内 輪   第366回

大野万紀


 クラウドファンディングで資金を集めて作られた(少しだけどぼくも参加しました)、堺三保さんの初監督作品、短編映画「ORBITAL CHRISTMAS」が完成し、出資者へDVDが送られてきました(画像はYouTubeの予告編にリンクしています)。
 完成した映画とは若干内容に違いがありますが、池澤春菜さんによるノベライズはここで読めます。
 一般公開はまだ先になるとのことなので、細かな内容は書けませんが、本格的なCG特撮といい、しっかりしたキャラクターの演技といい、ストレートでよくまとまった感動的なストーリー(何しろクリスマス・ストーリーですよ)といい、短編ながら心温まる傑作でした。
 ただ勝手な観客の立場でいえば、気になった所も何点か。まずお父さんの物語はもう少しふくらませてほしかった。時間と予算の関係で仕方がないとは思いますが、ああいう事があった後でどうしていたのか、登場が唐突だったのでちょっと気になりました。
 そしてクライマックスの感動的なシーンなのですが、あの見え方とスケール感は果たして正しいのだろうかということも。地上400km近く離れたところで、あのサイズに見えるということは――そして移動していく速度はどうなのか。堺さんのことだから、ちゃんと計算した上で設定しているのだとは思いますけど、ぱっと見ではよくわかりませんでした。
 とにかく傑作SF映画なので、色々事情はあるのでしょうが、早く一般公開されるといいですね。

中村融さん 冬木糸一さん
添野知生さん 縣丈弘さん

 2月のSFファン交流会は「2020年SF回顧(海外・メディア編)」と題して2月20日、Zoomでの開催。ゲストは海外SF編が中村融さんと冬木糸一さん。メディア編は添野知生さんと縣丈弘さんでした。
 前半の海外SF編は、ほとんど中村さんが話していたような気がします。やはり話題の中心は中国SFの話。『荒潮』の陳楸帆さんが以前SFセミナーで日本に来ていたことがあり、そこで中村さんが話をしたところ、とんでもなく頭のまわるイケメンだったとか、ムアコックの〈エルリックサーガ〉といっても今の若い人は知らないというような話がありました。
 話題に上がった2020年の海外SFで、ぼくのまだ読んでいない本では『バグダードのフランケンシュタイン』や『影を呑んだ少女』、『サハリン島』は、そのうち何とか読まないといけないなと思いました。
 休憩をはさんでメディア編。添野知生さん、縣丈弘さんによる昨年の映画についてのお話ですが、こちらは見ていない作品がほとんどなので興味深いものでした。しかし、ネットのサブスクリプションに入らないとついていけない世界になっているのだなあという感想です。新型コロナのせいだけではなく、そういう時代になっていくのでしょうね。
 劇場でやっている邦画では、ヨーロッパ企画の「ドロステのはてで僕ら」がとても面白そうな時間SFものということなので、これはぜひどこかで見てみたいですね。
 その後の二次会も、添野・縣のメディア編の続きで、本編で触れられなかった海外TVドラマなどを中心に話がはずみます。こちらも面白そうだけど普段見てないシリーズなど、個人的にどうしたものかちょっと悩みます。ディズニープラスの「マンダロリアン」なんて確かに面白そうなんですけどねえ。
 

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『人之彼岸(ひとのひがん)』 郝景芳 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 (※このレビューはSFマガジン2021年4月号に掲載したもののノーカット版です)
 郝景芳(ハオ・ジンファン)の2017年に出版された人工知能がテーマの最新SF短編集である。人工知能に関する長めのエッセイ2編と短編SF6編が収録されている。
 まず2本のエッセイ。長い方は「スーパー人工知能まであとどのくらい」と題されているが、小説の短編集に含まれたエッセイにしてはずいぶん本格的で専門的であり、とても読み応えがある。作者は天体物理学を学び、経営学・経済学を学び、教育事業にも従事しているが、その専門知識が生かされているのだろう。アルファ碁の話から始まり、ディープラーニング、ビッグデータで代表される現在のAIの成果と限界について述べ、より本質的な人間の世界理解とAIの世界理解(の欠如)について分析していく。ある意味では常識的だが、よくバランスのとれた納得のいく議論である。最後にはSF的なところまで話題が進むが、面白かったのは、作者はAIの(シリコン知性の)あるべき発展形であるスーパー人工知能は、ネットワーク型の知性であり、ロボットの中に閉じたような分散型の(人間のような)知性ではないだろうとしていることだ。そこから、発展したAIには個=自己がなく、個がないので多様性がなく、メタな視点はもたず、つまりは人間とは別のものとなるだろう、ということである。シンギュラリティなんてない。でもそれはAIの欠点ではなく、人間とは別の知性として互いに共存できるということだ。そして逆に、人間がそんなAIのようになっていくことへの警鐘を鳴らしている。AI論としてもSF的な観点からも大変興味深かった。
 二つ目のエッセイ(最初のより短いがこれも長い)「人工知能の時代にいかに学ぶか」は、先のエッセイを受けてより具体的に、近い未来のわれわれと人工知能の関わり方について述べている。これもすごく面白い。ここでも奇をてらった驚くべきことが書かれているのではなく、実際の教育事業から得た理解がベースになっているのだろうが、展開されているのは比較的常識的な議論である。特に子供の――とりわけ幼児教育についての提言には納得がいく。人工知能と共存し、人工知能にはない能力――世界観と(真の)創造力を高めていくにはどうすればいいか。「子供の学習はスモールデータ学習である」といった言葉には、現場を知る重みと、SF作家らしい視点がある。
 短編「あなたはどこに」は、あるベンチャー企業の経営者が融資に失敗し、プレゼンテーションもうまくいかず、恋人にも逃げられるという悲しい物語だが、その原因は彼の人工知能に対する姿勢に誤りがあったからである。彼の製品である人工知能は、ユーザである人間を模倣し、分身となって会議に出たり、話を進めたり、忙しい人間の代わりをしてくれるはずのものだが、最初のエッセイにあったように、人間と直接関わる人工知能には、克服しなければならない致命的な問題があるからだ。それは最後の恋人の言葉に表れている。
 「不死医院」では人間のアイデンティティの問題が扱われる。不治の病に侵された重病人も健康な体になって戻ってくることで有名な病院。主人公の母はそこに入院するが、面会謝絶となる。こっそりと侵入して母の様子を見ると、衰弱し、ほとんど死にかけていた。にもかかわらず母は健康な体になって帰ってくる。話をすると間違いなく母なのだが、主人公はそれがクローンか何かで、にせものだと疑う。昔からよくあるSFのテーマだが、とても現代的にアップデートされており、揺れ動く主人公の心情に、二者択一ではおさまらない人間というもののグラデーションがうかがわれる。そのあいまいさこそが人間なのでだろう。とても心に残る作品だ。
 「愛の問題」の主題もまさにスーパー人工知能と人間の心との食い違いであり、それが「愛の問題」なのだ。というとちょっと陳腐に聞こえるが、さすがによく考え抜かれていて単純な扱いではない。ただ、最初のエッセイではロボットの自意識に否定的だったが、これはSFだからOKということだろう。著名な人工知能学者が自宅で刺され、植物状態に陥った。現場には彼の息子と、スーパーAI執事のロボットがいた。犯人は誰なのか。物語は関連する人物(とロボット)を順に視点人物として、それぞれの目から見た事件とその背景を語っていく。早くに母を亡くし、抑圧的な父にずっと反抗的だった息子。自己肯定感が低く自殺願望に取り憑かれているその妹。母が亡くなってから一家に入りこみ、機械のように(機械だから当たり前だが)論理的で、常に正しいことばかりを言う有能なロボット執事。ミステリ要素はあるが謎解きは重要ではなく、家族の問題にデータと論理で対処しようとする人工知能(これがミスター・スポックみたいでちょっと可笑しく愛おしい)と、正しくなくても歪んでいてもそれこそが愛である人間との不幸なミスマッチが描かれている。
 「戦車の中は短い作品だが、どこかの戦場の村での、人工知能をもった強力な戦闘機械を指揮する兵士と、彼らが遭遇した小さな機械車――人工知能を装っているが、中に人間が入っていると疑われる――との、チューリング・テストがテーマだ。背景にはやはり人間の世界観と機械の論理との食い違いがある。
 「人間の島」は中編で、本格SFだ。はっきりとはしないが、「愛の問題」や他の作品と同じ世界のさらに未来の物語かも知れない。ブラックホールの探査に行き、その向こうに居住可能な惑星を発見した宇宙飛行士たちが地球に帰還する。しかしそこは、生まれてすぐにブレインチップを脳に埋め込んだ人々が、世界をコントロールするスーパー人工知能のネットワークと共存している世界だった。この世界では人間の感情と機械の論理の相剋は克服され、みんなが統計的に正しいとされる方向に向いて平和に暮らしている。もちろん宇宙飛行士たちにとっては人間の自然な自由意志を無視するディストピアとしか思えない。彼らは反攻を試みる。ここで機械にはない人間性として強調されているのは情動である。このテーマも字面だけみればありきたりだが、作者の思弁は深い領域にまで及んでいる。この作品に伊藤計劃を思い起こす人もいるだろう。だが作者が今の中国で暮らしていることを思えば……。
 「乾坤(チェンクン)と亜力(ヤーリー)」は短いがユーモラスな中に同様なテーマを織り込んだ傑作だ。こちらは神のごときスーパー人工知能である乾坤(チェンクン)が、幼い人間の子どもである亜力(ヤーリー)と話をし、いっしょに遊び、その子から学んで理解しがたいものを理解しようとする物語である。これまでの重い中編から一気に浮揚させ、明るく好ましい未来への展望を見せてくれる。作者の夢見るAIと人間の好ましい共存の姿かも知れない。そこには互いに学ぶという視点がある。

『6600万年の革命』 ピーター・ワッツ 創元SF文庫
 表題作の長い中編(作者は長編だと言っている)と関連する短編「ヒッチハイカー」を含む。「ヒッチハイカー」は必ず表題作の後で読むこと! 既訳の「ホットショット」「巨星」「島」(いずれも『巨星』に収録)と同じ〈サンフラワー・サイクル〉に属する作品である。
 何千万年もかけて銀河全体にワームホールのネットワークを構築しようとするディアスポラ計画。中に特異点を搭載した小惑星宇宙船〈エリオフォラ〉の中には三万人が搭乗しているが、普段は凍結され、非常事態が発生した時だけその中の数人が目覚めさせられる。通常の任務を行うのはチンプと呼ばれるAIだが、シンギュラリティを起こして任務を放棄したりすることがないように知能が抑えられており、機密事項へのアクセスも制限されている(ように思える)。人間たちはというと、数千年に一度、数日間だけ目覚めるという生き方をしている。中にはこの生き方に不満を持ち、AIへの反乱を計画している者たちもいる。とても気の長い反乱だ。主人公のサンディはその革命グループに参加しながらも、チンプにもいくぶんの親しさと共感を抱いていて、その真意はわかりにくい。何千年、何万年かたって目覚めるたびに状況も変わっているので、ますますややこしい。
 本書を『2001年宇宙の旅』のHALと人間の立場を逆転させたような話だとする評を読んだが、ストーリーラインはその通り。視点人物もほぼサンディに固定されており、ワッツの作品にしてはストレートで読みやすいというのもその通りだと思う。でも「ワッツにしては」というところがポイントで、用語や概念は説明もなく出てくるし、ハードSF的な設定は明確だが、その内容はかなり複雑で、これも説明がないので漠然としたイメージ以上のものは捉えにくい。何よりも革命の目的とその首謀者であるリアンの人物像、彼女とサンディや他の登場人物との関係性がぼんやりとしていて(一応言及はあるのだが)ピンと来ないのだ。解説の渡邊利道さんも「物語のあちこちに空白が生じる」「宙吊りの感覚に読者を陥らせる」と書いているが、ストレートなストーリーのはずなのに、もやもやしてしまう。さらに、6600万年という想像を絶する遙かな時の流れを描いているにもかかわらず、SF的な衝撃がほとんどなくて、閉鎖した小惑星宇宙船の内部というこじんまりとした世界の中に解消してしまうのが物足りないところだ。ただこれは欠点というより、むしろホラー的な緊迫感を増す効果を上げている。
 「6600万年の革命」を読んでいると、ところどころに気になる文字があり、それをつないでいくと暗号文が表れる仕掛けになっている。原書ではそれが著者の短編に誘導する仕組みなのだが、本書ではその短編「ヒッチハイカー」がそのまま収録されている。これは本編の補完をし、謎解きをする話であるのだが、ぼくにはこっちの方がドラマチックで面白かった。でもその謎解きたるや。あの「人」はいったい何者なのか。解説では例の吸血鬼ではとあったが、果たしてそうなのだろうか。謎は深まるばかりだ。

『七十四秒の旋律と孤独』 久永実木彦 創元日本SF叢書
 創元SF短編賞を受賞した表題柞と、その同じ世界につながる〈マ・フ クロニクル〉の連作5編を収録した短編集である。なお〈マ・フ クロニクル〉は1つの作品といってもいい(1編を除き書き下ろし)。これは人間のように意識を持ち、人間のように考え、人間のように悩む未来のロボットたちの物語である。
 本書全体から見ると表題柞「七十四秒の旋律と孤独」はそのプロローグにあたる。ヒト型の人工知能ロボット〈マ・フ〉がヒトの支援をして宇宙を航行する物語だ。かれら(マ・フに性別はない)にはワープ航法に関わる特別な能力があり、人間にとっては一瞬であるその遷移の瞬間、ヒトには知覚できない74秒間の時間が知覚できる。その時間を利用して無防備になった宇宙船を襲撃する者もおり、それを撃退するのが重要な任務となっている。マ・フである本編の語り手と宇宙船の乗組員たち(特にメアリー・ローズと呼ばれる新入り)との関係性や、74秒の激しい戦いはとても読み応えがある。『年刊日本SF傑作選』に収録された時も書いたが、作者が意識していたかどうかはともかく、テーマ的にもキー・キャラクターの扱いにしても、ぼくはコードウェイナー・スミスを強く思い起こした(解説で牧眞司も同じことを言っていますね)。
 続く連作〈マ・フ クロニクル〉はそれから遥か未来の、地球によく似たとある惑星上での物語である。表題作との関連はいったん切れるが、終わりの方で再び明らかとなる。後付けな印象もないわけではないが、こういう構成は心にくい。
 「一万年の午後」では、母船から生物のいる惑星Hの調査のため派遣された8体のマ・フたちが、その惑星上で1万年にわたり毎日同じパターンで調査を続けていることが語られる(かれらにはとても耐久力があるのだ)。着陸した探査船〈恵まれ号〉を基地として、かつて人間が作ったマニュアルを金科玉条の〈聖典〉とし、毎朝の〈おあつまり〉で「ヒトに感謝を」と唱和するのだ。〈おあつまり〉の後は各地の生態系を調査し、いつの日かまた母船へ戻るときのために記録する。1万年もの間、ずっと。だが主人公のナサニエルは、ある時、仲間の一人フィリップが、ある絶滅寸前の生物に対して人為的な干渉をしたことを知る。それは「特別であること」を忌避するマ・フにとって、あってはならないことだった。かくてマ・フの楽園には〈変化〉という蛇が忍び込み、個性と多様性が、そして不安が、疑心暗鬼が生みだされていく。それは楽園追放の始まりだった。
 「口風琴(くちふうきん)」では、ついにマ・フがヒトと出会う。どういう理由かは定かでないが(遥か昔に大きな戦争があったらしい)、ヒトもまたこの惑星で姿形を変え、長い眠りを眠っていたのだ。今目覚めた男、オク=トウは、ヒトの権威をもってマ・フたちを指導しようとする。1万年にわたるマ・フたちの暮らしが急激に、大きく変わっていく。ヒトは生きるために他の生物を狩らないといけない。この〈変化〉はマ・フたちに激しいとまどいをもたらす。しかしオク=トウが奏でる口風琴の音色は美しく、そしてもの悲しい。
 続く「恵まれ号I」「恵まれ号II」で、ヒトは増え、新たなコロニーが作られ、マ・フたちとの関係性も変わっていく。争いも生まれる。遥か未来の異星にあっても、体の組成が違っていても、彼らはその美徳も悪徳も含めてまったくの人間である。その映し鏡のようなマ・フもまた人間と同じ美徳と悪徳を、つまりは人間性を紡いでいく。そこには残酷な悲劇も生まれる。
 ぼくはここでまた以前読んだスー・パークの『セミオーシス』というSF小説を思い起こした。これも異星の環境の中で築かれたコロニーの年代記(クロニクル)であり、人間性に関する物語だった。本書もまた、SF的なアイデアやガジェットはあっても、物語のテーマはマ・フという無垢な存在をベースにした人間的な情動――喜び、哀しみ、怒り、友愛、憎しみ――の再発見であり、ヒトの通ってきた道の繰返しなのである。そう、まるでコードウェイナー・スミスの〈人間の再発見〉のように。
 そして「巡礼の終わりに」。これはエピローグであり、事件からまた数百年がたった後の物語が描かれる。ヒトとマ・フとの関係性はまた変わってしまった。これは信仰と物語についての、そして復活と繰返しについての物語である。余韻をもった終わりが美しい。
 人類の滅びた後、遠い遙かな未来の世界で、ヒトではない知性をもつものたちの物語にはとても惹かれるものがある。本書では、ヒトが再登場した時点でちょっと違ったかと思ったが、思ったのとは違っても、深い哀しみと希望に満ちた、美しい物語だった。

『信長島の惨劇』 田中啓文 ハヤカワ時代ミステリ文庫
 本能寺の変の十数日後、死んだはずの信長から、羽柴秀吉、柴田勝家、高山右近、そして徳川家康が、三河湾の孤島に呼び出される。部下を連れずにただ一人で来るようにと。孤島の屋敷、謎めいたわらべ歌、わらべ歌の通りに一人一人殺されていく武将たち……。
 いや、田中啓文、ごめんなさい。裏表紙にあるこのあらすじから、いつものダジャレとパロディと無理やりな展開のバカミス、バカSFだと(それはそれで面白いのだけれど)思っていました。実際に読んでみると、突飛でSF的なアイデアがベースにあるものの(そして脱力するようなダジャレもちゃんとあるけれど)、これは本格的な傑作ミステリだった。滅茶苦茶面白くて、最後まで一気読みした。
 ミステリなので詳しくは書けないけれど、探偵がいて謎解きがあり、その謎解きは小説内論理としてきちんと筋が通っている。現実にはあり得ないアイデアが一つだけあり、その一点突破全面展開により、武将たちがなぜここに来たのか、なぜ、そしてどのようにして殺されたのか、犯人は(まあ信長しかいないわけだが)どんな動機でこの惨劇を起こしたのか、そういったことの全てが、この孤島での事件だけではなく、その背景となる本能寺の変や歴史の謎まで含めて見事に解き明かされる。これには唸らされた。このアイデアから全てのつじつまが合うとは驚きだった。光秀謀反の謎はそうだったのかとうっかり信じそうになったほどだ。
 戦国武将たち、彼らを饗するホスト役の森蘭丸、弥助、光秀の娘の玉(細川ガラシャ)、千宗易(利休)らのキャラクターもそれらしく書き分けられており『麒麟がくる』のキャストで映画化すれば面白いんじゃないかと思った。傑作!。


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