内 輪 第365回
大野万紀
森下一仁さん | 井上雅彦さん |
日下三蔵さん | 香月祥宏さん |
1月のSFファン交流会は「2020年SF回顧(国内編)&復活!《異形コレクション》」と題して1月23日、Zoomでの開催。ゲストは森下一仁さん、井上雅彦さん、日下三蔵さん、それにレビューアーの香月祥宏さんでした。
はじめに井上さんと日下さんの「異形」話。その中でも、最新巻の『蠱惑の本』に収録された北原尚彦さん「魁星(かいせい)」についてのエピソードがとても印象的でした。
きっかけは井上さんが横田さんといっしょに浅草を歩く夢を見て、そのことを北原さんに話し、ぜひとも横田さんの話を書いてもらえないかと依頼されたということでした。北原さん本人も顔出しされて、この作品が自分にとってもとても重要だったこと、書きながら横田さんのしゃべる声が本当に聞こえてくるような気がしたということでした。
森下さんと香月さんの「2020年国内SF」話では、森下さんと香月さんが資料も使いながら、注目作を紹介されました(配布用資料はこちらにあります)。
森下さんが、2020年のコロナ禍の現実を反映したSFとして、宮西建礼「されど星は流れる」を絶賛しておられましたが、全く同感。それでぼくが思いだしたのが、こざき亜衣のコミック「シュレディンガーの高校生」です。インターハイの無くなった年、現実の不確定な未来を受けとめる高校生たちの話。SFかどうかはともかく、傑作です。
紹介された本の中で、ぼくの未読本の中にずいぶんと読んでおかなくてはいけないという作品があることもわかりました。とりあえず気になったのは、藤野可織『ピエタとトランジ完全版』、小林泰三『未来からの脱出』、木下古栗『サピエンス前戯』などです(その後、小林さんの本は買って読みました)。
本会の後は、2次会。ぼくも顔出しして出席。主に参加者のお勧めする2020年国内SFについて。ぼくは「SFが読みたい」で書いたベスト5の話と、牧野修『万博聖戦』、それに『蠱惑の本』収録の柴田勝家「書骸」などについて話をしました。
『万博聖戦』の話はTHATTAに書いたことを話そうとしたものの、あちこち話が飛びまくって支離滅裂だったのではないかとと思います。また林譲治『星系出雲の兵站-遠征-』について、森下さんも言うように本格宇宙SFの大傑作なので、長いから読めていないという人は〈遠征〉からだけでも読むようにと話しました。
SFファン交流会、2月は20日にオンライン開催で、2020年SF回顧の海外編です。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『わたしたちが光の速さで進めないなら』 キム・チョヨプ 早川書房
韓国の女性作家の初短編集。序文と著者後書きの他、7編が収録されている。文学評論家イン・アヨンの解説付き。
序文で著者は自分がわれわれと同じSFファンであることを公言しており、文章からはこのジャンルへの愛が輝くばかりに溢れ出ている。いずれの作品にも本格的なSFのアイデアが描かれ、SFとして書かれているのは間違いない。とはいえ、本格SFのスタイルを持っているにもかかわらず、そのテーマはジャンル内におさまっておらず、むしろ現代の普遍的な問題に向かう視線をもっている。宇宙や異星人、未来技術が描かれても、人類の未来といった大きなテーマではなく、現代社会の矛盾(差別、分断、排除)や家族と個人の関係、そして個人の心の問題へと向かう。SFはそれを描くためのフレームワークとして使われているのだ。それはそれで現代SFの有効なあり方であるし、SF的なアイデアを日常に作用させることで幅広い共感を得られるものだろうと思う。
「巡礼者たちはなぜ帰らない」では、どこかにある平和な村が描かれ、そこの子供たちはある年齢になると移動船に乗って1年間の巡礼に出かける。しかし、毎年帰らない者が何人かいる。主人公はそれに疑問をもち、その謎を解こうと巡礼の地へ向かう。そこには遺伝子操作された完璧な人々と、そうでない人が分断された社会があった。そして村がそれとは違うユートピアを目指して作られたことを知るが、それは果たしてユートピアなのだろうか。たとえ理想を目指した社会であっても、個人との矛盾は必ず発生する。グラデーションのどこに納得点を見つけるか、そしてそれが他から許容されるものとなるのかが問題なのだろう。
「スペクトラム」では寿命の短い異星人たちの世界へ投げ出された一人の女性の視点から、知識の継承と自分と異なる未知の存在への理解と共感というテーマが描かれる。ここにわれわれの家族や異文化コミュニケーションのテーマを読み取ることもできるが、この作品はむしろストレートなファーストコンタクトSFとして楽しむのが正解だろう。非言語的な色彩による情報の記録というアイデアが面白い。
「共生仮説」は本書で一番気に入った作品。子どものころから鮮明に浮かぶ異星の風景をシミュレーションゲームにした画家のリュドミラ。そのリュドミラの惑星と驚くほど一致する(しかし今は消滅している)惑星の発見。そして新生児の思考を読み取る実験。それらが結びつくとき、人類についての驚くべき事実が明らかとなる。ここでも一種のファーストコンタクトが描かれているが、それはファーストではなくコンタクトでもない。SF的なアイデアとしては決して目新しいものではないが、ここでは確かに「人類」が描かれている。しかし行ったことのない異星の姿を思い出すという話は人気があるんだなあ。読み取られた新生児の思考が面白く、心温まるSF的センス・オブ・ワンダーがある。なお巻末の解説はネタバレなので要注意(この書評も同じか)。
「わたしたちが光の速さで進めないなら」は宇宙SF。技術の発展とそれに取り残される、あるいは切り捨てられる人間の哀しみが描かれる。宇宙ステーションの片隅に住み着いている老女。彼女はかつてワープ航法と共に恒星間飛行を可能とする人工冬眠の開発者だったが、家族を植民星に残したまま、恒星間飛行技術の変革により航路が失われ、帰れなくなってしまったのだ。彼女は再び航路が開かれるのをステーションでずっと待ち続けている。仮に帰れたとしても、もはや家族は誰も生き残っていないに違いないのに。それでも彼女は目的を失わず、強い意志でそれを遂げようとする。経済合理性などクソ食らえだ。
「感情の物性」はアイデアストーリーだが、「もの」と「心」の関係性を強く描き出している。「感情の物性」という小石のような商品のシリーズ。感情そのものを造形した製品との触れ込みで、「オチツキ」「シュウチュウ」「トキメキ」それに「キョウフ」「ユウウツ」「ゾウオ」といった負の感情のものまである。主人公はそんな効能を信じてはいないが、なぜそんな負の感情を呼び起こすものが売れるのか疑問に思う。だが人間は実体のある「もの」に心を投影する。それが恐ろしいもの、悲しいものであっても。主人公は最後に、恋人との関係性の中でそのことを思い知る。
「館内紛失」も面白かった。死んだ人間の脳パターンがデータとして吸い上げられ、図書館に保存されるようになった未来。ただそれはあくまでもデータとシミュレーションプログラムであって、意識をもつものではない。色々と確執のあった母の死後、妊娠して不安になった主人公はバーチャルな母に会おうと図書館へ行くが、そこで母の紛失を知らされる。データがなくなったわけではないが、インデックスが消去されて検索不能になっているというのだ。脳の活動パターンをデータ化したものだけに、通常の方法では検索できない。そこでインデックスがつけられているのだが、それが消去されてしまった。なぜ、誰がそんなことをしたのか調べていくうちに、母と子、家族、夫婦、そして記憶と記録というテーマが浮かび上がってくる。バーチャルなデータに意識が宿るのかといった方向ではなく、それを受け取る側に焦点があり、そこで語られるのはインデックスを失って世界と切り離されるデータのように、現代社会の中で世界との関連づけを失っていく魂と、その再発見の物語なのである。
「わたしのスペースヒーローについて」では、太陽系内に開いた「トンネル」を通って未知の宇宙へ飛び立とうとする、サイボーグの体をもつ宇宙飛行士が描かれる。その第一号となったジェギョンは抜擢された女性飛行士だったが、宇宙船が爆発し、遺体も見つからなかった。主人公のガユンは、母がジェギョンと同居していたため彼女をおばさんと呼んで育ち、スペースヒーローとして尊敬していた。ガユン自身も宇宙飛行士となって「トンネル」に向かうことになったが、そこでジェギョンが実際は宇宙船に搭乗しておらずその直前に海に身を投げたのだという事実が明かされる。宇宙へ行くよりサイボーグの体をもつことの方に執着していたジェギョン。彼女は人魚になろうとしたのかも知れない。東洋人、中年女性、シングルマザーといった属性にまといつく偏見と闘って栄誉を勝ち取り、さらにそれを投げ捨てた彼女。だがそれでも、彼女はガユンにとって尊敬するスペースヒーローなのである。ここでは家族が(疑似家族も含めて)襲いかかる世間に対する防御壁となるのだ。それはとても幸せなことだと思う。
『異形コレクションL 蠱惑の本』 井上雅彦監修 光文社文庫
復刊2冊目、通しで50巻目の〈異形コレクション〉である。今気がついたが、今回は〈異形コレクションL〉と「L」が付いている。何の意味だろう。どこかに書いてあったかな。それはともかく、今回は本、書籍をテーマとする15編が収録された書き下ろしアンソロジーである。ぼくにとっては初見の作者が多い。
大崎梢「蔵書の中の」。この人もぼくには初めてだが、面白かった。亡くなった祖父の家の、離れにある書庫へ、見知らぬ老婆が尋ねてくる。貸したままになっていた本を返して欲しいというのだ。主人公は快く書庫に招き入れるのだが……。書庫が異界へと変異し、優しそうなおばあさんが魔へと変貌する描写が恐ろしい。そこへ現れる古本屋。書怪を退治するヒーローですね。かっこいい。この古本屋を主人公にしたシリーズがあれば読んでみたい(すでにあるのかしら)。
宇佐美まこと「砂漠の龍」は、西域のオアシス都市が滅びるところから始まる。砂漠の盗賊団、龍の伝説。監修者の前書きにあるように、異世界ファンタジーか伝奇小説を思わす物語が展開する。ところが話は一気に現代の日本へ移り、大伯父の家を相続した主人公の話が始まる。ここでは魔は主人公の心の闇に存在する。そして前半部と物語がつながる。どちらも面白かったけれど、このつながりはちょっと強引に感じた。
井上雅彦「オモイツヅラ」。カタカナで書かれると何のことかと思うが、重いつづら、あの舌切り雀の話に出てくる大きなつづらのことだった。物語はビクトリア時代のロンドンで、女性精神科医の書庫の整理に雇われた主人公の青年が、シーボルトの著書だという『ファンタズマ・ヤポニカ』をめぐる怪異な事件に巻き込まれるさまを描く。ロンドンに現れる日本の妖怪。ヴァン・ヘルシングの娘、連続する猟奇殺人……。豊饒な物語だ。
木犀あこ「静寂の書籍」。変わった本が好きな老人が蔵書を全て処分するという。親しくしている古本屋が訪問するが、老人の様子がおかしい。蔵書は全て譲るけれど、1冊だけ、人間より遥かに賢いものが記した、人間には読めない「静寂の書籍」だけは渡さないという。それに興味を持った古本屋は執拗に老人に迫るのだが……。SFばかり読んでいるせいか、ちょっと違うものを想像してしまった。
倉阪鬼一郎「蝋燭と砂丘」は俳句形式の小説。額縁屋をやっていた俳人が残した、蝋燭と砂丘をモチーフにした俳句。多行俳句というのだそうだ。短詩のような形式。主人公は気になって俳人の家を訪れてみる。すると……。荒涼としたイメージが心に響く。
間瀬純子「雷のごとく恐ろしきツァーリの製本工房」は16世紀ロシアの歴史秘話。暴君として知られるイヴァン雷帝と、デンマークから来た製本職人の物語だが、結末は恐ろしい。製本職人を宮廷に招いて聖書を印刷させたというのは史実のようだが、美しく謎めいた幻想的なイメージが暴虐な皇帝の闇と交錯し、背筋を凍らせる。
柴田勝家「書骸」。これは強烈な奇想が溢れる傑作。「私の主人の趣味といえば、もっぱら本の剥製を作ることでした」という最初の1文からして痺れる。本の剥製というのはどうやら本を解体し、製本・表装することのようだが、それが実に生々しく官能的に描かれる。ほとんど変態である。しかし、この主人にとって本は生き物であり、そのことがごく自然に感じられる。所々にあるごく現実的でリアルな描写と、本が生き物であるという描写は矛盾なく溶け合い、そしてそんな主人を愛する「私」が何者なのかという読者の興味本位な視点にも、きちんと答えてくれる。人も本も書かれた存在として溶け合い、同じものなのだ。それにしても「剥製」という言葉には強烈な力があるのだなあ。
斜線堂有紀「本の背骨が最後に残る」は残酷な寓話・おとぎ話。『華氏451度』のように紙の本が禁止され、本は人間が暗記して語るものとなったある小国で、異国からの旅人が「本」となった女性と出会う。この国では同じ物語を記憶した本同士がどちらの内容が正しいか対決し、負けた本は生きたまま焼かれるという恐ろしい競技がある。残酷で恐ろしいが、本は嬉々としてそれに挑むのだ。そして「白往き姫」(ほとんど「白雪姫」)の物語について二つの本が対決するのだ。この対決は(紙の本がないので)その正誤についてミステリの謎解きのようにロジックを戦わせるのだ。そして……。なかなか受け容れがたい設定だが、なるほどそんな「白往き姫」もあるかも知れないと思わせる。
坂本司「河原にて」でも本が焼かれる。こちらは現代日本で、河原でいらない本を焼いている男が登場する。子育てに悩んでいた若い母親がそれを見て、彼と話し、そして彼女を悩ませていた育児書を焼く。こうして本を焼くというタブーな行動に現実的な説得力を持たせていくのだが……しんみりとする話だが、最後のダジャレはちょっとよけいだったかも。
真藤順丈「ブックマン――ありえざる奇書の年代記」。中東生まれの祖母をもつ主人公のぼくは、奇書の蒐集家だった叔父の書庫に入り浸っていた。叔父はぼくには祖母や叔父と同じ、「読む」力があるというのだ。そしてぼくは、叔父の遺稿、何者から逃れて日本へ来た祖母の一生を封じこめたという「奇書」を読む。そこに描かれていたものは……。何と古代から続くある異端の教団と、強い能力者である祖母との、強烈な異能バトルの物語だった。この展開にはちょっと驚き、意外性にわくわくした。ホラーではない。超能力伝奇アクション。「読む」というのがそういうことなら、「書く」とはどういうことか。アイデアもストーリーもとても面白かった。
三上延「2020」は太平洋に浮かぶ「本の島」に司書として就職しようとする女性が主人公。この島は全島が図書館のようになっていて、いわば本のテーマパークとして観光客を呼んでいるのだ。この島は、主人公がファンである、ある長大なファンタジー・シリーズの作者の故郷でもあった。作者は亡くなって、そのシリーズは未完のままとなった。今この島を仕切っているのは、作者の息子である。そして彼は、主人公にシリーズの続きを書いて欲しいという。いったいどうやって……。こんな島があればいいなと思えるその描写はすばらしい。そして島にある謎も面白い。でも、それが人気のラノベをという、そのギャップがちょっと愉快だ。
平山夢明「ふじみのちょんぼ」は暴力的だがロマンチックな傑作。非合法な無差別格闘技で相手をぶちのめし、「ふじみのちょんぼ」と呼ばれる主人公。血みどろ描写もあるがむしろコミカル。そこに、施設でいっしょに育ち、彼を「おにいちゃん」と呼ぶ美女が現れる。彼女は彼がこんな仕事をしているのを知り、止めようとするのだが……。彼が不死身なのには理由があった。結末は悲劇的だが、二人の熱量は心に響く。
朝松健「外法経(げほうぎょう)」は、室町時代を舞台に一休和尚の活躍するシリーズの一編。だが今回は一休は直接は出てこず、一休の侍女であり、超常能力をもつ盲目の娘が活躍する。京の都で起こる怪異な事件。侍所(警察庁に相当する役所)の武士、多賀高忠が彼女の助けを借りてその謎に挑む。どうやら相手は異教の怪異らしい。「外法経」と呼ばれる経典がそのもとにあるようだ。室町怪奇ミステリであるが、ちょっと小粒に感じた。やっぱり一休さんには手紙だけじゃなく、本人に出てきて欲しかったな。
澤村伊智「恐(おそれ) またはこわい話の巻末解説」は架空のホラー・アンソロジーの巻末解説の体裁をとった異色の小説。あらすじを解説されているそれぞれの物語がとても面白そうで、実際に読んでみたくなる。と同時に、少しずつ解説者であるアンソロジスト自身についての記述が混ざり、それ自体が一つの怪奇小説となる趣向だ。それを別にしても架空書評というのは面白い。
トリにあるのが北原尚彦「魁星(かいせい)」。亡くなった横田順彌さんと作者、それに実在の人物の名前がそのまま出てきて、古書をめぐる謎めいた物語が展開する。押川春浪の未完の小説をベースに、虚実が混交し、最後にはしっかりとSF的なアイデアが語られる。そういう不思議があってもおかしくないと思わせる話だ。横田さんの追悼小説として読めばより感慨が大きいだろう。
『未来からの脱出』 小林泰三 角川書店
2020年8月に出た本だが、これが現時点で小林さんの最後の長編となる(まだ残っているものがあるかも知れないが)。そして、はっきりとしたSF小説である。
森に囲まれた閉ざされた老人ホームで毎日同じような暮らしを繰り返す老人たち。みんな百歳前後で、この施設に来たときの記憶はない。その一人、サブロウは自分が書いた日記の中に秘密のメッセージを見いだす。それは「ここは監獄だ。逃げるためのヒントはあちこちにある」というものだった。彼は施設の老人の中から仲間を探す。一人は上品で魅力的な老婦人で情報収集担当のエリザ、一人はミスター・スポックのようにとても論理的に思考する戦略担当のドック、もう一人は老婆ながらいつもポケットに半田ごてや工具を忍ばせ何でも分解・組み立てできる技術・メカ担当のミッチだ。このドックとミッチが素敵だ。特にミッチばあさんはカッコいい。彼らは電動車椅子を改造し、謎めいたこの施設から脱出しようとするのだが……。
仲間たちが知恵を絞り工夫する脱獄ミステリのように始まる本書だが、その企ては毎回失敗し、老人たちは施設に連れ戻され、記憶も失われる。しかし、ヒントを暗号のように残すことで、また一から脱出の試みを繰り返すのだ。毎回少しずつ先へ進みながら。このあたりは作者が繰返し取り上げている前向性健忘症テーマの作品と同様である。しかし、そのループから抜け出した時点で、本書の驚くべきSF的真相が明らかとなる。
小林泰三の作品には、定番のSFテーマを独自に語り直すというものがある。『パラレルワールド』では並行宇宙が、そして本書では何とアシモフのロボット工学三原則がメインテーマなのだ。前半からは想像もつかないが、本書はロボットSFであり、そしてAI・ポストヒューマンSFなのである。面白かった。
『地べたを旅立つ 掃除機探偵の推理と冒険』 そえだ信 早川書房
第10回アガサ・クリスティー賞の大賞受賞作。アガサ・クリスティー賞はミステリの賞だが、過去にもSFっぽい作品が選ばれている。本書も奇想天外なSFミステリだ。掃除機ミステリ! 交通事故でロボット掃除機に意識が転移してしまった刑事が、掃除機の体のまま事件を推理したり、DV男に狙われている小学5年生の姪を守ろうと、悪戦苦闘しながらがんばって札幌から小樽まで移動する掃除機ロードノベルなのだ。選評で北川次郎がべた褒めしているが、全くその通りで、とても面白かった。
しかし、このロボット掃除機、掃除機には不要と思われる機能が満載で(マイク、カメラ、WiFi機能になぜかブラウザまで内蔵、ゴミを逆噴射できる機能――上に袋をかぶせてゴミを簡単に取り出せるようにだって!、マジックハンドまで付いている)、ベンチャー企業の社長がほとんど趣味で作ったようなロボットだ。まあそれくらい機能が無いと、転移したところでどうしようもないだろうが。
そもそも人の意識がロボット掃除機に転移してしまうという話なのだから、細かい設定はどうでもいいような気がするが、本書では主人公が掃除機の説明書データを呼び出し(心にふっと図が浮かぶようだ)、色々と試してみるなど、やたらと細かくてそれなりにリアルである。充電をどうするか、段差をどう克服するか、WiFiへどうやってつなぐか、メールをどう作成し、日本語変換をどうするか、などなど、ロボットの機能がオーバースペックすぎて都合が良すぎる点はあるものの、おおむね納得できる。意識がどこに宿り、インタフェースがどうなっているかは謎だが、まあそれはいいだろう。
物語は掃除機となって目覚めた主人公が、部屋の様子を探り、掃除機の持ち主の死体を発見するところから始まる。メール機能を使えるようになって事件の状況を警察の同僚へメールし、ネットニュースから自分が病院で昏睡状態になっていることを知り、一緒に暮らしていた姉の娘、小学生の姪のことが心配になる。姉夫婦の夫はDV男で、事件を起こし、姉と姪は主人公の家に逃れてきたのだ。その後姉は死亡して、今は姪と二人暮らしだった。DV男は姪を拉致しに来るかも知れない。ネットで調べて姪は小樽の叔母のところに引き取られているらしいことがわかる。かくて札幌から小樽まで、ロボット掃除機の危険な一人旅が始まる……。
この旅の様子が面白い。色々な困難にぶつかるが、そのたびに解決して前へと進んでいく。その間にも殺人事件の推理をしたり、老夫婦に助けられたり、児童虐待の現場に遭遇したりと、アクシデントがひっきりなしだ。少々盛りすぎな気もするが、ユーモラスな書きぶりなので、楽しく読み進むことができる。ミステリ的謎解きの要素はあるものの、本書の基本はこのSF的設定のロードノベルである。
面白かったのだが、ここまで万能ではない、もう少し普通のロボット掃除機だったらどうだったろうとか、そもそも何であの部屋の掃除機に憑依してしまったのかとか、つい考えてしまう。まあ転生ものはそこは突っ込まないのがお約束だけど。