内 輪   第357回

大野万紀


 新型コロナの緊急事態宣言が解除されて、近所のショッピングモールも営業再開。大勢の人が戻ってきています。マスクはしていますが、「密」ですねえ。それはともかく、いつもの本屋の再開は嬉しいです。
 会社の仕事の方はテレワークが普通になりました。会議もzoomやSkypeでオンライン会議。みな普段着で、部屋の中に色んなものが見えて面白い。オンライン会議の方がうだうだしないで必要なことだけさっさと決めて終われる気がするのは、単なる気のせいかも知れませんが。会社の方針としてまだ当分は続くようなので、なかなかいいんじゃないかと思っています。
 なお、わが家には現時点で特別給付金もアベノマスクも届いていません。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『約束の果て、黒と紫の国』 高丘哲次 新潮社
 復活した日本ファンタジーノベル大賞2019の受賞作。神話的世界を舞台にした堂々たるファンタジーであるが、同時に改変歴史SFの雰囲気も漂わせる。というのも、本書は枠物語の形式を取っていて、こちらの世界とは少し違った現代から物語が始まるのである。
 大陸中国を思わせる伍州、台湾を思わせる朱白島がある。こちらの世界でいえば国共内戦のころ、伍州の考古学者が曰くありげな青銅器を発見する。そこに刻まれた二つの国名と人名、壙(こう)国の螞九(ばきゅう)と臷南(じなん)国の瑤花(ようか)、この世界の歴史には存在しないその名は、『南朱列国演技』と『歴世神王拾記』という怪しげな二書にのみ残っているものだ。それらの書は中世に巷談をまとめた偽書、あるいは奇書として知られている。しかしそこに真実が含まれていると信じた考古学者によって、さらにはその意志を引き継ぐ人々によって、本書の物語は語られるのである。
 『南朱列国演技』によれば、太古、伍州を支配する壙より、王子のひとり真气(しんき)が、南の果て臷南に派遣される。彼はそこで、王女でありながら誰とでも気さくに接する瑤花と出会う。真面目な真气は王族らしからぬ瑤花にとまどうが、しだいに惹かれていく。一方、『歴世神王拾記』では、さらに昔の神話的な時代、洞窟で暮らしていた一族の若者、螞九が、識人(しきじん)と呼ばれる異相の者たちの弓の腕を競う宴礼射儀(えんれいしゃぎ)に参加し、そこで瑤花という童女に出会う物語が語られる。
 二つのボーイ・ミーツ・ガールの物語は交互に語られつつ、やがて時代を越えて絡まり合い、怒濤の展開を見せることになる。中盤から明らかになる強大で残酷な壙国の実体は、神話的でありながら非常にSF的なアイデアも含まれていて、さらにそれが南のほんわかとした小国・臷南に襲いかかる場面の、神話・伝説的なスペクタクルといい、とても読み応えがある。
 ただ、壮大なラブストーリーとして見た場合、男たちの側の物語はそれなりに納得のいくものだが、瑤花の方はというと、何より可愛いしキャラクター的に魅力的ではあるものの、淡々としていて何を考えているのかよくわからないところがあり、まあその正体を知った後ではなるほどそういうものかも知れないとは思うが、やや書き込み不足ではないかとも感じた。
 表題の意味がわかる最終章は枠物語の内と外が交錯して感動を呼ぶが、そこでも現代側の物語がいくぶん表面的に思えて、この構成にすることがあまり効果を上げているようには思えなかった。そのあたりは少し物足りなかったが、デビュー作にしてこの重厚さ、同じ日本ファンタジーノベル大賞の酒見賢一を思わせるとの評があったが、納得である。

『不可視都市』 高島雄哉 星海社
 「超遠距離恋愛SF」と帯にあって、「月と地球に引き裂かれた恋人たち」とあるのだが、そういうラブストーリーを期待して読むと、ちょっと違う気がする。いや前半はそうでもないのだが、途中から、作者が書きたいのは人間同士の恋愛なんかじゃないのだと(いや初めからそうじゃないかとは思っていたが)わかってくるのだ。
 物語は3つのパートが並行して語られる。Aパートはメインストーリーで、月面基地の紅介と地球の青夏の物語。西暦2109年、〈不可視都市〉と呼ばれる謎の存在によって突然世界中の交通とインターネットが遮断され、人類は十二の巨大都市(ギガロポリス)に封じ込められて暮らすようになった。巨大都市間は人力による原始的な交通は可能だが、〈不可視都市〉のLAWSと呼ばれるAI兵器によって攻撃される危険がある。紅介と青夏は恋人同士だったが、たまたま紅介が月面基地に、青夏が北京ギガロポリスにいた時に遮断が起こり、会えなくなってしまった。だが二人にはサティとエンリカというサイボーグ犬がいて、それが〈量子犬通信〉――量子エンタングルメントによって距離に関わりなくリアルタイムにつながっている(まあカップルがずっとスマホで話し続けているようなものですね)。青夏は数学者で「圏論」の専門家。太平洋上にある〈空中庭園〉ギガロポリスからの最後のメッセージ「来たれ。数学者たち。来たれ」を受けて、そこへ向かおうとする。彼女をLAWSからガードしてくれる達人の随行者、彗と共に。
 Aパートは、青夏と紅介の饒舌な(ちょっとうざい)会話を別にすれば、サスペンスフルなロードノベルのように進み、面白く読める。ただ〈不可視理論〉とか〈不可視都市〉の謎はまったく謎のままである。
 Bパートは1944年から始まる〈不可視理論〉の発展の物語。ここでは数学的な理論を操作することで現実を操作することができるという「理論の数理化」――膨大な理論大系を一つの数学的対象ととらえ、矢印一つで表現する――がその発見から語られていく。こちらは文体も異なっており、ロートルSFファンにもなかなか興味深く読める。
 最後のCパートは、おそらくBパートからつながる物語。2084年に、幼なじみの二人、巨大企業タネダを継ぐことになるあかりと、科学系の骨董品店を営む昴が、あかりの依頼でアインシュタインのコンパスを探し、ミュンヘンからついには宇宙へと旅立っていく物語である。このCパートがちょっとわかりにくい。話は壮大なのだが、イメージ中心で説明不足に思えた。
 最後には3つのパートが収束し、時間と空間が入れ替わりと、宇宙論的といってもいいとんでもなく巨大なイメージが展開する。作者の『ランドスケープと夏の定理』の〈理論の籠〉ともつながっているのだが、科学用語や、現代ハードSF的イメージを駆使しつつ、人間的なふるまいと宇宙論的壮大さのぶっ飛んだ結合を描く。そのことはとても面白いのだけれど、単なる悪ノリにも見えてしまう。特に、時空を揺るがすような巨大な敵が、ただのカルト集団にしか見えないのは残念だ。もう少し書き込んで長くするか、あるいは整理して中編くらいにまとめた方が良かったように思う。一読者の勝手な思いだが、もっとぶっ飛んだ科学のイメージを表に出して、ベイリーというか、ラファティ的な面白さを狙う方が作者に適しているかも知れない。

『タイタン』 野﨑まど 講談社
 野﨑まどの新作長編は、人々が超絶AI「タイタン」に全ての「仕事」を任せ、楽園のような暮らしをしている23世紀の世界を舞台に、その「タイタン」の一つ(世界は12の「タイタン」で運営されている)のカウンセリングをすることになった女性の「仕事ぶり」を通して、「仕事」というものの意味を掘り下げていこうとする物語である。
 野﨑まどといえば超絶技巧で有名だが、本書ではすごく抑制されていて、びっくりするところは多々あれども、基本的にとってもストレートな、わかりやすいSFとなっている。北海道からシリコン・ヴァレーへと至るロードノベルとしての側面もあるためか、ストーリーラインはほぼ一直線で、脇道にそれることはない。
 その昔、フレドリック・ブラウンが「今こそ、神は存在する」と書いてから、SFではすごく発達した人工知能は神になることが当たり前となっているが、本書でもその通り。集合的な「タイタン」もそうだが、本書の主人公である内匠成果がカウンセリングを行う北海道のタイタン「コイオス」もギリシア神話の神の名だ。そしてこの世界では神が人間の下僕となって、日常生活のありとあらゆることをやってくれ、しかも人間に気を利かせて色々と支援してくれる。
 こういう世界は普通ディストピアとして描かれることが多いのだが、本書では基本的に、過去の不便で危険な人間中心の社会の方が不幸で、AIに運営されている現在の方が幸せだという価値観が貫かれている。というか、作者の興味はそこにはない。AIが人々の仕事を奪うと言われているが、その「仕事」とはそもそも何なのかを追求することこそがテーマだ。そのための環境として仮想されたのが本書の世界なのだ。
 だが「仕事」とは何かを深掘りするといっても、哲学的あるいは経済学的な考察というより、本書では物理的な「仕事」や、情報的な「仕事」も含めて、とても大胆に、シンプルに抽象化されており、ある意味非常にわかりやすく、多くの人が感覚的に納得しやすいものとなっている。
 そしてその結論をもたらすのは、内匠とコイオスの、カウンセリングを目指した会話だ。内匠は仕事ではなく趣味で心理学を研究している(だって人間の「仕事」は不要になった世界なのだから)。ところがそんな彼女に、ナレインという時代錯誤な仕事の鬼のような男からの依頼があり、半ば強制的に「仕事として」心理カウンセリングを行うことになる。その相手というのが、機能低下を起こしているというAIコイオスだった。
 というわけでAIコイオスの心理分析をして機能低下の原因を探り、AI研究者のベックマン博士やエンジニアの雷と共に解決しようとするのだ。初めは「仕事として」のやり方になじめず、ナレインと衝突ばかりしていた内匠だが、微小粒子で人格形成して男の子のような姿を見せたコイオスと会話するうち、その仕事の面白さに夢中になっていく。そしてつい言ってしまった言葉から、びっくりするような展開になるのだが、そこから先はぜひ読んでおおっと思って欲しいので詳しくは書かない。とにかく「絵」的にすごく迫力のある、まさに神話的な物語が描かれる。そこから、サンフランシスコのシリコン・ヴァレーにいるもう1基のタイタン「フェーベ」に会うため、北海道からカムチャッカ、アラスカと旅をしていくトラベローグが始まり、さらにフェーベと出会ってから結末までもまた驚きが待っている。
 よく考えると突っ込みどころはあるのだが、面白さが勝っているので気にならない。ニヤニヤ笑っちゃうような壮大さがある。でもそんな派手な面白さも良かったが、むしろ北辺の旅の、宮沢賢治まで引用する詩的で美しい描写が印象に残った。

『100文字SF』 北野勇作 ハヤカワ文庫
 著者が2015年からツイッターで発表し続けている「ほぼ百文字小説」およそ2千編の中から2百編を収録したもの。つい読み始めたらあっという間に全部読んでしまった。
 何より、その体裁に驚く。本編はもちろん、表紙、裏表紙、推薦文、広告まで、全て同じレイアウト! 百文字の四角形で構成されている。かっこいい! 白い!
 百文字というのは、短歌や短詩では気分や情景だけになりがちなところを、ストーリーや論理構成まで表現できる最短の文字数なのかも知れない。いや、これはぼくの無知が言わしめるところであって、短歌や俳句、短詩の世界では、短い本文の背景に膨大な文学的蓄積があって、五七五はその物語的にも豊穣な世界を覗く窓となっているのだろう。そのことは100文字SFにもいえる。この空白の中に百文字で描かれた四角い窓の向こうには広大な世界が広がっている。
 これは著者の特質かも知れないが、そこにはほとんどハードSF的といっていいイメージも多出する。量子力学などの科学用語がその背後にある宇宙論的世界観を想像させて、イメージをふくらませるのだ。帯に塩澤さんが描いている「飛浩隆やテッド・チャンを、二百作まとめて読んでしまったような濃さ」というのはそういうことだろう。
 個々の作品にはタイトルもなく、そのまま引用するしか紹介のしようもないのだが、上述のように小さなできごとから壮大な宇宙的感覚へと至るもの、自分の娘や、ペットの亀といった家庭の日常が自由に時空を飛び交っていくもの、あいまいな自我があいまいな世界へと溶け込んでいくようなもの、そしていかにも北野世界というべきノスタルジックな情景を切り取ったようなもの、そんな百文字に満ちている。そしてその百文字から、余白にある見えない世界がしみ出してくる。そう、ここには北野勇作の全部が、そのエッセンスがあるといってもいい。
 2百編あっても、それがすぐに読めてしまうというのも嬉しい。短いことはいいことだ。凝縮されてはいるが、文章は易しくて、ふわふわとしていて、とても読みやすい。そんな、薄くて白い本だ。


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