続・サンタロガ・バリア  (第225回)
津田文夫


 SFセミナーはせっかく登録したのに、てっきり土曜日だと思い込んでいて、大野万紀さんのツイッターを読んだ時にはもう終わってました。ボーッしてんじゃねえ、といわれても仕方ないな。
 ということで、見ないうちに終わりそうだった、映画「夏への扉」を電車とバスを乗り継いで見てきました。1日1回の上映だというのに観客は自分を含めたったの3名。そりゃ終わるわね。
 1100円で見られるのは嬉しいが、大量の前置きが繰り返し流されてウンザリ、どれも見ようという気にならないような映画のトレーラーばかりだったのが原因ではあるが、夏枯れか。
 肝腎の映画の方は、前述のように不機嫌が影響したのか、始まってしばらくはどうもノリが悪い。身寄りのない青年発明家と疑似家族の少女そしてネコのピートのバランスが今ひとつピンとこない上、会社追い出され事件のつくりもいまいちリアリティがない。なので、悪女の罠にかかって人工冬眠までが、退屈な印象を作った。しかし、30年後に目覚めてからは好調で、最後のハッピーエンドまで、面白く見ることが出来た。やはりSF的設定をコメディ的にテンポ良く使い回すと、俄然SFファン心が刺激されるようになる。あのゲンナリした気分でなかったら、プロローグの現代編もそれなりに面白く見られたかも。それにしても演技しているように見えてしまう生ネコは素晴らしい。あと名作SF映画へのオマージュらしいカットがいくつもある。

 前回、第弐部でてっきり大舞台の赤壁の戦いは第四部に持ち越されるかと思っていたらこの酒見賢一『泣き虫弱虫 諸葛孔明 第参部』でイヤにあっさり終わってしまっていた。蘇軾の「赤壁の賦」のイメージが台無しだよ。
 著者の述べるところによると、どうも史実的には赤壁の戦い自体は、あまり大した戦にはならないうちに南の風土に慣れない曹操の大軍が病にやられて逃げ帰ったということらしい。ということで、話は魯粛とたった一人で呉に入った孔明のまったく怪しい活躍振りと、一目見るなりコイツは殺さねばならんと思い詰めたイケメン周瑜の無念の病死までが今回の話の範囲なのであった。それにしても殺す殺すとことあるごとにその意思を表明していた周瑜君がついに孔明を切れずに倒れるなんて可哀想。周瑜の葬式に現れた孔明がとても話の主人公には見えないくらいニクたらしい。この後はどうなるんだったけ、ハテ。

 本屋で見かけてその収録作家が、宮内悠介、藤井大洋、小川哲、深緑野分、森晶麿、石川宗生ということで、とりあえず読んでみようかという気になったのが『Voyage 想像見聞録』。6月講談社刊で巻末に「小説現代」2021年1月から4月に掲載とあった。
 ぱっと見に、『短編宇宙』を思い起こして、それに似たものを期待したのだけれど、なんと初めの2編、宮内悠介「国境の子」と藤井大洋「月の高さ」は全くの普通小説だったのに驚いた。「国境の子」は「韓国さん」呼ばれて育った少年の話。「月の高さ」は演劇の舞台装置を長距離トラックで運ぶベテラン男性運転手と助手席に乗ることになった若い美術チーフの女性との運転手側から見た道中の会話劇。どちらも小説としてはよくできている。
 小川哲「ちょっとした奇跡」は、宇宙からやってきた第二の月のせいで自転が止まった地球のトワイライトゾーンを巡る2隻の船という、設定的にはバラードとプリーストを合わせたようなSFだけど、メインストーリーは心温まる一品。
 野分深緑「水星号は移動する」もSFらしいSFで、宇宙旅行が一般的になりアテナイ市には金持ち相手のホテルがあったが、語り手の少年は貧乏人相手の移動宿泊所「水星号」に居候の身。話は「水星号」の所有者メルとのやりとりで進んでいく。少年の思いに寄り添った一作。
 森晶麿「グレーテルの帰還」は、別れ話の絶えないケンカ夫婦の女の子と男の子が父親の実家の祖母(オニババ)の家に置き去りにされる話。まあ、ミステリ畑の話なので死体はあります。
 石川宗生「シャカシャカ」は、いかにも世界放浪が好きな作者らしい、「シャカシャカ」で世界中の場所が切りとられ、隣り合ってしまう世界の話。移動は出来るけれど「シャカシャカ」のとき偶然境界に居た人はちょん切れてしまうらしい。
 ということで、『短編宇宙』と同じくらい楽しめるアンソロジー。ただしお値段は2倍半くらいする。 

 文庫化なった筒井康隆『世界はゴ冗談』を読んでみた。2010年代前半に『新潮』や『文学界』等に発表された短編を集めたもので、最近読んだ短編集よりひとつ前の作品集と云うことになるのかな。
 巻頭の「ペニスに命中」はおそらく再読。昔金喜老事件に材を取ったスラップスティックを書いた筒井康隆を思い出す。
 「不在」は男は最後の世代の老人しかいない世界でのいくつかエピソードが語られるが、視点人物も変わり、エピローグは文字通り不在の結末を迎える。
 「教授の戦利品」は、大型のヘビを体に巻き付けた教授がやりたい放題をする話。作品構成は筒井康隆の独壇場だろう。
 「アニメ的リアリズム」は普通なら、アル中多幸感幻想とも云うべき描写で埋め尽くされた1編。
 「小説に関する夢十一夜」は短文で構成された作家筒井康隆の作品メモ11のエピソード といっていいのかな。
 「三字熟語の奇」は三字熟語を19ページに亘って並べた作品。2000くらい有るのかな。熟語の並べ方にグラデーションが見えてくるのがスゴいし、最後には創作熟語が混じって三字熟語でスラップスティックをやっている。
 表題作は太陽による磁場攪乱で所謂AI系が全部狂う話。これは筒井流スラップスティックの典型。
 「奔馬菌」の方は筒井印のメタフィクション。物語は不快な「午後4時半」を征伐しようとする男の話で始まるが、作者が福島原発事故をはじめとする現況や過去作への言及を始めて、再び「4時半」が過ぎてしまった元の(?)話に戻って、最後は「奔馬菌」に侵された90老の登場で幕を閉じる。
 「メタパラの七・五人」は、この文庫解説を指名された佐々木敦のパラフィクション論に刺激され書かれたという作品。舞台劇の人工性を応用したような組立に、作者の過去作への言及が入る点で、「奔馬菌」に似ている。
 「附・ウクライナ幻想」は、1972年に宇能鴻一郎とソ連に招待され、「イリヤ・ムウロメツ」への思い入れを語りつつ、一人でウクライナを訪れた時の話の思い出を綴る。
 短編集としては、力の入ったものが多い1冊だが、読了後に漂うのは、それでも喪失感であるところに2010年代の筒井康隆らしさが感じられる。

 筒井康隆は80代でかなり精力的に短編を発表してきたが、それより大部若い、といっても70歳の山田正紀・日下三蔵編『フェイス・ゼロ』は、竹書房版日本SF作家短編集未収録作品集の眉村卓に続く第2弾。
 山田正紀は主観的には好きな作家だけれど、巻末の短編集リストを見ると『少女と武者人形』のハードカヴァーを買ったきり、『バットランド』を読むまでその間の山田正紀の短編集を読んでいなかったことに気がついた。マイナー出版社の落ち穂拾いに見えたのかなあ。
 ということで、読み始めると前半は異形コレクションに掲載された20ページ前後の作品6本がSideA「恐怖と幻想」というタイトルの下に並べてある。いくつかは再読だけれど、ほとんど覚えていない。軽いストーリーが多いということもある。一方SideB「科学と冒険」の題の下に集められた7編は長めのものが多く、異形コレクション第15巻「宇宙ゾーン」に掲載されたSFっぽい作品を初め、「SFマガジン」など掲載先がSFプロパー的なものから取られており、こちらの作品群は今読んでも興味深いものが多い。
 SideB冒頭の「わが病、癒えることなく」は50ページと、収録作中一番長い作品である。物語の開幕、群生するセイタカアワダチソウ(ブタクサ)が印象的で、物語の暗い雰囲気と合っていて、山田正紀の本気のスタイルがうかがえる1作になっている。
 その異形コレクション掲載作「一匹の奇妙な獣 ein eigentumliches Tier」は、相変わらず凹みスタイルの作者「あとがき」で唯一言及された1編。もちろん「失敗作」としてだけれど、未練があり再度挑戦したいとまで云っている。なんとなく『戦争獣戦争』の原型みたいに見えるのだが、山田正紀としてはそうではないらしい。
 1978年刊、なつかしの『SFファンタジア5 風刺編』に載っていた「冒険狂時代」は、元気溌剌な20代の山田正紀の若さが堪能できる1品。まあ、先輩作家たちのナンセンス/ギャグを見習っただけとも云える。
 「SFマガジン」掲載作「メタロジカル・バーガー」も山田正紀スタイルが感じられる存在論SF。ハンバーガー屋のマニュアルの完璧化から引き出されるアイデンティティの喪失もの。
 同じく「SFマガジン」掲載の表題作は、文楽の世界で起きた殺人事件にロボット工学で作られた文楽人形の首がからむ話。SFミステリの力作。
 「火星のコッペリア」は2008年作で、当時ドラマ「24」が流行っていたことを伝える1作。っていうのは冗談だけれど、火星基地の男2人女1人の話を男の語り手の視点で進められていく。山田正紀のミステリSFらしいドンデン返しが待っている。
 「魔神ガロン 神に見捨てられた夜」は、もちろん手塚治虫トリビュートで「SFJapan」2002年冬号掲載作。後楽園球場に落ちるガロンとい強迫観念が効果的な手塚作品オマージュ。時代を感じる。
 後半の掲載作のみ言及したけれど、未収録作品にも山田正紀のスタイルが読み取れるものが多いということが分かる作品集になっている。

 ハヤカワ新SFシリーズの中編に合わせたかのように創元文庫から出たのがキジ・ジョンスン『猫の街から世界を夢見る』は、しかしスタイリッシュが命だったハヤカワ版と違い、中編としてはたったひとつの目的を果たすためのトラヴェローグとシンプルそのものな物語になっている。ただし、その世界は主人公がウルタール大学女子カレッジの女性教授というところがミソ。なんと女に何の重きを置かなかった(むしろ置けなかった)ラヴクラフト世界の、どこまでも女性視点で作られたパステーシュなのである。
 設定は単純、女子学生が恋人と駆け落ちウルタールの世界から”覚醒する世界”(われらの世界)へ向かったという情報があり、大学を潰しかねない大物の娘はなんとしても連れ帰らなければと云うことで、若いときにこの世界を放浪した経験のある中年女性大学教授が冒険の旅に出た、というもの。
 トラヴェローグは寄り道だらけ(当然この世界を読者に解らせないといけないので)、また教授は若いときの放浪でさまざまな善行を施したお陰で絶体絶命の窮地は必ずお助けがやってくるという仕掛け。でもまったくイヤミがないのは作者の人徳であろう。ということで、ラヴクラフトの作品が醸し出す禍々しさは一欠片もないけれど、楽しく読めるので無問題でしょう。
 このヒロインはヴェリット・ポーという名前だが、やはりポーの一族か。そういえば、最近Youtubeで目にするラーキン・ポーという姉妹バンドがいて時々見てるのだけれど、こちらは本当にエドガー・アラン・ポーの血筋が入っているらしい。

 遂に出た国書刊行会SF〈未来の文学〉最終巻、伊藤典夫編訳ガードナー・ドゾア他『海の鎖』。8編を収録して300ページ余りの、期待したよりは薄めの1冊。
 冒頭のアラン・E・ナース「擬態」はいわゆる置き換わりもの。さすがに古めかしくそれこそ「宇宙恐怖物語」な1編。レイモンド・F・ジョーンズ「神々の贈り物」もその視点はいまでも通用するが、ストーリーづくりとしてはやはり古めかしい。
 ということでこれはどうかいなと心配したけれど、悪名高きブライアン・W・オールディス「リトル・ボーイ再び」あたりから俄然面白くなってきて、フィリップ・ホセ・ファーマー「キング・コング墜ちてのち」を楽しく読ませてもらって、ついにM・ジョン・ハリスン「地を統べるもの」に至って快哉を叫ぶこととなった。いや素晴らしい。ジョン・モレッシー「最後のジェリー・フェイギン・ショウ」のコミック・サタイアでホッとすると、フレデリック・ポール「フェルミの冬」で、その残酷さと希望はポールが書いた『チェルノブイリ』を思い起こさせる。
 そして巻末の真打ちがガードナー・ドゾア『海の鎖』。表題作となるだけの価値を持つ、おそらくドゾアの最高傑作。他の子や大人には見えない地球の別種族が見えてしまう少年と、ファーストコンタクトを果たしたはずのエイリアンから人類は地球支配種とは見なされずAIもせいぜい家畜扱い。ではファーストコンタクトの価値がある地球種族とは・・・と、要約してしまえば他愛ない話に聞こえるが、この作品の持つ叙情性と悲劇性は読み手を圧倒する。作品中に1度だけ出てくる「海の鎖」にシビれる。
 巻末は伊藤さんのまとまった文章が読めるので、いまやオールドSFファンたるわが身には嬉しい1冊だ。

 林譲治『大日本帝国の銀河3』は2巻目の紹介をスルーしたが、2巻が昭和15年8月の話で、3巻でもまだ9月からと云うことで、地球にやってきて日本政府に大使館を開かせようとしているエイリアンのオリオン集団の話は、2巻で米内内閣(史実では7月に退陣)の軍令部を海軍大臣の所掌下におく憲法改正の動きを背景に、ソビエト大使館とソビエトでの国際天文学会議のエピソードが加わったが、3巻に至って、オリオン集団の一派に誘拐(?)された商社員の情報からウルシー環礁がオリオン集団の基地であることが判明、第4艦隊が編成され戦艦や巡洋艦に空母、駆逐艦と潜水艦を含む一大艦隊がウルシー環礁に向かう・・・。
 米内内閣での憲法改正により軍令が軍政の指揮下に入ることになり、ソビエトもオリオン集団の一派とコンタクトがあることが判明して、どうやらオリオン大使館が実現の方向にという流れからは、第2次世界大戦は起こりそうにはない(もしくはまったく違う様相の戦時体制と迎えるか)が、作者の付けた「大日本帝国の銀河」の意味はまだ分からない。
 旧日本海軍の軍艦や航空機とオリオン集団のハイテク宇宙機が描かれた表紙は面白いけれど、物語の方は海軍の蘊蓄が多くて昔大和ミュージアムを担当したときに、泥縄で読んだ海軍資料が思い浮かんで仕方がない。

 伴名練編『日本SFの臨界点 新城カズマ 月を買った御婦人』は、超マニアックな編者解説がすさまじい、ちょっと忘れちゃいませんかなSF作家短編集第2弾。
 新城カズマといえば『サマー/タイム/トラベラー』が好印象な作家だけれど、その他の作品は、大森望のアンソロジーに収録されたものくらいしか読んでいない。それでもこの短編集に収録された10作中4作が再読である。ということは、この作者のSF短編自体が少ないということか。
 巻頭の「議論の余地はございましょうか」は、選挙候補者の演説中に眼鏡型端末を通じて候補者だけにわかる立候補辞退の脅迫メールが送られる・・・セリフの流れに作者の手練れ振りが見える。
 「ギルガメッシュ叙事詩を読みすぎた男―H氏に捧ぐ」はいわゆるノアの箱舟ものとN氏を結びつけた星新一トリビュートのショートショート。
 「アンジー・クレーマーにさよならを」は再読。冒頭ボルヘスの掌編からスパルタ社会体制論に及び、すぐに一転して遺伝子デザイン技術が発達した未来の女学園もの/百合系な話が進行する。表題は三原順の「はみだしっ子」シリーズの4人の少年うちアンジーからということで、リアルタイムで読んでいたなら新城カズマは結構な歳ということになる。
 「終末世界ピクニック」は10ページの小品。「セカイの終わり」に立ち会う登場人物たちの一幕。どうやら電脳世界がお役御免で消えていくみたいな話。まえに翻訳物でちょっと似た話があった。イーガンかケン・リュウ、テッド・チャンあたり。
 「原稿は来週水曜までに」はハインラインが編集者気質を皮肉ったセリフをもとにした締切までに書けない作家もの。とはいえ、SFトラジコメディとして手慣れた書き方になっている。
 「マトリカレント」は再読。初読の時もわかりにくいと思ったけれど、今回読んでも解りにくいことには変わりない。世界史的な参照先とSF的な処理が作者の書き方のせいかどうもピンとこないところがある。ビザンチン帝国/東ローマ帝国/アレクサンドロスにテオドラだもんなあ。まあ、面白いと思えればそれでいいんだけれど、
 「ジェラルド・L・エアーズ 最後の犯行」は編者も云うとおり、SFではなくてミステリ。アメリカの7年生の少女が授業の一環で死刑囚に手紙を出す。そして続くやりとりと少女にかかわる別の少女の死と真実。熟練の言葉使いではある。
 表題作はついこの間この編者のアンソロジーで読んだけれど、一応再読はした。さすがに読後の印象は変わらない。
 「さよなら三角、また来てリープ」は長谷川裕一『マップス』の世界観で書かれたアンソロジーに発表されたものという。これはオタク3人組の文化祭もの。楽しく読める。 「さよなら三角また来て四角」は姉が読んでいた60年代の少女漫画で知ったような気がする。
 最後の「雨降りマージ」も再読。細部はまったく覚えていなかったが、編者も強調する新城カズマ云うところの法人に次ぐ第3の人格「架空人」を全面的にうたいあげた作品。ロマンチックな話かも。
 猛烈編者解説は前巻よりは前のめりではなく参考になります。

 『時の他に敵なし』を出してくれた竹書房が、今度は2015年作のアーサー・C・クラーク賞受賞作を出してくれた、って喜んでいいのかどうか迷うほどまったく信用できないのが、このクラーク賞。これまで読んだ受賞作はどれもクラークが読んで喜ぶとは思えないものばかり。もしかしてクラーク賞の選考委員はクラークの作品を読んだことがないか、読んでも解っていないんじゃないかと思われる。
 ということで、ちょっとは期待しつつ読んだのが、エイドリアン・チャイコフスキー『時の子供たち』上・下。
 こちらはなんとスペースオペラで、地球人類は宇宙に広がるも自滅戦争の結果、最後の人類輸送船が残るばかり。一方遙か昔、ある惑星で傲慢な女性テラフォーミング管理官がナノウィルスを猿に取り憑かせて新しい人類へと発展させようしたところ、事故でナノウィルスは小さなクモに取り憑いてしまった・・・というところから人類輸送船のドラマとクモ社会の発展が交互に描かれ、輸送船はテラフォーミング惑星を発見するもアップロードされた女性管理監に阻まれる。そして長い時間が流れ、進化したクモと亡びかけている輸送船の人類が再び相まみえる・・・。
 このお話の中だけでなら、個々のパートはそれなりに読めるものになっているけれど、SFとしてはかなりいい加減で、SF的なロジックに一貫性がないので、外枠においては常にイライラさせられる。例えば蜘蛛とアリの戦いはそれなりに面白いが、アリの生態を表面的にしか扱っていないのでその解決法はまったく説得力に欠ける。またクモ対人類の戦いのクライマックスにおいてもアリと同じ扱いなので、ガックリくる。
 やっぱりクラーク賞受賞作は信用ナラン、といったところ。

 最後にノンフィクション?を1冊。
 猪瀬直樹『昭和23年冬の暗号』は、10年ほど前『ジミーの誕生日』の題で出版され、文春文庫版で『東條英機処刑の日』というやや扇情的なタイトルに変えられ、今回の表題で中公文庫から再刊なった1冊。
 親本が出た当時は政治家になったと云うことでスルーしたのだが、今回は以前取り上げた『昭和16年夏の敗戦』の続編と「あとがき」にあったので読んでみた。今回のタイトルは前作に合わせたと云うことになる。
 昭和16年夏には企画院の若手たちがシミュレーションですでに日本の敗戦を予言してしまったのに対し、こちらは「ジミーの誕生日」すなわち現上皇が生まれた12月23日が始まる午前零時の時計の針が1分回り、巣鴨プリズンで東條らの死刑が執行されたことを表している。
 前作の印象はあくまでノンフィクションのスタイルを守っていたが、こちらは戦後今は無き同潤会アパートに住んでいた元侯爵夫人の孫娘から、祖母の残した「ジミーの誕生日が心配です」という一文で終わっている日記を著者が受け取って、著者がその日記にまつわるさまざまな調査から読み解いたことを彼女に報告するという、ややフィクションぽい構成になっている。
 著者は『ミカドの肖像』をベストセラーにした如く、天皇家関係の資料についてはそれなりの蓄積があると思われるが、敗戦間近な時代の皇太子のご学友がこの侯爵夫人の息子(日記を提供した娘の父)というあたり、出来過ぎなストーリーに見えないこともない。
 しかしこの作品の主眼は、マッカーサー/GHQによる占領下の日本に対する思惑の一例を東條に代表される戦犯死刑囚の処理に見出すことであり、そういう意味では、いまでも読むに値する1作のように思える。ただし前作ほどの緊張感はない。

 


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