続・サンタロガ・バリア (第203回) |
7月に金を使いすぎたので8月はジッとしておこうと、本を読んでいたら結構読めたけれど、なぜか短編集ばっかり読むことになって、その数合わせてなんと108編(煩悩かよ)。プロの書評家ならまあなんてこと無い数字かも知れないが、これを毎月やっていたら、年に1200本くらい短編が読めるということになる。大森望あたりはやっていそうな数字だけれど、毎月100編短編を読んでイチイチその内容を覚えていられるようなら、仕事とはいえやっぱり大したものだなあと思う。
今回108本の短編を読んだ中で、その作品の出来とは別に(いや素晴らしい作品ですが)、久しぶりに思い出したヘンな記憶がある。それは高野史緖「グラーフ・ツェッペリン 夏の飛行」に出てくる語り手の女子高生の、幼い頃銀色に輝くグラーフ・ツェッペリン飛行船を見たという記憶の話につられて出てきた記憶だった。
おそらく小学2年生か3年生の頃だと思うが、前回にも書いたとおり、当時は東京の片田舎だった昭島市の小学校に通っていたが、この小学校は真ん中が高校でその向こうが中学校に続いているという小中高がワン・セットになってに設置されていた場所にあった(今もあるが)。低学年の小学生にとって一続きの校庭は遙か彼方という感覚だったが、ある日の夕方誰もいない小学校の校庭でしゃがんで何かをしていて、ふと顔を上げたときに、その一続きの校庭の向こうから校舎よりも遙かに巨大な銀色の物体が地上から空に向かって斜めに動いていくのを唖然(というかボーっ)として見ていた記憶がよみがえったのである。それが一種の幻視だったことは、そのあとの記憶がいっさい無いし、そのことを誰かに伝えた記憶も無いので間違いないだろう。いま思うと多分強烈な夢だったのだろうけれど、なんか久しぶりにその記憶がよみがえってビックリしたのだった。ま、ガキの頃から空想好きのボンヤリだっただけの話なのだが。
今回読んだ短編集を見てみると、翻訳モノは1970年代以前の古い作品ばかりだったけれど、日本の短編集は1990年代以降、多くは去年と今年に発表されたものばかりだった。
その古い作品を収録した翻訳SFの1冊目がフレドリック・ブラウン『フレドリック・ブラウンSF短編全集1 星ねずみ』。
表題作は河出文庫の年代別SF傑作選の第1巻の表題作でもあったのでそれほど懐かしさはないけれど、「エオタイン・シュルドゥル(諸行無常の物語)」や「最後の恐竜」、「天使ミミズ(ミミズ天使)」は半世紀前の中学時代に強烈な印象をたたき込まれて以来の再読だった。個人的には( )内の旧訳題のままでしか今後も覚えていられないだろうと思うが、それはともかく『天使と宇宙船』に代表されるブラウンの短編集が中学生の自分にとってどれほど面白かったのかを再確認できたのは良かった。明快な新訳を施した訳者には悪いけれど、「ハイワンテール」や「バッド・ライ」という旧訳版の「ミミズ天使」に出てきた綴りミスの説明は、これからも頭にこびりついたまんまだろうな。
作品としてみれば現代的なSFとしてはすでに役割を全うした古典であって、その原型とも言うべきエンターテインメントの手際を学ぶのには不足はないけれど、現代のエンターテインメントを読み慣れた人で、この作品集を初めて読む人が感心するようなものになっているかどうかは心許ない。まあ、本のお値段からして若い人が買うことは念頭にないのかも。
ブラウンを読んだので積ん読にしていたカート・ヴォネガット『カート・ヴォネガット全短編4 明日も明日もその明日も』も読んでしまった。
こうして100編近いヴォネガットの短編を読んでみると、1950年代に原稿料の高い雑誌が家庭向きのものだったことで、SF作家としてのヴォネガットというイメージが偏ったものであることがよく分かる。もちろんSF的設定がなくてもヴォネガット印の作品と感じられるものは多々ある。そうはいってもSF読者として期待し、また面白がれる作品がSF的なアイデア・設定をもったものに多いのは確かだ。その意味で最終刊の巻末にようやく収められた「ハリスン・バージロン」、「モンキーハウスへようこそ」、「ザ・ビッグ・スペース・ファック」といった「未来派」に収められたわずかな数のSFがやはりSFのヴォネガットのイメージを確定的にしてくれている。ポートフォリオのコンサルタントや学校のブラスバンドの先生のお話がつまらないわけではないけれど、もう一回読みたくなるのはヴォネガットのSF短編の方だ。「ザ・ビッグ・スペース・ファック」のやけっぱちぶりは何回読んでも笑えるし。
お次はハーラン・エリスン編『危険なヴィジョン〔完全版〕2』と『危険なヴィジョン〔完全版〕3』。
『2』の冒頭のハワード・ロドマン「月へ2度行った男」あたりは今読むとSFでさえなくて、普通の大人の小説に見える。そういう作品はいくつかあってエリスンのお眼鏡にかなったという意味ではSFにとって「危険なヴィジョン」だったのかもしれない。ディック「父祖の信仰」やライバー「骨のダイスを転がそう」は今でも見事な短編で、もはや『危険なヴィジョン』収録作だったことが初出以上の意味を持たないほど作品自体の強度が高い。その一方でポール・アンダースン「理想郷」は前半が面白いいつものアンダースン作品だ。デイヴィッド・R・バンチのモデラン・シリーズの1編と独立した1編の2作のショートショートが読めるのはご褒美に近い。
そのようなことは『3』でも言えて、ソーニャ・ド-マン「行け行け行けと鳥はいった」はSFともいえるが、いまなら文学的な作品としての評価が先に立つかも知れない。その一方でキース・ローマーは「破壊試験」で古めかしいアイデアのSFを書いているが、ローマーの得意技である(当時の現代を舞台にした)アクションとサスペンスは健在だ。スピンラッドの「カーシノーマ・エンジェルス」は、今回読んでその内容が明確に分かったので、藤子不二雄の「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」のお手本だったんだろうなと改めて得心した次第。大野万紀さん訳のゼラズニイ「異端車」もイメージ喚起力が上がっていて車との闘牛シーンがアメリカン・コミックみたいに頭に浮かんでくる。
普通のオリジナル・アンソロジイとしては、掲載作にアタリの作品が結構入っていて、オリジナルの発刊から半世紀が過ぎたいまでもお買い得のSFアンソロジイと云えるんじゃないでしょうか。エリスンのおしゃべりに魅力を感じない人には、オススメできないけれど。
半世紀前には事件でも、半世紀経てば事件の証拠に過ぎないわけで、どういう事件だったかを確認できるようになったというのが今回翻訳された意義ですね。
積ん読になりそうだった菅浩江『不見の月』読もうと思ったら、前作が積ん読のままだったことを思い出し、2004年刊の文庫を探して出して読んでみた。
菅浩江『永遠の森 博物館惑星』は星雲賞と日本推理作家協会賞を受賞したと帯に謳われているとおり、ラグランジュ・ポイントに設置された全体が博物館という小惑星を舞台にして、博物館各部門のコンピュータを統括する上位コンピュータに直接接続できる男性学芸員を主人公に、毎回事件の発生とその顛末が語られる連作短編集だった。
著者が30代に入って6年を費やした各エピソードはよく練られていて、ミステリ的な興味が強いものの、芸術論的なテーマと主人公の成長小説としても読めるようになっているところがSFとしてもミステリとしても評価された理由だろう。それに読後感が爽やかなところが読者の支持を増やしたと思われる。
その著者が50代を迎えようというときに書かれたのが、前作の設定をそのまま生かした『不見の月 博物館惑星2』ということになる。前作で新米だった学芸員がここでは若い主人公の後見役となり、事件の発生とその顛末は新人女性学芸員ではなく、新人警備員の若者の視点で語られる。著者の視野は前作以上に広く、登場する各キャラクターには個々の背景があり、なかでも主人公の青年と相方の新人女性学芸員にはかなりの経緯が付されて、今回まとめられた6編では収まらないミステリを作り出しており、それは現在SFマガジンに続編が連載中ということである。芸術論の方は前作よりも現代芸術論的な議論に重きが置かれ、主人公が警備員ということもあってサスペンスも強めになっている。『永遠の森』の主人公の奥さんが続編に出てこないのかなと思っていたら、最終編でスーパー学芸員になって帰ってきた。
両巻合わせて13編を続けて読むと、博物館惑星の舞台が広くなっているのが分かる。
なんだか久しぶりに読んだような気がするのが、草上仁『5分間SF』。いわゆるショートショート集だけれど、中には5分じゃ読めないよ、という作品も混じっている。作品の発表年代は1991年2月号のSFマガジン掲載作から2019年4月号の同誌掲載作までほぼ30年近くにわたるにもかかわらず、菅浩江と違って視点の変化はあまり感じられない。
基本的に昔懐かしい、結末でオトすタイプの作品が多く、そういう類いの作品はウマい、座布団ひとつという楽しさだけれど、「ひとつの小さな要素」やその次の「トビンメの木陰」あたりはSFとしての効用が深くて、オトしてあるんだけれど、それ以上の広がりがある作品に仕上がっている。草上仁もついに還暦を迎えるということで、果たして2足のワラジを片方脱ぐことになったのだろうか。ちょっと気になる。
大森望責任編集『NOVA 2019年秋号』は、新規オリジナル・アンソロジーのようやく第2弾。
収録作家は谷山浩子は別格としても、ベテラン勢と新進気鋭が半々という組み合わせ。
その谷山浩子「夢見」が冒頭に収められていてなかなか凄味のあるファンタジー/ホラー。夢見は語り手の名前だけれど、最後の一行のセリフが効いている。
今回は冒頭で昔の(偽?)記憶のことを書いたけれど、そのきっかけとなった作品を書いた高野史緖は、リアルな高齢者ケア施設の話をファンタジー/ホラーへと転換して見せている。まあ、作者の年齢からするとそういう世代のリアルだよね。
高山羽根子「あざらしが丘」と田中啓文「宇宙サメ戦争」は編者も言うとおり、クジラ対サメ合戦だけれど、高山作品はどう見ても「50代からのアイドルオタク」である大森望に宛てて書いたとしか思えない内容。田中作品はスタートレックなどを下敷きに相変わらず凶悪なギャグを噛ましている。
麦原遼「無籍の船」はいまどき珍しいストレートな数学SF、話の作り方がちょっと草野原々に似ているような気がする。その草野原々「いつでも、どこでも、永遠に。」は相変わらずの草野原々で、芸風がこれ一本でどこまで行けるかの実験をしているみたいだ。だたし今回はちょっと田中啓文が入っているような・・・・・・。
大森ゲンロンSF創作講座出身というアマサワトキオ「赤羽二十四時」は、コンビニの店自体が野良時代の本能を取り戻して暴れまくるという、ナンセンスながらリアルなコンビニ店の実態が妙におかしい1作。アマサワ作品を読むのは初めてだったが、なかなかのパワーの持ち主である。
藤井大洋「破れたリンカーンの肖像」は、珍しく茶目っ気で勝負した時間SF。「刑事コロンボ」ももう記憶の彼方なので、今頃そのネタかいってオロロキましたぜ。
巻末の津原泰水「戯曲 中空のぶどう」は本当に戯曲形式で書かれた、ト書きとセリフだけの作品。内容は静謐で硬質な津原作品になっている。それはともかくセリフが途切れた場面のト書きに「バッハ〈無伴奏セロ組曲第1番ト長調〉前奏曲が響いてくる」とあるんだけれど、最近実際に見た演劇で場面転換の暗闇にこの曲が流れているのを聴いたことがある。その時思ったのは、ホールのデカいスピーカーでバッハの無伴奏チェロ組曲第1番前奏曲(昔TVCMでも使われていた)を大音量で聴くと全然曲の印象が変わるなあということ。津原作品では「どこからともなく・・・響いてくる」という使い方なので、多分大音量にはならないだろう。
ついに最終巻となった大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』。この(作品がすべて前年発表という意味で)再録アンソロジーのいいところは、再読作品が半分程度しかないところだろう。もちろん再読でもいいんだが、さすがに1年前くらいに読んだ良作はまだ忘れていないものが多いからねえ。
初めて読んだものから、いくつか拾うと柴田勝家「検疫官」は物語を検疫するというアイデアを読める作品に仕立て上げているところが素晴らしい。藤井大洋の表題作は『東京の子』と同じくらい近未来の物語。確かにすでに現実じゃないかと思わせる内容ではある。
西崎憲「東京の鈴木」は歴史に埋もれた謎の危機が世界に蔓延する話。なんかピンチョンの話みたいだ。
水見稜「アルモニカ」はコマ落とし歴史物、グラス・ハーモニカ/ハープを扱って素晴らしい効果を発揮する。水見稜は全然衰えてないなあ。坂永雄一「大熊座」はテリー・ビッスン作品へのオマージュだが、作風はラファティっぽい。飛浩隆「『方霊船』始末」は『零號琴』スピンオフで楽しく読める。長谷敏司「1カップの世界」は『Beatless』のスピンオフだけれど表現は本体よりストレート。高野史緖は言及済み。
そしてアマサワトキオ「サンギータ」ということで、第十回創元SF短編賞受賞作。先に『NOVA』収録作を読んでいたので、とても新人とは思えない話の運びに関心した。ただし生き神少女クマリものは、直接ではなくともいくつか先行作があるので、この作品では、読後やや計算の立て方が見えてしまっているような印象が残る。とはいえ新人賞に選ばれる資格は充分で、読んでいる間はエンターテインメントの勢いを楽しめた。
今回読んだ短編集の最後は、伴名練『なめらかな世界と、その敵』。収録6編中最初の表題作を含めた4編は、すべて大森望・日下三蔵編の『年刊日本SF傑作選』で読んでいるので再読だ。
初読の2編は、まず「シンギュラリティ・ソヴィエト」。米ソ冷戦の歴史が両国のスーパー電脳合戦に置き換わっていて、ドラマはソ連に入り込んだ米国の男性ジャーナリストをソ連式シンギュラリティ達成の歴史を紹介する資料館の女性学芸員が尋問するという形で進行する。女性には誕生日を迎える娘がいて、これで誕生祝いに間に合うように帰れないという伏線エピソードが付いてくる。米国男性の切り札が女学芸員の素性を喝破することだった。
西側から見たソ連の暗い雰囲気が見事に再現されていて、米ソともディストピアだけれど、シンギュラリティAI同士の戦いは現実を侵食して、女性学芸員と男性ジャーナリストの問答が変容する現実として顕れる。ソ連側は階級によってアクセスできる情報量が制限されているが、そのリミッターが外れるとあらゆる情報にアクセスできてしまうところなど、よく出来ている。結末は誕生日をすっぽかされた娘が出てきて、すべてをかっさらっていく。でも暗いぞ。
書き下ろしという「ひかりより速く、ゆるやかに」は読み始めてしばらくすると、これがワトソンの「超低速時間航行機」とシェパードの「竜のグリオールに絵を描いた男」が思い出されるようにつくられていることがわかる。新幹線のひかり号が超低速航時機であり竜でもあるという離れ業。ストーリーの方は当然ながらオリジナルで、めずらしく男子高校生が語り手。とはいえ派手なシーンは、新幹線に乗っている語り手の幼なじみの女の子の異母姉が演じている。なんとなく宝塚線の事故が思い出されるのは、ひかり号乗客のために碑を建てるという話があるからだろうな。
帯に塩澤編集長のキャッチで「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」とあるが、「世界で」はともかく、巻末の謝辞を読んだり、SFマガジンの記事を読んでいるとそんな感じがすることは確か。いまだにウォルハイムの迷言は生きているということか。
ということで、高山羽根子のノヴェラ単行本と神林長平の新作長編も読んだのだけれど、ちょっと疲れたので、次回に。