内 輪   第350回

大野万紀


 京フェスの後、関西は台風一過で嘘みたいな青空が広がり、ぼくは前から行きたかった国立民族学博物館の特別展『驚異と怪異――想像界の生きものたち』に行ってきました。評判通りの見応えのある展示でした。世界各国の不気味で奇怪な絵や彫刻、古書などがならび、江戸時代に作られたという人魚のミイラなど、想像界の生き物が盛りだくさんです。子ども連れも多く、とてもにぎわっていました。現代編には、五十嵐大介の作品や、ファイナルファンタジーXVのモンスターたちも登場。つまり、そういうものも想像界の生き物として地続きだということでしょう。
 11月26日までやっているので、ぜひ行ってみればいいと思います。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『我々は生命を創れるのか 合成生物学が生みだしつつあるもの』  藤崎慎吾 講談社ブルーバックス
 SF作家でもある藤崎さんのノンフィクション。科学者に取材しながら、独自の視点でまとめあげた「生命」とは何かを考える本であり、それは藤崎さんのSFに感じる独特の生命観とも通じているように思う。
 五つの章で構成されているが、第1章と第2章は海底や陸上に生命の起源を探り、地球生命は海から誕生したという通説に疑問を投げかけ、新たに陸上の温泉地帯のようなところが化学進化の場としてクローズアップされる。
 第3章は本書の表題にもある生命を創ろうとする「合成生物学」の章だ。生命の一部を人工的に創る試みがどこまで来ているのかを、「キッチンでできる人工細胞のレシピ付き」で示してくれる。なかなかドキドキするところである。
 第4章で少し雰囲気が変わる。第4章の前半は生命の「死」をさぐる科学的な試みが語られる。「死」を科学的に定義することの困難さがフランケンシュタインをひきながら示されるのだ。その後半では生物学者でかつ芸術家でもある岩崎秀雄氏が登場し、科学と、それを越えていく「生命観」が語られる。岩崎さんは、茨城県の酒蔵跡に「微生物之塚」「人工細胞・人工生命之塚」を立てた人だ。
 第5章では話が宇宙にまで広がり、それもパンスペルミア説どころではなく、ビッグバンにおける対称性の破れが生命存在につながって、さらに「生命2.0」の誕生へと思索を巡らす。
 そして最後につけられた「本書の未来」では科学的な生命観からはみ出る素朴なアニミズムを、ぞぞわぞわするとしつつ肯定していく。この素朴なアニミズムにはぼくも共感するものがある。ただそれはオカルト的なものへとなめらかにつながっていく。SFなら問題ないが、科学的であろうとするなら、そこで一歩踏みとどまることも必要だろう。

『虚妄のAI神話 「シンギュラリティ」を葬り去る』 ジャン=ガブリエル・ガナシア ハヤカワ・ノンフィクション文庫
 本書は2017年に出た単行本『そろそろ、人工知能の真実を話そう』の改題・文庫版である。ずばりテーマを示すタイトルに改題されている。
 AIが発達してある日「シンギュラリティ」を迎え、人間を越えるものとなり、ポストヒューマンの時代が到来する――というのはSFの題材としてはもう何十年も前からごく当たり前のものとなっているが、それが(例えば)2045年には実際に起こると、真面目な顔で言われると、はぁ?となってしまうのが普通だろう。いやぼくはそれが普通だろうと思っていたのだが、現実はそうでもないみたいなので驚かされる。
 著者はフランスのソルボンヌ大学のコンピュータ・サイエンス教授でAIの研究者であるが、一方でGAFAに批判的で、倫理的・政治的な発言をしている。本書は、まずそういう一部の先端的な科学者や技術者、企業家たちのいう「シンギュラリティ」なるものが根拠のないプロパガンダであることを示し、彼らがなぜそういう発言をしているのか、そこに国家を越えようとするグローバル企業の野望を見ようとするものだ。
 前半については全く同意する。ただし、だからといってポストヒューマンSFを否定する気はない。フィクションを現実と混同するなといいたいだけである。ただ後半については少しわかりにくい。著者はシンギュラリティ信者たちの言い分が、グノーシス主義と共通点をもっているとするのだが、そうなのだろうか。確かにそういう面はあるだろうが、やや一面的な気がする。
 解説の西垣通は日本人のアニミズム的伝統からこの種の一神教的世界観が理解しにくいのだと書いており、だからといってロボット可愛いといっていてはヤバいのだと指摘しているが、いやー、でもロボットは可愛いでしょう。
 巨大IT企業が国家を越えるものとなることについての危惧も、確かにその通りだとは思うものの、ぼく個人としては彼らのおたく的感性を評価したい気もするのだ。もちろんそれが暴走することへの恐ろしさはあるのだが、一国至上主義の政治家よりも多少ともシンパシーを感じる。そのあたりに適切なバランス感覚をもちたいが、例えば藤井太洋の描くSFには、そういった「より良い」未来像を感じるのだ。

『嘘と正典』 小川哲 早川書房
 SFマガジンに掲載された4編とPenに掲載された1編、そして表題柞の書き下ろし1編の6編を収録する短篇集。
 SFマガジン掲載の3編がずば抜けていい。いずれも親子の関係を描く純文学的な作品である(でもSFマガジン掲載でSF性があり、エンターテインメントとして読み応えのある作品なのだ)。
 「魔術師」はタイムトラベルを扱い、過去へ戻って来てその証拠を見せるという大がかりなマジックが描かれる。そのマジシャンの息子(母が離婚したことで、幼いころに別れた)が、姉とともに父親の秘密を探ろうとする話だ。タイムトラベルはあくまでもマジックとして描かれるのだが、それを実現するためのとほうもなくほとんどあり得ない仕込み。いや、もしかしたら――。結末はオープンエンドで、行き場のない余韻を残す。このタイムトラベルがトリックであろうと現実であろうと、そこで流れる時間は本当のものだ。
 「ひとすじの光」は競馬小説。亡くなった父の遺品を整理していた息子は、自分に一頭の競走馬が遺されていたことを知る。その馬は(ぱっとしない成績だが)戦前から続く名馬の系譜を継ぐものだった。彼は父が書いていた遺稿を読み、自らも調査して、その馬の歴史を探っていく。SF的な要素はほとんどないが、ここでもテーマは(帯にも書かれている通り)「時間」であり「歴史」である。この作品はまるで優れたドキュメンタリーを読むようで、今につながる隠されていた歴史が明らかになっていく興味深い過程があり、静かだが熱気のこもった文章が、躍動する馬たちの姿を描き出す。傑作だ。
 「ムジカ・ムンダーナ」には、フィリピンにあるという孤島に暮らすルテア族の社会では、音楽が財産や貨幣の役割を担っているという奇想が描かれる。そこに日本から、作曲家だった亡き父の遺品にあったカセットテープの音楽を探しに男がやって来る。彼は幼いころに父からピアノの異常に厳しい教育を受け、音楽家になるのを断念して天文学を目指した男だ。カセットテープの音楽は、その父が彼のためにと遺したものだった。その原点がルテア族の音楽にあると知った彼は、この島でその意味を探ろうとするのだ。ここでも話はストレートではない父と息子の関係と、さらに音楽と宇宙の関係にまで(ヨハネス・ケプラーがキーワードだ)つながっていく。ハーモニー、調和ということが、音楽という時間芸術の中で描かれる。自分と父の時間。その調和。
 SFマガジン掲載のもう1編「時の扉」は、遠いところから来たという謎めいた男が東フランクの王に物語を語る、寓話のようなスタイルの復讐譚である。この王が何者かは、読んでいけばわかる仕掛けになっている。短めの作品だが、SF的かつ幻想的な要素が濃い。
 Pen誌に載った「最後の不良」は、流行を捨ててミニマルな生き方をするのが当たり前となった社会で、かつての流行を復活させようとする人々とともに、ヤンキーの特攻スタイルという形で体現した主人公が過激なデモに参加する。もちろん茶番だ。個性と流行という繰り返されるテーマに社会批判を加えた軽めの作品だが、ミームが強力な支配力をもつ現代にどう立ち向かっていくかという作品でもある。作者はこういう作品も書くのかと、面白く読んだ。
 書き下ろし「嘘と正典」は時間テーマの本格SFである。いきなり若きエンゲルスが裁判にかけられるところから始まり、舞台は冷戦時代のソ連に移って、実現する可能性の低い反重力装置を研究している技術者と、CIAの工作員の接触が描かれる。ソ連の体制に批判的な技術者がCIAに情報提供しようとするのだが、その見返りに求めるのがレッド・ツェッペリンのレコードなのだ。KGBの目が光るなか、緊迫感溢れるスパイもののストーリーが語られるが、それが過去に情報を送り、エンゲルスを裁判で有罪にすることで共産主義を消滅させようとする壮大な陰謀につながっていく。メインの物語はとても迫真的で面白いのだが、「嘘と正典」というSF的な主題が明白になる後半では、〈正典の守護者〉や〈歴史戦争〉といった話が説明的に語られ(いわゆるタイムパトロール・テーマですね)、いささかバランスが悪いように感じた。そこ、無理に説明しなくてもいいのに、という感じ。しかし、どの作品も読み応えがあり、作者の力量を感じた。

『十二国記 白銀の墟 玄の月(1)(2)』 小野不由美 新潮文庫
 〈十二国記〉の新作長編。まだ(3)(4)と続くので、話は途中だ。ということで簡単な紹介のみとする。
 舞台は戴(たい)国。『魔性の子』、『風の海 迷宮の岸』、『黄昏の岸 暁の天』と続く泰麒(たいき)を中心としたシリーズの続編であり、、〈十二国記〉の中では陽子のシリーズと同様、メインの位置づけをされているストーリー・ラインだといえる。
 なお、本書を読むために〈十二国記〉全巻を新潮文庫版で買い直し、イチから読み直したという奥さんと違い、ぼくは十何年前に読んだきりで、読み直してはいない。でも問題なし。〈十二国記〉を一度も読んだことがない人にはちょっときついかも知れないが、一度でも読んでいて大きな設定がわかっていれば、必要なことは中に出てくるし、細かなことは忘れていても大丈夫だ。
 戴国では新王として驍宗(ぎょうそう)が泰麒のもとに即位したが、驍宗は反乱鎮圧に赴いた先で行方不明となり、泰麒もまた蓬莱(日本)へ流された。その後を悪辣な阿選が簒奪し、圧政を敷いている。泰麒はその後、この国へ帰って来ることができたが、麒麟としての力は半ば失われている。本書の物語は、泰麒の復帰に力を尽くし、片腕を失った女将軍・李斎(りさい)と泰麒が、戴国の寒村で、かつて驍宗の軍におり、今は風来坊となった項梁(こうりょう)と出会うところから始まる。さらに阿選の軍に焼き払われた道観寺院の生き残りの道士・去思(きょし)や、医薬の行商をしている神農の者らと共に、行方不明となった驍宗を探す旅が始まる。
 物語はこの荒廃した世界での道中記を丁寧に描いていくが、途中で大きく二つのストーリーに分かれる。泰麒が突然、阿選のいる白圭宮(はっけいきゅう)へ向かうといい、項梁を共にして、李斎らと別行動をとってしまうのだ。ここで、土匪がはびこる寒々とした町や村をめぐっていく李斎らの物語と、敵であるはずの王宮にのりこみ、驚くべき宣言をする泰麒の物語が、交互に語られることになる。悪辣な敵に支配されているはずの王宮の意外な雰囲気と、その奥に見え隠れする不気味で不可解な謎、そして李斎らが最後に出会うことになる驚愕の事実。それらは続刊へと続くことになる。
 うーん早く続きが読みたいよ。物語自体はなかなか先へ進まず、派手なアクションも少なく、難読漢字だらけの二巻本だが、意外性があり、キャラクターが魅力的なので、どんどん読み進めることができる。とにかくこの重く暗い世界のディテールの描写が実にリアリティに富んでいてとても読み応えがあるのだ。そして、これは想像だが、ここには〈十二国〉のシステムがどのように成り立っているのか、その秘密が明かされようとしているのではないかという予感がある。もちろんはっきりと絵解きされるようなことはないだろうが、想像をたくましくすることはできる。そんな断片が少しずつ見えてくるような気がする。鳩も怪しいなあ。

『遠い他国でひょんと死ぬるや』 宮内悠介 祥伝社
 タイトルはルソン島で戦死したという実在の詩人、竹内浩三の詩から取られている。浅学にしてぼくは知らなかったが、引用されているその詩はとても心を打つ。というか、「声高な反戦も勇ましい軍国主義もない、一人の青年」が絶望的な戦場に送られ(そこでは日本の軍人、軍属が50万人、フィリピン人が100万人以上死んでいる)、見たまま感じたままに戦争をノートにつづったものだ。
 その彼の三冊目のノートを探して、テレビディレクターの中年男、須藤は、会社を辞めてフィリピンを訪れる。以前にクルーと共に山岳民族を取材に来たことがあるが、今は一人で竹内浩三の足跡をたどろうとする。この男、とにかく内面的にうじうじと悩みを抱え、自己否定的で面倒くさい人物である。現実のフィリピン社会の混沌やミンダナオのイスラム独立闘争、戦中・戦後の日本との関係など、重い、重い話になるところだが、突然、トレジャーハンターを名乗るフランス人の美女とそのお付きの二人組に襲われ、まるで昔のドタバタ喜劇のような展開になる。山岳民族の村長の孫娘ナイマ(今はマニラの名門工科大学を卒業したばかり)、彼女を恋してストーカーするフィリピン財閥のボンボン、ナイマの元カレでイスラム教徒のハサンといったユニークなキャラクターたちがにぎやかにからんで、コミカルな冒険小説となるのだ。
 いや、登場人物がみな個性的で、キャラが立っていて、かなり無茶苦茶で、とても楽しい(ただし主人公を除く)。そんな豊かなエンターテインメント性と、過去と現在の戦争の現実と、やたら内省的でうっとおしい主人公と、そして戦没詩人の詩、そんな要素が渾然一体となって、波瀾万丈で、軽いような重いような、不思議な読後感が残る。おまけにナイマには特殊な能力があり、ファンタジーっぽい、「すごく・ふしぎ」な要素もある。結末はまたモードが変わり、もともとの問題意識に戻ってじっくりとそれを描いていく。エンターテインメントとしてはどうかという人もいるだろうが、これはこれでOKだ。
 オープンエンドだが、続編を想像することは自由だ。ぼくとしてはハッピーエンドを願いたい。ただし、おっさんの恋の行方はどうでもいいかも。


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