続・サンタロガ・バリア  (第218回)
津田文夫


 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 と書いても正月気分もないし、なんかピンとこない年明けですね。大学SF研時代の仲間で、現在スコットランドはエジンバラ在住(奥さんがイギリス人)の宮城氏から元日午後11時過ぎに電子年賀状(ニューイヤーカード)が届いたのだけれど、物理的には何も出してないとのこと。まあしばらく前からそういう時代になっている。イングランドのノリッジ近郊に住んでいる仕事で知り合った20年来の友人は、85歳で夫婦ともども12月に1回目の新型コロナワクチン接種を受けて、今月2回目を受けるそうだ。こちらはお年寄りなので、実体としてのクリスマスカードが届くし、こちらも送る。メールでもやりとりはするのだけれど、気分としてモノがないと物足りないのね。

 と、年明け早々何の話題もなく無理矢理ダジャレを作ったところで、年末に読んだ本の感想に移ろう。

 帯に最新長編と謳われた郝景芳(ハオ・ジンファン)『1984年』は、やはり帯にある「衝撃の自伝体小説(自伝体に強調点あり)」である。って、なんだそりゃであるが、それは読み始めればすぐ分かる。
 物語は語り手が生まれた1984年頃、まもなく語り手を生もうという母、一方工場勤めの父は知り合いから持ちかけられた金儲け話(深圳がらみ)に心を動かされている。という全くの現代中国リアリズム物語が開始されるのだけれど、三人称が常に「父」と「母」で、父母の思いと行動は常に「父は」「母は」とついて回る。そして各章の後半は大学を卒業してどう生きるかが決まらない語り手の自分語りになって、彼女「私」は、中国で母と暮らしたり離れたりしながら、時折外国住まいの(アメリカ、イギリス、東欧などを転々としている)父に会いに行き自らの選択を相談しに行っている。
 父と知り合いの金儲け話と、母の出産とその後の生活を語りながら、「私」はあちらこちらの外国で父を訪ね、さまざまな仕事と経験を重ね、なぜ父が外国暮らしを始める羽目になったか、なぜ母が中国にとどまり続けたのかを語り、そして「私」は自己崩壊の危機を迎えて再生するまでが語られていく。
 こんな話がどうしてSFとして紹介されるのかというと、「父」「母」三人称の手つき、外国にいる「父」と「私」のひととき、そして自己崩壊/再生場面の事づくし/モノづくし手法あたりが、単なるリアリズムを「自伝体小説」として宙に浮かせている上、何度か出てくる「私」の妄想相手が「ウィンストン」であり、最終ページに登場することでこの重みのあるリアリズムを相対化してみせるからだ。しかもこの最終ページの書き方があまりにも軽いので、その効果をも宙に浮かせるという離れ業を見せている。
 郝景芳は原文訳版「折りたたみ北京」に見られるように、SFとしての豪快技に熱狂を持ち込まない作風なので、SFを期待するとちょっと肩すかしを食らうけれど、まあ力作には違いない。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ新刊のサム・J・ミラー『黒魚(くろうお)都市』は、耳新しい作家のちょっと変わった作風の1作。小説が巧いのか下手なのかもよく分からない。原題が“BLACKFISH CITY ”なのでまんまの日本語タイトル、ただしなんでこのタイトルなのかピンとこない。
 海面上昇が進んで世界のほとんどが住めなくなった時代、北極圏にある熱水噴出口上に建てられた洋上都市が舞台。都市の住人は他人種多性別で運営自体はAIだが、社会階層は〈株主〉と呼ばれる超富裕層とそれ以外の貧民層を含む一般住人とに別れている。時代の雰囲気をナイーブに反映するという点では、SFの伝統を継承している舞台設定だ。
 キャラクターは視点人物が4,5人いてそれぞれの短章が繰り返されるほか、〈地図のない街〉というインフォメーションが時々挟まれてこの世界の情報を提供している。
 物語自体は表紙に描かれたオルカとホッキョクグマを連れた女が洋上都市にやってきたという噂からはじまり、そして各視点人物のそれぞれの動きが繰り返されるが、その繋がりはなかなか見えてこない。全体の半分近くになって洋上都市のさまざまな設定が見えてくる頃、冒頭のオルカと結びついた女が具体的なキャラクターとして動き出し、多視点の物語がそれぞれの家族という関係で繋がって、物語は洋上都市に閉じ込められている視点人物たちにとって重要な女性を奪回するという分かりやすい形に整理されていく。
 バチガルピの長編が紹介された頃、その作品が現代的だったという意味で、この作品は現代的でまさに今どきのSFと呼べそうだ。ただこちらの想像力/理解力がないせいか、どうも世界像が薄いように感じられて、SF的拡張家族の物語ばかりが印象に残った。

 第8回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作は、十三不塔『ヴィンダウス・エンジン』から読み始めた。
 驚いたのは舞台が韓国からはじまりヒーローも韓国人だったことで、しかもすぐに中国の成都へと舞台が移って成都での物語が展開していることだった。欧米もしくはそれに近い架空の国が舞台で日本人ではないキャラが主人公のエンターテインメントはこれまでも日本作家が書いてきているが、韓国人ヒーローが中国で中国人およびAI相手に活躍する話は初めて読んだ。
 とはいえ作品それ自体はあまり上出来とはいいがたく、わりと謎めいたネーミングのタイトルの設定自体が説得力がなく、ヒーローの考え方や能力の飛躍も同様にピンとこないので、ちょっと読むのがしんどかった。まあ、巻末の選評で東浩紀が指摘しているとおりと云うことかな。

 同コンテスト優秀賞受賞のもう1作、竹田人造『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』の方は、同時受賞作と打って変わって手慣れたエンターテインメントそのものの犯罪小説。キャラ設定、物語の動かし方とも申し分なく、目くらましのようなコンピュータプログラム/ソフトウエア用語の使い方も上々。まあ読んでいる間はそれほど不満もなく楽しく読ませて貰ったけれど、じゃあこれが読みたいSFかと考えると、全然そんなことはなくて、現代的なコミック・ノワールとしては見事だけれど、なんでSFコンテストなんだという疑問が湧いてくる。メフィスト賞受賞作なら納得かも。それとこのタイトルはもう一工夫欲しかったと思う。どうせ長いタイトルを付けるならもっと説明的でも良かったのでは。

 なんと〈異形コレクション〉がいきなり復活、49冊目と50冊目が月を接して刊行されたのにはビックリ。本編の方は48冊全部買っているけれど、傍流コレクションは買い逃したものもある。もっとも読んだのは10冊足らずだったけれど。
 ということで49冊目の『ダーク・ロマンス』の方を読んでみた。この中では、荒井蘭、櫛木理宇、黒木あるじ、真藤順丈(!)、坊木椎哉が初めて読む作家。
 櫛木理宇「夕鶴の郷」は、視点人物がいかにも今風なキャラだけれど、わりと古風な田舎町因習ホラー。視点人物には因果応報っぽい。『夕鶴』を思わせるタイトルだけれどね。
 黒木あるじ「ルボワットの匣」は、視点人物が飲み屋で見知らぬ老人に呪いの匣を渡される話。匣を渡された視点人物には凄惨な殺人事件がついて回るが・・・、結末で呪いのタイプが明かされてナルホドとなる。これも古典的なホラーと云える。
 篠田真由美「黒い面紗(ヴェール)の」は貧乏画家の卵たちがいる屋敷に、肖像画を描いて欲しいという未亡人が現れ、画家たちが挑戦するが・・・と、これまた古典的な雰囲気のある西洋怪談。
 澤村伊智「禍 または2010年代の恐怖映画」は撮影中のホラー映画の現場で次々と怪事件が発生する、これも古典的な枠組みを持った作品だけれど、ハッシュタグでリアルタイムにつぶやかれているところが現代的。『カメラを止めるな』的なオマージュも感じられる。
 牧野修「馬鹿な奴から死んでいく」は、絶好調オリジナル牧野ホラー。これは全面牧野節でつづられた1作で、読んでいて嬉しい。もっと読みたいぞ。
 伴名練「兇帝戦始」は、なんと義経=ジンギスカン伝説に材を取った悪鬼/精霊物語。話の運びがなめらかすぎて、ちょっとだまされ感が強いなあ。
 図子慧「ぼくの大事な黒いねこ」は、ラヴクラフトの「ウルタールの猫」をエピグラムに使って、なおかつ遺伝子操作猫(?)としての魔猫を亡くなったスイスの顧客から引き取る話。道中主人公に無理矢理運転手として雇わせるドイツ人がいい味を出している。面白い。
 坊木椎哉「ストライガ」は百合・エロ・ホラーとでもいうべき1作。百合の一方が切断系と行くとこまで行っちゃってる。
 荒井蘭「花のかんばせ」はまるで落語みたいなショートショート。座布団1枚。
 真藤順丈「愛にまつわる三つの掌編」は、災害を呼ぶ者と、サンタクロースを信じる者と、原爆で影となった少女との恋というショートショート3編。どれも巧すぎ。
 平山夢明「いつか聴こえなくなる唄」は、編者解説にもあるようにまるで50年代アメリカSFを彷彿とさせる物語が綴られている。金持ち地球人が異星生物を酷使している星で、異星生物の娘と通じた奴隷身分の一家の少年が父や異星生物とともに反乱を起こす・・・、これを最後に一気に突き放してイヤSFに転化させたもの。なんともはや。
 上田早夕里「化石屋少女と夜の影」は読み始めの1ページで、場所の描写、主人公キャラ、悪役キャラが何をしているか、までをサラッと書き上げていて、さすがの技を見せてくれる1作。上田早夕里のSF/ファンタジー的なスタイルが良く出た作品だけれど、盛り込まれた情報量に対して作品が短すぎるように感じられる。タイトルも内容そのものから来ているけれど、やや即物的な感じがするなあ。
 加門七海「無名指の名前」は、指を人形に見立てて遊ぶ双子姉妹の因縁物語。かなり重厚なファンタジー・ホラーになっていて、雰囲気がある。
 巻末編者作品の前にあるのは、常連で定位置の菊地秀行「魅惑の民」。名前のある登場人物はすべてアルファベットで呼ばれているが、読んでしばらくすると彼らは第三帝国の大物たちらしいことが分かる。作中の具体的な話は、地下室に設けられた秘密の見世物小屋で、年端もいかない上半身裸の少年少女がいわゆる「黒い絨毯」上でもがくのを超大物が見物しにくるというものである。なんか沢山のホラーが重なって見える作品である。
 そして編者井上雅彦「再会」は、まるでフラッシュライトが次々と炸裂しているような描写優先の1作。再会/再開の御祝いの花火でもあるのだろう。
 ということで10年以上ぶりに「異形コレクション」を読んでみたけれど、充分満足のいくアンソロジーだった。

 マーガレット・アトウッド『請願』は、いざ読んでみたら非常に読みやすくエンターテインメント的な仕掛けがいっぱいの1作だった。
 物語は、過激なプロテスタント原理派国家「ギレアデ」の未婚女性「小母」組織トップのリディア小母がメインの語り手で、彼女の章は「アルドゥア・ホール手稿」と題されて秘密日記のようなものになっている。そのほかにギレアデで育った少女の視点で書かれた「証人の供述369A」とカナダで育った同年齢の少女の視点で書かれた「証人の供述369B」からなり、それぞれの語りが短い章となって交互につながることで、物語が進行する。
 『侍女の物語』のシリアスさを思うと、このあっけらかんとしたサスペンスと少女たちの冒険は、その本来の主題を読者に呑み込ませるというような圧力を感じさせず、これまで少年たちがやってきた冒険と同じようにエンターテインメントとしてのパワーを感じさせる。それはちょっとポップな翻訳の力も手伝っていると思われる。
 エンターテインメントとしては終盤の少女二人の脱出劇やギレアデ崩壊が性急すぎるような気がするけれど、作者の分身でもあるリディア小母の若い世代へのエールはよく伝わってくる。あとベッカが可哀想。

 赤の地に青の水玉を使った表紙が強烈な酉島伝法『るん(笑)』は、タイトルからまったく内容が分からない1作。帯の惹句が「スピリチュアルと科学が逆転した、心の絆が生み出すユートピア・ニッポン」という日本語の使い方に不安を覚えるようなシロモノだ。
 中身は中編3編からなっている連作長編。いわゆる造語とルビの舞う酉島文体は控えめだけれど、「病ダレ」付の創作漢字がいっぱい出てくる。
 物語の一応の設定は帯裏に書いてあって、収録各編の登場人物たちの関係とシチュエーションが分かるようになっているけれど、もちろん読後にそれを読み返してもこの作品が醸し出している歪な感覚は伝わってこない。
 すでに歪んでしまった世界での各登場人物の思考と行動は作品世界のゆがみそのものを読者に伝えることに成功していて、特に冒頭作の主人公の義母が全身に末期の蟠(わだかま)があって入院するもすぐ退院させられ、蟠りを「るん(笑」と名付ける治療(?)を受ける第2編は、イヤな歪が強力でウニャーっとした気分になる。第3編は少年少女の一団が禁断の山へ入り込み、この世界の前の「黒歴史」の遺物を見つける話で、これが一番読みやすい。
 読みながらそして読み終わって思ったのは、酉島伝法のホラーは牧野修の歪みホラーに近いものを感じさせるなあということだった。まあ牧野修の歪みホラーには強烈な暴力やエロスが入り込むけれど、酉島伝法だとそこら辺がよくわからないので、その点が酉島モードらしいといえるかも知れない。それにしてもこの表紙、目がチカチカするなあ。
  


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