑なネットワークがあれば意識が創発されがち、といった話をしました。さらに自由意志に戻って、リベット実験の話や自由意志はリアルタイムに存在するわけではなく、わりとふわふわとしたものに違いないという話、自由意志による選択と並行宇宙、イーガンの分岐しない宇宙、テッド・チャンの人生の全ての時間を同時に見る視点と決定論の問題、そしてピーター・ワッツの過激なさとチャンによるその批判といったことを話したはずですが、すでに何をいったのか忘れています。
司会の河田さんが適切に進行してくださったので、とりとめもなくなりがちな話題が、それなりにまとまって聞こえたのではないでしょうか。河田さんはじめスタッフのみなさん、そして聞いてくださったみなさん、どうもありがとうございました。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『時の他に敵なし』 マイクル・ビショップ 竹書房文庫
しかし竹書房文庫は国書刊行会の文庫版みたいなイメージになってきたなあ。ビショップはヴォンダ・マッキンタイアやジョン・ヴァーリイたちと(デビューに数年の幅はあるが)大体同世代の作家であり、ぼくの偏愛する70年代のLDG(レイバー・デイ・グループ)の一員である。本書も当時原書で読んだはずだが、内容はほとんど忘れていた。200万年前に戻って原始人たちと生活するのが面白かったという漠然とした印象だけが残っている。40年ぶりに翻訳で読んで、こんな面白い話だったのかとあらためて思った。600ページを越えるぶ厚い文庫がサクサクと読める。訳者の大島豊さんは後書きで「少なくとも二回は読んでいただきたい」と書いているが、ごめんなさい、(大昔に原書で読んだのをカウントしなければ)まだ一回しか読んでいません。でももう一度読めば確かに、あっそういうことだったのかという発見がいっぱいあるんだろうと思える作品である。
主人公は貧しく口のきけないスペインの娼婦と駐留アメリカ兵の子供で、母に捨てられ基地のアメリカ人夫妻の養子となった黒人青年のジョシュア。彼には夢で過去へと行ける特殊な才能があった。ただし行けるのは200万年前、更新世のアフリカ東部のみ。そこで動物たちや人類の祖先のリアルな姿を目にする。彼はそれを「魂遊旅行」と呼んだ。それはとてもリアルではあるが、あくまでも夢だった。
ところがそれが東アフリカのザラカル(大体ケニアに相当する)から来た古人類学者のブレアの目にとまり、ジョシュアは彼がアメリカ軍と進めていたタイムトラベル計画〈ホワイト・スフィンクス〉に参加することになる。それはアメリカ人物理学者カプロウの発明した装置によって、「魂遊旅行」の能力のある人間を実際に過去へ送り込むというものである。かくてジョシュアは200万年前のザラカルへタイムトラベルし、そこで人類の遠い祖先にあたるホモ・ハビルスの一群と生活することになる。しかしトラブルで現代との通信手段が失われ、彼は何年もの間そこで暮らし、言葉の通じないハビルスの女性と激しい恋をし、やがて……。
本書はこの200万年前に送り込まれた現代人のサバイバル・パートと、彼の出自から養父母との家族関係、差別や戸惑い、そして〈ホワイト・スフィンクス〉計画そのものを描く現代パートの、大きく二つの物語が描かれているが、それらは分割され、さらにシャッフルされている。とはいえ大体は時系列に沿っているので、わかりにくいものではない。むしろSFファンにとって一番わかりにくいのは、本書で描かれるタイムトラベルの実態だろう。作者はそこは詳しく語らない。夢なのか現実なのかもあいまいで、タイムパラドックスが起こるものかどうかもわからない。そういうことは重要ではないのだ。はっきりしているのは、自分が過去の世界へ行ってそこで現実の体験をし、そこからまた現代へ戻ってくることができるということである。さらに後半で明らかな通り、過去から生きている生物を持ち帰ることもできるということである(だから単なる夢やバーチャルリアリティではないのだ)。これもまた立派なSFの道具だといえるだろう。
現代パートでとりわけ重視されているのは、何重にも入り組んだ差別――あるいは分断の構造である。肌の色、養子と実子、ヒスパニック、集団の中の「変わり者」、先進国と途上国、経済格差、文明と自然、さらには食習慣まで。それは現代ばかりでなく200万年前の世界にも存在している。ひと言ではいえない。それらはあるいは根絶すべきものだったり、多様性の中で緊張感とともに共存すべきものだったり、様々だろう。
そして過去パート。何といってもここが魅力的だ。ビショップはデビュー当時から人類学SFの雄と言われてきた。ハビルスたちのリアルな生態、人間的な感情や知恵の芽ばえ、権力構造、そしてある種のユーモア感覚。言葉によらないコミュニケーションと家族愛。そういった中でハビルスの集団に溶け込んでいく主人公の、現代人である故の葛藤とそれを乗り越える行動がいい。
結末の「時の娘」は心を打つエピソードである。だが、一方でこれは物語全体をひっくり返しかねないトリッキーな二重性を含んでいる。果たして彼女は何を見るのだろうか。デウス・エクス・マキナ?
『火星へ』 メアリ・ロビネット・コワル ハヤカワ文庫SF
『宇宙(そら)へ』の続編。月へ行った女性宇宙飛行士〈レディ・アストロノート〉が今度は火星に行く(1960年代に!)という改変歴史SFだが、鳴庭真人さんの解説にある通り、前作よりさらに現実の宇宙航行技術をベースにしたハードな宇宙開発SF味が増しており、大変面白かった。歴史の変わったそもそもの原因である隕石落下とそれによる気候変動についても主に各章の冒頭に置かれたニュース記事の引用で状況が描かれているが、本書のストーリーの中心は火星旅行にあたっての宇宙飛行士たちの人間関係にあり、さらにそのど真ん中にあるのが人種差別の問題である。精神・身体の障碍や性的マイノリティ、宗教、言語、エリートと大衆の乖離、不条理で政治的な選択といった問題も描かれているが、一番大きいのは現実の60年代でそうだったように、肌の色による差別の問題なのである。
ここに至って、善意にあふれる主人公エルマの立ち位置には微妙な矛盾が生じている。彼女が第一に望み、闘ってきたのは自身がそうである女性の解放であり、地位向上である。まだ全く十分ではないが(男たちの内面はほとんど変わっていない)、少なくとも自分と周囲に関しては前進があった。何しろ大勢が憧れるレディ・アストロノートになったのだから。だが火星探検隊の中にあるあからさまな人種差別(アパルトヘイト政策が行われている南アフリカが参加している)への善意からの介入は、白人エリートである特権的な地位からのいらぬ口出しと映り、当事者たちの反発を買う。さらに宇宙政策の広告塔としての役割と、それが人類を破滅から救う手段だとする大局的な目的意識とが、彼女の内面を切り裂き、抑えきれない怒りを溢れさせる(それでも前作よりは大人しくなったかも)。さらに火星へ行くということは、彼女の精神を安定させてくれる最愛の夫から3年も離ればなれになるということなのだ。
今回もまた、この二人はベタベタで気恥ずかしくなるほど熱々の夫婦であり、下ネタや性的な描写が頻出する。まあいいけどね。お熱いことで。良きかな良きかな。
火星探検ということで、有人宇宙船二隻に分乗した14人の宇宙飛行士たちの火星に行くまでの苦闘が本書の大半を占めているわけだが、いやもう色んなことが起こって大変だ。人種間の対立や男女の役割分担に見られる偏見、エルマがこの探検隊に割り込まされたことで、押し出された隊員がいることによる不和、そして何よりあからさまな人種差別主義者が含まれているために起こる様々な疑心暗鬼。にも関わらず、隊員たちはプロフェッショナルとして宇宙での事故や機器の不具合に荷担に対処していく。ついに死者が出るような事態が起こっても。
そうした中で、隊員たちの人間関係や人間性が明らかになっていくわけだが、最も深みがあり強い個性があるのが、エルマの天敵でありミソジニストのように描かれていた隊長のパーカーである。前作でもその個性と魅力が際だっていたが、本書の次から次へと襲ってくる危機の中で、彼は強力な指導力と判断力を示して危機を乗り越えていく。さすがのエルマもいちいち反発しつつそれは認めざるを得ない。そして彼の隠された人間性が明らかになったとき、和解の芽が生じる(でもイヤな奴に変わりはないのだ)。エルマの方もちゃんと考えずにすぐに感情を爆発させる自分の弱点は理解している。内面の葛藤をごまかして表面に出さない問題も。だがそれがエルマなのだ。
人命に関わる事故とその対処など、読み応えのある描写は多いが、ぼくが一番印象に残ったのは、宇宙船のトイレが故障して汚物が無重力の船内に漂い出すところだ。このリアリティ溢れる描写にはオエっとなった。イヤだろうな。
本書は一応ハッピーエンドで終わるので安心して欲しい。だが地球の問題はまだ解決しておらず、将来に明るい展望も見えない。月や火星への移住が成功しても、大半の人々は環境の悪化していく地球に残されることになる。スピンアウト長編は書かれているが、本書の続編はまだ出ておらず、これからどう展開していくのか期待して待ちたい。
『時の子供たち』 エイドリアン・チャイコフスキー 竹書房文庫
斬新な表紙で美しいが上下巻の区別がわかりにくく、間違えて同じ巻を2冊買ってしまったという人もいるようだ(ぼくじゃないよ。間違えそうになったけど)。イギリスでファンタジイを中心に活躍していた作者の初のSF長編で、2016年にアーサー・C・クラーク賞を受賞した宇宙SFである。
遥か未来、後に「古帝国」と呼ばれるようになった人類の銀河文明も衰退し、滅亡の時を迎えていた。そんな中でいくつかの惑星をテラフォーミングし、そこにナノウィルスによって進化した猿を投入することで、人類の文明を受け継がせようとする計画があった。ところがそれは失敗し、猿ではなく、蜘蛛や蟻がナノウィルスによって進化することになったのだ。これを計画していたドクター・アヴラーナ・カーンは一人惑星を巡る人工衛星のコンピュータと融合して生き残り、彼女は何千年にもわたって計画の推移を見届けることになる。一方、その長い時間の間に古帝国の廃墟の中から地球の人類は、かろうじて文明を復興させたが、再び滅亡の危機が迫り、冷凍睡眠している多数の移民を乗せた宇宙船ギルガメシュが旅立つ。彼らはカーンの惑星を発見し、そこに植民しようとするが、カーンの人工衛星によって追い払われる。古帝国の技術を模倣していても、そこには圧倒的な技術力の差があったのだ。彼らは別のテラフォーミング惑星に到達するが、そこは移民できるような状態ではなかった。人々は再びカーンの惑星を目指そうとするのだが……。
物語は、蜘蛛たちが自分たちの文明を発展させていく歴史と、移民たちの生存を賭けての闘争が、短い章で交互に描かれる。本書では超光速は存在しないので、テラフォームされた別の惑星に行って帰って来るだけでも膨大な時間がかかる。人間はそれを冷凍睡眠で乗り切る(同じ人間が少しずつ歳を取りながら登場する)が、蜘蛛の方はどんどん世代が代わっていく。ただ知識や記憶を〈理解〉という物質に残して引き継ぐことができるようで、世代が代わっても同じような性格・意識傾向をもつ子孫に同じ名前が与えられており、連続性が保たれている。しかし、この蜘蛛パートと人間パートが頻繁に交代する形式は、本書ではちょっと読みにくく感じた。というのもせっかく面白くなったところで主人公も舞台もがらっと変わってしまい、高揚感が断ち切られてしまうからだ。
とにかく蜘蛛パートが素晴らしい。蜘蛛たちがどのように世界を作っていき、蟻と戦いそれを隷属させ、カーンの(それは〈使徒〉と呼ばれる)声を聞いて文明を発達させていくか。それに蜘蛛特有の社会があり、雄と雌のジェンダー差別(といえるのかしら)があり、とても面白い。文句なしの傑作だ。異生物がひとつの文明を築き上げるまでの歴史を描くというと、手塚治虫『火の鳥』未来編のナメクジ文明もそうだし、フォワード『竜の卵』のチーラ文明もそうだが(コードウェイナー・スミスの「スズダル船長」に出てくる猫文明もそうか)、SFを読む醍醐味の一つだと思うが、本書の蜘蛛文明もエキゾチックで科学的・SF的なリアリティがあり、さらにナノウィルスによる進化と〈使徒〉との通信によって人間とのコミュニケーションもある程度可能ということで親しみももてる。登場人物ならぬ蜘蛛たちがとても可愛く思えてくるのだ。
それに対して人間パートはもう一つだ。いや悪くはないのだ。衰退していく文明、何もかもが古び破損し消耗していく移民船と、妄執に凝り固まった古代人や、あまり有能とはいえない乗員たちといったもの悲しい物語として面白いと思うのだが、いかんせん主人公である古学者にぼくにはまったく魅力が感じられなかった。この男、古帝国の言語を解読し、カーンとコミュニケーションを取るという意味では役立つが、本人もいっているように、それ以外で何でこの船の重要人物と見なされているのかわからない。なのに色々と出しゃばるし、そのくせ自分の意思をはっきり表明することもなく、要するにうっとおしいヤツなのだ。
最後はとてもいい感じで終わる。これで終わりかと思ったら何と続編があるとのことで、そこではタコが文明を築くのだそうだ! 読みたい!
『猫の街から世界を夢見る』 キジ・ジョンスン 創元SF文庫
傑作短篇集『霧に橋を架ける』の作者による中編ファンタジー。ラブクラフトの初期の作品、〈ドリーム・サイクル〉に属する「ウルタールの猫」「未知なるカダスを求めて」を下敷きとしたオマージュ作品、二次創作である。とはいえ、モチーフや登場人物(神々も)、都市や情景など、ラブクラフトからの引用は多いが、本書はキジ・ジョンスン自身の作品となっている。それは原作の人種差別的な偏見や女性不在に対する批判的な再話という面もそうだが、その幻想的なイメージの質感において『霧に橋を架ける』の諸作品と共通のものを感じるからだ。
〈ドリーム・サイクル〉の一編であるから、この世には”覚醒する世界”(こちらの現実世界)と猫の街ウルタールが存在する幻想的な異世界”夢の国”がある。主人公はウルタール大学女子カレッジの数学教授ヴェリット・ボー。彼女は今は55歳の大学教授として平穏な暮らしをしているが、若い頃は夢の国の冒険者として各地を巡り、覚醒する世界から来た男とのつき合いもあった。そんな彼女に事件が起こる。カレッジの優秀な女子学生クラリー・ジュラットが覚醒する世界から来た男と駆け落ちして、二人で覚醒する世界へと行ってしまったのだ。連れ帰らないとカレッジの存続に関わる。さらに後でわかったことだが、この背後にはやたらと悪さをする気まぐれな神々の動きがある。うっかりするとウルタールが滅びるような事態なのだ。
かくてヴェリットは一人(とお供についてくる猫一匹)で夢の国を渡って覚醒する世界へと至る長い冒険の旅へと出発する。ウルタールの西、野蛮なズーク族のいる森を抜け、ハテグ=クラの神殿へ。そこで神官をしている旧友から覚醒する世界へ渡る鍵は東の果てにあるイレク=ヴァドの王、ランドルフ・カーターが持っていると知らされる。カーターこそ、彼女が若い頃に恋人となりいっしょに旅をした男だった。ヴェリットは、今度は海を渡って東の果てへと何ヶ月もかかる旅に赴くことになる……。
本書はこの元冒険者である中年の大学教授の、ファンタジー世界におけるトラベローグ、遠の旅路が物語の中心となる。その幻想的な(夢の国では時間の流れも一定ではなく、危険で奇怪な種族や異生物が闊歩し、神々の気まぐれで何が起こるかわからない)、そしてリアルな(お金をどうするか、何を買って何を着て何を食べるか)描写には素晴らしいイメージ喚起力がある。ぼくは宮崎駿のアニメ(「ハウルの動く城」とか)のイメージを思い浮かべながら読んだ。とりわけ、メジャ・レーイク号での海の旅が魅力的で素敵だった。
そして結末、夢の国から覚醒する世界へ渡った時の鮮やかな変転には驚きとセンス・オブ・ワンダーがある。クラリーもまたそこで”覚醒”する。神話から現実へ、また現実から神話への、この転換がカッコイイ。まさに胸のすくような女神誕生だ。