続・サンタロガ・バリア  (第201回)
津田文夫


 先月小川隆(小林祥郎)さんが亡くなったのを大野万紀さんのツィッターで知り、思わず嘆息が漏れた。実際に小川さんと話をさせていただいたのは、昔のSF大会でわずかな時間だけだったけれど、年賀状だけは毎年いただき、ラヴィ・ティドハーのブックマン3部作を訳者献呈で贈っていただいたこともあった。ここ数年は年賀状でも体調が優れないと書いておられたのでもしやとは思っていたけれど、残念です。悔やみ状を出させていただいたけれど、改めてご冥福をお祈りします。

 先月は映画を2本見た。『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』『海獣の子供』がそれ。
 『ゴジラ』は時間の都合でIMAX3Dで見てしまったのだけれど、3Dは何回見ても何がいいのかサッパリ分からない。それはともかくこの『ゴジラ』ドラマ部分がひどくてまったくリアリティがないのだけれど、そのリアリティのなさのおかげか、モンスターたちが面白い。最後のゴジラのドヤ顔ポーズには笑ってしまった。イマジニアンの会で同志社SF研OBの東山さんが「監督がオタク過ぎて、日本のゴジラ映画のイイところもダメなところも忠実に再現してしまった」と評していたけれど、なるほどね。
 『海獣の子供』が原作ありのアニメとは知らずに見はじめて、最初は主要キャラの顔立ちになじめなかった。そのせいもあって、本編の展開には今ひとつ説明不足を感じてしまい、特に南の島出身らしきオバアちゃんのセリフに違和感があった。クライマックスのイメージも既視感があってあまりピンとこなかったことも影響しているかな。とはいえ全体的なザトウクジラへの賛歌は悪くなく、50年近く前、高校生の時に輸入盤のバーゲンで買ったザトウクジラの鳴き声1時間というレコードを思い出してしまった。物語の方向性は全然違うけれど『ナチュン』という漫画に似た感触があった。

 新☆HSFSのクリスティーナ・ダルチャー『声の物語』は帯の惹句から予想されるように、フェミニズム・プロパガンダSF。「女は1日100語しか話せない」という設定からして日本語で読むと無理が生じているのだけれど、それを主人公の女性のモーレツなおしゃべりで設定破りの展開をするものだから、マーガレット・アトウッドというよりはコニー・ウィリスを思わせる。その点でこの作品はプロパガンダの退屈さを免れて、一種ハーレクイン的なロマンスSFの趣が生じている。SFシリーズで出すよりも単行本で出した方がより広い読者層に届くんじゃなかろうか。

 ジョージ・R・R・マーティン『ナイトフライヤー』は、(いまとなっては)初期短編の傑作集という感じの1冊。訳者の酒井昭伸さんはミュージシャンのヒット曲を並べたコンサートになぞらえているけれど、まあ、そうかも。
 個人的には、マーティンはこの時代の作品が一番魅力的で、実は「ゲーム・オブ・スローンズ」を1巻の半分で読むのを止めたくらいだ。
 表題作は昔アナログ誌で短編版を読んだ記憶があるのだけれど、今回読んでみて、ホラーの設定は覚えていたものの、光速以下で宇宙を旅する超巨大宇宙船のイメージはすっかり記憶から消えていた。忘れるというのはいいことだなあ。
 収録6作の内、「オーバーライド」、「ウィークエンドは戦場で」、「スター・リングの彩炎をもってしても」の3作が初読。どれもマーティンの魅力をよく表していて読ませる。なかでも「オーバーライド」は酒井さんも言うように、ゾンビ使いというアイデアやアクションもさることながら異星の風景の中でのトラヴェローグに魅力がある。
 巻末の、マーティン自らベスト短編というらしい「この歌を、ライアに」は、やっぱり「ライアへの賛歌」という題名で今後も口にしてしまいそうだ。でも、これが喪失感のリアリティを歌いあげた青春小説であることは今回初めて分かった。
「七たび戒めん、人を殺めるなかれと」は、最近読んだばかりのような気がする。このタイトルを見ると、石森章太郎版『幻魔大戦』が思い出されるのだけれど、記憶違いかしらん。
 そういえば大学生の頃、マーティンの第1短編集とパメラ・サージェントの処女短編集を同時期にペイパーバックで買ったような覚えがある。いまやどちらもオンボロアパートの1室でシミの餌になっているけれど。

 なんだか読むのが久しぶりのような気がする瀬名秀明『魔法を召し上がれ』は、ハードカヴァーで500ページを超える大作。帯の惹句も「天才・瀬名秀明入魂の超大作」とオーバーぎみだけれど、内容の方はレストランの余興を担当する駆け出しマジシャンの青年が、高校時代の恋人がマジックと称して自殺してしまった痛みを抱えながら、客として店に来た元マジシャンの外国人からミチルというロボットを預かり、マジックの意味と技術をミチルと共に学びながら1年を過ごし、ミチルと別れるときがくるという地味な上にも地味な話だった。
 しかしこの地味さはまったく見かけだけで、ミチルが『第九の日』に出てきたロボットケンイチの見た風景を知っていたり、作者の分身らしい中年作家を登場させたり、マジックの仕掛けと倫理が密接につながっていたり、決して読者を楽に読み流しさせない文体といい、これが「入魂の一作」であることをうかがわせるには十分な重みがある。ディーン・クーンツに学んだという瀬名秀明の初期作品に見られるホラー・エンターテインメントの手法は一見手放されているように見えるが、それはこの小説から感じられる作者の膂力へと昇華したように思われる。
 ミステリとしてみれば、恋人の自殺の謎解きがほしいところだけれど、それがこの作品の主眼ではないことははっきりしている。

 門田充宏『追憶の杜』は、デビュー作『風牙』に続く、一種のサイコダイバーである珊瑚ヒロインとした連作中短編集第2弾。前作は珊瑚自身の出自にかかわる作品が結構ヘビーだったのに較べ、トリッキーなエンターテインメント3作を収録しており、読みやすく面白い仕上がりになっている。読めば面白いよというシロモノなので、内容に言及する必要が無い。珊瑚シリーズは出れば読むだろう。

 もういいかと思っていたけれど、『狂気の山脈』はやっぱり読んでおこうかと、H・P・ラヴクラフト『ラヴクラフト全集4』を読んでみた。
 冒頭の「宇宙からの色」も有名作と云っていいタイトルだが、隕石と狂気と恐怖という取り合わせは、19世紀的SFを思わせる。狂気に侵された一家の家族が一人一人減っていくという話は痛ましい。
 その他の「眠りの壁の彼方」、「故アーサー・ジャーミンとその家系に関する事実」、「冷気」、「彼方より」、「ピックマンのモデル」は10ページから20ページ程度の短い作品で、ラヴクラフトが書くホラーの原型のヴァリーションをなしている。
 で、250ページを占めるラヴクラフトとしては大作長編と云っていい『狂気の山脈』は、前半が新鮮で後半はその驚異の旅にもかかわらずやや冗長な感じが残った。読み終わって最初に思ったのは、これって南極ホラー版『失われた世界』なのかなあ、というものだった。大瀧啓助氏の解説を読めば、これがポーの「アーサー・ゴードン・ピム」を利用したものであると書かれており、実際作中にもポー作品への言及らしいものがでてくる。コナン・ドイルもポーの影響下にあるのだから、通底していても不思議はないか。
 ということで、ラヴクラフトはこれで読み止め。中学生の時に読んでいたら『異次元を覗く家』よりもコワかったかもなあ。こんどクトゥルー好きの先輩と会うことがあったらある程度話が合わせられるだろうか。

 ラヴクラフトほど古くはないけれど、半世紀以上前の伊藤典夫さんの翻訳SFを集めた高橋良平編『最初の接触 伊藤典夫翻訳SF傑作選』は『ボロゴーヴはミムジイ』に続く第2弾で今回は宇宙ものということらしい。
 ラインスターの表題作、ウィンダム「生存者」、ブリッシュ「コモンタイム」、ファーマー「キャプテンの娘」、ホワイト「宇宙病院」、ナイト「楽園への切符」、アンダースン「救いの手」と、年寄りファンにはリアルタイムで読んでなくても、バックナンバーや福島正実アンソロジーなどで読んだ有名作ばかりが並んでいて、忘れていた話をもう一度読み直すことができるという点では嬉しいが、やっぱり古いことは古い。
 基本的にはアイデアと物語が直結していて、今の視点で見れば、物語がストレートすぎるということになるけれど、わかりやすさ/SF的アイデアの使い方が明確であることなどは、SFとしての傑作短編がどういうものであったかを再認識させてくれる。いまの若い人たちにこれらの作品が示す素朴な世界観がどう見えるのかは気になるなあ。
 集中でこの1作となればファーマーか。魚臭いというのはクトゥルーなんだろうなあ。

 若島正さんの作品選択によるハーラン・エリスン『愛なんてセックスの書き間違い』は、“Love Ain't Nothing But Sex Misspelled”というタイトルの響きがかっこよくて70年代の英米SFファンには有名な短編集だった。ということで、本書の表紙も訳題よりも原題が大きく印刷されている。まあ、70年代当時これを読んだという人は少なかったと思うけれど。
 残念ながらオリジナル短編集そのままのではないけれど、若島さんが選んだというだけあってどれもハーラン・エリスンっぽい怒りとセンチメントに満ちた作品が選ばれている。メインキャラが死んじゃうのが当たり前な作品が1950年代から60年代初頭にかけて雑誌に普通に掲載されていたというのにはビックリする。リアルな堕胎の物語である「ジェニーはおまえのものでもおれのものでもない」はこの問題に関する限りその現在性がまったく失われていないことに唖然とする。60年も経っているのに何なんだろうなあ。この短編集ではSFではないことで、エリソンの書きたかったテーマがストレートの伝わってくる。でも作品としてはエリスンの最高のSF短編群に較べるとまだ助走期間だったことが分かる。

 そのSFへの助走期間を走り終えた結果が十二分に発揮されたのが、ハーラン・エリスン編『危険なヴィジョン〔完全版〕1』と言うことになる。素晴らしく魅力的なおしゃべりエリスン。 収録作品の内前半に掲載されたデル・レイ、シルヴァーバーグ、ポールの短編は、前回読んでいたとしても、この30年ですっかり忘れてしまっていたが、今回読み直してもやはりまた忘れてしまうようなかんじがするけれど、驚いたのがフィリップ・ホセ・ファーマー「紫綬褒金の騎手たち、または大いなる強制飼育」。
 タイトルとしては前回の「紫年金」のわからなさが魅力的だったけれど、今回は山形浩生の超強力な理解力により、超強力な日本語として訳されたため、30年前には原作に追いつけなかった日本語が明快至極な言葉として読めるようになってしまった。山形浩生は親切にも訳題に「大いなる強制飼育」と入れることで、作品のテーマまでをしっかりと読者に示しているくらいだ。これで、ファーマーのあとがきを読めば、「私はまちがっているかも知れない、まちがっていてほしいと思う」というファーマーの叫びが、50年後の現実によって「まちがっていなかった」と証明されてしまったのだから、笑うべきか悲しむべきか。
 作中、「タイム」誌を皮肉って「『タイム』はその元々の方針をいくつか残していた。つまり、真実や客観性は、気の利いた報道のためには犠牲にするべきであり、SFは潰されねばならない」を読んだ時には、笑ってしっまたよ。われわれはあいかわらずディストピアに住んでいるらしい。神様が繁盛するのも無理はない。
 ミリアム・アレン・ディフォード「マレイ・システム」の犯罪矯正プログラムのブラックさから、ブロック及びエリスンの未来の切り裂きジャックという流れは好きだ。オールディス「すべての時間が噴きでた夜」はタイトルが素敵なスラップスティックだけれど、今回はそのドタバタがピンとこなかった。
 続巻への期待は大です。

 岡本俊弥『機械の精神分析医 Behavior Analyst of Things and Other stories』は、岡本さんからいただいた著者初の短編集。ありがとうございます。
 この短編集はThatta-On-Line(TOL)に掲載された短編群から著者が選んだ10編で構成されていて、このうち前半の5編がタイトルどおり「機械の精神分析医」シリーズになっている。TOLに掲載された岡本さんの短編は全部読んでいるので、基本的にはすべて再読のはず。
 「機械の精神分析医」シリーズは、表題作、「機械か人か」、「にせもの」、「衝突」、「シュムー」を収録、作者の実体験が反映されているように思えるところもあり、いわゆるリアリスティックな舞台での会話劇が多く読みやすい。
 「機械の精神分析医」という設定で思い出したのは、神林長平の『フォマルハウトの三つの燭台〈倭篇〉』で使われた「あらゆる家庭電化製品にAIが組み込まれて、AI同士の調整を仕事が成り立つ時代という設定」。岡本さんの方は家電じゃなくてプロ(クライアント)相手の、普通は世間の面に出てこないエピソードが綴られている。
 表題作はセンサー付ボルトがデジタル幽霊出現の原因になっている可能性を探る話で、実務的技術者としての「機械の精神分析医」の役割を定義している。「機械か人か」は脳シミュレーションを扱って、やはり一種の幽霊譚になっているが、話の主眼は幽霊の存在そのものに当てられる。「にせもの」はいわゆる会社のクビ切りにかかわるAIミステリ。サラリーマンには切実な話だ。「衝突」は交通事故をテーマにディープラーニングの落とし穴(ここでは自分で掘った墓穴)にかかわる話。人間のいい加減さは救いようがないですね。「シュムー」は、AIを使った窮極の会社無人化で利益を上げてきた高校時代の友人だった男の依頼で、利益率が低下したそのシステムを分析する話。うーんやっぱり人間が人間の首を絞めるのですねえ。
 ということで、この「機械の精神分析医」シリーズは現在の世界のAIトピックを扱って、その倫理的側面を読者に提示している。意外と(失礼)人間くさい話が多い。これらのシリーズにはあまりユーモアがないので、そこら辺が続けて読んでてやや苦しいところ。「にせもの」はブラック・ユーモアですが。
 後半に入って「マカオ」はタイトルから連想されるように、カジノ(最近はリゾートというらしい)がらみの貧乏出張があっというまに壮大な話に話に発展する。「人事課長の死」はやはりリストラがらみなので、「にせもの」に近い感触がある。これもブラック・ユーモアに見えないこともない。「ノンバルとの会話」は外見はノンヒューマンだけれど人間と対話することで人間の感情を声だけでコントロール出来るようにしたマシンの話。修行の果てに「明鏡止水の境地」に達するのは偉大な精神だったはず・・・。
 「魔天楼2.0」は他の作品と雰囲気が変わって、非常に主観的なSFファンタジー。付記に、この作品が故西秋生氏への追悼として書かれた旨が記してあり、作品にその思いが反映しているとしても、直接には分からない。
 トリをかざる「ビブリオグラフィ」は、「父が亡くなった」というセリフからはじまるいわゆる遺品整理の話だけれど、この父がエンジニアだったのか、SF作家だったのか、評論家だったのか、読み進めるうちにいつのまにか亡くなった父の語る物語へと変貌するものすごくトリッキーな物語になっていて、初読時はなんか読み間違えたかなと思ってしまった。語り手の行動と父に関する話は段分けがしてあり、創作エンジンによるプロットもちゃんと別れた形で書かれているのに、読んでいて混乱するのはそういうつくりだからなんでしょうか。うーむ。
 ということで最初に書いたように岡本さんの処女短編集は1,2作を除いて全体的に読みやすい。各編の結末がサタイア的になるのは作者の持ち味でしょう。

 仕事でちょっと榎本武揚が引っかかったので、そういや安部公房『榎本武揚』は読んでなかったなと思い、ボロアパートで探したら『安部公房全作品7』に入っていた。昭和48年の新潮社版初刷りだけれど、もちろん学生時代に古本屋で買ったもの。定価700円だが裏表紙見返しに鉛筆書きで650とあるので、まだ安部公房にネームヴァリューがあった頃だなあ。いまなら古本屋の店先に100円で並んでいる。
 持って帰って読み始めたら、これは榎本武揚伝ではまったくなくただの小説だった(そりゃそうだ)。
 北海道の厚岸で語り手が泊まった宿の主人が元憲兵隊員で、仕事熱心の余り、弟を告発して死に至らしめたというエピソードの持ち主。この宿の主人の自慢に榎本武揚の色紙みたいなものがあり、そこから宿の主人の、前時代の忠誠を全うした人間が新時代に批判の的になるのはおかしい、榎本武揚は変節漢で恨むが、恨みきれないものがあるという話を聞かされる。そして維新時に榎本武揚の計らいで厚岸に上陸し奥地へと去った旧幕臣の集団の話があり、榎本の真意の解釈と宿の主人の現在の苦境のいいわけを聴かされる。語り手は旅先のどうでもいい話と受け止めて帰るが、忘れた頃に宿の主人から長文の手紙と「五人組始末」という、戊辰戦争でたまたま土方歳三配下となった元薬売りが結成した、維新後東京の牢屋に入っている榎本武揚を暗殺しようとする五人組に関する手記が送られてきたというところまでが第1部。
 この後はこの「五人組始末記」の自在な紹介である。もちろんこの「五人組始末記」は安部公房のでっち上げた文書で、モデルとなった元隊士がいるらしいが、そんな暗殺計画があったとは聞かない。
 『榎本武揚』と題しながら、榎本武揚が出てくるのはこの元隊士の見聞の中だけであり、この元隊士の視野には常に土方歳三が大きくフィーチャーされていて、どうみても「榎本武揚暗殺計画異聞」とでも題すべき内容である。それでも「榎本武揚」なのは、作中徳川を裏切る者として榎本を難じる土方に、榎本の「土方君は幕府に忠なるを以て自負しているが、その幕府がないのにその忠とは何なのだ」というセリフにあるのだろう。そして宿の主人の忠への狂気のようなこだわりをこの言葉に反映させてテーマを造っている。
 200ページ足らずの短い長編で、安部公房の作品としてはエンターテインメントとして読める部類に入る。仕事にゃ何の役にも立たないが。
  


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