続・サンタロガ・バリア (第210回) |
コロナ騒ぎのおかげで本がよめない、というのはちょっと言い過ぎだけれど、喫茶店を読書室代わりにしているので、行きつけの喫茶店がどこも閉まってしまうと、本を読む機会がひとつ減る。開いてる喫茶店でいいじゃないかと思うが、どうにも落ち着かないし、家で読めばと云うのが普通だけれど、そういう気分になれないんだよねえ。まあ、慣れの問題だと云えばその通りなので、5月のうちに平常ペースに戻ればいいか。
相変わらず期待に応えてくれるのが、新☆HSFSから3月に出た現代中国SFアンソロジー第2弾、ケン・リュウ編『月の光 現代中国SFアンソロジー』。
まあ、ケン・リュウが選んで英訳したものを、英米SF翻訳を得意とする訳者が訳したもののほうが、おそらく原文から中国文学翻訳者が訳したものよりも面白くなる傾向があることは、ここ1年ほどの間に読んだ作品から明らかだけれど、それが悪いわけでもない。解説を書いている立原透耶さんがそこら辺を中原尚哉さんと対談しながら実際に訳して見せるような企画があると面白いだろうな。
今回も収録された冒頭の夏笳(シアジア)「おやすみなさい、メランコリー」は、近未来の(中国の)家庭に溶け込んだAIとの思い出を語るパートとアラン・チューリングの境涯がチューリング・テストで描かれるパートからなるノヴェレット。作品のタイトルは忘れてもチューリング・テストの会話を使った短編という事で記憶に残りそうだ。お初の張冉(ジャン・ラン)「普陽の雪」は古代中国(といっても10世紀)の短命な五代十国時代(僅か半世紀)のひとつ北漢で、革命を企む男が国を支える様々な未来テクノロジーを駆使する謎の男に取り入り暗殺を試みる話、長めのノヴェレットで面白い。
と、今回も出だしから収録作品のレベルは高く、14作家16編(韓松(ハン・ソン)と陳楸帆(チェン・チウファン)が2作ずつ)が見せるヴァラエティとエンターテインメント性は、原書の表題作となったシリアスなホラーの糖匪(タンフェイ)「壊れた星」から始皇帝がゲーム三昧というハチャメチャな馬伯庸(マー・ポーヨン)「始皇帝の休日」まで素晴らしい。
基本的には若い作家(80年代以降生まれ)の作品が多く採られているが、日本の若手作家によくあるようなライトノベル的な作風があるのかどうかよく分からない。集中最長の作品(70ページ)「金色昔日」の作者宝樹(パオシュー)は80年生まれだけれど、作品は生まれたときから過去へ向かって成長していく人物の物語で、中国現代史を振り返るような、一種危うさを期待させる内容だが、悲恋ものとしても読めるようにしてある。スタイル的にはラノベはあまり中国の若手作家に影響してないようだ。もっとも吴霜(アンナ・ウー)「宇宙の果てのレストラン―臘八粥」のようにパスティーシュまたは2次創作的なファニッシュな作品をものにする若手(86年生)もいて、軽快な面白さを得意とする馬伯庸のような作家もいるらしい。
劉慈欣(リウ・ツーシン)の表題作は叙情的なタイトルと打って変わって、不幸な未来から現在へ未来改変のアイデアが何度も送られてくる悲喜劇。日本なら第1世代の誰かが書いていそうな話だ。
果たして第3弾はあるのか。
ラノベ寄りの作風が特徴の高島雄哉『不可視都市』は星海社FICTIONSから出た1冊だけれど、特攻隊員として散華した若者の遺した手帳に書かれた妄想的理論「不可視理論」を背景にして、不可視理論と不可視都市に絡む3つの時代のエピソードを1章に収めて、各エピソードが絡み合いながら進んでいく長編。クライマックスで出てくる「理論の器」はなんとなくデビュー作のアイデアを思わせる。作者によるとこれは恋愛小説ということで、量子エンタングルメント犬をはじめとした高島ハードSFのアイデア満載だけれど、その舞台は宏大な時空を扱っているにもかかわらず、相変わらず世界が狭いような気がする。
帯に「全国民注目の最新長編小説」と謳っているにもかかわらず、また集英社刊にもかかわらず、地元の3つの書店チェーンに1冊も入らなかった石川宗生『ホテル・アルカディア』は、書き下ろしで造った外枠によって既発表のてんでんばらばらなショート・ストーリー群を長編に編み込んで見せた恐ろしく手の込んだ作品だった。まるで宮内悠介と西崎憲が合作したような印象が残る。
追加された外枠設定の基本は裏帯にあるように「ホテル・アルカディア」支配人のひとり娘がホテル内のコテージに引きこもって出てこないので、そこへ投宿していた7人の芸術家が娘を誘い出すべく各自の物語をもの語るというもの。まあ、ありがちな設定といえるけれど、実作として提出された物語の総体は、文体的な違いは大きいものの山尾悠子さえ思わせるものがある。そういやキャサリン・ヴァレンテの『孤児の物語』なんかも思い出されるなあ。
SFというよりは奇想小説系の世界文学っぽいところは先に出た短編集と同じ感触だけれど、これを長編という概念で提出するところがSFっぽい。実質300ページしかないのに結構分厚い本に仕上がっているところもね。
今月もノンフィクションを1冊だけ。
吉田滋『深宇宙ニュートリノの発見 宇宙の巨大エンジンからの使者』は、最近本屋で見かけて気になったので読んでみた光文社新書の1冊。
高エネルギーニュートリノの観測装置の建設とそれによってどういう風なニュートリノの発見が来され、もしくは発見できないかを示しながら、実験物理学者としてのキャリアを築いていく苦闘を綴ったものなので、深宇宙発のニュートリノを探すというピンポイントなテーマにもかかわらず、比較的読みやすい。まあ、バッタを倒しにアフリカへ行った人のようなスタイルではないので、笑えませんが。
読み終わってみると、必ずしもタイトル通りに終わっているわけではないし、副題の宇宙の巨大エンジンが何なのかはっきりと説明されているわけでもない。その代わりそこへ行き着くための可能性を追い求めることが出来るのだと云うことを、自らの奮闘を描きながら、熱っぽく語っている。
本書に出てくるニュートリノ検出(ニュートリノは直接検出できないのでチェレンコフ光検出)装置はIce Cubeと呼ばれ、南極の地下(といっても氷)1450mから2450mの深さで縦穴を掘り、検出器を縦に60個つなげた「ストリング」を埋め込み、最終的に86本の「ストリング」からなる巨大(1立方キロ)な装置だ。この本を読むまで南極にそんなものがあること自体知らなかったのだけれど、粒子加速器といいこの検出装置といいそのスケールとかかる巨額の費用には毎度驚かされる。このビッグ・プロジェクトは予算的にはアメリカを中心とした国際事業なので、著者は肩身の狭い思いをしながら、独自の実験方法を提案してついに太陽や大気由来のニュートリノではない宇宙から来た高エネルギーニュートリノの検出に成功する。と、なんかやっぱり根性ものみたい紹介になってるな。
ニュートリノと云えばノーベル賞で(スーパー)カミオカンデということになるけれど、この本ではほとんど言及がない。Ice Cubeのイメージは、地下に純粋をためてチェレンコフ光検出器をぎっしり並べるというカミオカンデとかなり近いにもかかわらず、この本を書く上で著者の視野にはカミオカンデは入っていない。ググってみると、カミオカンデの検出装置は本書のテーマである深宇宙ニュートリノにくらべ遙かに低位のエネルギーを持ったニュートリノを対象としたもので、ギガエレクトロンボルト/10の10乗以下程度。本書が目指すニュートリノはペタとかエクサ(10の16乗から20乗あたり)の超高エネルギーのものということで、ある意味世界が違うということらしい。そして著者の最終目標である深宇宙にある筈の巨大なエンジンからやってくる10の20乗レベルの超高エネルギーニュートリノは実はまだ見つかってないし、現在のIce Cubeのパワーでは見つからない可能性が高い。ということで実は次世代Ice Cubeが数年内に建設されるらしい。「待て、しかして希望せよ」かな。