続・サンタロガ・バリア (第204回) |
映画「アルキメデスの大戦」がそろそろ終わりそうなので見に行かないとと地元映画館に向かうも、気乗りがしなかったのでもう一つのスクリーンでやっていた「アド・アストラ」がSFっぽいしと、フラフラとそちらに足が向いてしまった。
ブラッド・ピット主演作で43億キロ彼方の父に会いに行くという謳い文句程度の予備知識しか無かったが、客席には10人ぐらいいたのでまあ話題作なのかと思いいつつ、見はじめたらなんじゃコリャの連続で、途中から半眼状態で席に沈み込んでしまった。結末は相当ヒドいだろうなと予想していたら予想以上のヒドさで、宇宙ラボの回転アンテナの保護パネルを外し、それを楯にして海王星リングの中を宇宙服で突っ切っていくシーンには、あまりのことに笑ってしまったよ。見たことを忘れるのが吉な映画を見たのは久しぶりだったなあ。
その後、仕事の師匠が「アルキメデスの大戦」を見てきて面白かったとのたまうので、やっぱり見ておくかと見に行ってみた。こちらは海軍史的な観点からは、いかにも漫画なストーリーづくりだけれども、歴史改変SFというよりは後出しじゃんけん的な視点での戦艦大和建造阻止のドラマづくりはまあ人を喰っている。最後にどんでん返し的に付けられた主人公のお株を奪う形で敵役の造船中将(名前が変えてあるが、平賀造船中将がモデル、ただし残された資料からイメージできる実在の平賀とはまったく別なキャラクターになっている上に、この映画の設定である昭和8年には予備役になっていて東京帝大教授だった)が壮大な「大和」の歴史的意義を語っているので、一種「大和ミュージアム」のコンセプトを宣伝してくれているようなものではあった。
師匠が面白がっていたのは、たぶん師匠がこれまで研究してきた軍艦づくりにまつわる知見がストーリーのあちらこちらにはめ込まれていてそれが面白かったようだ。
前回の積み残し神林長平『先をゆくもの達』は、近年年発表された長編群に較べるとエンターテインメント的なサービスがほとんど無く、ひたすらスペキュレーションに偏った議論小説になっていた。これがSFマガジンに連載されたのは、神林長平にとってホームグラウンドであるSFマガジンには一種の純粋SFを書きたいという志向があるからだろう。60代半ばを迎えたベテランSF作家にとってエンターテインメントに載せてSF的なテーマを追うことはひとつの手業として完成しているのかも知れないが、そのような発想ではなくて、こんなことが今の神林長平にはリアリティがあるSF的なテーマなのだと読者に訴えかけているようなそんな雰囲気が感じられる。そういう意味では神林長平は歳を取らないと云えるだろう。ただ、読者としてここに示された数々のスペキュレーションについて行けるかというと心許ないものを感じるのも確かだ。
ところで、ジャケットのDesign & Illustration =岩合重力+塩澤快浩ってナニ。
ノヴェラくらいの長さの小説を単行本で出してもらえるということはそれだけ出版社から厚遇されているのかと思わせるのが、高山羽根子『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』。高山羽根子の作品としてはストレートに女性をテーマにした感じの一作。どっかで聞いたような題だなあと思ったら、ボブ・ディラン初期のアルバム『時代は変わる』のタイトル曲の歌詞に出てくる一節だった。物語では、主人公の少女時代の体験の回想と、人が多くあつまる公園での、高校時代の男友達に追いかけられるクライマックスのエピソードで性的アビューズが語られていて、まるでフェミニズム小説のような感触を受けるが、高山羽根子の感性はそういうストレートな類型を外している。その感性の説明のしようのなさが高山羽根子という作家のキモかも知れないなあ。ディランの歌の歌詞とどう関係しているのかはググッてね。
9月はまず長編をと思って手にしたのが、ウィル・マッキントッシュ『落下世界』上・下。原題は“FALLER”で表紙のイラストから落ちる人の話らしいと見当して読み始めると、いぎなり宙に浮かぶ街の切れっ端を舞台に、名前など特定記憶を失った主人公が食糧問題が深刻で口減らしのためには子供さえ宙に放り出されるという過酷な世界にいることが物語られる。これはなかなか期待できるフックだったが、この世界と交互に語られるのが、二大勢力の世界大戦が始まろうとしている近未来のアメリカ。そこでは天才科学者が人体コピー機(人体が作れる3Dプリンター?)で不治の狂牛病(?)に冒された人を救おうとしていた。そして偶然シンギュラリティ(特異点/ブラックホール?)を捕獲してしまう。
記憶を失った男がパラシュートの使い方を思い出して、それを見世物にして稼ごうとして失敗し宙に放り出されるというプロローグはわくわくさせるものがあるが、しかしこの物語は長編であることによってその魅力がどんどんと色あせていき、上巻の終わりで人体複製器と土地が宙に浮かんでいる世界との関係が明かされた時点でほぼ物語への興味は尽きてしまった。残るはシンギュラリティと宙に浮かぶ土地との関係だけれど、まるで大昔のSFみたいなことになっている。
解説を読むとこの作品はもともと短編だったということで、おそらくその短編の方がこの長編よりずっと面白いに違いない。作者にはまだ長編のコントロールが難しいようだ。
めぼしいSF長編がないので読んでみたのが、ジャスパー・フォード『雪降る夏空に君と眠る』上・下。原題が“EARLY RISER「早期起床者」”で邦題がこのタイトルというのは、ラヴィ・ティドハーの『完璧な夏の日』の原題が『暴力の世紀』だったことを思い出させるけれど、さすがにこの邦題はやり過ぎで覚えられないうえに内容と一致しているとも思われない。なお一時日本でも話題になった〈文学刑事サーズデイ・ネクスト〉は読んでない。
これはSFとしては、オルタネイト・ワールドものに属する設定で、この世界では殺人的な冬を生き延びることが何よりも優先されており、この世界特有の技術が発展している。ただしその他の技術は我々の世界よりよりかなり遅れていて、たとえば物語のサスペンスづくりの鍵になるものが、エジソンの録音再生用蝋管だったりする。
開巻早々若い主人公はゾンビみたいな婦人を連れて旅に出ているのだが、この婦人がもつ楽器ブズーキで奏でられるのがトム・ジョーンズの『ヘルプ・ユアセルフ』で、それを聞いた行きずりの婦人が『シーズ・ア・レディ』が弾けたらいいのにとコメントするが、こういうものが当方にはリアリティがありすぎてどうにも作品世界に入れなかったりしたのだが、雪の妖怪が出るときに『サウンド・オブ・ミュージック』からの渋めの曲が聞こえたりするのを目にすると、これが作者のオチョクリ/サービスだと分かる。また冒頭から(注)が見開きページ末に出てくるが、この(注)は語り手である主人公が書いた(注)なので、この作品は回想録であり、主人公はどんな目に遭っても死なないことが保証されている(とはいえ、最後の1行がシルヴァーバーグみたいに「原文のママ」というのもあるけれど)。
ということで読み進むにはなかなか抵抗感があって時間がかかったのだけれど、読後感は悪くなく、『ハローサマー・グッドバイ』の冬世界を思い出しながら読んだ感じだ。
この作品では主人公以外の登場人物は次々と死んでいくのだけれど、ジャスパー・フォードの書きっぷりはどこかおとぎ話風であまり残酷さが感じられない。そういえば『落下世界』も次々と人が殺されているが、後味が悪くそれも点が辛くなる理由だった。
SFとして読むには設定の理屈づけが弱いけれど、ジャスパー・フォードの物語力はそれをモノともしないだけの推進力がある。
解説を読むと、「ただのSFではない」というクリシェが出てきて、まだ使われているんだなあと感心した。
ジャスパー・フォードを読んでるうちに出てしまったのが、チャールズ・L・ハーネス『パラドックス・メン』。中村融氏の訳者あとがきを読んで、どれどれと読み始めたら数日で読み終わってしまった。まあ文庫で300ページあまりで元祖ワイドスクリーン・バロックという物語なんだから、若いときなら1日で読んでいただろう。
65年前に出されたSFが50年前にオールディスによって大傑作と持ち上げられて以来、伝説的作品として未訳のまま(ファンジンに訳されたことがあったっかな。『リタネルの環』は東大のファンジンに訳載されてたよね)だったのが、ようやく邦訳がなったわけで、まずはめでたい。
作品内容は今更紹介のしようも無いけれど、これを書いていたときのハーネスが神がかっていたのは確かだろう。ものすごいドライブ力と破綻の少なさは、いまでも読み手を驚かせるに十分だ。そりゃ戦前のアメリカ的モラルと風俗を超越したところまではいってない(そんなことは不可能に近い)から古めかしさは免れ得ないけれど、『落下世界』を読んだ後に読むと、これがSFだよなあとつぶやかざるを得ない。
『三体』がなければ、今年の翻訳SFのベストといっていいくらいだ。
どうも『三体』以降夏枯れ気味な感じのあるSFプロパー長編なので、キャサリン・M・ヴァレンテ『パリンプセスト』に手を出す。
ヴァレンテはこれまで短編を除けば〈孤児の物語〉しか読んでないので、必ずしも作風をつかんでいるわけではないが、これは架空のジャパネスクを標榜した夢の場所をめぐるファンタジーのようだ。「ようだ」というのは「パリンプセスト」と呼ばれる夢の場所へ向かう4人の主要登場人物のエピソードが交互に語られつながっていくのだが、その一人が日本女性で日本と日本文化への言及が頻繁に出てくるにもかかわらず、日本人読者には少しも日本的に感じられないからだ。
ただしそんなことはこの物語の欠点でも何でも無くて、むしろこの物語の不透明さを強調する手法として用いられているように感じられる。登場人物達が織りなすヒリヒリした個々のエピソードは読めても、物語全体の像は、結末の一人称(パリンプセストか)の終結宣言を読んだ後でも結ばない。
ヴァレンテのファンタジーは静謐で具体的ではあるが、マキリップみたいな一瞬の魔法の使い手ではない。
日本も夏枯れ状態で、読んだ中で長編と云えるモノは高島雄哉『エンタングル:ガール』のみ。アニメの『ゼーガペイン』は見ていないので、仕掛けは当然知らないんだけれど、話がはじまってずっと続く主人公の映画つくりの話が、所々に出てくるナゾな何かによって、SFとしての設定につながることが見えてくる、というか昔押井守がやっていたパターンをなぞらえるような感触があるので、その最新型であることは読んでいるうちに分かる。ロジカルな奇想と現代諸科学の知見の示すSFへの導線はどちらが面白いかという感じもするけれど、まあどっちだって楽しめればいいじゃんということではあるな。
既読が巻頭の「コンピューターお義母さん」だけだった澤村伊智『ファミリーランド』は、ホラー作家のSF作品集。
怪奇小説は好きだが、ホラーには不感症なので基本的には読まないという人間なので、澤村伊智のホラーSF作品集もあまりピンと来ないのが残念だ。
既読の1作は結構面白く読んだ記憶があって、再読でもヒネリ具合に一興が感じられた。しかしながら初読の他の作品はその面白さがピンとこず、「今夜宇宙船(ふね)の見える丘に」のSFサタイアもケン・リュウに似たような作品があったなあという感想が先に湧いてしまう。基本的にはリアリティをうまく描ける作家だと思うけれど、ホラーの性質が当方向きではないということが分かったと云えようか。
収録作がすべて大森望のオリジナル/再録アンソロジーで既読という宮部みゆき『さよならの儀式』は割と覚えている話が多く、できるだけ積ん読にしておこうと思ったのだけれど、読んでしまった。
再読して改めて思ったのは、宮部みゆきの読者に対する「日常」の提示がとてつもなく上手いんだなあ、ということだった。宮部みゆきの読者にはナニを今更な感想だろうけれど、その「日常」の提示があればこそ、結末に向かってのヒネリの効果の効きが深くなる。
読んでもすぐに忘れる人間なので、今回の再読では最近読んだモノはどちらかというと「日常」の話が記憶されていて、ヒネリの方を忘れていることが多く、ああそうだった思い出す楽しみ(?)があった。すっかり忘れていたのは「聖痕」で、10年近く経てばどれほどのヒネリでも忘れてしまうんだなあとわれながら感心した次第。
最後の「保安官の明日(あす)」は珍しく「日常」抜きで書かれたストレートなSF落とし話。古くはポール・アンダーソンの「幻影の町(だったっけ)」あたりを思い出させる構成で、そういえば『エンタングル・ガール』もそのバリエーションだったんだなあと気づいた。SF的アイデアは(自然発生的に作家が考えつくという意味で)何度でも繰り返し使われる。単に世界は見かけによらないというだけの話でもあるが。
それにしても、長編を読むより短編集を読んでいた方が収穫が多いというのは残念だなあ。
ノンフィクションは前回の積み残しで、豊田有恒『日本SF誕生 空想と科学の作家たち』だけ。
豊田有恒視点で描かれた第1世代のエピソードの数々は、必ずしも新しい情報が満載というわけでは無いけれど、視点を変えれば見え方も変わるし、ここではノスタルジアがすべてを温かい(!)ものにしているので、そういうものとして楽しく読んだ。これまで知られた60年代とその前後の時代のSF作家クラブの神話は豊田有恒によっても強化される一方だ。最上葉月の星新一本もあることだし、この手の本としてはこれが最後かも知れない。眉村さんや伊藤さんが書くとは思えないし。