続・サンタロガ・バリア  (第202回)
津田文夫


 今年はSF大会が大宮の彩コンということで、東京立川に2泊、大宮1泊でちょっとしたセンチメンタル・ジャーニーをしてきた。
 というのは、中学3年の夏休みまで西立川というところにいて、2学期から広島の中学校に転校したのだが、西立川が属している昭島市の中学で2人だけでやっていた写真クラブの相方が現在甲府にいるので甲府まで行き、また当時彼と一緒に入り浸っていた近所の写真屋さん(当時出たばかりのバラード『結晶世界』を読んでみろと貸してくれた)が、その後出身地の仙台に写真スタジオを開いていたのだが、本人は当方が現役時代に亡くなってしまい、今回奥さんに挨拶に仙台まで行ってきた。甲府に3時間、仙台に至ってはわずか2時間の滞在だったけれど、まあ気は済んだ。

 彩コンも実は小川隆さんを偲ぶ企画さえ出られればと思っていたので、基本ディーラーズ・ルームの「イマジニア」のブースでボヤーッとしていた。それでもファンジンの歴史と桐山さんに勧められて台湾SF企画に参加。台湾SFは若くてファニッシュだなあ。あと星雲賞授賞式は見た。エレベーター待ちがひどかったのを除けば、いい大会でした。スタッフの皆様ありがとうございました。

 大宮で取ったホテルは最悪だったけれど、立川のワシントンとホテル日航は一応マトモなホテル。今回はワシントンの勝ち。最終日の月曜に西立川を歩き回るつもりだったけれど、朝から猛暑だったので、さっさと帰宅の途に就いた。

 『君の名は』は1回見たきりだったが、今回『天気の子』を見て、新海誠の作家性が分かったような気がした。新海誠のオリジナル・ストーリー路線は、新海誠自身の表現欲が前作も今作も基本的に同じ衝動の現れだと思わせるのだった。精緻な現実的風景がシュールレアリスティックな飛躍への願望を保証する。精緻な作画はそれ自体がファンタジーだ。その精緻さの中にいる日本的なアニメキャラクターたちが新海誠の憧れを形にしてみせる。少女が少年の祈りの対象であることでリアルな世界はファンタジーと化して、ファンタジーが実現した世界として物語が閉じられる。新海誠はSFとしての設定にはこだわらないが、ファンタジーの要請としてSFを感じさせる構造を物語に組み込んでいるので、その作品にSF感が充満するのだろう。

 7月の初めに劉慈欣(リウ・ツーシン)『三体』が出たので、6月に出た他の作品をほっぽらかして早速読んでみた。
 第1部「沈黙の春」は冒頭から文化大革命のシリアスなシーンが放り込まれていて、予想外のイントロに物語の先行きが見えないが、これは中国の現代作品ならではのフックといえる。
 物語はどうやら中国の政治体制下で振り回される女性天文学者の物語のようにも見えたが、実際は第2部「三体」に出てくる汪淼(ワン・ミャオ))というナノ・テクノロジーの専門家が主人公らしい。主人公は不良刑事みたいな男に強制される形で、軍部が主催する専門家会議に出席するが具体的な問題が分からない。その一方で、主人公は表題の「三体」というネット・ゲームに参加し、ゲームのステージを進めるごとに「三体」太陽系に存在する惑星の文明の興亡を経験していく。中国の政治体制の重苦しさはここら辺から色合いが変わり、「三体」ゲームのハードSFぶりが一種バカSFともいえるような展開をする一方、物語後半ではゲームは実は現実を反映していることが暴露され、それが物理法則自体が法則性を失っているという恐るべき現象とつながって物語は暴走、完全にバカSFの領域になだれ込んでしまう。
 いやあ、スゴいね。文化大革命のフックがいつの間にか驚天動地のスペースオペラに変身してしまうのだから、誰だってビックリするわなあ。「三体」ゲームを考え出した作者の勝利だよね。今年はこれに勝てる翻訳SFは多分出ないだろう。

 『ハリー・オーガスト』も『接触』も大して評価していないのになぜかまた手を出してしまったのが、クレア・ノース『ホープは突然現れる』。文庫で750ページもあるのに、読んでも読んでもちっとも面白くならない。当然ページをめくる速度はがた落ちで2週間以上も抱えていた。
 ホープはヒロインの名前で、誰にも顔を記憶されない特異体質の持ち主、人と会っても離れてしまえばわずかな時間でその人の記憶から消えてしまい、相手は何かしたことは覚えているがホープがいたことはまったく思い出せないので、奇妙な記憶だけが残る。ってバカっぽい設定なんだけれど、作者はこの思いつきで最後まであらゆるサスペンスを作り出す。現代が舞台で数年前のテジタル機器の名前が沢山出てくるくらいなので、そこら辺で監視カメラに写っているはずなのに、誰もホープを認識できない。なので、ホープの生業は泥棒。まあね、モノは無くなっても取った人間をだれも覚えられないんだから捕まらないわなあ。
 で、ホープが正義感に燃えて対決するのが、「パーフェクション」という完璧な人生の提供を謳うアプリで大もうけしている会社。というのもホープが友人になれたと思った女がこのアプリが原因で自殺してしまったのだ。ホープはこの会社を懲らしめたい一方、途中からこのアプリを開発した科学者なら自分の特異体質が直せるんじゃないかと思い始めたりする。ちなみにホープはアフリカ系の美人。
 全編「パーフェクション」との対決をめぐる物語なんだけど、もはやジイさんである自分には何の興味も持てない題材で復讐譚をやられても、もうどーでもいいんであるなあ。700ページ超もあるんだからいくら何でもクライマックスが「パーフェクション」を潰すだけの話じゃなかろうと期待していたのだけれど、そういう話だった。ただしパーフェクションを潰すのはホープではなく、ホープはその行為を止めようとするのだ!?
 この物語に取り柄があるとしたら、それはホープのわかりにくい性格だろうなあ。後日談はちょっと珍しい百合的エピソードで閉じられていて、そこだけは新鮮だった。こんなものに世界幻想文学大賞をやったって、どんな審査員だったんだろう。

 ホープの物語とは対照的にすぐに読み終わったのが、塩澤編集長が「この本が売れなかったら、私は編集者を辞めます。」と帯に惹句を入れた津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』
 津原泰水はSFとファンタジー系統以外のものは読んでないけれど、既読作品から見る限りその作品に期待外れの不安がないことはよく分かる。
 この作品はSFではないけれども、物語の核をなすキャラクターの田舎が、津原泰水の故郷広島であることが、地元民にはすぐに分かるような書き方がしてあって、まあそれだけでも充分楽しめる。
 タイトルどおりロックン・ロールなノリを持ち込んだ心やさしい物語になっていて、いい気分で読み終えられるけれども、ちょっと気になるのはホープの物語でも言及したように、デジタル・テクノロジーの変化の早さがこれらのガジェットを猛スピードで古びさせ、少し前の時代の物語にしてしまうことだ。SFは科学技術の設定からクサって行くと言われるけれど、現代小説はデジタル・テクノロジーのガジェットの描写からすぐに時代遅れとなっていく。たとえ物語の本質的な輝きは失われることがないにしても。

 SF大会への行き帰りで読めるだろうと、ベッキー・チェンバーズ『銀河核へ』上・下を持って行ったら、これまたなかなかページめくりに力の入らないスペース・オペラだった。
 集中力が削がれるせいもあって、名古屋を過ぎたあたりから青空の中にぽっかりと浮かんで流れていく数多くの雲の姿をボヤーっと眺めてしまう。久しぶりに見る広い平野の空と雲は瀬戸内とはまったく違う鮮やかさを持っている。水平線や遠い山並みにわだかまる雲の帯と青空に白く輝く雲の群れのコントラストは見るに値する風景だった。
 作品としての『銀河の核へ』はそのタイトルから連想されるスペース・オペラではなく、オンボロ作業船の異星種族で構成されたクルーたちのそれぞれの物語なのだった。それは野田さんが一生懸命紹介したスペース・オペラの子孫ではなくて、スター・ウォーズ以降のSFファンタジーとして書かれている。現在のテクノロジーがそのまま出てくる物語のつくりからも、描写の控えめな上品さやある意味生ぬるいお説教からも、この物語がヤング・アダルト向けに書かれていることは明らかだ。
 別にけなすような作品ではないけれど大人の読み物でもない。翻訳の努力(ノリの良さを出す試み)は認めます。

 以前に聞いたときから作家の名前が印象的だったギョルゲ・ササルマン『方形の円 偽説・都市生成論』は、200ページ足らずに36の都市名を並べた目次から分かるように一種のコント集である。
 これがカルヴィーノの『見えない都市』とほぼ同時代に独立に構想されたというのには驚くが、幻想小説としては『見えない都市』の方がよりオーソドックスだったような気がする。
 36の都市の物語/コントを読んで一番感じられるのはデザイン性だろう。それは各都市の表題にアイコンが振られているところからくる印象かも知れないけれど、一つ一つの都市の物語から感じられる乾いた感触が一編一編をタブローのように思わせることによる。まあ、酉島伝法の解説が、例によって非常によく出来ているので、あまり云うことはない。

 『SFマガジン』編集部による「まえがき」が素晴らしく力の入ったSFマガジン編集部編『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』は、前半が『SFマガジン』の百合SF特集掲載作で、後半が書き下ろしを含む作品群。
 「百合SF」といわれても特に感慨は湧かない人間なので、読めれば何でもいいやと思いつつ読んでみた。
 この「百合SF」アンソロジーに集められた作品に共通するのは一種の切なさ/セツナサなんだろうな、というのが読み終わっての感想だけれど、個々の作品のスタイルは千差万別で、そのスタイルの統一のなさは印象的である。
 ただし宮澤伊織の無人の町をさまよう二人称人物設定や伴名練の書簡体小説、また南木義隆のコマ落とし人生物語も、どれも使い古された物語手法だ。それでも読んでいるときにはなんの違和感もなくオリジナル・ストーリーとして小説世界は立ち上がる。
 「百合」が作家を萌えさせる意匠なのかどうかには関心が無いけれど、エンターテインメントとしてよく出来ていれば何の問題も無い。その点で、今回一番感心したのが、物語手法としてはやはり使い古された構成だったけれども、陸秋槎「色のない緑」だった。SFよりもミステリ色が強いけど。櫻木みわ×麦原遼「海の双翼」が感覚的には一番捉えにくい感触で、小川一水は相変わらず楽しい。

 ホープの話が読み終わらないので、発作的に積ん読の中からとりだしたのが、ホメーロス『オデュッセイア』。集英社版世界文学全集第1巻(第18回配本)。1978年4月発行というから大学4回生の頃買ったモノらしい。挟み込みの新刊案内には半村良選『幻想小説名作選』の文庫が紹介されている。しかし、この当時一番気にしていたのが、吉田健一著作集全30巻で、栃折久美子デザインの装幀に目が眩んで何冊か買ったものの挫折、その後古本で揃えようと思いつつそのままになってしまっていることをようやく思い出した。そういや集英社版吉田健一著作集は古書店であまり見ない気がするなあ。
 と、『オデュッセイア』は前半が幻想的な怪物が出てくる放浪譚で後半が長年の不在の後故郷へ還ってきた夫の、不在の間に妻に対して求婚した不届き者たちに対する復讐譚。まあ、SFファンには前半がミソですね。キュクロプスの一つ目を潰す話も面白いけど、放浪譚の最後の方で出てくるスキュレーという海の怪物がちょっとクトゥルーの怪物を思わせて興味深い。
 訳者は呉茂一(くれしげいち)で、昔はこの人の訳が一般に読まれていたけれど、今の岩波文庫などは新しい訳者で出ている。呉という苗字は、茂一の曾祖父山田黄石が広島藩の江戸屋敷で医者をしていたときに、山田(これ自体が呉浦の山田村にちなむ)を出身地の呉に変えて苗字としたことによる。前にも書いたけれど呉市に呉さんはいません。
 


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