続・サンタロガ・バリア  (第200回)
津田文夫


 連載が200回になっているけれども正確なところは分からないといういい加減な連載なので、今回もいつもどおりです。

 イマジニアンの会の穂井田さんや宮本会長から、5月末に巽孝之さんが学会の出張ということで来広されるので、巽さんの帰り際に会の有志で食事会をセットしますと連絡があり、15年ぶりくらいに少しだけ巽さんと話が出来た。といっても基本的には聞き役だったけれど。その時、巽さんがお土産代わりに皆に配られたのが「PANIC AMERICANA23」という表紙に厚手コート紙を使った冊子。巽さんの説明によると巽孝之研究会ゼミ生たちによる文芸雑誌(というかファンジン?)で年1回出るという。即ち23年目の1冊。ということは巽さんが40歳くらいの時から続いているということですね。
 巻頭の「アメリカ文学初心者向けアメリカ文学心理テスト」というYES/NO選択式チャートをやったら、「老人と海」だった。まあ、いいけど。
 個人的な関心からは、巽さんが1日のうちに『フランケシュタイン』出版200周年記念シンポジウムと「キング・クリムゾン」結成50周年記念シンポジウムに出席した話「マッド・サイエンティストと恐竜」が面白かった。
 以前にもシンポジウム出演依頼が重なったことがあって、それがコールリッジとヴェルヌに関するものだったというところから、大学院時代から気になっていたのがカントの先験哲学とエマソンの超越主義が英語だと共にTranscendentalismとなることだったとつなぎ、カントの影響を受けたコールリッジを通して、カントとコールリッジの影響下にエマソンの超越主義的思想が生まれ、そこからアメリカンロマン派の隆盛につながるという話になり、環大西洋的想像力を仮構し、ポーからヴェルヌへの影響があると論じる。そしてその大本のカントにテクノロジーの暴走を戒めるものとしてフランクリンに言及した「モダン・プロメテウス」なる1755年の文章があることを紹介して英訳から翻訳して見せている。まさに巽さん独特の論法でSF的ともいえる感覚がある。
 もっとも教授としての巽さんの主眼は、21世紀的文学研究方法論には、英米の19世紀主流文学としてのロマン派文学の作家と、同時期の大衆小説作家とされたポーやヴェルヌなどの先駆的科学小説家とのジャンル論的境界の再検討が必要だというところにあるのかも知れないが。 
 一方恐竜の方は、クリムゾンが90年代ダブル・トリオ時代だったときの曲「ダイナソー/恐竜」の歌詞を紹介して、これまた巽さんの自訳を載せている。巽さんがキング・クリムゾンの自己批評として翻訳した歌詞は、普通に聞き流している表面的な受け取り方(なんだかよく分からんが面白い)を反省させる日本語になっている。そして90年代クリムゾンもプログレッシヴ・ロックを評するときの巽さんの持論であるキメラであること、それをフランケンシュタインの物語のキメラ性に結びつけてキメラ文学との類似性を指摘して見せている。わずか数ページの文章だけれど巽さんの個性がよく出た一文だった。

 上田早夕里『リラと戦禍の風』は近代史ものということで、前回読んだ『破滅の王』の欧州版かと思ったのだけれど、こちらは帯の惹句にあるように歴史ファンタジーという形容がふさわしいスタイルの1作だった。
 舞台は第1次世界大戦の西部戦線で、塹壕戦を戦っているドイツ軍の一兵士の話としてはじまる。愛国者と平和な生活者としての相反する思いを抱くこの主人公の前に翼を持つ影が現れ、彼の半魂を連れ去り、伯爵を名乗るその不死の者からリラという名の幼い少女の保護者役を振られる。これがプロローグ的な設定で、半魂である主人公とリラが伯爵の使う魔法を利用して大戦下の悲惨なドイツとフランスを行き来する。それはファンタジーの質感をまとって、夢物語的な展開となっていく。
 この物語がどのような展開してと結末を迎えるのかという点ではまったく興味が削がれることはないけれど、第1次大戦下のドイツとフランス(もちろん東欧も)を舞台にして、繰り広げられる超常の者たちの物語に舞台との乖離があるように感じてしまうのはやはり勝手な期待があったからだろう。

 5月に3冊同時に出たハヤカワSFコンテスト出身若手作家の作品群はそれぞれの進境を感じさせて興味深い。

 三方行成『流れよわが涙、と孔明は言った』は短編集だが、前半の作品は前作同様一点突破の全面展開(久しぶりに使うな、この言葉)か思ったら、ホラーやコメディタッチのほのぼのファンタジイもモノにするのであった。
 表題作は「カクヨム」に出された、タイトルどおりのワン・アイデアで押し切る話。なかなかの膂力というべきか。しかしながら「折り紙食堂」や「走れメデス」が新作とはいえワン・アイデアで押すにはややぎこちなく、その点不条理ホラー少年小説の、人が死んだら電柱になるというテーマ・アンソロジーのために書かれたらしい「闇」や、ドラゴンカーセックス・アンソロジーに掲載されたというオーソドックスなファンタジー「竜とダイアモンド」にこの作者の幅が感じられる。
 ところで竜が自動車の後ろから性行為をしているgif動画を大分前にインターネットの何かで見たように思うのだが、単なるデジャヴかも知れない。

 草野原々『大進化どうぶつデスゲーム』こそ、一点突破の全面展開の典型的作品といえよう。舞台は大陸なのに密室状態という状況と単純なプロットに多数の登場人物を用意して各キャラ視点で物語を進めていくという長編を書くには便利な、しかし一方でかき分けの難しい構成で、トントン拍子にストーリーが進み、あっという間に読み終わる。最後の1行がウロボロスなのも予定調和だけれど、まあリーダビリティに不自由はない。とはいえ女子高生18人はさすがにかき分けの限界があり、結末をショッカー的なパターン破りで迎えると草野原々の少女キャラは只のコマと化してしまう。まあ、もともとキャラなどそんなモノなのかも知れないが。

 ということで今回著しい進境を見せたと思われるのが、柴田勝家『ヒト夜の永い夢』だった。ちょっとタイトルがぎこちないけど、作品の方は上々の仕上がりである。
 還暦を迎える南方熊楠を主人公に熊楠の史実的な裏付けを無視することなく、同時代に実在した熊楠関係者をオールスターで登場させ、彼らがつくる昭和考幽学会なるものに参加した熊楠は、美少女の死体に粘菌コンピューターを載せたオートマタ「天皇機関」をつくり天皇を補弼させようという彼らの御大典がてらの計画に参加する。そこからSFとファンタジーの雰囲気を併せ持つドタバタな展開がはじまる。熊楠に精神障害者の長男がいたことは事実で、作者は熊楠と長男熊弥を温かい目でコメディ化してみせる。時代は大正末期昭和初期だけれど、横田順彌の衣鉢を継ぐかのような面白さにあふれている。ただし現実の御大典は昭和2年じゃなくて3年だった。昭和2年はいわゆる諒闇の年ですね。
 物語は2部構成で後半は60代後半になった熊楠に、北一輝の陰謀とグロテスクな「天皇機関」の復活、そして226事件への関与と、前半のどこかノホホンとしたファンタジーが暗く悲劇的なものになる。熊楠も老年を迎え元気がないが、江戸川乱歩や北一輝や石原莞爾と面白い対話を重ねながら物語は熊楠の晩年へと向かう。
 SFコンテスト大賞作『ニルヤの島』や『クロニスタ-戦争人類学者』で見られたSFであるための一種の窮屈さがここには見られない。この伝で行けば、柳田国男、折口信夫、宮本常一といった民俗学の巨人たちをモデルに物語をつくることも可能だろう。

 出版当時100ページ近く読んで、放り出していたコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』をようやく読み直して読了した。
 どうもクラーク賞受賞作品とはそりが合わないようで、初読時は物語にまったく集中できず、なんなんだこりゃと思い投げた次第。
 今回はステレオの前でバロック以前の音楽(ビーバーのロザリオのソナタとか)をBGMにして読んでみた。すると今回はすんなり読めたのだった。
 南北戦争以前の南部黒人奴隷3世代目の少女が、彼女に襲いかかるあらゆる危機と暴力をくぐり抜けるその道行きを、地下トンネルを走る列車が実在するパラレルワールドを舞台に描いた1作。話としてはハラハラドキドキ型の冒険小説なんだけれど、地下鉄道の設定を史実としてしまえばSFではなくなってしまうのだから、ある意味最も成功したSFといえるかも知れない。主人公が逃亡してかくまわれる各州の町がSF的なディストピア社会になっているところもこの作者の企みが感じられる。ここまで徹底されるとあざといという人がいるかも。

 なんだか円城塔の作品の表紙を思わせる地形図と活字だらけの表紙になんじゃらほいと読み始めたのが、宮内悠介『偶然の聖地』。1ページ目から作者の脚注が入って、まさか脚注で話をつなぐのかと思ったけれども、ホントの脚注だった。本編の物語は「世界医」というこの世の不具合現象を修正(要はデバック)してまわる男たち(女もいるけれど)が積年のデバッグ対象であったイシュクト山を退治するというのが主筋だが、登場人物の設定も含め、かなり人を食ったつくりで、作者の実体験や愚痴が延々と続く膨大な脚注と相まって上質のユーモアSF/ファンタジーとなっている。ユーラシア大陸(インドとその周辺?)放浪はきっと面白いんだろうなと錯覚させるだけの魅力が感じられるのがいい。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズのフェミニズム系SFを後回しにして読んでしまったのが、シルヴァン・ヌーヴェル『巨神降臨』上・下。まあ、最終巻はたたむしかないので、あまり期待はしないようにして読んだ。
 あの謎のエージェントを謎のまま退場させてしまったのに、ずっとファイルからのレポート形式を続けたのは易きに流れた感があるものの、読みやすさと構成上の便利さを考えればスタイルを変えるわけにはいかなかったのも頷けるところか。
 いきなりクーチャー・エヴァ親子及び准将と、作品全体を通して唯一の出ずっぱり登場人物であるローズ・フランクリンがテーミス内にいて、いきなりテーミスの母星に飛ばされ、そこで9年も暮らすという設定は、さすがに説得力にとぼしく、それを柱にいわゆる血の異なる者狩りが蔓延した地球に戻るという展開も時流に棹さしすぎだと思うけれど、リーダビリティは相変わらず抜群なので、実はあんまり不快感はなくて、面白く読み終わった感が強い。なんといってもエンターテインメント的な人なつこさを維持できたことが効いている。今回の演技賞はやはりロシアの情報将校キャサリン(エカテリナ?)ちゃんでしょう。

 今月もノンフィクションを1冊。前間孝則『ホンダジェット 開発リーダーが語る30年の全軌跡』は2015年出版のハードカバーの文庫化。奥付がなんと平成31年1月1日。
 前間さんは、作家業に入る前はIHIでジェットエンジンの設計にかかわっていたということで、初期の作品にYS-11旅客機(これはプロペラ機ですね)をテーマにした大著があり、近作にやはりプロペラ機である第2次世界大戦末期の日本の傑作機と言われた紫電改用発動機「誉(ほまれ)」について『悲劇の発動機「誉」-天才設計者中川良一の苦闘』を出版している。その他国産航空機に関する作品を多く発表してきているので、やはりホームグラウンドは航空機という人である。
 その前間さんが航空機に対して、ほとんどラブレター的な熱意を込めて書き上げたと思われるのが、このホンダジェット開発物語である。
 ホンダジェットはいわゆる旅客機ではなく、プライヴェート・ジェットと呼ばれる小型ジェット機で、その中でも7人乗りの小型に属するタイプ。小型機というとプロペラ機ならセスナを思い浮かべるが、それよりはずっとゴージャスで価格は5億円超というシロモノ。まあ最新のジェット戦闘機は100億円超なんだからコンシューマー用ジェット機は安いともいえるが、普通の人には縁が無いですね。
 とはいえホンダは自動車生産に精を出す一方で、空への想いは創業者本田宗一郎以来脈々と受け継がれ、1986年ついに航空機開発に乗り出す。機体は藤野、エンジンは藁谷がリーダーとなって行く。そして30年という長い年月を経て、ホンダジェットは最新型の小型プライヴェート・ジェットとして発売され、またたく間に販売実績で同クラス首位(2019年現在)を占める。
 零戦を見れば分かるように(機体は三菱、エンジンは中島の栄型)、航空機は機体とエンジンを別会社でつくり組み合わせるのが普通と思われるが、ホンダは機体とエンジンをそれぞれチームを作って開発した。ここでも零戦と同じように考案した革新的な機体を気の遠くなるような実証試験で有効性を示して見せた藤野に焦点が当てられているが、自前のエンジンを開発するというある意味機体以上に革新的なモノを作り出すのが難しそうなことを藁科がやってみせたということも、前間さんはかなりのページを割いて紹介している。若き日に自らジェットエンジンを相手に奮闘したことのある前間さんにとって、小型とはいえホンダが自前のジェットエンジンの開発に成功したことはやはり感慨の沸く出来事であったろう。
 残念ながらホンダジェットの本格的な開発はアメリカで行われており、国内という意味では国産と言いがたいが、それでも日本人の作り出したジェット機には違いない。ちなみに日本では昨年から販売され、購入者第1号はホリエモンほか数人で、共同購入だったらしい。


THATTA 373号へ戻る

トップページへ戻る