内 輪   第352回

大野万紀


 映画「スター・ウォーズ エピソード9」を見てきました。ちょっとバタバタしていたけれど、面白かったです。何というか、突っ込みどころは満載で、なぜそこにあなたがいるのだ、みたいなつじつまの合わなさもあるけれど、スター・ウォーズだからそれはまあかまわないでしょう。もはや宇宙戦争の話というより、それぞれの一族のファミリー・サーガみたいな話になっている気がします。
 とにかく、最初からずっと見てきた1ファンとしては、あのエピローグで大満足です。ただぼくの気持ちでは、あそこにもう一人いてほしかったな(幽体でもいいけど)。とにかくこれで、ひとつのサーガが完結なのですね。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『オーラリメイカー』 春暮康一 早川書房
 第7回ハヤカワSFコンテストの優秀賞受賞作「オーラリメイカー」と中編「虹色の蛇」の2編を収録しているが「オーラリメイカー」が全体の2/3を占める。
 これは遠い未来の宇宙を舞台にしたハードSFであり、ぼく好みの作品だ。〈オーラリメイカー〉とは、惑星軌道を人為的に改変し、その星系の惑星種族の発展を支援するような謎の生命体で、遙かな過去から銀河に多くの痕跡を残している。
 本書は連作短編集のように、その存在に関わるいくつかの物語が組み合わされている。一つは人類の末裔を含む、銀河系の知的種族〈連合〉に属して〈オーラリメイカー〉の探査に向かった〈イーサー〉の物語。かれは太陽系人に連なる存在だ。もう一つは〈知能流〉――人工知能や、肉体を離れソフトウェアになったポストヒューマンたちから構成される――に合流することを拒絶された、ある恒星間宇宙船の人工知能だった〈わたし〉の物語。そしてもう一つは〈オーラリメイカー〉に改造された星系で、知能を得て、やがて宇宙へと進出していく惑星オキクルミの異星人の物語。そして〈オーラリメイカー〉自身の物語である。
 それぞれの物語は断片的で、時系列も大きく異なっている。章題に年代が地球標準年で記されているが、マイナス記号がついていて、物語の原点(オキクルミ人の銀河脱出)から数え、4億年の過去から現代までの膨大な時が流れていることがわかる。百万年などあっという間だ。一つ一つの断片は宇宙の広大さと果てしない時間の流れへの詩情に溢れていて、SF的なセンスが、ワンダーがある。閉塞とそこからの脱出というテーマもよくわかる。とはいえ、断片同士の統一感には乏しく、物語性は薄い。唯一オキクルミ人の物語には大きなドラマがあるのだが、描写が少なくて、いわばあらすじ紹介に留まっているようだ。このあたりが選者にも不満で、大賞にはならなかったのだろう。
 「オーラリメイカー」に不足していた物語性は、「虹色の蛇」には豊富に含まれている。「オーラリメイカー」とおそらくは同じ宇宙の話だが、辺境の惑星が舞台で、そこには電荷を喰う〈彩雲〉という雲のような空中生命がおり、その動きと見事な色彩が観光客を呼んでいる。主人公はそのガイドをしているのだが、人知れぬ過去があり、とても偏屈な人間だ。彼にガイドを依頼してきたのは少年で、痛みを感じないよう改造された〈無痛者〉だった。二人の絡みも面白いし、〈彩雲〉というSF的な存在の生態系も興味深かった。
 作者には才能があるので、これから大きく伸びていくように思う。この世界をもっと深め、様々な宇宙の風景とドラマを描いて見せて欲しいと思う。

『古生物たちのふしぎな世界』 土屋健 講談社ブルーバックス
 恐竜など古生物を中心に活躍されているサイエンスライターの手による、古生代をその紀ごとに手際よく解説した、カラー図版と化石写真がいっぱいの読んでも見ても楽しい本だ。著者のいかにも古代生物が大好きという感じの語り口が面白い。ユーモアとほのかにのぞくオタク心が嬉しい。
 恐竜が王者の中生代は映画にもなって派手だが、古生代も面白い。アノマロカリスを覇者とし、三葉虫など節足動物が繁栄したカンブリア紀、ウミサソリやアンモナイトのオルドビス紀、いよいよ魚たち、わが脊椎動物が頭角を現すシリル紀、まず地上に進出した植物を追って、足のある魚や両生類が陸に上がり始めた「革命」のデボン紀、大森林と巨大昆虫と巨大両生類の石炭紀、そして古生代の最後ペルム紀には、哺乳類の祖先である単弓類が覇者となる。
 ちなみにぼくら昔の人間は、両生類から爬虫類が進化し、爬虫類から哺乳類が進化したと習ったが、そうではなく、爬虫類と哺乳類は連続していないのだそうだ。単弓類も、昔は「哺乳類型爬虫類」と呼ばれていたが、爬虫類とは違うので今では単弓類と呼ぶようになったとのこと。このわれら哺乳類の祖先が覇者となった時代も、古生代を終わらせた史上最大の大絶滅で終わりとなる。
 5億4千万年前から2億5千万年前までのおよそ3億年というこの長い時代から見たら、恐竜たちの中生代も、哺乳類の新生代も、ずいぶん新しい時代だと思えるだろう。古生代というと、あるいは三葉虫でいっぱいの海を思い浮かべる人がいるかも知れないが、ぼくにとっての古生代のイメージは、何といっても石炭紀の大森林と沼地である。奇怪で巨大な昆虫たち。沼地をぺたぺたと歩く巨大な両生類。そう、それはナウシカの腐海のイメージだ(もちろんそのイメージはナウシカ以前にあったものだが、腐海がそれを定着させた)。恐竜時代のスピード感やドラマチックな爽快さはなく、じめじめと不快な、でも静かで不気味な暗さのある地球のイメージ。いや、そういうのも悪くない。これでGさえいなければなあ。図版には「現世のGのことは嫌いでも、石炭紀のこのコまでは嫌いにならないでください」とキャプションがあるけど、見た目いっしょだもん。3億年以上前からずっと同じ姿で行き続けているのだなあ。いやはや。

『息吹』 テッド・チャン 早川書房
 『あなたの人生の物語』から16年ぶりの邦訳第二短篇集。9編が収録されているが、5編が初訳(ただしそのうち1編はSFM2019年12月号に先行掲載された)。
 評判どおりの傑作短篇集である。軽い作品も含まれているが、中心にあるのはやはり優れて現代的な思弁を含む最先端のSFである。とりわけ自由意志と言語(そして時間)、テクノロジーと日常生活の変化、科学と世界のあり方といったテーマに深く切り込んでいる。
 冒頭の「商人と錬金術師の門」はアラビアンナイトの文体で書かれたタイムトラベルものだが、ここでのタイムトラベルは同じ確定した時間線の中で過去と未来をつなぐワームホールのようなものであり、過去も未来も変えることはできない。そうなると当然自由意志の問題が生じる。しかしこの物語では〈門〉を行き来する人間の記憶=情報は継承される。作者が「作品ノート」に書いているように、再帰的なのだ。事象は変えられないが、新たな知見があり、意識は変わっていく。そのことが物語に深みを増し、静かな感動を呼び、面白く読み応えのあるものにしている。
 次の「息吹」はそれこそオールタイムベスト級のとてつもなく知的な傑作。人間は出てこず、機械のような知的生命が生きている世界の、その終末を予感させる物語である。この世界は閉じていて、大気と地下の貯蔵槽の間で空気が循環している。住人たちは取り外せる肺に空気を溜め、それが空になると肺を交換する。空気のある限り住人たちは永遠に生きられる。ところがある時、異常な現象が発生していることがわかり、科学者である主人公はその謎を解明しようとする。その過程で、自分で自分を解剖して見るような描写があり、それも面白いのだが(ぼくは小松左京を連想した)、一番のポイントは、この物語がエントロピー増大による宇宙の熱的死のアナロジーとなっていることである。この世界を動かしている気圧の高低差はいずれ平準化して止まってしまうという、わかりやすい表現でそれが暗示される。きわめて硬質で幻想的な文体によって描かれるこの作品には、科学的でありながら優れて文学的な奇想ファンタジーの感触がある。
 「予期される未来」はショートショートで、これもまた、変えられない決定論的な未来を予言する機械が存在するなら、自由意志はあり得るのかという話。「商人と錬金術師の門」のような物語性はないが、結論は明白である。たとえ自由意志が幻想であったとしても、まあ気にしなければそれでいいじゃないか、と。
 「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は長めの中編で、リアルで現代的な問題意識を持つ作品である。仮想現実の世界でデジタル生物を育てる人々。デジタル生物を本物のペットのように扱い、愛情を注ぎ、時には現実のロボットの体を与える。しかし年月がたつと企業はそのプラットフォームを支えることができなくなり、廃業してしまう。それでも特に愛着をもつ少数の人々は、育てあげたAIたちを何とか生き続けさせたいと思い、ユーザー・グループを作って活動する。まさに現実にありそうなテーマだ。というか、その一部はすでに現実となっているといっていい(ロボット犬AIBOのニュースを思い出す人も多いだろう)。しかし(はっきりとは書かれていないが、少なくともユーザーの目から見ると)このAIたちは自意識をもって生きているのだ。これはグレッグ・イーガンの「クリスタルの夜」や長谷敏司の『BEATLESS』ともつながるテーマであり、例え人間の作ったソフトウェア存在であっても、知的にふるまう存在は尊重しないといけないということだ。そしてそのためには、人間の側にもそれなりの努力が必要となる。
 「デイシー式全自動ナニー」は短めの小説で、ちょっとスチームパンク風な、19世紀に発明されたという全自動育児機を扱った物語。テクノロジーと人間の今日的なテーマを描いているが、ユーザのことを考えずにこれは便利だろうと発明品を押しつけるダメな開発者って、今もたくさんいますよね。
 次の「偽りのない事実、偽りのない気持ち」もテクノロジーと日常生活の変化を描く傑作だ。そしてこれは言語SFでもある。〈リメン〉という進歩したライフログシステムにより、日常の全てが記録可能となった近未来。それは個人の記憶や経験を外部化し、データベースに保存し、「わたし」とは何かという問いさえ、コンピューターに問いかけるような世界である。主人公はそれに疑問をもってはいるが、その答えと自分の記憶が食い違っていることに気づくとき、彼の人生は、そして家族関係はどうなるのか。人間ドラマとしてもとても面白い。一方、この作品にはもう一つの物語、文字を知らないアフリカの部族の少年が、村に来た宣教師から文字を習い、そして部族の伝承と文字に書かれた記録の矛盾に気づくという、パラレルな物語が含まれている。紙に書かれた文字だってデジタル記録と変わりはない。そんな人類の根源的な問題が、SNSやライフログの急速な日常化で、それまでの世界と生活を変えてしまうのだ。
 「大いなる沈黙」は、なぜ宇宙の知的生命が人類と接触しないのかというフェルミのパラドックスを扱った短編で、いや、ちゃんと見て、知的生命ならここにいるよ、という話。
 「オムファロス」も問題作。「地獄とは神の不在なり」と同様に奇跡が存在する世界を扱っているが、ここでは天地創造説が正しく、神がある一時点で宇宙を創造するという奇跡を起こした世界が描かれる。その時に作られた木は、年輪が途中からしかなく、人間にはへそがない。そんな考古学的遺物を発掘し、研究している主人公に、天文学者から衝撃的な発見が伝えられる。それは必ずしも創造説を否定する発見ではないが、神への信仰を危うくさせるようなものだった。現実のキリスト教徒の科学者たちは、信仰と科学の矛盾を乗り越えることが可能だった。でもこの世界では、それは神を否定するに等しいものなのだ。
 「不安は自由のめまい」はまた時間テーマの作品であるが、こちらでは未来は可能性のある多数の並行世界からなっている。プリズムという装置によって、その未来世界のどれかと接続することができ、経路がつながると、一定期間こちらの現在と並行世界の未来との間で相互通信が可能となる(ここでやりとりできるのは情報だけである)。ただし、その未来は自分の世界線の未来ではなく、分岐した別の未来なのだ。今の自分の未来を変えることはできない。でももし違った選択をしていたらどうなったかという未来を知ることはできる。主人公たちはこのプリズムを使って、そういう未来を知りたい(そしてそちらの自分と話をしたい)人々を相手に、金儲けをしようとする。物語も面白いが、そんなガジェットを使っての思考実験も面白い。これもまたいかにも作者らしい作品だろう。

『茶匠と探偵』 アリエット・ド・ボダール 竹書房
 作者はパリに在住するヴェトナム系の作家だが、作品は英語で発表しており、それがネビュラ賞、ローカス賞など多くの賞を受賞している。本書はそれらの中から、いずれも〈シュヤ宇宙〉を舞台とする傑作9編を発表年代順に収録した日本オリジナルの短篇集だ。
 アメリカ大陸を西から中国人が、東からスペイン人が発見したもう一つの時間線の世界。アメリカの中国人植民地はシュヤと呼ばれる国となり、アステカ帝国はメヒコとなって存続した。また東部は東方人、アングロサクソンの国となっている。やがて人類は宇宙へ進出するが、そこではヴェトナムにルーツのある大越(ダイ・ヴィエト)帝国や、白人(紅毛人)のギャラクティク、アジア系のロンといった国家や民族が、互いに戦ったり共存したりしている。シュヤ宇宙とはそんな世界だ。
 銀河に広がっても色濃く残るヴェトナムや中国といったアジア系の文化がエキゾチックに描かれているが、面白いのは深宇宙を航行する宇宙船に搭載される頭脳〈船塊〉だ。それは生体と機械が合体したものだが、人間の女性の子宮に移植され、産み落とされるものなのだ。本書の作品の多くでは、その〈船魂〉が重要なキャラクターとして登場する。またほとんどの作品で女性が中心人物となっているが、性別は重要視されず、翻訳でも性差を示すような言葉はほとんど使われていない。
 「蝶々、黎明に墜ちて」は一番早期の作品で、地球が舞台であり、ホログラム作家の殺人事件をめぐるミステリーとなっている。その謎解きの背景から、シュヤとメヒコの政治的、歴史的な問題が現れてくる。この作品を始め、多くの作品が、内戦や戦争、PTSD、難民といった現代的なテーマを抱えている。
 「船を造る者たち」は〈船魂〉=胆魂(マインド)の物語。宇宙船はその胆魂に合わせて風水やら微妙な調整が必要なのだが、早産しそうだとの報告を受けた〈意匠和合棟梁〉は、それでも何とかやらねばならないと苦しみ、できるだけの努力をする。しかし――。ここでもシュヤとメヒコの関係が宇宙にまで尾を引いている。
 「包嚢」の舞台は地球(大越)から独立した宇宙ステーション。そこでレストランを経営するアジア系のロンの人々が主人公だ。このステーションは大越の敵であるギャラクティクと深い関わりがあり、その首都に留学していたことのある主人公は、ギャラクティクから来た客に接待をすることになる。包嚢とはそれを装着すると様々なデータを提供し、行動を支援し、さらには外見までも変化させる装置だ。そんなガジェットをベースに描かれるのは、ヒリヒリするような東洋と西洋の異文化コミュニケーションであり、自分と、造られた偽りの自分との関係である。
 「星々は待っている」では、戦争で遺棄された宇宙船が集まる隔離された区域で、そこにまだ生き残っている船魂=大叔母さんを探そうとする二人の女性の物語。それとギャラクティクの首都に住む、船魂を産むよう強制されるところをギャラクティクによって救われ、施設に収容されて育った(とされる)大越生まれの女性の物語が並行して語られる。その二つが重なり合うとき、西洋的な自由と東洋的な家族の物語が衝突する。
 「形見」は、死んだ人間の記憶をチップ=永代者にするという話であり、それがある種の人々の間で高値で取引されている。主人公はそれを犯罪組織に売るが、警察の網にかかって、裏切りをせざるを得なくなる。
 「哀しみの杯三つ、星明かりのもとで」も死んだ人間の人格を保存したメモリチップをめぐる物語。ここでは大越の著名な研究者だった母のチップが、その子ではなく、部下だった科学者に渡されて研究を続けさせられる。そこに船魂である娘が関わってくる。
 「魂魄回収」は深宇宙に危険なダイブをして難破船から遺物を回収しようとするダイバーたちの物語。深宇宙は光速を越えることのできる超空間で、いわば非現実の世界であり、生身の人間はそこでは十五分も生きられない(ほとんどコードウェイナー・スミスの世界ですね)。一人のダイバーは、そこで死んだ身内である〈幽霊〉を回収しようとするのだが――。
 「竜が太陽から飛び出す時」は、かつて敵に太陽を攻撃されて脱出し、大越帝国に保護されている劉王愛の人々の物語。しかしかれらに伝わる昔話は真実ではなかったのだ。ここでも奏されるのは戦争難民とその歴史というテーマだ。
 「茶匠と探偵」はボリュームのある中編で、戦争によるトラウマを抱えた輸送船の船魂(アバターとなって船を離れると茶匠をしている)と、常に麻薬を絶やさないが超絶的な推理力をもつ探偵がコンビとなって、深宇宙で起こった殺人事件を捜査する。宇宙のホームズとワトソンの物語である。二人とも女性だが、このホームズがとてもいい。いかにもホームズっぽいのだ。

『生物の中の悪魔 「情報」で生命の謎を解く』 ポール・デイヴィス SB Creative
 長さの割に内容が詰まっていて、語り口は優しいのだがかなり難解であり、読むのに時間がかかった。読み終えてみると、これはとても示唆に富む、とりわけ現代SFが好きな人間にとっては興味深くイメージを刺激される本だった。
 ポール・デイヴィスといえば一般向けの科学書をたくさん出している物理学者だ。物理学者が生命を論じると、なぜかやばいことになるという印象(偏見かも)をもっていたのだが(ホイルとかペンローズとか)、本書はわからないところはわからないとはっきり書いていて、とてもまっとうな印象を受ける。もちろんここに書かれているようなことが、どのくらい科学的に正しい(あるいはもっともらしい)といえるのか、ぼくには正しく判断できないのだけれど。タイトルにあるように、本書の基本は生命を物質、ハードウェアだけでなく情報、ソフトウェアとして捉えようとするものである。DNAを考えてもそれは当然なことのように思える。
 タイトルの「生物の中の悪魔」とはマクスウェルの悪魔のことだ。全体としてエントロピーが増大していく宇宙の中で、生命現象は局所的に秩序を作り出し、エントロピーを減少させる。そこには悪魔(デーモン)が存在している。うん、それは昔からそう言われてきたし、ぼくも知識として知っている。でもそれは実際は何なのか。様々な巧妙な生化学的機構が、生物の中で恒常性を、秩序を作り出している。そんなシステムがどうやってできたのか。進化だ。ではその始まりは。
 まずは生命誕生という謎は置いといて、生命が誕生したその後の、我々が「生命」と呼んでいるものは何なのか、著者はそこから語り始める。そして生命と非生命を分けるものこそ「情報」であるとする。その後の議論は様々な実験結果を示しながら、実際に「情報」が仕事をすることを示していく。面白いのだけれど、じっくり読まないとなかなか頭に入ってこない(ぼくが歳を取っただけかも知れないが)。そして生物(その生化学的な小さな組織の一つ一つ)は単に情報を(スイッチ的に)扱うだけでなく、その大量のネットワーク・パターンをロジックをもって処理する、つまりコンピューター的な計算をしているのだという。その情報は化学的なメモリに保存され、また世代を超えて子孫に伝わる。
 ここで、これまでの進化論にランダムなだけではない、エピジェネティックな要素を加味した「進化論2.0」が現れる。著者は共同研究者とガン研究もやっており、そこでガン細胞は傷ついて異常になった暴れものの細胞ではなく、上位のアプリを捨てて、生物の太古の基本プログラムが起動した状態の、ごく古くて強固な、細胞の防衛機構なのだという説を示す。しろうとのぼくには、いかにも納得のいく議論だ。
 次に著者は量子力学の、とても奇妙に見える現象について説明する。ここは普通の物理学なので、量子力学の実験を知っている人にはおなじみだろう。さすがに一般向けの解説書を多数執筆している著者だけあって、とてもわかりやすく記されている。渡り鳥が地磁気を感じるメカニズムや、われわれが匂いを感じるメカニズムにも量子力学がからんでいるといった説明は大変面白い。
 問題は「ほぼ奇跡」そして「機械の中の幽霊」と題された章だ。「ほぼ奇跡」では、われわれ(SFファンは特に)が自明のものとしている、生命は特殊なものではなく、宇宙には満ちあふれているはずだ、とする「常識」に疑問を投げかける。有名なドレイクの方程式では、この宇宙にもしかしたら知的生命はいないかも知れないが、生命が誕生しうる環境の惑星には必ず生命が誕生する、つまりその確率は1となっていた。これは地球だけが宇宙の中で唯一特異な惑星であるはずがないという、科学的な信念に基づいている。もっともらしいが根拠はない。デイヴィスは、しかし「生命が棲めるからといって、必ずしも生命が棲んでいることにはならない」と語る。もちろん地球以外の生命が一つでも見つかればその反証となる。著者はそこで、宇宙を探すのもいいが、この地球上で、今の生命とは別に独立して発生した生命(あるいはその痕跡)を探すのがいいのではという。少なくとも一つは生命が発生した環境なのだから、もう一つあってもおかしくはない。これってすごく想像力を刺激されることだ。
 「機械の中の幽霊」では、ついに意識の問題に踏み込む。まずは、時間と意識の関係について、実に明確な議論がなされる。時間には「時間の矢」とか「時間の流れ」などは存在しない。それは物理学的な時間のもつ性質ではなく、あくまでもその解釈、複数のイベントを関連付ける情報の流れなのである。ここの説明もとてもわかりやすく、説得力がある。ロヴェッリの『時間は存在しない』でもそうだったが、このような時間理解はもはや常識なのかも知れない。
 かくしてまた情報が重要となる。その情報を処理するのは「意識」だ。その一部はコンピューターでシミュレーションすることもできるが、われわれの情報処理が現在のデジタルコンピューターと同じである証拠はない、というかまずそんなはずはない、と語られる。しかし神秘的な何かでもないだろう。あくまでも自己言及的に情報を処理する物理的なプロセスが存在するはずだ。著者はいくつかのアイデアを述べるが、結論は示さない。まだわからないことが多すぎる。それでもいろいろなことを考えさせてくれる。もしかしたら全く違う何かなのかも知れない。だが科学がその解明に向けて議論を進めているということは、とても刺激的でわくわくさせられることだ。

『月の落とし子』 穂波了 早川書房
 第9回アガサ・クリスティー賞受賞作品。超災害ミステリと帯にあるが、ミステリというより、未知の致死性ウィルスによるパンデミック(封鎖されるのが船橋市だけなのでエピデミックかな)を扱ったSFパニックものである。
 これは面白かった。傑作といっていい。アメリカ、ロシア、日本の国際チームによる月着陸が悲劇の幕開きだった。月の裏面にあるクレーターに降りて土壌採取をしていた飛行士が突然血を吐いて倒れ、死亡したのだ。残ったクルーが着陸船を再利用して死体を宇宙船に回収し、地球へ帰還しようとする。ところがクルーの一人がやはり吐血して死亡し、残ったのは日本人とロシア人の二人だけ。おそらくは持ち帰った月の土壌に未知のウィルスが休眠状態で存在していたのだ。地上と交信しながら何とか帰還を試みるが、それまで無事だったロシア人クルーが発症し、残った日本人クルー工藤晃はついに地球への帰還をあきらめ、おそらくは感染している自分も含めててウィルスを宇宙に廃棄しようとする。だが最後の最後で残酷な運命が彼を見舞う。オートパイロットが故障し、司令船は地球へ、それも日本列島へと落下していくのだ。
 そこまでが第一部。この月面から地球へ戻るまでの緊迫感と、冷静にミッションを遂行していくクルーたち、そして激情にかられての指令に反した行動まで、近未来SFというかほとんどノンフィクションのレベルで書かれていて読み応えがある。
 そしてついに宇宙船は日本に、船橋市の高層マンションに墜落し、付近に大きな被害をもたらす。マンションの破壊と火災による近隣の被害だけでなく、徐々に明らかになっていくウィルス汚染の様子。第二部は、工藤晃の妹でJAXAに勤める工藤茉由(まゆ)が中心人物となる。彼女は筑波で感染症を研究する深田直径(なおみち)と同行して現場へ向かう。そこで見たのは壮絶な光景だった。そして怖れていた感染者が発生し、船橋市は外部から閉鎖される。そして第三部は混乱の中で姿を見失った茉由を必死で探す、ウィルスおたくだったはずの直径の行動が中心となる。政府は封鎖した地域から感染が拡大しないよう、非情な手段もとろうとする。けれど、直径や茉由はついに一筋の光明を見いだし、それがこの災害の終結へとつながっていく。人々が集う結末の光景は感動的で美しい。
 第一部に比べ、第二部、第三部は確かによくあるパンデミックものとなっている(選評にもそのような発言がある)が、ストーリーは力強く、ディテールもよく描き込まれている。またやはり選評にあったが、キャラクターが科学者のわりには感情に寄りすぎているという点はぼくも感じた(冷静に考えてそんな無茶したらダメだろうとか)けれども、それが主人公たちに感情移入と共感を誘い、キャラクターの鮮やかさをより増しているように思う。映画化すれば人気を呼ぶのではないだろうか。
 作者は千葉県出身だそうだが、本書は確かに一種のご当地小説かも知れない。重要なポイントに、千葉県産が有名な食品も出てくることだし。


THATTA 380号へ戻る

トップページへ戻る