続・サンタロガ・バリア  (第215回)
津田文夫


 ひさしぶりに講師をしてくれということで、土曜日に90分しゃべり、翌日は朝8時半から夕方5時まで大型バスに乗って行く先々であれこれ説明して、次の土曜日にまとめの講座を終えて帰ったらノドが痛い。ま、しゃべりすぎかと思ったが、この際だし、医者に行っておくかと月曜日に仕事を休んで内科に行ったら、医者に3、4日経たないと分からないねえと云われ、痛み止めを貰って帰宅。熱がないので仕事に行ってたが、喉が痛いことには変わりなく、なんとなく気分が優れないまま、ぼやーっと過ごす。本も読めないので、景気づけにリンゴ・スターのオールスター・バンド2001年ライヴ(グレッグ・レイクが参加したヤツ)を聴いていたら、シーラ・Eの「グラマラス・ライフ」でなぜかヘッドバンギングしてしまい、曲が終わっても頭がクラクラしっぱなし。そのままダウンして風呂も入らず一昼夜寝ていてようやく立ち直れた。こりゃ体力消耗だったのだなあと気がついた次第、歳は取りたくないですねえ。そういえば最初の土日が京フェスと重なって、登録はしてたものの覗きに行く気力が無かった。

 一時の国書刊行会並みのSFパワーを見せつつある竹書房から大森望編『ベストSF2020』が出たのは御同慶の至り。創元SF文庫時代の《年刊日本SF傑作選》よりSFプロパーな掲載誌が多いせいか創元SF文庫版より再読率が高い。しかし冒頭の円城塔「歌束」と巻末の飛浩隆「鎭子」が初読だったので、まあ、良かった。あと草野原々「断Φ圧縮」と岸本佐和子「年金生活」も初読だけれど、スケールは大いに違うがどちらもなんじゃこりゃ的ショートストーリーだ。ああ、そういえば片瀬二郎「ミサイルマン」も初読だったけれど、面白かったなあ。ちょっと草上仁と似ているか。
 再読作品はどれも初読の方の印象が強いけれど、石川宗生「恥辱」は、確かに長編版の1エピソードで読むより印象が強いかも。高山羽根子「あざらしが丘」もたいていの彼女の作品よりは具体的な物語になっている点で珍しいかも。そのほか空木春宵、オキシタケヒコ、陸秋槎、草上仁は再読でも楽しく読める(空木作品は愉しいかって、まあ、愉しい)。

 酉島伝法『オクトローグ』は8作の中短編からなる1冊というタイトルか(大森望もそう解説してるし)。
 これが最初の作品集成でこれまでの著作が『皆勤の徒』と『宿借りの星』しかないというのも驚きではある。なんとなく活躍中なイメージがあるのだけれど、よく考えたら最後の書き下ろし作品以外は、アンソロジーで読んだり、年刊日本SF傑作選に入っていたからそう思ってた丈かも。
 ということで書き下ろし以外すべて再読だけれど、時間が経っているせいで大森ベストSF収録の諸作品よりは、ずっと新鮮な読後というか読中感が得られた。「金星の蟲」は初読時よりずっとわかりやすくなった感じで、長い大森解説にも頷ける作品になっていた。すべての収録作にはこれまでの2作同様、著者独特のイラストが付いているのだけれど、「痕の祀り」や「堕天の塔」のようなオマージュ作だと著者イラストを超えて原作品のイメージが彷彿となるところが面白い。SFとしてわかりやすくて面白いのが「ブロッコリ神殿」で、初読の時(《年刊日本SF傑作選》の方)よりも新鮮に感じられた。新鮮と云えば書き下ろしの巻末作品「クリプトプラズム」はなんとあの特殊な漢字/ルビ手法の酉島文体をほとんど取り払ったオーソドックスな現代的プロパーSFで、分かるように書かれた円城塔風スペースオペラみたいだ。

 順調に発刊されている『GENESIS 創元日本SFアンソロジーⅢ されど星は流れる』は、巻末に第11回創元SF短編賞受賞作を入れて計7編を収録。それに池澤春菜と下山吉光の声優対談を加えている。
 集中一の異色作は、なんといっても堀晃「循環」であろう。ここではほぼ作者の経歴をなぞるような仕事と場所について詳細に語られていて、そのリアリティは一種の私小説を彷彿とさせるが、この小説自体への作者の考察はSF作家として自認してきた視点の相対化またはレクイエムとして語られている。ある時期(40年ほど前)大阪近辺にいて堀晃さんの姿を何度か目にした者には胸にくるものがある。たとえこれが全くのフィクションであろうとも。
 宮澤伊織「エレファントな宇宙」は創元SF短編賞受賞作の続編でキャラ小説シリーズみたいになってきた。空木春宵「メタモルフォシスの龍」は相変わらずまとわりつくような作風で、龍と云うよりヌメーッとしたヘビみたいな感触がある。オキシタケヒコも短編賞入賞作の姉妹編で、スミレ・シンシア・ヒルが主役のシリーズの前日譚。大阪弁が相変わらず楽しい。松崎有理「数学ぎらいの女子高生が異世界にきたら危険人物あつかいです」はタイトル通りだけれど、ちゃんと帰ってくるからそこはオーソドックス。宮西建礼のタイトル作は高校の天文部の生徒が主役のまぶしい1作。新SF短編賞受賞作、折輝真透「蒼の上海」は一転していかにも現代風な味付けのスタイル優先な未来SFで、実はあまりノレなかったので、それほどピンとこないのだった。大森望が来年のベストに入れてくれたらその時は面白く思うかも。

 今回は積ん読になりつつあった2冊を読めたのが嬉しい。
 その1冊が松崎有理『イヴの末裔たちの明日 松崎有理短編集』。読んで記憶の新しい短編が2つ入っていたので、ちょっと後回しにしていたら、あっという間に1年が経ってしまった。
 その2編「未来への脱獄」と表題作のうち、前者は今回読み直してもあまり印象は変わらなかったけれども、表題作はそのタイトルとオチとの間に落差があって、そのことに亦も感じ入ってしまい、すでに記憶が薄れていたことに気がついたのだった。
 初読の中編「ひとを惹きつけてやまないもの」は、実在の財宝に絡んだ解けない暗号であるビール暗号と数学的難問であるビール予想を組み合わせて、「19世紀のトレジャーハンター」と「21世紀の数学者」の物語を交互に語って行くもの。これはテーマ的にSF界でも松崎有理にしか書けないエンターテインメントで、初出は「Webミステリー」ということだがSFとして結末を迎えている。まあ、ミステリ側の「19世紀のトレジャーハンター」部分が「21世紀の数学者」SFときちんとかみ合っているのかどうかがよく分からないのが残念だ。
 残り2作は書き下ろしということで、「まごうかたなき」はなにやら中世日本をおもわせる村を舞台に、残酷な童歌の筋に従って、妖怪が村人を殺すので、村に「介錯人」が派遣され、「英雄志願」の村人5人を募集して妖怪退治に出るという基本的な昔話ストーリー。なにしろエピグラムが昔話類型というくらいのシロモノ。これがえらくブラックな話で、時々作者が書いてみせる松崎有理/黒みたいなオチがついている。
 巻末の書き下ろしのもう1作「箱船の座席」は、滅びつつある地上を脱出した数人の超セレブ老人たちが住む軌道ステーションにたどり着いた娘が、彼女の「足長おじさん」的老人に地上からステーションに呼び寄せられたところからはじまる。まあ、貞操の危機というよくある話だけれど、この作者としてはちょっとフェミニズム的ではあるし、ステーションに以前からいるプロの女性たちの飄々としたキャラも面白い。

 積ん読なりかけのもう1冊が、小野美由紀『ピュア』。これも中短編集。どうもカゲキなフェミニズム系作品集らしいということで、ちょっと放っておいたけれど、読んでみた。
 ぜんぶで5編収録。表題作は女性が軌道ステーションに住み、妊娠するために地上に住む男を食べるという設定で、男は普通の肉体を持っているが女は一種の強化人間みたいになっていて体に鱗がある。なんとなく永井豪の漫画を思い出すが、それはあくまで設定であって、ヒロインは結果的にその世界の反逆者となる。SFとしてというかエンターテインメントとしての骨格はオーソドックスで、フェミニズムよりはフツーにエンターテインメントSFとして読める。巻末の「エイジ」がこの作品の前日譚になっているところも楽しい。「バースデー」は、これこそピュアなお話で、お互い好きすぎてどうしようもない女子たちの片割れがした決断が肝になっている。別に読みたいというタイプの物語ではないが、読めばその嬉し恥ずかしな感覚は伝わってくる。「To the Moon」は、性的児童虐待を受けた経験を持つ不幸な魂をかかえた女性が、学生時代親友だった月人の女性に再会してその魂を月に持って行ってもらう、痛ましいかぐや姫バリエーションだ。「幻胎」は、人工子宮で同時に十数人の特殊な受精卵を育てることを承諾した女性の物語。前半はほぼオーソドックスなSFだけれど、結末はちょっと変わっている。
 全体としてはわりとオーソドックスなSF短編集ではないでしょうか。

 こちらは翻訳物の短編集で、フレドリック・ブラウン『フレドリック・ブラウンSF短編全集3 最後の火星人』。4巻本の3巻目で、有名な作品と未訳作品が入り交じっているけれど、マック・レナルズとの共作が6作うち4作が本邦初訳ということで、なかなか嬉しい1冊。まあ古典的名作群は中学生の時に読んだ新鮮さがよみがえることは希だけれど、面白くは読める。何より感動的なのはフレドリック・ブラウンの反戦魂だろう。 
 あと気になるのは、フレドリック・ブラウンのSF短編全集なのに牧真司さんが超真面目な解説・解題を書いておられるのに違和感を覚える。それに今回は全作が安原和見氏の新訳ということで、ちょっとやりにくいのかもしれないけれど、折角なので、各短編の邦訳史みたいなページがあったら良かったなあとも思う。

 翻訳物で今回取り上げた唯一の長編がガレス・L・パウエル『ウォーシップ・ガール』。英国SF協会書受賞作。って、原題とまったく違うカタカナ・タイトルといい、表紙の少女といい、帯の「ぼくはミサイルの姿をした十四歳の少女だった。」というセリフといい、あの『コラプシウム』を上回る騙りっぷりだなあ。
 今回は船のAIを入れて5人ぐらいのキャラの視点で、短章がクルクル入れ替わる構成で、確かに船のAI(船名が《トラブル・ドッグ》で一人称「ぼく」)も主役級キャラ扱いだが、本来は女性船長サリーちゃんの物語でしょう。
 それはともかくAI以外のキャラクターが、みんな陰性のキャラで、特にサリーちゃんがいつもくよくよしてるだけに、元気溌剌「ぼくッ娘」14歳少女AIが唯一明るいキャラとして作品を救っていることは間違いないか。
 読み始めてしばらくは、船長のうつむき思考/志向がちょっと鬱陶しくて、あの元気なおサルさんの物語の作者の作品とは思えなかったけれど、視点キャラの一人である船の機関士が吾妻ひでおのキャラを彷彿とさせて可笑しいので、元気AIと合わせてエンターテインメントとしてバランスがとれているようだ。とても続編が作れるように見えないAIのスーパーぶりだったけれど、訳者解説によると三部作らしく、サリーちゃんは益々悩むとのこと。それなら続きは可能だね。へこみキャラ、サリーちゃんのその後はいかにって、続編が出たら読みます。

 ふたたび日本のSF短編集に戻って、柴田勝家『アメリカン・ブッダ』は6作を収めた短編集。うち3作が再読。
 冒頭の「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」は、再読だけれど今回読んでようやくその面白さが分かった。やっぱり自家薬籠中のテクニックをうまく使えた作品がよくできていると云うことだね。「鏡意識譚」も再読で、こちらも今回のほうが読後感が良い。この率直なロマンティシズム。「邪義の壁」は初読。田舎の実家で子供の頃壁を拝まされたなあという記憶の持ち主がついに実家の取り壊しにかかると、壁から出たのは遙か昔の骨・・・。典型的な怪談だけれど、読み進めていくうちにだんだん落語になって行くという変格もの。「一八九七年:龍動幕の内」はロンドン在住時の南方熊楠が孫文と友達づきあいをしていて、ハイドパークの謎の天使出現事件を解決するというもの。当時イギリスには日本海軍関係者が多く滞在していたが、その点も含めてよくできてる。「検疫官」は再読。物語を摂取した入国者を取り締まる空港の検疫官を主人公に、入国しようとした親が物語中毒だった少年を空港に留置させてるうちに・・・、という形式的にはオーソドックスだけれど物語運びは『華氏451』を思わせる1作。巻末の表題作は書き下ろし。アメリカ合衆国の国民の多くが現実のアメリカを嫌って電脳世界で暮らしている時代、現実のアメリカでブッダの教えを説くインディアンに電脳世界の住人が興味を持ちはじめ・・・というおそらく柴田勝家ぐらいしか思いつけないアイデアの話。お見事と云って良いでしょう。
 池澤春菜が解説を書いているのだけれど、大学の先輩風を吹かしながら、作者を持ち上げているのが面白い。当方も『ヒト夜の永い夢』で作者を見直したので、この解説には同意です。

 山田正紀『デス・レター』は第1話だけが雑誌掲載昨で、あとの5作は書き下ろしという変則的な成り立ちの連作短編集。普通は連載するものじゃないのかなあ。
 設定は、死を予告する手紙を書く少女がいて、「オマエの大切な人(ラヴ)が死ぬ」と書かれたその手紙を受け取ったものは、何らかの意味で「大切な人」を失うことになるのだが、その受取人に死神がインタビューするという形で最終話以外の各短編が成り立っている。って、えらいケッタイな物語づくりなように聞こえるが、まったくケッタイである。なにしろタイトルの由来が、アメリカの昔のブルースの名手サン・ハウスの曲「デス・レター・ブルース」を90年代から00年代に大活躍した黒人女性ジャズ・ヴォーカリストのカッサンドラ・ウィルソンのカバーで知った、などという話ではじまるのだから(ちなみに以前書いたけれど、モンキーズの「恋の最終列車」のカッサンドラ・ウィルソン版カバーは素晴らしい)。
 で、語り手は基本的に死神で、これがフリーのエージェントみたいな性格の職業になっていて、上司はエリート美人のお姉様とくる。そして死ねないはずの死神仲間が、死を予告する少女に恋するあまり死んでしまった、一体どうやってだ、とか、山田正紀のやりたい放題で作者が十分に楽しんで書いていることが伝わってくる。最終話までのデス・レター受取人エピソードの各短編は、ケッタイと云えばケッタイだけれどその点を入れても、フツーに読める。そして最終話、これが帯にある「破格の想像力が炸裂する」と豪語する物語になっているわけだけれど、それだけのものかどうかは読み手による。ま、ようやるわという感想は、多くのロートルSFファンが抱く感想であると思われる。

 今回取り上げる連作短編集2冊目は菅浩江『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』。タイトル通り、ベートーヴェンの第9交響曲第4楽章の合唱で盛大に幕を閉じる完結編・・・だよね。
 今回も博物館苑惑星〈アフロディーテ〉の〈VWA/権限を持った自警団〉員の新米男子兵藤健をメインの視点人物に据えたちょっとミステリな短編が続く。
 冒頭の「一寸の虫にも」は異常に美しいニジタマムシが逃げ出して、放っておくと大変なことになるという軽いドタバタ劇。ちゃんとプロローグになっているところがウマい。
 2作目「にせもの」は世界的美術犯罪組織アート・スタイラーの導入編。この「アート・スタイラー」との対決が今回の連作の大きなテーマになっているが、3作目「笑顔の写真」と4作目「笑顔のゆくえ(承前)」は、笑顔作品を得意とするカメラマンが、笑顔を失って取り戻すまでを中編に仕立てたものだけれど、ここには表だって「アート・スタイラー」は出てこない。5作目「遙かな花」は、人工的な生物を隔離・保護する〈アフロディーテ〉の離れ島キプロス島とその海域が予算不足のため、パトロンになってくれた製薬会社社長を招いたところ、このパトロンを待ち伏せしていた不審な若者がいて、実は若者の父親が植物学者で製薬会社の社長とは親友だったはずなのに、裏切られ失意のうちに死んだと思い込んでいた。プロット的にはよくある話だけれど、健たちの活動によって2人は和解し、いよいよ「アート・スタイラー」との全面対決へとむかう。それが大団円の表題作で、他の作品よりやや長めな1作となっている。最後は文字通り歓喜の歌があふれかえるので、壮麗なシーンが浮かんでくる。まあ、オーバーシュートな感じもあるが、心地よく読み終えられる。
 作品の面白さとは別に、ここでも健はAIの相棒である情動学習型データーベース〈ダイク/ディケー/正義の神〉と直接脳内でつながっているんだが、そのタイプの通り、健はAIに助けられるとともにAIを教育していく。多くのSFにおいてキャラとしてのAIはAIとしてのパワーを除けばただのキャラクターとして登場するようになっている。その近いご先祖は『月は無慈悲な夜の女王』のマイクだろうし、〈敵は海賊〉シリーズのラジェンドラなのかもしれないが、しかしチェス、将棋、囲碁で見せたディープラーニングAIの見せた不気味さは、SFで使われるキャラ的な部分などは片手間に人間に見せているだけで、それ以外の部分でブラック・ボックスとして生じている何かの方が、よりSF的なAIなんじゃないのかと思った。まあ、それは想像できないからブラック・ボックスなんだけど。

 今回読んだ最後の短編集は、日下三蔵編・草上仁『キスギショウジ氏の生活と意見』。また竹書房である。
 編者は、1988年から91年という短い間に『SFアドベンチャー』誌と『野性時代』誌に発表された、これまで単行本になっていない草上仁の短編18篇を集めてきている。編者によるとアドベンチャー掲載作は8作全部掲載したが、野性時代のはまだ他に4作あるとのことで、この時期の草上仁のエネルギッシュな活躍がよく分かる。おまけに依頼もしてないのに新作1編が送られてきたので掲載作としたなどと、還暦を迎えてふたたび激しい活動期に入ったらしい作者の復活ぶりを伺わせている。
 ところが、作者あとがきで草上仁は、30年前の作品なので古くなった日常描写は割り引いて読んでくれたら嬉しいなどと自虐的なコメントを寄せている。
 パワフルに書かれた30年前の短編はいま読んでもパワフルであるということを作品の方が主張しているので、そこまで卑下することはないのじゃないでしょうか(そりゃ必ずしも全部の短編が、とはいえないけれど)。
 竹書房のSF文庫でもう一つ感心するのは表紙のデザインがよくできていることだなあ。この表紙イラストは内容の良さをとても上手く反映しているといえる。

 ああ、またノンフィクションのことまで手が回らなかった。


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