続・サンタロガ・バリア (第212回) |
先月は少しは本が読めるだろうと目論んでいたのだけれど、まったく外れて小説はたったの2冊しか読み終わらなかった、われながらビックリだ。
またお休みにしても良かったんだけれど、そういえば最近音楽/CDの話を書いていないなあと気がついたので、埋め草の埋め草(って若い人には通じないか)みたいなものを書いておこう。
なかなか落ち着いて聴く時間が無いのだけれど、地元のCD屋ではたまに椎名林檎/東京事変やバンプ・オブ・チキンの新譜や洋楽・邦楽の中古CDを買ったり、ネットでクラシック系の新譜を買ったりしているので、枚数だけならこの1年で100枚くらい買ったような気がする。
クラシックでは、指揮者として一番好きなケンペの10枚組ボックス・セットが廉価で発売されたので、早速買い込んだ。すでに持っている演目が半分以上あったけれど、ようやくギンペルがソロを弾くブラームスのピアノ協奏曲1番が聴けて嬉しい。
しかし最近興味があるのは20世紀のヴァイオリン協奏曲で、しばらく前にナクソスから出たバイバ・スクリデ(女性ヴァイオリニスト)の弾くコルンゴルトやミクローシュ・ロージャ(昔はミクロス・ローザという表記が普通だった。どっちも映画音楽の作曲家)の協奏曲が面白かったこともあって、若手(?)女流ヴァイオリニストが花盛りな現在、リサ・バティアシュヴィリでプロコフィエフ、アリーナ・イブラキモヴァでショスタコーヴィチ、イザベル・ファウストでシェーンベルクを聴いてみた。以前にはアラベラ・美歩・シュタインバッハーでブリテン、もっと前に諏訪内晶子でウォルトン、遙か前は五嶋みどりでバルトーク等を聴いていたけれど、20世紀前半(一部は後半)に書かれた様々なヴァイオリン協奏曲は基本的に覚えにくい。
覚えにくいという点では、女性ヴァイオリニストの名前も覚えにくい上に、男か女か分からない名前も多い。たとえばCDは買っていないけれど、YouTubeでよく見るのが、まずジャニーヌ・ヤンセン、ヴィルデ・フラングといったところ。ヴィルデ・フラングは名前からは女性かどうかは分からないが、本人の容貌はまるで古い西洋名画に出てきそうな下ぶくれの美少女といった感じで、猛禽類的美貌のジャニーヌと共演している演奏を見ているととても対照的で面白い(もちろんジャニーヌが第1ヴァイオリンね)。YouTubeで室内楽を見ていると目立つのが、もとハーゲン弦楽四重奏団のヴィオラ奏者のニナ・じゃなかったヴェロニカ・ハーゲンが年長者として主催する演奏会。さすがにジャニーヌは呼ばないようだけれど、バイバ・スクイデやヴィルデ・フラングを第1ヴァイオリンで呼んでいたり、一時話題になったソル・ガベッタという女性チェリストなどをよく使っている。若い男性ヴァイオリニストはいるんだろうけど、マキシム・ヴェンゲーロフあたりで男性ヴァイオリニストは聴かなくなったのでよく分からない(そういやヴァイオリンとチェロのキャピュソン兄弟は10年以上前に生で聴いた)。われながら単なるエロオヤジ的興味で聴いてるような気もするな。
中古CDで最近買って気がついたのはレッド・ツェッペリンの国内盤で、2008年頃に出たSHM-CD仕様の40周年記念盤。たまたま手に入ったのが3枚目、5枚目、8枚目だったけれど、聴いてみて驚いたのが音のバランスがとても安定していることだった。最近2枚組に水増しされたものよりも聴感上の安定感はしっかりしている。
しかし、最近一番気に入っているのは、編集再発盤だけれど、マシュー・スウィートとスザンナ・ホフスのデュエットで二人が選んだ曲をカヴァーした「UNDER THE COVERS the best of matthewsweet & susannahoffs」という2枚組。マシュー・スウィートにもスザンナ・ホフスにも大して関心が無いのになんでこんな物を買ったのかというと、HMV割引販売のジャケット・リストをザーッとスクロールしていたら、外の光が射す明るい部屋のテーブルに臂をついて、なんでオレはこんなのに付き合ってんだという風にムスッとしてよそ見しているマシュー・スウィートと、その横でテーブルにしなだれかかってカメラ目線でシナをつくるスザンナ・ホフスがあまりにも印象的だったから。
もともと2006年から13年までに製作された2人のカヴァー・アルバム3枚から選曲して、今年イギリスのCDレーベルから出されたものらしく、男女の脚のイラストを描いた当初の3枚のオリジナル・ジャケットと2人の写真を使った3枚組セットのジャケットもこの2枚組のスリーヴに印刷されているのだけれど、一目でスルーするような出来のものだった。このジャケットだから目にとまったわけで、CDだってジャケ買いはアリだ。
選曲の方はビートルズからREMまで渋めで、1枚目の最初はビートルズ「アンド・ユア・バード・シング(『リボルバー』)」、最後はジョージ・ハリスンの最初のソロ・アルバムからの1曲'beware of darkness'で、2枚目はニール・ヤング「シナモン・ガール」からモット・ザ・フープル「すべての若き野郎ども」。元バングルズのスザンナは40代で相変わらずコケティッシュな声を披露し、マシューは癖のない聴きやすいロック・ヴォーカルを聴かせる。どちらかというとスザンナがメインを採る曲が多く、ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」もスザンナが歌っている。ただ聴きやすいのはマシューがメイン・ヴォーカルでスザンナがハーモニーを付けている曲が多く、達者なバックバンドの演奏と相まって何回も聴いてしまう。千円ちょっとの買物としてお得感があるので、洋楽好きの年寄りにはお勧めです。
日本のポップスで最近気を惹かれているのが、Anlyという5年くらい前に高校を卒業してデビューした沖縄出身の女性SSW(いつからこんな表記になったんだろう)。ルーパーと呼ばれる6チャンネルくらいの録音機にギター1本でパーカッションを含むバッキングを入れ、バックヴォーカルも入れて、演奏のスタートストップをペダルで自在にコントロールしながら本人はギターを弾きながら(もしくは歌だけ)歌う。これは一種の芸で、肝腎の楽曲と声の魅力が無ければ聴く気にもならないけれど、彼女は印象的なリフとよく伸びるきれいな裏声を持っていて、それには惹かれるものがあったらしい。YouTubeではツェッペリンの「天国への階段」とかクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」とかレッチリの曲も披露していて、お父さんの趣味と思われる曲をアコギ1本で歌ってなかなかの迫力を醸している。オリジナルは玉石混淆で、特に初期は歌詞については年寄りが聴くとまだ不十分な感じがしたけれど、コロナ禍のなか最近YouTubeに発表した「Distance-Orchestra Version」(この曲自体は2018年発売のセカンド・アルバムに入っていたけれど)は、テレワーク・オーケストラをバックに特徴的な高音を披露していて聴かせる。まだファンとは云えないけれど、今のところよく聴いている。
埋め草が長くなったけど、今回はノンフィクションから。
樋口恭介『すべて名もなき未来』は、まだコンテスト樹諸策しか出していない作家の評論集というか書評集+エッセイ集。なぜか晶文社刊。
著者は「序 失われた未来を求めて」の中で、「昼はテクノロジー・コンサルタントとしてコンサルティング会社に勤めて働き、夜はSF作家として自室でSF小説やSF批評を書いている」とすでに自覚的にSF作家であることを選んでいる。そして「序」の末尾で「未来の可能性についてあらためて考えてみようと思う。・・・無数の失われた未来を求めて」と結ぶ。ちょっとカッコつけすぎなスタイルだけれど、真摯なスタイルでもある。
ということで前半が「Side A 未来」、後半が「Side B 物語」となっている。前半は読書に触発された評論/エッセイ。後半は作品に寄り添った論考/書評といえる。後半に入っているイアン・マキューアン『贖罪』を取り上げた一文は、なんと早稲田大学文学部の卒論である。
前半の冒頭は「若林恵『さよなら未来』を読みながら」という副題を持った「音楽・SF・未来」というタイトルの自分語りである。著者の生い立ちからクリエイター志向のタイプまで自己省察と現在に至る方向性を語っている。ある意味確信の強さを宣言している一文だ。それに続くいくつかの評論を取り上げた考察は、著者の志向を反映して「失われた未来」を表すものだが、やや頭でっかちな感じがする。
そんな中で、著者の生まれた1989年の岐阜県で当時県知事が大垣市に建てた先端情報産業団地のなれの果てが現在も建っていて、その知事の未来構想は20年早く発想されたが、知事が不評を買って職を去った後、その構想は失われた未来そして著者により忘れられた未来としていまに伝わるという「亡霊の場所-大垣駅と失われた未来」は、具体的な事例の中にテーマがある。それに続く中国滞在記と合わせ、私的な記憶から紡ぐものが魅力的なことは、この著者の思考と感性の間にわずかな隙間があることを示しているのかも知れない。
樋口恭介の本を読んだ後、最近岩波文庫で出た新訳版のオルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』がなぜか読みたくなった。『大衆の反逆』を中公の「世界の名著」で、マンハイムと抱き合わせで読んだのは、もう30年くらい前だったような気がするが、中身についてはほぼ忘れている。
手に取ってみると、岩波文庫版には1930年に出た本編に、その後の1937年のフランス語版への序文「フランス人へのプロローグ」とその翌年に書かれた英語版の「イギリス人へのエピローグ」が追加されているので、400ページになっているが、本編は300ページしかなく、いまで云えば新書程度のコンパクトな作品だったことが分かる。
解説の宇野重規もいくつも本文から引用しているように、本書にはいまでも使い回されているような警句でいっぱいだ。「・・・現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつけることにある」って、心当たりのある方も多いことでしょう。また、「・・・私たちは、信じられないほどの能力を有していると感じていても、何を実現すべきかを知らない時代に生きているのだ。あらゆるものを支配しているが、おのれ自身を支配していない時代である」とか90年前に発せられた警句がまんま、いまでも使えちゃうのである。
そのようなところはいま読んでも面白いのだけれど、肝腎のオルテガ・イ・ガセットの信念がもはや現代には通用しないのだ。オルテガ・イ・ガセットは精神的貴族(自らの使命を知っている者)として自己を恃むあまり、その警句の寿命より遙かに速くほころびてしまっている。まあ、本人にすれば「大衆」しかいない世界でなんと云われようがどうでもいいことだろうけれど。
それにしても第1次世界大戦後10年余り、次の大戦までほぼ10年という戦間期の知識人の、ヨーロッパをテーマとした著書にしては、あまりにも第1次世界大戦への言及が少なく、その代わり英独仏を中心としたヨーロッパ人のつくる緩やかな連合国家(EUだな)への憧憬が深く滲んでいる。
自分が年寄りになって、いま読むと『大衆の反逆』の中身はオルテガ・イ・ガセット自身が定義した「大衆」批判の書であると同時に、第1次世界大戦で失われたヨーロッパの誇りに対する哀しみの書でもあるように感じられた。
あとちょっと付け加えておくと、「イギリス人のためのエピローグ」に、世界が狭くなったことで、諸民族の衝突の危機が高まったことに言及しながら、「・・・挨拶の形式は人口密度の高さに比例すると言えるのではないか。つまり人間の間の平均的な距離によって決まるのではないか」として、「・・・密集した民族の国である中国や日本では、人びとは重なり合って、鼻と鼻をぶつけながらコンパクトなアリ塚に住んでいるので、挨拶や付き合いは最も繊細かつ複雑な技術を要するややこしい物になっている」と云い、「・・・人称代名詞までもが無礼に変わる。それゆえ日本では彼らの言語から人称代名詞を削除するまでになった。そして二人称は「御身」とかなんとかに、一人称は「私」と言う代わりに、恭しいお辞儀をしながら「不肖・・・・・・」などと言うのである。」
ヨーロッパ知識人の東洋に対する一知半解は、ヘーゲルやマルクスから受け継がれた伝統だけれど、日本の軍艦が地中海で活躍した後でもこの程度のものに過ぎない。
最後は、とても読んだとは云えないが、YouTubeの講義は全部見た鈴木貫太郎『中学の知識でオイラーの公式がわかる』。1月に出た光文社新書。
出た当時はまったく気づいてさえいなかったのに、何でいまさらこんなものを買ったかというと、前回紹介した本の著者が吉田滋で「吉田茂」を思いだし、理科系新書の棚と云うこともあって、「鈴木貫太郎」の名前を見て、日本の首相シリーズかいなと笑ってしまったからである。
前書きで読者からの、『オイラーの贈り物』には歯が立たなかったのでこの本を読んで(見て)初めて分かった、という話が紹介されていて、自分も同類だったのでまた笑ってしまい、YouTubeを見はじめた次第。映像としては素人のセルフ撮影で自動ピント合わせが狂ったりしてかなり見にくいけれど、鈴木貫太郎氏の講義はオイラーの公式に使われているすべての要素を本当に一から定義を証明しながら進めるという、まあ画期的な講義といえる。9回だか10回だか全部で6時間あまりの講義を飽きもせず次回を見ようという気にさせるベテランの技は素晴らしい。さすがに1回通しでで見ただけではオイラーの公式の成り立ちと意味が理解できたとは云えないけれど、そういうものなのね、というぐらいの理解には立ち至ったような気がする(するだけだけど)。
YouTubeさえ見れば、この本を買う必要はないと思われるけれど、見た人はまあ授業料として買ってあげればいいんじゃないでしょうか。
なお、著者紹介によれば、鈴木貫太郎氏は現在専業主夫とのこと。
ネビュラ賞・ローカス賞受賞と表紙にはあるが、帯にはクロフォード賞(?)受賞作と追加されているチャーリー・ジェーン・アンダーズ『空のあらゆる鳥を』は、SFというよりはローファンタジーな1作。作者は最近増えてきたトランス・ジェンダーの作家らしい。
冒頭、自分が魔法使いであると知った少女と、科学オタクで2秒間タイムマシンを組み立てることもお茶の子さいさいな少年の紹介からはじまるが、二人ともその家庭は居心地が悪く、また学校ではいじめられっ子になっていて、キャラのつくりと物語進行はうまいものの、いかにも現代的な設定はちょっとイヤかも。
でも小説としては読んでいて面白く、主人公たちが成長した後の物語も相変わらず暗い話だし、世界が終わるという状況もあまりリアリティが感じられないけれど、作品世界の魅力は途切れることがない。
互いを必要とする少女と少年の成長物語を通り一遍の恋愛ものにすることなく、ローファンタジーのリアリティを持続させる事に成功している点が高く評価されているのかな。登場人物も含め、世界の複雑さの一片を作品に持ち込んで、ヤング・アダルト向けとしても読める作品だ。
それにしても最近の作家の名前は覚えにくいですね。トシのせいもあるんだろうけど。
もう1冊は冲方丁『マルドゥック・アノニマス5』。前巻でクライマックスかと思いきや、ウフコックに包まれたパロットの超能力合戦と敵方バジルとのネゴシエーションを現在として、長いカットバックの物語が続いて1冊が終わっている。面白いけれど、ちょっとカットバックが長すぎるような気もして、ややダレる。次巻くらいでとりあえずの結末が欲しいところ。