続・サンタロガ・バリア  (第208回)
津田文夫


 3月になっても新型コロナウィルス騒ぎがまだ噂な程度の田舎街だけれど、隣町にはなんとかプリンセスの乗客だった人がいるらしいとかホントに噂らしいウワサが流れていたて、職場ではマスクをしてないと居心地が悪い。
 てな事はおいといて、2月に一番ビックリしたことは朝日新聞読書欄にド・ボダール『茶匠と探偵』が取り上げられていて、書いたのがなんと呉座勇一。中身を読んで、その余りにまっとうなSFレビュアーぶりに仰天。ル・グィンやティプトリーを引き合いに出すなど、堂に入っている。SFファンだったのか、呉座勇一。SFマガジンの塩澤編集長は、呉座勇一に1ページ書評を依頼すると良いかも。表紙で「呉座勇一の書評を掲載」と謳えるぞ。

 山田正紀『戦争獣戦争』は創元日本SF叢書から出た書き下ろし長編。ということで、ちょっと期待して読み始めたのだけれど、うむむ、どうにもノリが悪い。この10年あまりに出た山田正紀のSF作品は楽しく付き合ってきたけれども、どうしたことか、この作品に限って最後まで作品世界が遠かった。
 まあ、たまたま巡り合わせが悪かっただけだと思うけれど、朝鮮戦争が大きく扱われた目次にちょっと期待しすぎたのかも知れない。朝鮮戦争は1950年に勃発した戦争で、すなわち山田正紀が生まれた年の戦争だった。以前取り上げた児島襄『朝鮮戦争』を見ても北朝鮮の電撃的侵攻は韓国側に悲惨としか云いようがない混乱と多くの死をもたらした。そのことはこの作品の中でもソウルを流れる漢江の橋を爆破するエピソードに集約されている。そこへ向けてこの作品のタイトルでもある「戦争獣」を放り込み、「戦争獣」を担う人外の一族たちの戦いと人類側の戦争システムの救い難さを描いてみせる。作品冒頭は原爆後の広島とヤクザ抗争から始まり、広島・長崎の原爆が新しく強大な「戦争獣」を生み出したという設定も語られる。
 ある意味山田正紀の原点回帰的作品のようにも読めるのだけれど、またこれを読みながら、石森章太郎がサイボーグ009で描いたベトナム戦争編やブラックゴースト編から池上永一『ヒストリア』まで思い出してしまうのだが、なぜか「戦争獣」の設定にハマらないものを感じてしまうのだった。

 創元SF文庫のスペース・オペラは当たり外れがあって、こないだ読もうとしたヤツは100ページ読んで、女性主人公がまるでロマンス小説みたいに恋人とのセックスを考え続けるものだから、読むのを止めてしまった。その点、マーサ・ウェルズ『マーダーボット・ダイアリー』はヒューゴー・ネビュラ・ローカスの3冠受賞と帯に謳うだけあって、長編じゃなかったのにちょっと肩すかしを食らったけれど、充分面白いスペース・オペラだった。
 「弊機」が一人称の語り手に慣れるのにちょっと時間がかかるものの、そこさえ抜ければ後はいくらでも読めるエンターテインメントSFになっている。これを読んでて現代スペース・オペラというものは資本主義/商売/取引が世界を支配しているんだなあ、とあらためて思った。
 『スペース金融道』とはよく云ったもので、そういやちょっと前に読んだ『銀河核へ』も商売が世界を支配するスペース・オペラだった。そりゃ『惑星間の狩人』の頃から商売が動機のスペース・オペラはあったけれど、『宇宙商人』にしたって現代スペース・オペラのスケールとは全然違う話だった。こういう設定が当たり前に使われるようになる、商売が前提にあってスペース・オペラの物語が成立する最初の現代スペース・オペラとして頭に浮かんできたのが、映画『エイリアン』だった。あの映画はホラーだけれど、そのホラーをもたらす原因は過酷な資本主義的動機なのだった。
 と、この作品の話がどこかに行っちゃったけど、この作品がエンターテインメントSFとして成功しているのは、なんと云っても「弊機」のキャラクター設定だろう。あらゆるコントールから自己解放してしまったスーパー・サイボーグ/アンドロイド兵器(呼び名は警備ユニット)にもかかわらず、そのヒネくれた考え方が、自己卑下と相まってそのスーパーぶりを読者にイヤミと感じさせない作者のセンスは素晴らしい。当然サスペンス小説としての盛り上がりには欠けるけれども、それを欠点と思わせない楽しさがある。ちなみに「弊機」にはスカートがよく似合うらしい。

 チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』は、そのタイトルの手がかりのなさに、韓国SF小説集と謳ってなければ、多分韓国作家の一般的な文学と思ってスルーしていただろう1冊。目次は2部に分かれていて、第1部は表題のもとに集められた個々に繋がりの見えない短編群で、第2部の「カドゥケウスの物語」の総タイトルのもとに集められた4編は人類が宇宙に進出したなかでカドゥケウス社が支配する社会のエピソードが語られる連作。カドゥケウスはヘルメス(ローマ神話ではメリクリウス)が使う杖のことらしいが、商売に関係があるらしい。
 第1部の短編群を読んでいくと、作者はテーマ的には文学的な主題に関心があるようだが、手法としてはSFの形で書くことが身についた作家という感じがする。表題作の「となりのヨンヒさん」が人間ではないもので、語り手の女性は友人から良くもそんな所に住めるねえと呆れられているが、語り手の怖い物見たさの好奇心と「となりのヨンヒさん」という人外キャラの設定はSF/ファンタジーのジャンル的なものになっている。そこに寓意を見いだすことは文学的には当然だろうが、SFという即物的な手法がSF読みには二重構造というか透かし絵的というか、文学的テーマの浮上を無視して楽しむことができる。平行世界で、ティプトリー・ジュニアではないアリス・シェルドンと会ってインタビューする物語「アリスとのティータイム」は、SFという手法がそのまま作者の書きたいことをストレートに反映出来ているという点で、SFの効用は明らかだ。訳者解説を読むと訳者はSFに関心がなさそうだけれど。

 韓国の次は中国ということで、新☆ハヤカワ・SF・シリーズから出た陳楸帆(チェン・チウファン)『荒潮』は劉慈欣(リウ・ツーシン)より大部若い気鋭の作家によるサイバーパンク・ノワール。
 一番ビックリしたのがタイトルの由来が日本の駆逐艦「荒潮」にちなんだものだったこと。さすがに何ソレと思いましたよ。駆逐艦「荒潮」が昭和18年に沈没して艦長久保木英雄少佐(海兵51期)以下72名が戦死したという本物の戦史から、このSFの技術的前提の開発者(久保木の妻!?)につなげていく手際には驚くほかない。
 とはいえ、作品としてはとてもよく出来ていて、ほとんど甘みがない皆殺し的プロットが作品世界の存在感を強化しているので、ちょっとアメリカン・サスペンス小説を思わせる。最後まで生き延びる(大部ポンコツになったけど)陳というアメリカ帰りの青年の立ち位置が、ヒロインの筈の米米(ミーミー)を怪物にしてしまうように、主要登場人物は全員まともな生き方を失ってしまっている。こういう世界はノワールそのものだ。
 『ニューロマンサー』や『攻殻機動隊』の頃は、まだヒーロー・ヒロインの活躍が読者の興味を引っ張っていたけれど、21世紀中国SFはもはやヒーローもヒロインも失われている。

 日本、アメリカ、韓国、中国とめぐったら次はイギリスか、北欧あたりのような気がしたんだけれど、藤井太洋『ワン・モア・ヌーク』のタイムリミットが迫ってきたため、急遽読み始めてギリギリ3月10日に読み終えた。
 よくやるなあ、というのが最初の感想なのは、奥付が2月1日なのを見れば誰もが思うことだろう。この作品は「3月11日」に東京で原爆テロを起こそうとする犯人側(複数の人物の意向が食い違う)と彼らを追いかけテロを阻止する側(こちらも複数の人物がそれぞれ別の事情で犯人達を追いかける)プロットが採用され、ページターナーの勢いはかなりのものである。
 SFとしては低濃度プルトニウムの原爆化技術とか超高精度大型3Dプリンターとかほとんど現代情報小説レベルでしかないけれど、登場人物達の立ち位置と関係性がすべて分かるまでは強烈なサスペンスが続く。いわゆる秒読み段階になるとさすがにやや先が見えてくるけれど、いまどきこんな作品をモノにする作家は藤井太洋ぐらいのものかも知れない。

 ノンフィクションは何冊かあるのだけれど、またの機会に。 


THATTA 382号へ戻る

トップページへ戻る