続・サンタロガ・バリア  (第226回)
津田文夫


 今年の8月は昨年以上に変な8月だった。前半は熱暑でほとんど外へ出られず、中旬は雨が降ったら避難勧告が出るくらいの大雨、暫く天候不順が続くうちにコロナ禍が再び猛威を振るい、ついに緊急事態宣言へ。ということで高松のSF大会は断念しました。わが同大SF研究会創立者たる桐山さんが柴野拓美記念日本SFファンダム賞を受賞されたので参加しておきたかったなあ。なにはともあれ、おめでとうございます。桐山さん。
 まあ参加費3万5千円は諦めるとしても、もうちょっと参加できなかった者のためにプランBがあってもよかったかも。

 いよいよ佳境かと思って読み始めた酒見賢一『泣き虫弱虫 諸葛孔明 第四部』は、意外や意外ほとんどお笑いシーンがない上に、孔明の大活躍もなく孔明以外のキャラたちのエピソードが延々と続く。おまけに関羽・張飛、曹操・劉備が死んでしまうのだから、『中国の歴史 三国志の世界』にもあったように、孫権だけが取り残されて英雄の時代に幕が下りてしまった。だいたい前半の話が、「臥竜」孔明がでっち上げた「鳳雛」こと龐士元の劉備軍参加からその死までなんだから、お笑いはやってる暇が無い。ウーン、主要キャラ全滅の後で孔明は大活躍するのかね。

 前作はなかなか面白い設定で読ませたレディ・アストロノート・シリーズ第2作、メアリ・ロビネット・コワル『火星へ』上・下は、残念ながら前作の面白さを引き継げなかった作品になっていた。
 作者が前作で取り込んだシリアスな人種問題や男女間格差問題にヒロインの心理問題そして熱愛ユダヤ人夫婦のイチャイチャ感が、この続編では結局話を水増しする形で進行しているようにしか読めないのだった。火星に行く2隻の宇宙船に起こる事件の描写は、60年前の作品世界を60年後の知識でリアルに書き上げてあるだけに、予想されるトラブルの一難去ってまた一難という小出し感がサスペンスを失わせる。
 リーダビリティに不足はないので、次作が訳されれば読むけれど、あんまり期待しないでおこう。

 大野万紀さんの解説が付いたジョン・ジョゼフ・アダムズ編『不死身の戦艦』は原書が2009年に出た編者お得意の分厚いテーマ・アンソロジーから16編がセレクトされたもの。お題は「銀河連邦」って、うーん、いまさらな感じがなくもないけれど、それはおいといて掲載作を見てみよう。
 トップはアレステア・レナルズ「スパイリーと漂流塊の女王」。あんまり記憶に残りそうにないタイトルだけれど、作者が作者だけに50ページほどの宇宙戦闘をかなりややこしく、でも読みやすく描いている。スパイリーは主人公の名前。95年のインターゾーン誌掲載作。
 ジュヌヴィエーヴ・ヴァレンタイン「カルタゴ滅ぶべし」の「カルタゴ」はオールト雲のなかで発見された惑星の名前。カルタゴからの通信により地球側から派遣された出迎え船の搭乗者たちはすでに8世代目だったりする・・・という設定。語り手に謎があるがそれも含めて今風。2009年作、多分アンソロジーのために書かれた。
 ロイス・マクマスター・ビジョルド「戦いの後で」で宇宙戦闘艦の残骸から死体を回収する仕事師の話。86年刊のアンソロジーFar Frontiers Vol.Vより。
 ケヴィン・J・アンダースン&ダグ・ビースン「監獄惑星」は、標題どおり監獄惑星を舞台に、囚人の反乱により所長がいたぶられる立場にあったが、そこへある日少年がやってきて・・・という話。92年アメージング誌初出。
 ジョージ・R・R・マーティン&ジョージ・ガスリッジの表題作は10ページ足らずのショートショート。無敵の宇宙戦艦も敵の放った病原体にやられて乗組員が全滅、ひとり残っていた司令官もついに・・・。HAL9000問題な1作。79年F&SF誌初出。
 ユーン・ハ・リー「白鳥の歌」も一種の収容所ものだが、こちらは被収容者が5人でそれぞれ大蛇、不死鳥、虎、亀に新参の白鳥と伝説に従った名前で呼ばれている。ある日白鳥のところに彼女が収容される原因となった船長から出所を条件に作曲の依頼が来る・・・。『ナインフォックスの覚醒』の作者らしいエキセントリックなショート・ストーリー。09年の新作。
 ロバート・シルヴァーバーグ「人工共生体」は85年に『プレイボーイ』誌に掲載されたもの。どちらかが敵の寄生体に取り憑かれたらすぐに射殺すると誓った戦友二人だったが、主人公は取り憑かれた相方を殺せなかった・・・。シルヴァーバーグらしいリーダビリティの高い1編だけれど、ちょっと古めかしい。
 集中いちばん長いアン・マキャフリー「還る船」は、お懐かしや『歌う船』シリーズの1編。99年作。初出は解説にもあるように、ハヤカワ文庫SF収録の著名シリーズ物のSFのスピンオフばかりを集めたオリジナル・アンソロジー、シルヴァーバーグ編『遠い地平線』。話は宇宙船の体を持つヒロイン「ヘルヴァ」と彼女に乗り組んだ生身の相方の男とのやりとりで出来ている。死んだ後でもセンチメンタルな別れが必要というロマンティックSF。
 メアリ・ローゼンブラム「愛しきわが仔」は、星間意思疎通ができる話者を育てる修道院の召使いの視点で展開する醜いアヒルの子ストーリー。09年作。
 ここからロバート・J・ソウヤー、オースン・スコット・カード、ジェレミア・トルバートと続く3作は、どれも読んで気分が悪いものばかりなのでスキップする。それぞれ00、05、09年の作。
 アレン・スティール「ジョーダンへの手紙」は、宇宙流れ者の貧乏青年が語るお金持ちのお嬢さんジョーダンとの恋愛と失恋、放浪と手紙とハッピーエンドの物語。09年作。
 トレント・ハーゲンレイダー「エスカーラ」は、現在の地球程度の文明も持つ惑星で土地所有を目指す銀河連邦側の調査員が視点人物が語る反対派惑星住民との戦闘に巻きこまれる話。シルヴァーバーグなんかと較べるとずいぶん現代的な視点で書かれている1作。09年作。
 ジェイムズ・アラン・ガードナー「星間集団意識体の婚活」は、オチは見えているものの抱腹絶倒のコメディ。こんなの書いてたんだガードナー。09年作
 トリはキャサリン・M・ヴァレンテ「ゴルバッシュ、あるいはワイン–血–戦争–挽歌」。バーナード星系の惑星に入植した者たちが、宇宙軍さえ持った独占ワイン企業にあらがってゴルバッシュ河流域で禁制ワインを作ってきた歴史。まるでル=グィンが書いたかような印象がある。09年作。
 まあ、玉石混淆といったところのSFアンソロジーだけれど、それは特にアメリカのSF界で大量につくられてきたテーマアンソロジーにはよく当てはまるんではないだろうか。そういえば大野万紀さんの解説でもページ数の関係かシリーズ物など以外の個々の作品には論評がないですね。

 高野史緖『まぜるな危険』というタイトルは、表題作がない代わりに、収録された各短編が、ロシアものを中心としたさまざまな物語を取り混ぜ、SF的な操作を施したリミックス作品ばかりであることから命名されたもの。
 収録6作品の題名は「アントンと清姫」、「百万本のバラ」、「小ねずみと童貞と復活した女」、「プシホロギーチェスキー・テスト」、「桜の園のリディヤ」、「ドグラートフ・マグラノフスキー」で、大体は何が主な材料かはタイトルから見当がつくけれど、それぞれ作者の前口上がついていて、具体的に何と何を混ぜ合わせたか解説している。
 ドストエフスキーネタがいくつかあるが、「プシホロギー・・・」はタイトルからはちょっと見当がつかなかった。作者の前口上によればこれは『罪と罰』に江戸川乱歩「心理試験」を混ぜ合わせたものだという。ナルホド、と思わせてしまうこの作者前口上が面白いので読んで損はないと思う。個々の作品が記憶に残るというよりは面白かったなあという全体的な印象が好感をもたらす1冊。

 谷崎由衣『鏡の中のアジア』は親本が2018年刊、7月に文庫化された1冊。谷崎由衣というとル=グィン作品の翻訳者という印象が強いけれど、これはアジアのどこかの国を舞台にした短編5編からなる1冊。
 収録作は、「・・・・・・そしてまた文字を記していると――チベット」、「Jiufenの村は九つ分――台湾、九份」、「国際友誼――日本、京都」、「船は来ない――インド、コーチン」、「天蓋歩行――マレーシア、クアラルンプールほか」と各タイトルに作品の舞台が記されている。初出はすべて「すばる」誌。「船は・・・」だけ4ページのいわゆる「短文」。「国際友誼」「天蓋歩行」がやや長めで、前者は京都の女子大学生が、サークルハウスと呼ばれるところで、サークルの主といわれる10回生が主催する男子学生ばかりのパーティに参加するって、まるでわがSF研時代を思い起こさせる1編。いや、作者自身を反映した女子学生は真面目ですが。後者は、大木(たいぼく)として生きる意識が人間の形を取っていた時代の物語。落ち着いた語り口だけれど実はヘンテコなファンタジー。
 巻頭作品は僧院で経典筆写する少年の物語。ほとんど明かりのない暗い回廊の雰囲気が良く出ている。「Jiufen・・・」は、9戸しかない村に住む人びとのあれこれをある少女を中心に浮かび上がらせた物語。ちょっと南米マジックリアリズムが感じられる。
 著者の語り口が落ち着いているので、ハイテンションな高野史緖の後に読むと静けさが余計に目立つ。

 「短文」アンソロジー3冊目が、西崎憲編『kaze no tanbun 夕暮れの草の冠』。毎回本の判型が違うという贅沢な造り。今回は濃緑色の布張りハードカヴァー、幅広帯付き。収録作家は青木淳吾、円城塔、大木芙沙子、小山田浩子、柿村将彦、岸本佐知子、木下古栗、斎藤真理子、滝口悠生、飛浩隆、蜂本みさ、早助よう子、日和聡子、藤野可織、松永美穂、皆川博子に編者の17名。斎藤真理子が数ページの作品を2編寄せているので18作品収録。
 このアンソロジーはページの下端を見ないと作者名が分からないので、わざと見ずに読むと、これまで読んだ作家についてはそれなりに見当がついて面白い。そりゃ3冊全部に作品を寄せている円城塔なんて読めば誰だってわかる書き方だけれど。
 冒頭の「コンサートホール」は、演奏の合間にホール内をウロウロする話。この迷い方はと下を見るとやっぱり小山田浩子だった。
 しかしこんなことを書き始めるとまたぞろ長くなるので、まず今回のアンソロジーのタイトルの出所を紹介しておこう。本書が「夕暮れの草の冠」になったのは、日和聡子「白いくつ」の結びの一文が「夕暮れ時には、けっしてここにきてはいけないと、言われています。〈改行〉だから、わたしは、いまもひとりで、ここで草の冠を、編んでいます。」となっており、早助よう子「誤解の祝祭」に「攻略者は夕暮れに相手がたの城壁から抜き取った、その土地の泥の付いたような草で冠に編んで戴く。そのとき、草冠は宝石や金のそれよりも尊い。」と書かれているからだ。これを読んだときの編者はさぞかし喜んだことだろう。これぞシンクロニシティそのものではないか。日和作品は白い靴を履いた幼い女の子の追悼話で、早助作品は百合版抽象化「ロミオとジュリエット」というまったくジャンルの違う話だが、「夕暮れ」と「草の冠」がそこへ現れるのはやはり衝撃に違いない。
 さて、集中ヘンテコな話は円城塔を始めいくつもあるが、初めて読む作家では大木芙沙子「親を掘る」が「埋まってる親を掘りだすのは一苦労だ。何しろ埋まっているんだから。」とはじまるいわゆる奇想小説。奇想小説を読み慣れていると展開はよめるが面白い。
 久しぶりの柿村将彦「高なんとか君」は、子供の頃幽霊が見えるという高なんとか君をボコった側の視点でで書かれた1作。いくらボコられても幽霊が見えると言い張った高なんとか君は不気味だった・・・、ということで、この作品もあの長編の雰囲気を湛えている。
 藤野可織「セントラルパークの思い出」は、作者の悪逆非道振りが窺えて笑える。
 全体として「短文」だけを縛りにしたアンソロジーなのに相変わらず均整が取れている。
 ああ、抽選で短文切手がもらえる読者サービスハガキの有効期限が過ぎてしまった。

 大森望がムリヤリSFとして読んだ芥川書受賞作、石沢麻依『貝に続く場所にて』を読んでみた。一応単行本だけれどノヴェラくらいの長さ。高山羽根子の文学系単行本を思わせる。
 何の前置きもなく、ドイツのゲッティンゲン駅で日本からやってくるという10年前の東北大震災で亡くなった大学院生仲間の男を迎えようとする男と同級生だった女性の語りで始まる。基本は失われたものの現在性を問う、ホタテ貝にそのテーマを乗せた作品だと思われるが、ゲッティンゲンの街にあるという街いっぱいに広がるくらいの太陽系のスケールモデルが何度も出てきて印象に残るし、プランク研究所の傍にある冥王星は格下げに伴って移動されたものの筈なのに、それが移動前の場所で観測問題的に見られたり見られなかったりというエピソードもあり、まあ、SF的想像力が文学作品の書き手にも当たり前のように使われている時代なのだと実感させる1編ではある。昔なら奇想小説だな。

 チョン・セラン『声をあげます』はSF短編集ということだけれど、『保健室のアン・ウニョン先生』を読んでも分かるとおり、SFプロパー的なスタイルではなく、シリアスなテーマをノホホンとした叙述で読ませる作家である。
 「ミッシング・フィンガーとジャンピング・ガールの大冒険」は6ページ足らずのショートショート。右手の人差し指だけがタイムトラベルする女の子を好きになった女の子の話。一筆書きみたいな軽やかさ。
 「十一分の一」は、大学の男ばかり11人の先輩たちしかいない未来技術系サークルに属していた女性が、そのうちの一人の好きだった先輩を助けるため、いまや一流になった他の先輩たちにさまざまな要求を突きつける話。かぐや姫バリエーションと云えないこともない。
 「リセット」は、リセット元年の日記という形で進行する。何がリセットかというと、体長70メートル以上という巨大ミミズが何匹も地上にやってきて都市を片っ端から沃土へと転じてしまったことをさす。結末のオチといい作者はまるでいわゆる人類ダメ派の過激エコロジストみたいだが、小説自体はやはりノホホンとした叙述で進行する。
 「地球ランド」は題名どおり、宇宙空間にある安っぽい地球ランドに就職した女性から見た地球ランドの崩壊と再生の記録。楽しく読める。
 「小さな空色の錠剤」は、アルツハイマー病者のために開発された一時的に記憶保持機能を恢復させるささやかな薬が本物の記憶強化剤として世間一般に大流行、副作用は無かったはずが・・・というサタイア。でも作者は錠剤のもたらした副作用よりも人間社会の変わらない愚行を皮肉っている。
 70ページ近い中編のタイトル作の設定は、ある学校の教師の教え子に犯罪者が多いのは、その教師の声を聴くことで生徒に犯罪衝動が生じるせいだといわれ、教師は小さな収容所に連れて行かれ、声帯を取るかこのまま収容所にいるかの選択を迫られる。教師はわずか数人の社会的に危険な体質の持ち主が収容されているこの施設が意外と居心地が良いことに気づき、風変わりな収容者と風変わりな所員たちとの日常を語っていく、というもの。そしてある日、男ばかりだった収容所に女性が入ってきたことによってヘンテコなりに波風のなかった日常がかわりはじめる・・・。この要約だけで「声をあげます」というタイトルがすでに主人公の最後の決断を明示しているけれど、作者の人間喜劇は一見ディストピア風な舞台でも主人公の妄想的愛情で物語の幕を閉じている。これは作者のスタイルを感じさせる典型的な1編かも知れない。
 「7時間目」も未来の学校で少女たちが動物食と環境破壊で一度亡びた地球の歴史を習っている話。「リセット」同様作者の過激エコロジストぶりが窺える。
 巻末の「メダリストのゾンビ時代」は、すでにほとんどの人間がゾンビ化した街でアーチェリー選手の少女が入り口に姿を現すゾンビを射撃しながら、ついに少女も衰弱していく話。なかなかの悲壮感だけれど、面白く読める。
 作者あとがきでは「極端なエコロジスト」と呼ばれることを自認しているが、そう呼ぶ方が危機感が足りないんだと開き直っている。

 処女長編でヒューゴー賞受賞をいう触れ込みのアーカディ・マーティーン『帝国という名の記憶』上・下は、テイクスカアランと呼ばれる帝国の首都に、ルスエル・ステーションという一国家の新任大使として若い女性が着任するところから始まる。
 この物語の背景を成す一つの大きな設定が、ルスエル・ステーションには人格を記憶する装置があり、新任女性は前任者が殺害されたため15年前の前任者の人格を入れて到着した、というもの。この技術が帝国側にないというところが物語に大きく絡む。
 なかなか達者な造りのスペースオペラで、能動的なキャラクターとしては主人公や帝国側の相方となる文化案内役や主人公を保護/監禁そして援助する帝国の高位貴族などすべて女性である。
 読んでいる最中から感じたのは、これはまるでアン・レッキーの『反逆航路』に始まる〈ラドチ戦記〉の1編としても違和感がないくらい雰囲気が似通っているということだった。鳴庭真人解説でもユーン・ハ・リーの作品も引いて現代の女性SF作家が書くスペース・オペラに共通点を見出している(ユーン・ハ・リーの新作解説で大森望も同じ事を述べていた)。 そしてどうやらその大本はアン・レッキーが愛読するというC・J・チェリイの〈ケスリス三部作〉に行き着くらしい(昔ペイパーバックで買いそろえたけれど、多分翻訳も含め未読)。
 それはともかくエンターテインメントSFとしてはまったく過不足なく読める楽しい1作。続編もあるとのことで出れば読むでしょう。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズも帯でヒューゴ-・ネビュラ両賞受賞を謳った、ンネディ・オコラフォー『ビンティ』は、アフリカの一部族ヒンバ族の16才の少女ビンティを主人公にした続きもののノヴェラ3作からなる1冊。
 これも宇宙にある大学に異星人に生物宇宙船が出てくるので、スペースオペラには違いないが、テイクスカラアンに較べると舞台が生物宇宙船の中と宇宙大学と主人公の出身地及びその周辺の砂漠しかないというシンプルさなので、まるで舞台劇みたいな感じがある。おまけに地球や宇宙がどういう状況にあるのか説明がないので、なぜそんなことになっているのかよく分からない点が多い。
 しかし読後感は、悩み多き数学の天才少女(そういう家系なのである)のドギマギを延々と読まされるスタイルからして、これはヤングアダルトもしくはジュヴナイル作品だと思われた。主人公が気にしている人以外の人/人外が死ぬことに対してほとんど注意が払われないが、そういう所も含めて全体的にこじんまりした印象が強い。

 2011年に第2回創元短編SF賞佳作を受賞したけれど、その後長らく作品発表のなかった空木春宵『感応グラン=ギニョル』は2019年と2020年に書かれた4作品に書き下ろし1編を加えた中編集。うち「地獄を縫い取る」と「メタモルフォシスの龍」が再々読と再読。なお佳作となった「繭の見る夢」は採られていない。
 巻頭の表題作は、いわゆる戦前の浅草六区フリークスショー/エログロ路線で、この作品集の基調となる雰囲気を読者に強烈に印象づけるつくりになっている。また視点人物が物語の中で救われることがない、いわゆる「地獄オチ」タイプの怪談がSFの意匠をまとっているところもかなり効いている。
 これはペドフィリアを扱った「地獄を・・・」や戦前女学園ものをゾンビSFで料理した100ページを超える中編「徒花物語」でも作者のトレードマークのように使われている。もっとも、愛した男の裏切りに体がヘビとなる女たちが住む街にもうひとり新参者が加わる「メタモルフォシスの龍」や書き下ろしの江戸川乱歩SFリミックスともいえる「Rampo Sicks」の結末は一応希望の光が差しているように見えるが、全体的な薄暗さは表題作が醸し出す雰囲気を受け継いでいる。
 作品のヴァリエーションは広くストーリーのテンションも高いので、なかなかいい感じの作風ではある。

 またまた長くなってしまったが、今回最後に読んだのが伴名練編・石黒達昌(たつあき)『日本SFの臨界点 石黒達昌 冬至草/雪女』。編者の超長い激アツ解説付きの忘れられたSF作家ベスト短編集シリーズも3冊目の本書で終刊らしい。それにしてもこれだけ長い解説を付けてもまだいい足りないと云うことで、『SFマガジン』10月号に補記が掲載されているとは、一体このエネルギーはどこから来るのか。
 石黒達昌の現役作家時代にリアルタイムで読んだのはハヤカワJコレの『冬至草』だけで、そのほかの作品のタイトルはあまり気を惹かれないようなものだったらしく読んでない。ということで、「希望ホヤ」、「冬至草」、「雪女」が再読もしくは再々読。
 今回初めて読んだ巻末の「平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士並びに,」の突出した印象によって、既読の優れたSF短編である「冬至草」「雪女」の叙述スタイルの出所が明らかになったことはちょっとした驚きだった。伴名練解説にもあるように、93年の『海燕』誌掲載で芥川賞候補作になったというこの作品を、95年同誌掲載の「Alice」ともどもSF界では掬えなかったこと自体が「SF冬の時代」の証明だったのかも。
 本書が石黒達昌のSF的な作品のバリエーションが意外と広いことを示すことに成功している点は、伴名練の「全部読む」の成果であることは間違いなく、「王様はどのようにして不幸になっていたのか」という寓話スタイルのサタイヤや、いかにも医師らしい悲惨な「ある一日」(原爆被災者の手記に似ている)、そして論文書きに追われたこともあるだろう著者の現実的SF「アブサルティに関する評伝」と、これらの作品において石黒達昌の作家的努力が窺える。
 今回伴名練が取り上げた3人の作家のうちでは、確かに石黒達昌がいちばん異色だったかも知れない。

 それにしても最近読んだ新作SFは女性の作品ばかりのような気がするなあ。 


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