内 輪 第364回
大野万紀
新型コロナのせいで昨年は本当に誰にも会えない大変な1年でした。でも、オンラインでの集まりという楽しさを覚えた年でもありました。12月のSFファン交流会もZoomでの開催。12月19日に「SF大会」をテーマに開催されました。今年は3月に福島県郡山でF-CON(昨年からの延期)、8月に高松でSF60と、2回開催される予定なのですね。それぞれの担当者から画像や動画を駆使した詳しい案内がありました。
その中で、武田康廣さんから、1978年に高松であったSFフェスティバル78「セトコン」の話があり、そういえばぼくもKSFAから参加したな、と懐かしく思い出しました。フォルダを探すといくつか当時の写真が見つかり、2次会でそれを画像共有したところ、SF60からプログレスに載せられないかとの話がありました。ほとんど忘れてしまっているのですが、写っている人の許諾が得られれば何か書けるでしょう。とりあえず許諾不要な40年前のぼくの写真を載せておきます(って意味なし)。
78年のセトコンについては、武田さんがここにその思い出を書かれています。そう、いかにもにぎやかなSFファンの集まりでとても楽しかった記憶があります。
そのセトコンの実行委員長が、同志社大学SF研出身の佐々木立さん。学生時代からとても個性的で、関西ファンダムでは有名な方でした。この時は卒業して故郷の高松に帰っておられたのだと思います。ネットで探してみると、その佐々木さんのページがありました。現在は演歌の作曲家をされているのですね。いやあ懐かしい。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『異形コレクションL ダーク・ロマンス』 井上雅彦監修 光文社文庫
復活したオリジナル・アンソロジー・シリーズ〈異形コレクション〉。これが通算49巻となり、15編が収録されている。このシリーズが日本のSFやホラーを含む幻想・ファンタジーの中短篇に果たした役割は大きく、その復活は嬉しい限りだ。今回のテーマはロマンスだが、ダークとあるようになかなかロマンチックというわけにはいかない。
櫛木理宇「夕鶴の里」は演劇の夕鶴をモチーフにしたいわば田舎の因習ホラーで、閉ざされた共同体の中で異形のロマンスが繰り広げられる。
黒木あるじ「ルボワットの匣」バーでの会話から、代々伝わる呪いの匣の話を聞く。しかしその匣の呪いとは、主人公が思っていたものとは違うものだった。物語にはさまれるクラシック音楽がストーリーを盛り上げている。
篠田真由美「黒い面紗(ヴェール)の」はビクトリア時代のロンドンが舞台で、芸術家の卵たちが集まる古い館に、謎めいた黒い面紗の貴婦人が肖像画を描いてほしいと訪れる。描いた画家は記憶を失い、そしてその絵を見た人は……。結末のひと言が効果的に使われている。
澤村伊智「禍(わざわい) または2010年代の恐怖映画」では、まるで映画そのもののような様々な怪異が、恐怖映画を撮影中のスタッフに降りかかってくる。よくあるシチュエーションではあるが、それが本当に怖い。小さな出来事から次第に深まっていく恐怖。そして事件が起こる。何度も読んだことがあるようなホラー作品なのに、作者の筆は冴え渡っている。SNSのような現代的要素も取り込まれていて、とても面白かった。
牧野修「馬鹿な奴から死んでいく」は軽快なアクションで始まる。ビルの隙間で震えていた少女を助けた魔術医の俺は、仲間の少女たちを助けるために古びた屋敷に向かい、少女たちを漢方薬の原料として飼育していた魔女と対決する。捕まってしまい召喚魔法を使うが、出てきたのは可愛いワンコ。そんな物語の結末に現れる荒涼とした黙示録的な光景は……。面白かったけど、これって続きがあるでしょう。続きも読みたいよ。
伴名練「兇帝戦始(きょうていせんし)」。伴名練はSFだけの人じゃない。ホラーもファンタジーも書ける。でもそこにもしっかりとしたSFのテイストがある。彼がホラーを書く場合は、眼前に現れる怪奇や恐怖を描きつつも、その背後にこの世界とは異なる広大な世界観が仄めかされるのだ。モンゴル帝国の始まり、ジンギスカンの誕生の物語であるこの作品では、国々を征服し多くの人を虐殺する残酷な闇がどこから訪れたのかが語られる。そこには義経伝説や、われわれの知っている太古からの物語がからみ、青年のようにも少女のようにも見える妖しい存在が立ち現れる。いやあ堪能しました。
図子慧「ぼくの大事な黒いねこ」はSF。遺伝子操作で知力を高められ、人間の役に立つようにと改造された猫たち。その繁殖と飼育、そしてクライアントへのレンタルを独占的に行っている財団に属する主人公は、チェコの大学に留学中だったが、契約更新トラブル発生のため、レンタルした猫の引き取りに学友をバディにドイツへと向かう。この足の臭い学友とのやりとりがいい。行った先では殺人事件に巻き込まるが、その背後で深まっていくのが改造された猫たちにからむSF的なホラーである。面白かった。
坊木椎哉「ストライガ」。不幸な境遇で育った少女が親切にしてくれた人気者の少女に恋をするが、その恋が異常な執着に変わり、やがて事件へと発展する。しかし相手の少女にも危険な秘密があった。百合小説がホラーへと展開するのだが、これこそまさにダーク・ロマンスだといえるだろう。
荒居蘭「花のかんばせ」は、女を騙し、女に殺され、骨だけになってまた次の循環を繰り返すという、舞台は現代だが、昔の怪談ものを思わせる語りのショートショート。雰囲気がある。
真藤順丈「愛にまつわる三つの掌編」。ショートショート三編のオムニバスである。「血の潮」は東日本大震災にからめたある一族の物語。「サンタクロース・イズ・リアル」は北極圏に実在するサンタクロースを探しに行く話。「恋する影法師」はパントマイムの芸人と広島の少女の哀しいボーイ・ミーツ・ガール。
平山夢明「いつか聴こえなくなる唄」は大地主が支配する、黒人奴隷のいたころのアメリカのような植民惑星が舞台で、そこではゴリラのようだが知性のある使役動物が奴隷労働に従事している。主人公の少年は彼らの子どもと仲良くなり、残酷な支配者の横暴に立ち向かおうとするのだが……。衝撃的な結末が哀しい。
上田早夕里「化石屋少女と夜の影」。この話は傑作。大正時代を思わせるもう一つの日本。海辺の断崖で化石が見つかり、化石を採取しては土産物として売っている化石屋の少女紗奈のところに、帝都から怪しげな男が化石を掘ろうとやってくる。男は一攫千金を狙っているようで、彼女に横暴な態度を示す。そんな紗奈に不思議な女性が話しかける。化石のことをもっと知りたいと願う、紗奈のような子を探していたのだと……。物語にはSF的な要素が加わっていき、科学的な知へのあこがれをもって美しくも魅力的な、瑞々しい結末を迎える。
加門七海「無名指(むめいし)の名前」。自分たちの指を人形に見立てて遊ぶ双子の姉妹。だが年齢が上がっても妹の方は異様なほどに自分の指に執着していく。名前をつけ、性格を与え、主人と奴隷を定める。妹に負い目のある姉は、妹の言うままに、指のドレスを作ってくれるという洋館の女性を訪れるのだが……。おとぎ話のようなロマンティシズムと恐ろしい闇が重なり合う、華やかで暗い(そして重い)ファンタジーである。
菊地秀行「魅惑の民」は、ある意味伴名練の「兇帝戦始」とペアになるかのような、歴史の闇に「なぜ」を語ろうとする物語である。アルファベットの頭文字で表される名前が何なのかは自明だが、ここでも現実的な損得を超えた大虐殺と悲惨がどのような魔のロマンから立ち上がるのか、それが暗く淡々と描かれていく。
ラストを飾るのは井上雅彦「再会」。ファッション系の用語が飛び交い、きらびやかで空疎な酩酊を誘う言葉とグロテスクで怪物的な血肉の言葉が混ざり合い、ハロウィンの夜の昏く魅惑的な恐怖が描かれる。ストーリーはあってないようなものだが、これが監修者の言う「ダーク・ロマンス」なのだろう。
『万博聖戦』 牧野修 ハヤカワ文庫JA
ぶ厚い長編だが、面白くてどんどん読み進めることが出来る。まさに万博世代であるぼくにとって、読み終えた後、色んな思いがわき上がってくる。傑作だ。
1969年、中学生のシトはちょっと変わった級友のサドルと親しくなる。彼らは自分たちが変わっていくこと、大人になっていくこと、社会のルールに従い、もはや子どもっぽい馬鹿騒ぎができなくなることへの不安を抱えている。それが「成長」などではなく、何千年も続く「オトナ人間」によるコドモたちへの精神侵略なのだと彼らは気づく。気づかせてくれたのはあるアニメ番組。そこでは軍服を着た少女将校ガウリーが、時空を超える超弩級巡洋艦〈テレビジョン〉に乗って、オトナ人間の侵略と戦い、コドモたちを救っているのだ。そのガウリーに似ているシトの幼なじみの少女、未明も仲間になる。彼女が加わることで、ガキっぽい中学生たちの関係性に甘酸っぱいものが入り込む。それは後半でも大きな役割を演じることになる。
オトナ人間との決戦の舞台は70年の大阪万博。ガウリーによればオトナ人間たちはそこへ集まる大勢の人たちの精神を一挙に乗っ取ろうと計画しているのだ。三人は大阪へと向かい、万博会場の狂騒の中で激しい戦いが起こる。それは太陽の塔で、そこを占拠した目玉男(そういう事件が本当にあったのだ)の前でクライマックスを迎える。
本書の後半は舞台が2037年へと飛ぶ。2025年の万博は開かれなかった。未曾有の大災害が日本を襲い、ようやく立ち直ったばかりの廃墟の残る大阪に、VRを駆使して新たな万博を開こうというのだ。シトもサドルも再登場するが、見た目も考え方もすでにコドモではない。それぞれの仲間を集め、奇怪で残酷な戦いを繰り広げる。そして超弩級巡洋艦〈テレビジョン〉と美少女将校ガウリーが再び現れ、虚構と現実は区別がなくなり、新たな万博会場での、オトナ人間との最終決戦が始まるのだ……。
読んでいてまず思い起こしたのは、映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』のことだ。ただし、テーマのベクトルは大きく異なる。21世紀の最初の年に公開された『オトナ帝国の逆襲』は、ひと言で言ってしまえば「オトナには懐かしい過去がある。コドモにはそんな過去はないが未来がある」という物語だ。しかし本書にはそんな一方向な時間は存在しない。過去と未来は同等であり(だからオトナとコドモも同等)、世界はカードのような現在の断片を意識が組み合わせ、因果を生み出すことで存在する。この世界観って以前に読んだ『時間は存在しない』と同じじゃないですか。本書は最新の現代物理学を駆使したハードSFでもあったのだ。
それはともかく、本書の後半では『ピーター・パン』のモチーフが大きくクローズアップされる。そういう意味では前半の、主人公たちが(小学生ではなく)中学生という設定はちょっと中途半端だったのかも知れない。いや、だからこそ前半と後半で彼らのアンビバレンツな心が強調され、ウエンディ(に相当する)彼女の重要さが増したのかも知れないのだが。
コドモたちの楽園、ネバーランドはたいがいろくでもないものになる。そこにオトナたちの狂騒も加わって、2037年の万博会場はまさに百鬼夜行の世界だ。正直いって、この万博は本当にとても楽しそう。ぼくも行ってみたいと心から思った。
『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』 竹田人造 ハヤカワ文庫JA1
『ヴィンダウス・エンジン』(十三不塔)と同時に、第8回ハヤカワSFコンテストの優秀賞を受賞した作品。大変面白かった。タイトルはちょっとミスリードな気がするが、未来のAI技術者が陽気な犯罪者と組んで、巨悪から大金をゲットしようとする、近未来テクノスリラーである。語り口はユーモラスでスタイリッシュ、キャラクターはしっかり立っていて、アクションは未来的かつスピード感に溢れている。多くの評者が言うとおり、エンターテインメント性は抜群だ。また本書ではAIに関するかなり本格的な問題意識と議論が描かれているが、よくある安易なシンギュラリティへは向かわず、現実にあるAIの延長線的な方向性で描かれていて(もちろん本当に現実というわけじゃないが)、そこも興味深かった。帯には「サイバー・ギャングSF」とあり、まあそんな雰囲気の作品だ。
主人公の三ノ瀬(みのせ)は先進的なIT企業に勤める若いAI技術者だが、上司と揉めて職場を去り、親の借金の保証人となっていたためにヤクザに捕らわれて、あわやというところを五嶋(ごとう)という凄腕の〈フリーランス犯罪者〉に助けられる。五嶋はヤクザのマネーロンダリングに関わっていて、色々と顔が利くのだ。彼は自動操縦の現金輸送車から大金を奪うため、AI技術者を探していたのだった。こうして三ノ瀬はやむを得ず五嶋のバディとなって大規模なサイバー犯罪に巻き込まれていくことになる。
この五嶋がいい。やたらと陽気でメカには詳しく、映画オタクというキャラクターだ。三ノ瀬との掛け合い漫才のような会話も(フィーリングが合いさえすれば)楽しい。
現金輸送車はある政治家の金と宝石を運ぶもので、政財界の裏面と関わるものであるらしい。そのことは第二部、第三部でより深く明らかになっていく。敵はヤクザなど簡単にコマとして使い捨てる黒幕的な巨悪であり、その配下には暴力のプロや、三ノ瀬とも浅からぬ関係にあり、彼よりも高い技術力をもつ孤高の技術者もいる。
戦いはドローンを駆使し、AIを欺き、その裏をかくといったサイバーなものとなるが、ソーシャルエンジニアリングも重要な要素となっている。それを犯罪者側から描いているのでわかりやすく、面白い。
第一部が現金輸送車の襲撃、第二部がカジノでのマネーロンダリング資金の奪取、第三部が同じカジノでの仇敵との対決となるのだが、第一部、第二部が快調に進むのに対し、第三部はやや息切れがして結末もちょっと歯切れが悪い。とはいえ、このあたりは書き方次第だろう。読んでいてあれっと気になった所が何個所かあるが、ぼくの読み違いなのかも知れない。ただ、途中で唐突に出てくる元上司や同僚との出会いは、本当はもっと含みがあったのだろうと思えるが、ここではちょっと中途半端で違和感が残った。
ディープラーニングやビッグデータからのパターン抽出などを駆使したAIバトルについては、それっぽいリアリティがあり、迫力がある。もっとも読みながら処理性能が、帯域が、帯域がと思ったものだが、それを言うなら昔は電話回線で自意識をもつ人工知能が転送されるような話もあったくらいで(揶揄しているのではなく、とても面白く読んだ)、大した問題ではない。近未来のサイバー・バトルというにはこれくらいのリアリティ・レベルは必須だろう。
巻末の選評を読む。おおむね同感だが、複数の選者が本書の後半で表明されるシンギュラリティ的な強いAIへの否定について、懐疑的な評価をしているのが気になった。ぼくだって人間の理解を超える、おそらくは独自の自意識をもつような人工知能には(SFとして)あこがれるし、ポストヒューマンものも大好きだ。でも本書にそれはそぐわない。別の枠組みであればあり得るだろうが、本書は現実の技術の延長線での物語であり、それだって十分にSF的で想像力を刺激するものとなり得るのだ。藤井太洋のSFなんて、まさにそうじゃないだろうか。「おうむの夢と操り人形」など読めば、シンギュラリティなんかなくても、今の技術の延長線であっても、人と機械の間に魂は宿り得るし、世界は変わり得るということが描かれている。そのどちらも今のSFの多様性、グラディエントの中にあるとぼくは思う。
『ヴィンダウス・エンジン』 十三不塔 ハヤカワ文庫JA
第8回ハヤカワSFコンテストの優秀賞を受賞したもう一冊。作者は日本人だが主人公は韓国人で舞台は未来の中国。確かにアジアンなサイバーパンク(?)SFだ。
主人公の僕、キム・テフンは、ヴィンダウス症という難病にかかっている。人間の脳は動いているものしか認識できない。普通の人は眼球を無意識に細かく振るわすことによって、静止したものでも見ることができるのだが、この病気にかかるとそれが阻害され、止まっているものが見えなくなるのだ。視覚以外の感覚を総動員して見えない動き=変化を感知しようと努力していると、あるとき彼の病状は劇的に改善する。ちゃんと見えるようになったばかりか、世界が圧倒的な情報量で迫ってくるようになったのだ。それはもう一種の超能力だった。
彼の主治医だったこの病気に詳しい中国の医師は、彼を成都に招き、あらゆる環境変化を感知できるようになったヴィンダウス症からの寛解者と、成都をコントロールしている都市機能AIとを接続する実験に協力して欲しいと申し出る。その申し出を受け、ヴィンダウス・エンジンとなって成都で暮らすようになった彼の前に、この地には存在しないことになっていたヴィンダウス症患者たちの組織が現れ、AIたちとの敵味方入り乱れた戦いが始まる……。
厳しい言い方になるが、選評で指摘されているように、アイデアは面白いけれど深掘りされておらず、作中の説明も納得できない。ストーリーの展開にも無理がある。後半の超常バトルは(ありがちではあっても)派手で面白いのだが、それならこんな中途半端に複雑な設定は不要で、超能力者対超AIのスーパーヒーロー・バトルの物語と割り切っても良かっただろう。とにかくせっかくのヴィンダウス症の設定が全く生きておらず、要するに超能力を得るきっかけにすぎなかったとしか思えないのだ。
ぼくとしては意欲は認めるが、もっと読者に突っ込みどころを与えないようSF的に深掘りするか、あるいはそんなことが気にならないように大見得を切るか、そこらが改善されればもっと面白かったのにと思う。後半のスーパーバトルが楽しかっただけに、作者には面白い話を書ける才能があるに違いない。これはそんな作者のデビュー作なのだ。あと一歩がんばって、これからまたすごい話を書いてもらいたいものだ。