続・サンタロガ・バリア  (第214回)
津田文夫


 SFマガジンを買うのを忘れて、しばらくして気がつき、手にしたのはようやく5日。いつもの喫茶店に入り、ハヤカワ文庫SF創刊50周年記念特集ということで、渡辺英樹さんの40周年版からのリニューアル解説を読んで、いわゆる私の1冊をパラパラしていたら中村融氏の『宇宙への序曲 新訳版』の表紙が目に入り、「勲章をもらったような気分」と題された一文を読んで、やっぱり新訳には工夫がいるよねえと、思っていたら「尊敬する先輩の津田文夫氏」という文字群を目にしてエーッとなる。
 なんとまあ、昔だったら赤面するところだったけれど、そうか「尊敬する」は「先輩」の枕詞だったかと納得して、中村融さんには嬉しくさせていただいたことに感謝のことばを捧げます。
 それにしてもTHATTA ONLINEには主催者に甘えてエエ加減な感想文ばかり書いてきたけれど、数書けば感心してくださる方もおられるのだなあと、あらためて思った次第。とはいえ今回もエエ加減な感想文を並べるのであった。

 野﨑まど『TITAN タイタン』はプロローグこそ普通に読めて、「AIのカウンセリングだ」というセリフで、当然山田正紀『地球精神分析』のタイトルを思い起こすわけだ(まあ中身は忘れたけれど)。ところが、その次の章からはとてもついて行けない話が展開して、最後までまったくノレずに読み終わった。
 巨大AI群により何百万人もの人びとが一切の経済的労苦から抜け出して自分の好きなことが出来る社会を実現したが、このうちの1台の効率が落ち始め、AI管理のプロたちがAI心理分析のため心理学者を要請、そして少年の姿をした巨大AI患者を心理学/精神分析が趣味のお姉さんが教育/治療していく、常にお仕事はプロであることを要求されながら・・・。これはどうということもない軽快なエンターテインメントだと割り切れれば良かったのだが、どうもラノベ的というか野﨑まどの文体/スタイルが一々引っかかってしまう。
 過去に2冊読んでいるけれど、一般的な高評価にもかかわらず、反発が湧くので、要はこの作者とソリが合わないと云うことなのだろう。例えば山本弘や小川一水が同じ話を書いたら読めたのか、とも思うけれど無意味な想定だなあ。

 北野勇作『100文字SF』は、以前3巻本で出ていた「ほぼ百字小説」からではなく、もともとの2000編近くから絞ったものということらしい。3巻本の方は1冊目だけ感想文を書いたような気がするけれど、あとの2冊はいつの間にか積ん読になってしまった。
 あらためて薄い文庫という形(挿絵なし)で読むと、かなり頭がウニャウニャしてくる。裏表紙の100文字紹介で作者自身が、「これさえあればもう自分はいらないのでは、と思ったり」と書いてるように、ここまで訓練された一種の文学的アルゴリズムは作者の思考自体を規定してしまう感じもする。その点ではちょっと円城塔を思わせるかな。

 宮内悠介『黄色い夜』はタイトル通りの黄色が目立つ装幀が目に刺さる1冊。話の方は帯にあるように「巨大なカジノ・タワーの最上階を目指せ!」の一本勝負ときている。長編と云うよりノヴェラですね。
 カジノで成り立っているアフリカの小国家にあるカジノ・タワーを、そのカジノにちょとした因縁のある主人公の日本人とイタリア人の相方が様々な企みを駆使しながら、カジノ国家の中枢であるカジノ・タワーの最上階を目指し、紆余曲折の上ついに最上階にたどり着いて・・・というあらすじはともかく、作者が提示するのはギャンブルの利害を挟んで織りなされる登場人物たちとギャンブル国家という仕組みのあれやこれやである。
 読後感は相変わらず宮内悠介の小説から得られるもので十分に楽しめるのだけれど、ちょっと一気呵成に過ぎるような感じがある。

 なんと芥川賞受賞作になってしまった高山羽根子『首里の馬』は、こちらもノヴェラ程度の長さの1編。そういえば高山羽根子には長編と云うほどの長い作品はまだ無かった。今度創元から第1長編が出るらしいが・・・。
 今作はこれまで以上に地味で静謐な感じのする話の組み立てで、表題の首里の馬(リュウキュウウマ)が顕れるまで、語り手の女性の仕事/ボランティアについて静かに話が紡がれていく。ウマが現れたことで語り手の世界は急展開するが、それは語り手が延々語ってきたボランティア学芸員と世界の誰かにクイズを出すという仕事〈収入源〉から離れるきっかけともなる・・・。
 具体的に何かがはっきりと分かるような話ではないことはここ数編のノヴェラと同様だけれど、ここには個人にとって世界が変貌する過程が捉えられているような感じがある。それが高山羽根子をSF作家にしているのだろう。

 中国SFの面白さを紹介する短編集が複数出るようになって、なかなか愉しい状況になってきたけれど、立原透耶編『時のきざはし 現代中華SF傑作選』は非常に目配りの効いた中国SFアンソロジーとして楽しめた。
 さすがに17編もあると、ひとつひとつにコメントを付けるのは大変だし、例のごとくすでに忘れかけているものもあるので、とりあえず印象に残っているものから挙げると、
 韓松(ハン・ソン)「地下鉄の驚くべき変容」が久々のグロっぽさで印象的だった。日本なら筒井康隆か小林泰三もしくは牧野修というところかな。たった1作しか見てないけれどポン・ジュノが映画化したら面白そうだなあと思ってしまった。
 潘海天(パン・ハイティエン)「餓塔」も韓松作品に近いホラーSFで、造りこそありがちと思われたが最後まで読ませるだけのパワーがある。
 昼温(ジョウ・ウェン)「沈黙の音節」は、音節でヒトを破壊するとというワン・アイデアのサスペンスSFだけれど、ヒロインの思いと復讐劇が古典的なプロットとして機能していて印象的だった。
 巻頭の江波(ジャン・ボー)「太陽に別れを告げる日」は典型的な宇宙パイロット候補生物語で、人物名を変えればそのままアメリカSFの小品に化けそうだ。
 王普康(ワン・ジンカン)「七重のSHELL」もアイデア的には普遍的なアイデアSFだけれど、中国的な視点の皮肉さがVRで生じる底抜けの現実崩壊を面白くしている。 陸秋槎(ルー・チウチャー)「ハインリヒ・バナールの文学的肖像」と梁清散(リアン・チンサン)「済南(チーナン))の大凧」は共に洗練された歴史SFで、その出来の良さに驚く。
 巻末にある滕野(トン・イエ)の表題作はなかなか野蛮な時間線を遡る話で、現代SFとしては荒っぽいけれど力でねじ伏せているというところ。
 他の収録作もひとつとして失望するような作品はなく、編者の、特にSFファンとしての目配りの良さが、このアンソロジーを充実したものに仕上げていると云える。
 それにしてもこの部厚いハードカバーが2200円とは。

 「前人未踏の三年連続ヒューゴー賞受賞シリーズ」と麗々しく帯に謳われたN・K・ジェミシン『第五の季節』は、文庫で600ページ近いかなり重厚なサイエンス・ファンタジーで基本的には女の物語である。
 タイトルは本書のあらすじ紹介にあるように、数百年ごとに〈第五の季節〉がめぐって天変地異をもたらし文明が滅んではまた興る世界で、なんか『三体』のような感じだけれど、あんなシュールなギャグにはなっていない。当たり前だけれど。またこの巻は3部作の幕開きと言うこともあって第五の季節はその全貌が見えていない。
 じゃあこの長いプロローグは何かというと、やはりあらすじ紹介にあるように、この世界には地殻を操り災害を抑え込む特別な能力者がいるが、かれらは“オロジェン”と呼ばれ一種の被差別民として扱われている。そしてオロジェンには、かれらを調教する“守護者”がいることで、オロジェンを竦ませる。そのほかの主要登場キャラには“石喰い”がいて、この世界が単にヒトだけのものではないことを示す。
 ハヤカワ文庫FTから出た『空の都の神々は』を読み損なっていることもあり、この作品が初読なのでなんとも言えないが、それでもル=グインを思い浮かべてしまうのは仕方の無いところ。重厚と云えば重厚だけれど、やや鈍重でもあるし、主人公に施された語り口のギミックは効果的なのかスベっているのかもよくわからない。世界の造りはしっかりしているしトラヴェローグもよくできているが、肝腎のスリー・パートに別れた展開が後半で像を結んでしまうとやや平板な印象が残る。まあ、ラストの1行は石森版『幻魔大戦』の「月が・・・」を思わせて気が惹れるので続きは当然読みたい。

 新☆HSFSの新刊は、以前SFマガジンに載った化粧の濃いお姉様が思い浮かぶシオドラ・ゴス『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』。帯のうたい文句からしてあまり構えて読むようなものでもなさそうだと見当して読み始めた。
 と、読み始めたらなかなかの名調子で、とくに登場人物の一人が、自分たちの経験したことをこの物語として書いているという外枠の紹介もなしに、登場人物たるモンスター娘らがいきなり場外コメントでツッこむパターンが面白く、それぞれのモンスター娘のキャラ立ちもよく書けていて、愉しく読ませてもらった。
 まあ本書は〈アテナ・クラブの驚くべき冒険〉シリーズの1巻目ということで、キャラクター全員が揃うまでの各モンスターっ娘の出自紹介を兼ねているにもかかわらず、それを含めて最初の事件がちゃんと語られているところもよくできている。
 訳者あとがきによるとこれは故小川隆さんとの共訳予定だったとのこと。そのことも含めて続巻を出してもらいたい。

 ハヤカワ文庫SFの方も女性作家づいているのか、アナリー・ニューイッツ『タイムラインの殺人者』が出ている。まあ、これもタイトルからはあまり読みたいという意欲が湧かないシロモノだったけれど、読んだら意外と興味深かった。
 ウェルズによって発明されときのタイムマシンは驚くべきガジェットとして物語を構造化し、まさに驚異的な効果をもたらして以来、タイムマシンは一応SFの専有物として一種のパズル的感動をもたらしてきたけれど、いつの頃からかタイムマシンはファンタジー的な仕掛けのひとつに変わってきた。もちろんタイムマシンが出てくればSFにはちがいないが、現在においてタイムマシンをハードSFっぽく扱うのはかなり難しそうだ。
 この作品でもタイムマシンは4億年前から地球にあったという設定でワームホールを使っているらしいと云うのが説明だが、とりあえず何を云っているのか分からない。でもそれらしい理屈なのでSFだとは云えるだろう。
 肝腎の物語の方は、タイムライン改変戦争で、これが女権確立運動と絡めておこなわれる。ある意味単純化されすぎているのだけれど、それがフェミニズム的過激さをソフト化している。その一方で、この物語を興味深いものにしているのは1990年代初頭の女子高生の生活/地獄めぐりのパートで、この地獄めぐりに対してSFのパートが救済に向けて使われていることで作品の価値を高めている。
 あまり耳慣れない作者だけれど、チャーリー・ジェーンに捧ぐと献辞されているだけあって、多様な女性作家が女子による女子のためのSF/ファンタジーを書くことに尽力しているみたいだ。

 佐々木譲『図書館の子』は、何らかの形でタイムトラベルを作品の核にしたリアリズム短編集。一種昭和調のリアリズム小説になったものが多い。昔中間小説誌に第1世代のSF作家たちが書いていたものを思わせると云うことですね。もちろん現代的な洗練はあるけれど。
 ミステリ系の作者と云うこともあって読むのは初めて。テーマ的にはヴァラエティに富んでおり、収録6編はそれぞれ違った舞台で異なった印象をもたらすが、昭和調という色調は共通している。まあ、戦前・戦中・戦後という昭和時代を舞台にしたものが多いからとは云えるけど。
 主人公が表題作のように少年であるものもあるが、基本的な視点は大人のものであり、それが全体的に浮ついた気分を排除している。
 集中では「錬金術師の卵」が異色。巻末の「傷心列車」は女性視点で書かれていて面白い。

 薄めのハードカバー3冊目は、上田誠〔原案〕森見登美彦『四畳半タイムマシンブルース』って、こんなものを書いていたのかモリミーは。
 上田誠のタイトル『サマータイムマシン・ブルース』には中黒があったけれど、こちらでは省略されている。目次では3章に分かれているけれど一気読みした時には、そんな章立てはあまり関係なく、モリミー節全開コメディーが楽しめる。
 まあ、ついに『四畳半神話体系』が大団円を迎えたと思えば何をどうコメントしようがメデタイのではなかろうか。

 ついに最終巻となった林譲治『星系出雲の兵站 ―遠征―5』は、これまでの多数のキャラのドラマを吹っ飛ばして、骨太な本格SFスペースオペラとしての大団円を構築している。
 SFとしてはよく練られたアイデアで見事なクライマックスを迎えているけれど、キャラクター・ノヴェルとしては、烏丸少将とゴートの直接対決に向かうまでの軟弱エピソードが、降下猟兵旅団長のシャロンちゃんと旅団長付マイア君のハッピーエンドだけで、やや物足りない。って、それはやっぱり無いものねだりなんだよねえ。

 今回最後に読み終わったのが、メアリ・ロビネット・コワル『宇宙(そら)へ』上・下。ヒューゴー・ネビュラ・ローカス3賞受賞といううたい文句が帯に踊る。
 昔だったらそれだけで期待十分だったけれど、なかには何でそんなに評判が良かったんだというのもあるので、とりあえず眉にツバ付けて読み始めた。この作者の長編は初めて読む。
 プロローグは、いかにもエリートっぽい若いユダヤ人夫婦が山荘での休暇をベッドで過ごしているところに、大地を震わせる衝撃が来て命からがら逃げ出すところからはじまる。 1950年代のアメリカ大西洋側に巨大隕石が落下という、いまどきあまりにも定番な設定ではじまるけれど、語り手の女性のヴォイスは読みやすく、あとで語られるテーマのひとつ、女性の能力は男性に劣らないという信念を常に前面に押し出していながら、上役の男性を敵役として語る場面も含め、あまりイヤミが無い。
 巨大隕石の大洋落下は海から大量の水蒸気を発生させて、近い将来人類が住めなくなってしまう可能性が高いということで、1950年代の宇宙開発が現実世界の技術を時間的にかなり圧縮しながらもパラレルで語られる。これがこの作品に本格SFのムードを与えている一方、主人公の女性は子どもの時から数学の天才少女だったためにトラウマを抱え、常に目立つ事への恐れを抱き、それが体調に直結しているという弱点を抱えている。
 物語のパターンは徹底して大小のシンデレラ・パターンの繰り返しで、とちらかというと保守的な物語づくりがされているけれど、主人公の思い込みが常に正しいという独善性を避けた語りは、(特に男の)読み手に安心感を与える。
 ロケットの打ち上げに女性計算者/コンピューターが用いられ、有色人種の女性も活躍していたことは数年前映画になっていたので知っていたが、ここでそのディテールが語られているのは興味深い。また第2次世界大戦中に活躍したWASPと呼ばれた女性パイロットたち(『隣接界』を思い出すね)のエピソードも具体的で、物語への組み込みもうまく出来ている。そして有色人種の女性パイロットたちとの付き合いを通じてユダヤ人と有色人種という対比も見せているところが、この作品を単純な女権擁護プロパガンダにしていない。
 ということで、あまり重厚さはないけれど、読んで面白い女性SFになっていることは間違いないところ。よく見たら訳者は酒井昭伸さんだった。さすがですね。
 あと、今回読んだ4冊の翻訳長編(ホントに長い)は女性作家のものばかりだった。フェミニズムっぽいかどうかは別として、女性の能力を謳っているという点で共通している。これだけ女性が女性(LGBTQ?)が主人公として活躍するSF/ファンタジー作品が増えてきているのを見ると、各出版社は女子SFキャンペーンを打ったらよいのではなかろうか。

 以上、今回は馬力を掛けて積ん読解消を図ったおかげである程度数をこなせたようだけれど、まだ何冊か読んでおきたいのがあるので、それはまた来月に。


THATTA 388号へ戻る

トップページへ戻る