内 輪   第361回

大野万紀


 9月19日はzoomによるSFファン交流会。ゲストは芥川賞を受賞したばかりの高山羽根子さん。初めての書き下ろし長編『暗闇にレンズ』を前に、創元の小浜徹也さん、担当編集者の笠原沙耶香さん、それに大森望さんによるインタビューです。高山さんのバックの本棚には青背がいっぱいですね。
 『レンズ』の着想は5年くらい前からあって、他の短編を書きながら少しずつ書きためていったということです。
 大森さんが、SFでいえば改変歴史もの。『奇術師』を読まずに『魔術師』を書いた小川哲に対して、『隣接界』を読まずに『暗闇にレンズ』を書いた高山羽根子は、すでに円熟期のクリストファー・プリーストの域に達していると発言。「だってプリーストだもん」というとパワーワードが飛び出しました。ナチュラルボーン・プリースト
 また笠原さんからは、本書のSide-Aに関して、実際には無力な女の子たちが一つ武器を持つことによって得られる、シスターフッドの中二的万能感との言葉がありました。高山さんは、シスターフッドの物語として読んでもらってもいいし、横浜の物語として読んでもらってもいいし、朝ドラとしてでもいいし、好きなように読んで欲しい。好き勝手に書かせてもらい、狭める方向ではなく、広げる方向に力を注げたので、書いていて面白かった、とのことでした。
 その他の雑談では、高山さんは大きな動物が苦手で、実は馬が怖いんだそうです。『首里の馬』でも、馬がちっとも可愛く描かれていないと、大森さんが指摘。きらいじゃないけど、馬って人間にいいように使われていて、そこに後ろめたさがあるんです、と高山さん。いろんな動物を飼ってきたけれど、犬が一番好きだそうです。
 もし動物が出てくる短編を書けといわれたら、街の中で人間といっしょに生きていながら、今の約束ごとの中では定義されていない、見たことのないような動物が書きたいとのこと。それって「うどん、キツネつきの」のうどんだったり、「居た場所」のタッタだったりするのでは。
 なお、次回(10月度)のSFファン交流会はやはりオンライン開催で、「本棚」がテーマだそうです。水鏡子はたぶん出られないので、ぼくが出席することになるかも。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『時のきざはし 現代中華SF傑作選』 立原透耶編 新紀元社
 日本に中国語圏のSFを積極的に紹介してきた立原透耶さんの編集による中華SFアンソロジーである。大陸中国だけでなく台湾の作家も収録されている。「中国SF四天王」と称される大家から、中堅・ベテラン作家、期待の新鋭作家まで、17篇が収められている。長くなるが、1つずつの感想を。
 「太陽に別れを告げる日」は、ハードSF作家として著名だという江波(ジアン・ボー)の作品。ハードSFというよりは昔懐かしい感じの素朴なショートショートだ。ホンワカした結末が良い。
 「異域」の 何夕(ホー・シー)は中国SF四天王の一人と呼ばれるベテラン作家。これは面白かった。ある種の怪獣SFでもある。この世界の300億の人口を支える謎めいた西麦農場。そこで何らかの事故が起こり、武装した警察部隊が派遣される。彼らがその「異域」で見たのは天をつくようなトウモロコシであり、人を襲う妖獣だった……。科学技術の自走性と進化論を組み合わせたSF的なアイデアが光っている。
 「鯨座を見た人」 糖匪(タンフェイ)は叙情的な作品。貧しい大道芸人の娘が父が見せてくれた鯨座の惑星の画像(誰もがそれを偽物と断じた)によってその運命を変えられる。結末にはやや予定調和を感じるが、細やかな情感と、彼女の周囲に対するアンビバレンツな心理がていねいに描かれていて読み応えがある。
 「沈黙の音節」 昼温(ジョウ・ウェン)も良かった。初めは顎関節症を病む心を閉ざした孤独な女子大生が、陽気な男子学生と知り合って、彼の母親の言語と発音に関わる研究に参加するようになる、という恋愛SFっぽい話として読めるのだが、それがやがて、幼い頃に亡くなった尊敬していた叔母の死の、隠されていた謎に直面し、とりわけ人間の発する音声に注目した独自の言語SFとしてぞくぞくするような展開を見せる。そしてついには、まさかと思うようなアイデア、あの昔からあるテーマのSF的なひとつの解釈へとつながっていくのだ。さすがにそれは無理だろうとは思うが、面白かった。
 「ハインリヒ・バナールの文学的肖像」 陸秋槎(ルー・チウチャー)は架空歴史小説。といっても歴史そのものはさほど架空ではない。19世紀末に生まれ、ナチスの時代を生きたドイツ文学のダメ作家、ハインリヒ・バナールの評伝という形式である。現在は日本に在住している著者がツイッターで書いていたが、確かに伴名練の架空文学史を思わせる。前半は虚実織り交ぜたウィーンの芸術家たちとのやりとりが描かれて、面白いのだが、あまり飛躍はない。後半で、ナチが勃興してからの彼がトンデモSF作家となって愛国的な(しかし下手くそな)作品を書き続けるところからが、ぼくには現実の第二次大戦前のSFシーンを思わせて興味深かった。
 「勝利のV」 陳楸帆(チェン・チウファン)はショートショートで、オリンピックをVRで開催するというアイデアをそのまま描いたような作品。だが、そこには思わぬ陥穽が潜んでいた……。ただこのオチにはちょっと疑問がある。
 「七重のSHELL」はベテラン作家・王晋康(ワン・ジンカン)の1997年の作品。バーチャルリアリティを扱っているが、今となっては倫理面や国家観を含めてアイデア的にやや古めかしく感じる。ミステリ仕立てで、タイトル通り何重にも重なったVR世界を描いているのだが、夢から覚めたと思ったらまた夢で、というパターンなので、もう少しそれぞれのレイヤーの違いが描かれていれば良かったのにと思う。さすがベテランだけに描写力があり、エンターテイメント性は十分だ。
 「宇宙八景瘋者戯」は台湾のベテラン作家、黄海(ホアン・ハイ)によるドタバタSFということで期待したけど、思ってたんと違う。ユーモアやギャグのセンスということもあるが、それより書きっぷりが何とも古めかしい。ストーリーを中断して物語にそぐわない科学解説がやたらと割り込むのだ。
 「済南の大凧」 梁清散(リアン・チンサン)は歴史改変というか(特に改変はしていないので)もう一つの科学技術史というか、清朝末期の山東省で様々な新発明を行っていたというある技術者の物語である。地味だがリアリティがあって、今は忘れられた発明家の心に迫る傑作だ。19世紀末から20世紀の初めが背景で、日本で言えば明治時代であり、ここには横田順彌の傑作明治SFと同じテイストがある(こちらはもっと大人しいのだが)。現代の研究者がその時代の新聞から彼の存在に気づき、調査を始める。当時それなりに活躍した技術者だがほとんど記録がなく、新聞に載った写真とドイツの技術誌に掲載された論文だけが手がかりとなる。それは人の乗る大凧から始まって、羽ばたき飛行機の開発へと発展し、そして結末では驚くべき発明が行われたことが示唆される(そこがSFだ!)。とても面白かった。
 「プラチナの結婚指輪」の凌晨(リン・チェン)はもともとハードSFが得意なベテラン女性作家とのことだが、この作品は毛色が違っている。中国の田舎に異星人の女性が嫁として嫁いでくる。SF的には色んな疑問がわいてくるが、すぐにそれは気にしなくてもいい話だとわかる。未来の話なのに社会背景は昔の田舎そのまま(その点はフィリピンから嫁をとった今の日本の田舎と同じ)。これは昔話と同様な異種族婚姻譚の形をとった寓話なのだ。異形の嫁にしだいになじんでくる夫や両親の描写がいい。
 「超過出産ゲリラ」 双翅目(シュアンチームー)は短い作品だが、地球にやってきたクラゲのような繁殖力をもつ異星人の生態を描いていて印象的だ。中国の旧暦の大晦日が舞台になっていて、英米のクリスマスストーリーのような雰囲気がある。面白かった。
 「地下鉄の驚くべき変容」韓松(ハン・ソン)は傑作! 不条理なホラーSFで、暗黒の中を延々と止まらなくなった満員の地下鉄に乗り合わせた人々の物語。トマス・ディッシュとか、日本でもよくあるタイプの話で、伴名練に聞けばすぐ似た作品を指摘してくれるかも知れない。それでもこの閉鎖世界での人々の変容や異様な社会形成の不気味なこと、終わらない悪夢のような衝撃的な傑作である。
 「人骨笛」 吴霜(ウー・シュアン)も短い作品だが、タイムトラベルに中国古代のUFO伝説をからめ、壮大な背景を思わせて終わる佳品。ヒロインの想いが叙情的に、幻想的に描かれている。
 「餓塔」の潘海天(パン・ハイティエン)はファンタジーで知られる中堅作家とのこと。宇宙船が墜落し、生き残った人々は砂漠の中を今は無人となった居住地へと向かう。襲ってくる肉食獣。居住地の廃墟には着いたが食糧が尽きた。そこに立つかつての宗教施設だった飢餓の塔。生き残った一人の神父はその塔に登り、瞑想する。救いのない残酷な運命が、ぞっとする皮肉な結末を迎える作品だが、そのダークな哀しみが心に響く。
 「ものがたるロボット」飛氘(フェイダオ)。物語が好きな王様がロボットに物語を語らせる。ある時ロボットは素晴らしい物語を語ったが、その結末が決められず、沈黙してしまう――というショートショート。著者はこのようなSFおとぎ話のロボットシリーズでカルヴィーノにも比されているという。よくあるタイプの話ではあるが、しみじみとしたいい話である。
 「落言」 靚霊(ジン・リン)は所々よくわからないところがある(「飛行船」とか)が、不思議な星の不思議な異星人とのコミュニケーションを描いた作品である。雪原にじっと佇むもの言わぬ異星人、空から振ってくる石。静かで奇妙なイメージが心に残るが、むしろ父と娘の関係性やおもちゃの翻訳機の扱いが印象的だった。
 「時のきざはし」滕野(トン・イエ)では現代の歴史学者が時間を行き来できる階段を見つけ、過去の時代を訪れる。作者は新鋭とのことだが、短いエピソードの中に歴史小説の一場面のような風格がある。ただし、イメージが先行しており、ストーリーラインは単純であまり深みはない。それでもここにはSFの持つ個人を越えた万能感があって、こういうのも好きだ。
 巻末には任冬梅(レン・ドンメイ)の「中国SFは劉慈欣だけではない」という解説は、ややネタバレ気味だが本書の作家と作品を手際よく解説していて、興味深い。他の作品も読んでみたくなる。

『暗闇にレンズ』 高山羽根子 東京創元社
 高山羽根子の書き下ろし長編。芥川賞受賞後の初作品となるが、これははっきりとSFである。そして作者がデビュー当時からずっと描き続けてきている、情報とミーム、ネットワークと関係性、記憶と記録、その断絶と連続性、バックアップと変質についての物語である。『首里の馬』ではそれはアーカイブされる雑多で様々な文書や事物であった。本書ではその中でも情報の媒体としての「映像」に焦点が当てられている。また本書はある活力に溢れる一族についての歴史物語であるが、その一族は遺伝的な血族としての繋がりよりも、現実を情報として切り取り、加工して拡散させる力によって繋がっている。まさにgeneよりmemeなのだ。
 本書はSide-AとSide-Bという二つのパートが並行して語られる構成となっている。
 Side-Aは、近未来の女子高校生二人組が、監視カメラだらけの街の中で、携帯端末のレンズで取り込んだ無数の映像を編集し、ネットにアップしていく話。ただこのパートは短く断片的で、なかなか物語としての像を結ばない。はっきりしてくるのは彼女らの創り出す映像がパワーを持つ後半になってからである。
 Side-Bは、さらに二つに分けられて、一つは活動写真の誕生から現代まで(そしてそれはSide-Aまで繋がっていく)、様々な映像表現に関わっていく(それも主にドキュメンタリーや記録映画の分野で)女性たちの年代記である。開港したばかりの横浜から、パリ、ドイツ、満州、日本、アメリカ、ベトナムと世界を股にかけ、世間的な常識を越えて才能を発揮していくぶっ飛んだ女性たち。このパートが抜群に面白い。現実の歴史とは微妙にずれていく壮大な「偽史」の魅力に溢れており、力強いキャラクターと相まって、とても読み応えがある。このパートだけでも映画やドラマで見たい気がする。
 そしてSide-Bにはもう一つ、より俯瞰的な視点から、映像の持つ人間をコントロールする力、それが兵器として使用されるエピソードのパートがはさまれる。映画や映像が、単なる心理的なプロパガンダとなるだけでなく、実際に物理的な作用を及ぼす兵器となるという、とても信じがたい都市伝説のようなレポートが報告される。だがこの並行世界ではそれが事実なのだろう。こちらも奇想SFのようで面白い。後半ではモロにSF的なガジェットも色々出てきて楽しい。
 最後にSide-AとSide-Bはつながり、百数十年にわたる一族と映像表現の関わり、映像表現と人間社会の関わりが「まるで映画みたい」と語られるのだ。現実を切り取ったはずの映像もまた一つの虚構であり、それはまた「これが、映画だったらなあ」との祈りにつながるのである。

『四畳半タイムマシンブルース』 森見登美彦 角川書店
 上田誠の「サマータイムマシン・ブルース」を原案として、あの京都のボロアパートに住む(森見ファンには)おなじみの四畳半の連中がタイムマシンでせこく時間を越えてドタバタする物語。
 映画版の「サマータイムマシン・ブルース」はだいぶ昔に見たのだが(2005年上映となっているね)、いくつかのシーンが印象に残ってはいるものの、ストーリーは忘れてしまっていた。すごく面白い映画だったのに。
 あっちは田舎の大学のSF研だったが、こっちは例の四畳半のメンバーが主人公。というわけで基本的に同じストーリーであっても、こっちの破壊力はものすごく、やっぱり常識を越えるアホなことをやらかすのはこいつらがピッタリだなと思う。読みながら、ああ映画にもこんなシーンがあったなと色々思いだしてきた。
 さすがはモリミー。とにかく面白い。時間線が入り組んだややこしい話なのに、ほとんど気にならない(でもあからさまなパラドックスが起きないように、うまいこと落とし込んでいるのは――これは原作もそうだが――よく出来ていると思う)。そこにモリミーワールドの色々な話が盛り込まれてくる。明石さんの「もちぐま」のエピソードなど、一応本書でも説明はあるが、これまでの話を読んでいればさらに趣が深まるというものだ。
 しかし何だこの結末は。こんなことでいいのか。それでもダメダメポンコツ学生といえるのか。ドラエモンなのか。まあ仄めかされているだけではあるが、こんなハッピーエンドがあっていいはずはない。たぶんタイムパラドックスのせいだろう。そういうことにしておこう。
 壊れたクーラーのリモコン、無くなったシャンプー、裸踊り、河童のエピソード、穴掘りの好きな犬、そして未来から来た知らないモッサリ男と、改変してしまった過去(それはほんの1日前だけど)をつじつまが合うようにタイムマシンで戻そうとするドタバタ、そういう基本のモチーフは原作と同じなのだが、それがとことんモリミーワールドと溶け合っている。そしてこの四畳半の住人たち、ぼくの学生時代にもこんな連中が確かにいた(誰とは言いませんが)。何十年もたった今でも、時間を越えて連中はきっと存在しているのだろう。
 ところでこういう話を読むと、やっぱり時間ものはこのような昔ながらの、並行宇宙を認めない、確定した一本線な時間線を想定する話がいいなあと思う。どうやってパラドックスを避けるのか、というのが論理パズルのように物語をドライブしていく。それじゃタイムトラベルはあり得ないはずだが、先人たちも(そして著者も)そこはうまく回避している。本書では結末で明石さんがそれをわかりやすく語ってくれる。もっとトリッキーに考えてもいいのだけど、このくらいのふんわりした理解で十分じゃないかと思う。


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