内 輪   第360回

大野万紀


 8月22日のSFファン交流会(Zoomで実施)に参加。今回は酉島伝法さんがゲストで、新刊『オクトローグ』の話題を中心に、牧眞司さんやイラストレーターの星野勝之さんとの対談がありました。
 あの独特の造語をどうやって作っているのかとか、関西人が東京に行くと関西弁がきつくなるように、文芸誌から依頼があると作品にSF味が強くなるとか、そんな話が興味深かったです。星野さんとのイラスト対談では、以前に京フェスで見せてもらった会社員時代のイラストがまた出てきました。今とはずいぶん違うタッチです。それまでカラーだったのがフリッツ・ラングの「メトロポリス」を見てからモノクロに変わり、今のようなタッチになったとのこと
 9月のゲストはが高山羽根子さんなので、また参加しなくては。9月19日だから、京フェスと同じ日ですね。京フェスも初めてのオンライン開催ということで、どうなるのか楽しみです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『三体 II 黒暗森林』 劉慈欣 早川書房
 『三体』の続編。「暗黒森林」じゃなくて「黒暗森林」だからね。
 450年後に三体人の宇宙艦隊が人類を滅ぼそうとして地球に到達することがわかった。しかしそんな先の危機に、人類はどのように対応しようというのか。
 しかも「智子(ソフォン)」という現代物理を越えた目に見えないとんでもない存在(量子化されたスーパー・コンピューター?)が、人類の基礎物理学の発展を阻止しており、さらに人類のあらゆる文書、通信、会話、いわば言語によってコード化されたコミュニケーションのすべてを傍受して、量子もつれによってリアルタイムに三体人へ通知しているのだ(この前提条件はぼくにはなかなか納得できないが、もちろんSFガジェットとしてはアリである)。
 もうひとつおまけに、前作で大きな力を示した三体人を崇拝する(そして智子を通じて三体人の指示を受けている)人類の組織、地球三体協会(ETO)の残党が、隠れた活動を続けているのだ。
 本書は数百年後の未来にまでわたる人類の対策と活動を描き、宇宙における文明のあり方までを思索する「大きなSF」である。同時にエンタメ要素満載のぶっ飛んだSF(バカSFといってもいい)であり、守る方と攻める方が互いに知力をつくすコン・ゲームSFでもある。そして大きな危機にあたっての社会の変化や意思決定のあり方をめぐる社会SFとしての側面もある。
 とても面白かった(特に下巻)のだが、現代のSFとしては正直納得できないところも多々あった。それでもアップダウンするストーリーに翻弄されつつ、いくつもの驚きと興奮をもって読み終わることができた。確かにエンターテインメントの傑作である。
 以下のレビューにはネタバレと独自解釈を含みます。要注意!
 冒頭の、蟻の視点で描かれる本書の主人公、羅輯(ルオ・ジー)と、前作の重要人物、葉文潔(イエ・ウェンジエ)の会話がすばらしい。後でわかるが、ここで「大きなSF」としての本書のメインテーマが語られていたのだ。そして墓石に掘られた文字の中を動く蟻にとってのトポロジー的な世界の描写がとてもいい。
 上巻は、この羅輯(ルオ・ジー)と他3人の「面壁者」の物語が中心となる。智子によって人類のコミュニケーションは三体人に筒抜けとなるが、唯一、外に出さない人間の頭の中の思考は例外となる。三体人は思考が即外部に発信されるため、ウソ、陰謀、計略といった人間の特質が理解できないのだ。
 このため、国連の惑星防衛理事会(PDC)は4人の「面壁者」(達磨大師が壁に向かって9年座禅を続けた故事にならっての言葉だ)を選抜し、絶大な権力をゆだねる。彼らは真の策略を心の中に秘めたまま、三体艦隊への防衛戦略を立案していく。三体側もそれに対し、面壁者の真の計略を暴こうとETOから「破壁人」を選んで彼らに向かわせる。人類の運命を賭けた騙すか見破るかのコン・ゲームが始まったのだ。
 いや、面白いんだけど、このアイデアもちょっとぶっ飛びすぎて素直に納得はできない。他に方法はないのか、選抜の基準は何か、どうやってその成否を判断できるのか(最終的には敵と遭遇する最後の最後にならないと原理的にわからないはずでは)などと、疑問が浮かんでくる。しかしそんな疑問はすぐに忘れてしまうほど物語はどんどん進んで行き、「破壁人」たちがまるで犯人を告げる名探偵のようにかっこよく「面壁者」の秘められた策略を暴露していくのだ。
 他の「面壁者」のような(元国防長官とか元大統領とか元欧州委員会委員長とか)肩書きも実績ももたない羅輯(ルオ・ジー)もなぜか「面壁者」に選ばれていた。本人もびっくり。しかも三体人は彼こそが本命の最も危険な「面壁者」だと想定しているようで、執拗に狙われることになる。そこで登場するのが前作でも大活躍の史強(シー・チアン)だ。羅輯(ルオ・ジー)の警護者として、前作に勝るとも劣らない大活躍をしてくれる。
 一見ぼんくらに見えて実はすごい、というのは本書でも言及されている『銀英伝』のヤン・ウエンリーか、大石内蔵助かと思うが、読んでいると羅くん、本当にぐうたらなのだ。建設的なことは何もせず、まずは「理想の恋人」を求めて、どこか田舎の「エデンの園」でのんびり暮らそうとする。事前に聞いてはいたが、この「理想の恋人」とその暮らしというのがまったく昭和のオタクっぽくって、かなりげんなりする。とはいえ、昔の小説にはよくあったパターンで、例えば平井和正のアニマとか、作者が尊敬するという小松左京でもこういう女性はよく出てきたものだ。ただそんな場合でもうっすらと裏が見えていたと思うが、この彼女には裏面もなく、きっと脳内彼女だろうと思っていたら、それも違っていた。とはいえ、最後まで読んでから考えると、これってコードウェイナー・スミスの「ナンシー」じゃないかと思えてきた。現実か仮想かはともかく、このひどい世界と使命の中で、彼にとってはなくてはならない心の拠り所。彼女が(本当にいたとして)不幸でなければ良いなと思う。
 そして下巻に入り、羅輯(ルオ・ジー)もようやくその戦略「呪文」を動かし始め、二百年の人工冬眠から目覚める。もう一人の主人公ともいえる、中国海軍の政治委員から宇宙軍の要職についた、鉄の意志をもつ男、章北海(ジャン・ベイハイ)も同じく冬眠から目覚める。二百年後の世界は、物理学の発展が阻害されているせいで巨大なブレイクスルーこそなかったが、技術的にはすばらしく発展した世界だった。巨大な人類の宇宙艦隊が完成し、それぞれが国家として機能していた。三体人の宇宙艦隊が来るのはまだ先だが、そこから先行して飛び出した小さな探査機(?)がまもなく太陽系に到達しようとしていた。
 この後物語は宇宙へ出て、地球艦隊と三体人の探査機(水滴と呼ばれる)の想像を絶する遭遇戦が描かれる。二百年の技術的進歩に慢心した人類の2千隻の艦隊は、その小さなたった1機の水滴によって完膚なきまでに壊滅するのだが、その描写のすさまじさときたら。いや、想像を絶すると書いたけど、本当のところ既視感がある。この戦闘って、昔のインベーダー・ゲームそのものじゃないですか。
 一方、章北海(ジャン・ベイハイ)の率いる艦は思いがけない行動を取り、それがさらなる悲劇を呼ぶことになる。
 ここでタイトルである「黒暗森林」の意味が明らかとなる。宇宙は知的生命にとって暗黒の森であり、彼らは互いに見つからないようひっそりと隠れて過ごす。そしてもし相手を見つけたなら、それがどんな相手でもただちに滅ぼそうとする。そうしなければいずれ滅ぼされることになるから。それが上巻の冒頭で述べられた宇宙社会学の原理から導き出される必然なのだと。
 これはフェルミのパラドックスのとても単純な解であり、なるほどとそれなりに納得のいくものではある。この解自体――みんな聞き耳は立てているがリスクを怖れて誰も送信はしない――は昔からあるものだ。でも作者はそれをSFのストーリーにしっかりと組み込んでいる。
 だけど本当にそうなのか、もう少し考えてみたくなる。宇宙文明の原理としては『天冥の標』の〈覇権戦略〉が思い浮かぶ。だがこれは宇宙の普遍の原理ではなく、〈覇権戦略〉に対抗するため協力し同盟する種族たちも出てくる。ゲーム理論でも、例えば囚人のジレンマに対して全体最適を考えると利他的行動が効果を及ぼすように、協力や思いやりが有効となる戦略解もあり得る。本書ではコミュニケーションの可能な人間同士でなければそれが成り立たないとしているが、結末を見れば「愛」が明らかな成果を現しているのだ。敵対する複数の勢力が協力関係を打ち立てたとき、それは一つに融合した「帝国」となって、黒暗森林の中でも〈覇権戦略〉を(あるいはその対抗戦略を)推し進めることができるのではないだろうか。
 そして本書では、まだ見えない第三の勢力の存在が明らかとなった。人類、三体人、そして第三勢力と、いよいよこれから本当の「三体」問題が始まるような気がする。第三部が待ち遠しい。

『日本SFの臨界点[恋愛編]死んだ恋人からの手紙』 伴名練編 ハヤカワ文庫JA
 伴名練が編む日本SFの埋もれた傑作を集めたアンソロジーである。原則として個人短編集に未収録で容易には読めない作品、9編が収録されている。「恋愛編」とあるが、恋愛というより家族愛がテーマの作品もあり、これはむしろ人と人との(恋愛っぽい感情的な)関係性をテーマにした作品集といって良いだろう。
 中井紀夫「死んだ恋人からの手紙」。遠い宇宙の戦場にいる彼から、地球にいる恋人へ届く何通もの手紙。亜空間を経由するため、その届く順番は時系列ではない。途中で彼が戦死したことがわかるが、その後も彼からの手紙は続く。戦地と内地に別れ別れで会うことの出来ない恋人たちの切ない物語だが、それよりむしろ途中に挿入される異星人の言語論が印象に残った。
 藤田雅矢「奇跡の石」は、東欧の小国に超能力者たちの町があるという話で、初めは共感覚がテーマかと思っていたら、それどころではないガチの超能力が描かれていて、とても昔懐かしい感じのするSFだった。様々な感覚を閉じ込めた「奇跡の石」のイメージがとても美しい。主人公と超能力者の少女の関係は恋愛というよりもっとほのかな感じで、それが好ましい。悲しい物語だが、悲劇に終わらないところもいい。
 和田毅「生まれくる者、死にゆく者」。選者がばらしているが、和田毅は草上仁の別名である。まずはアイデアが秀逸。生まれてくるときは次第に姿がはっきりしてきて、5歳くらいでようやく誕生となる。死んでゆく者は逆にだんだんと消えている時間が長くなり、しまいに消滅する。そんな世界での一家の普通の日常が描かれる。ちょうど死んでゆく途中のおじいちゃんと生まれてくる孫が互いに出会える確率は低いが、二人をぜひ合わせてやりたいと思う家族の気持ち。ありえない世界の日常なのに、その気持ちはそのまま通じるものだ。恋愛ではなく家族愛を描いた作品。
 大樹連司「劇画・セカイ系」。これは正真正銘の恋愛SF。セカイ系の世界(ここでは中学生の少女が世界を救うために宇宙の敵と戦う)において、そんな少女を見送った中学生の少年は、大人になって売れないラノベ作家となり、たまたま知り合った年上の女性と同棲している。そこに宇宙からあの少女が(中学生の姿のまま)帰ってくる。ただの痛い話になりそうなところを、現実の大人の生活をベースに描くことで、主人公の切なさ、やるせなさが強く心に響く作品となっている。とても面白かった。傑作だ。作者ってあの前島賢だったのか。ラノベはあまり読まないので知らなかった。
 高野史緖「G線上のアリア」は、著者が得意な、過去の時代にこんなテクノロジーがあったらという、スチームパンクじゃないけどそんな雰囲気も味わえる作品で、ここでは18世紀初め、バッハの時代に電話網のインフラがあるという世界が描かれている。主人公はヨーロッパ随一の美声をもつカストラートの歌手。彼は恋人とともに宮廷をめぐっている。バロック時代の宮廷の雰囲気や恋愛要素も描かれてはいるが、電話網のインフラがどのように生まれ、発展したかという世界構築にとりわけ力が入っている。音声を伝えるただの電話機そのものではなく、そのシステムが描かれ、それはほとんどインターネットと同じイメージであって、ハッカーもいればクラッカーもいるのだ。
 扇智史「アトラクタの奏でる音楽」もぼくの好きな作品。ARが当たり前になった少し未来の京都での、ストリートミュージシャンと情報工学を研究する学生という、若い二人の女性の幸せな青春物語。編者は百合SFという側面を強調しているが、それも確かにそうだけど、むしろ今あるARの技術がもっと進んで日常的になったというイメージの、とてもリアルな描写(オブジェクトの操作などの、今のスマホ操作を3Dにしたような何気なさ)が印象的な作品である。舞台がなぜ京都なのかは謎だが(登場人物はみな標準語を話す)、よく知っている場所が背景となっているのは嬉しい。ログという言葉にちょっと違和感があったが(アクセスログかと思ったので)、ここではARのコンテンツオブジェクトそのものを差しているのね。
 小田雅久仁「人生、信号待ち」の、長い長い信号待ちの間に同じマンションに住む女性とふと話をして、というごく日常的なシチュエーションから始まり、何でこうなるのかというとんでもない世界に至る、想像の一つ上を行く物語も、そのとんでもなさをあっさりと納得させるコミカルな語り口のうまさでもって読ませてくれる傑作である。設定には何の説明もなく、とうていあり得ないものなのに、お話そのものは最初から最後までごく普通の日常的な家族の物語なのだ。うまいなあ。アイデア自体は昔のショートショートにもありそうなものだが、その謎のはぐらかし方がすごくうまいのだ。
 円城塔「ムーンシャイン」は、以前に読んだ時も思ったが、ほとんど小説として読まれることを拒絶しながら(特に前半)、それがまた無性に面白いという奇っ怪な作品である。数学的構造のような抽象概念を直観的にとらえ、それに萌えることができるという人のみが(たぶん)この作品を理解できるのだろう。でもこの作品を「理解」なんてする必要がどこにあるのか。作中の少女が見る巨大数のシュールで幻想的なイメージだけで十分だ。共感覚でもって数(やその構造)を人や風景として見ることのできる少女がいて、彼女の中では数学的構造が多重化されてそのままに息づいている。その多重構造のうち、双子素数で表されるある構造が、擬人化された万能チューリングマシンを構成していて、コンピュータとして他者とコミュニケートできる、というのが本作のベースラインである。イーガンの「ワンの絨毯」みたいな、といってもいいだろうか。数学的構造をまるまる取り込んだまま、感情や感覚を備え、生命をもつこの少女こそが、ゲーデルの不完全性定理を越えた存在、単なるコンピュータを越えた存在となるのである。その宇宙の中で、少女は双子素数(にエンコードされた少年)と会話し、彼と別れて未知の宇宙へ旅立つ。それが恋愛なのかどうかはわからないが、結末のイメージはぞくぞくするほど美しい。
 新城カズマ「月を買った御婦人」はアメリカ合衆国が滅びていて、ナポレオン3世や西欧列強の皇帝たちによる帝国が世界を支配しているという改変歴史の19世紀が舞台の、改変宇宙開発もの。改変科学技術史ものともいえる。また編者が言うように、竹取物語を思わせる無茶ぶりな結婚条件テーマでもある。強大なメキシコ帝国(たぶん北アメリカの半分くらい支配している)の公爵令嬢が、求婚者たちに「月」を要求する。かくて、ジュール・ベルヌ風の大砲による月旅行を目ざした、グロテスクでスチームパンク的な技術開発が始まるのだが……。いかにも大時代な語り口といい、貴族社会の雰囲気があって面白く読めるのだが、その描き出す未来世界――有色人種が奴隷化され、計算機として使われ、列強の貴族たちが好き勝手に戦争を起こすといった――おぞましくグロテスクな世界観が印象に残る作品である。結末の、あり得たはずのもう一つの歴史との対比も興味深い。
 伴名練の編集後記は、これから日本SFを読んでみたいという読者向け(とは限らないが)のアンソロジーガイドPart1となっている。こういうのって、ずっと昔にぼくらがファンジンでやっていたことの再現みたいで、嬉しくなってしまう。このような熱気のある総括的な記事は久しぶりに読むような気がする。もちろん大森望や日下三蔵の年刊傑作選での総括はあったけれど、何というか、若々しさが溢れていて(若干気恥ずかしくなるほどだ)好ましい。これだけ調べるのも大変だったろうな。ただし、様々な立場を考慮するからか、やや言い訳的な発言も見られるようで、そこは気になる。

『日本SFの臨界点[怪奇編]ちまみれ家族』 伴名練編 ハヤカワ文庫JA
 伴名練が編む、埋もれた日本SFの傑作短編を集めたアンソロジー。原則として個人短編集に未収録で容易には読めない作品、11編が収録されている。「恋愛編」同様、「怪奇編」とついてはいるが、ホラーSFという範疇には含まれない作品が多く含まれている。「序」で編者が言うとおり、怖さよりもグロテスク、幻想味、異形、ハチャメチャに重心が置かれているが、さらにそれらにも当てはまらない本格的なSFも収録されており、「恋愛編」よりさらに編者の趣味に寄った選択となっているようだ。
 中島らも「DECO-CHIN」。フリークによる畏るべきテクニックのロックバンドを描く作品で、面白かったけどぼくには素直に楽しめない作品だった。フリークが優れた能力をもつ(ほとんど超能力)という話はたくさんあるが、現実においての差別を解消する方向(姿形は違っても同じ人間)にはつながらず、むしろ障壁を大きくするものではないかと思える。それが素直に楽しめなかった原因だ。主人公よりここに出てくる医者の方に共感するのだ。だが一読した後で考えてみると、これはそういうテーマの話ではないのだった。何しろフリーク側の描写がほとんどない。彼らがどうやって生きてきて、このテクニックを身につけ、どんな日常生活を送っているのか、全くわからない。これはあくまで主人公の個人の物語なのだ。『家畜人ヤプー』と同じく、ある性的な幻想に囚われた男の物語であり、それを突き詰めたからこそSFだといえるのかも知れない。
 山本弘「怪奇フラクタル男」はショートショート。アイデアはストレートなのでもうちょっとヒネリが、などと思ってしまうが、そのビジュアルイメージは圧倒的。
 田中哲弥「大阪ヌル計画」もショートショート。落語的な語り口で、ちょっとひねってはいるが関西人には自明な「大阪」へのいちびりが笑いを誘い、ヌルヌルシュッポーンなアイデアもいっそ気持ちがいい。落語もだけど、嘉門達夫がバラードにしそうな話だと思った。
 岡崎弘明「ぎゅうぎゅう」。伴名練が「密集SF」と名付けているが、そういうジャンルは確かにあるよなあ。何ともすごいシチュエーションをごく日常的に描いて驚くべき話となっている。今時の作家でいえば石川宗生の雰囲気がある。
 中田永一「地球に磔(はりつけ)にされた男」。この作者は乙一のペンネームのひとつなのか。乙一のペンネームに関する解説が面白い。それはともかく、現在にしか行けないタイムマシンというか、あまり変化のない並行宇宙の現在に一方通行で移動するだけの機械というアイデアがよく生かされている。一種のタイムループものとも言えるが、人生のやり直しにはならない。救いのある結末が嬉しい。
 光波耀子「黄金珊瑚」。初期の〈宇宙塵〉同人として名前は知っていたが、小説を読むのは初めて。作者についての解説は読み応えがある。ケミカルガーデンの中で育った珊瑚(のようなもの)が周りの人間を精神支配するという物語は、その強引な結末も含めてやはり古めかしい。
 津原泰三「ちまみれ家族」は田中啓文に挑戦ということで(話の中に啓文くんも出てくる)、そのものずばり血まみれ家族の話。やたらと血まみれになるグログロのドタバタ劇で、メチャメチャ(ネチャネチャ、ベチャベチャ)面白かった。「ギャル」な主人公が「田河水泡か島田啓三か」なんて言うのも趣があってよろしい。
 中原涼「笑う宇宙」はタイトルに反して笑えない重い狂気の物語。宇宙船(?)に閉じ込められた家族(?)四人の狂気を「ぼく」の視点から描くが、読み始めてすぐに、彼の口述自体が矛盾と狂気に満ちていることがわかる。といって(彼を通して語られる)妹や父や母の言うことも矛盾しており、破綻へと向かっていく。ひとつの解釈が示され、ある意味決着はついているのだが、果たしてそれも真実といえるのだろうか。
 森岡浩之「A Boy Meets A Girl」は、これが何で怪奇編なのかわからない。異形枠だとあるが、恋愛枠でも良かったのでは。遠い未来で宇宙空間に適応した〈少年〉が惑星にいる〈少女〉と出会う話。ぼくの大好きなタイプの遠未来SFである。遙かな時間の中で変容したヒトたちの姿。もの悲しさのあるストーリーだが、美しい。
 谷口裕貴「貂の女伯爵、万年城を攻略す」も傑作。こちらも遠い未来、人間によって改造された知能をもつ動物たちが世界を支配し、人間の末裔はその奴隷的な存在となっている。これも怪奇とはいえないなあ。しかし短篇でありながら、異様な世界のイメージとしっかりと描かれた(絵が見えるような)キャラクターたち。そして壮絶な攻城戦のスペクタクル。これはこれできれいに完結しているが、ぜひとも長篇あるいは連作短篇で同じ世界の続きを読みたいものだ。アニメでも見たいなあ。
 石黒達昌「雪女」は大傑作。伴名練はファンプログを作るくらい作者に入れ込んでいるが、ぼくも同様だ。過去に読んだ作品もみんな傑作だった。この作品は一言で言えば、昭和初期の北海道にいた雪女を医学者が科学的に研究した記録である。まるでノンフィクションのように淡々とした記述で、いかにもあり得たかもしれないもう一つの人間の姿が次第に明らかになっていく。ごく小さな事実から想像される、その壮絶な生活も。未来テクノロジーや先端物理学を描くばかりがハードSFではない。ハード医学SF、ハード生物学SFだってある。ぼくは医者じゃないので、この作品のどこがSFでどこがリアルなのかをちゃんと判別することはできないが、それはごく微妙なものだろうと思われる。現実に、2006年に六甲山であった、遭難して低体温のまま冬眠状態で生存していたというニュースが記憶にある。海外では吸血鬼を科学的に扱ったSFがあるが、伝説の存在をここまで細かなディテールまで描ききった(ほとんど謎解きのミステリのようにも読める)SFは珍しいのではないか。
 編集後記には、伴名練がこれからSFを読もうとする読者(および古くからのSFファン)に向けた読書ガイドとして、詳細なアンソロジーガイド(Part2)がある。また日本SFにおける新井素子以前の女性作家についてもまとめられている。

『星系出雲の兵站-遠征-5』 林譲治 ハヤカワ文庫JA
 ついにシリーズ完結。『星系出雲の兵站』が4冊、『-遠征-』が5冊の長大なシリーズだが、主要な登場人物は引き継がれ、人類と異星人の戦争というほぼひとつの出来事を描ききった物語だった。
 初めは地球人類の子孫たちが築いた近未来的な文明が、まったく行動原理のわからない、しかし技術的にはほぼ対等の異星人とファーストコンタクトし、まともなコミュニケーションもできないまま宇宙戦争に突入するという物語で、そしてその中で、戦闘そのものも重要だが、むしろそれを支える兵站や惑星上の生産管理、政治・経済のあり方を描く、ミリタリーSF+未来社会SFとしての印象が強い作品だった。しかし『遠征』以後、主題はむしろこの星系の人類の出自や、異星人文明の謎へとシフトし、本格宇宙SFとしての味わいが前面に押し出されてきたと思う。それに伴い、主役級の人物も戦闘や兵站を担う水神や火伏といったキャラクターから、烏丸司令官という突出した個性的な人物へと切り替わった。
 やっぱり烏丸さんは最高ですね。この物語の全体を壮大な謎解きと考えると、まさに知性溢れる名探偵であり、それも名探偵に相応しいとびきりの個性をもっている。周囲の軍人たちも彼のやることが理解できないまま、心から信頼してついていくのだ。猫ちゃんも愛しているし。
 ガイナスの母星、敷島星系では、大破壊後を生き残ったゴート文明の生き残りの悲惨な姿が明らかになり、また太古に通過した人類の播種船がそこで何をしたかも明らかとなる。それはショッキングな事実だった。
 そして壱岐星系では、首都を破壊された後の臨時政府の構築と、ガイナスの第二拠点でのガイナス同士の内紛が描かれ、それに一応の決着が着いた後の、思いがけない真相の暴露が行われる。これまでのガイナスの集合知性とは全く異なる存在がベールを脱ぎ、われらが烏丸司令がそれに対峙するのだ。
 名探偵ものと同じく、その謎解きはこれまでの地味で徐々にしか進まない展開に比べ、ほとんど一気に進むが、そこで明かされる真相は驚くべきものであり、また納得のいくものである。歴史の皮肉と壮絶な哀しみを感じるものだ。
 エピローグには希望があり、ほっとする。ここからまた新しい未来が拓けていくに違いない。


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