続・サンタロガ・バリア (第199回) |
10連休も終わりだけれど遠出はしなかった。ただ4月平成最後の日曜日にオープン3日目の「湯本豪一記念日本妖怪博物館 三次もののけミュージアム」に行っみた。事業推進した市長が地方統一選で負けてしまったこともあり、空いているのかと思いきや、長蛇の列に驚いて早々に退散、息子が見たがった開館記念講演会及びシンポジウムに行こうと博物館からちょっと離れた市民ホール「きりり」にシャトルバスで移動。会場に入ったら稲生物怪録(いのうもののけろく=三次に伝わる妖怪譚/後述の杉本好伸先生の話では最初は内輪の書き物だったのに、後代絵巻物に発展し妖怪がどんどん増えていったという)のエピソードを題材にした神楽の真っ最中、舞台は戦いの場面で3人5人とクルクル回るのが派手な踊り、脇に控える太鼓や鉦は男性3人に横笛の女の子が1人。マイクを通した笛の音と相まってかなりの音量。笛のメロディーがちょっとジャズっぽくて、姿勢の良い女の子の指使いがビジュアル的にも面白く、なかなか楽しめた。
肝腎の基調講演はミュージアムの基本コレクションである約5000点の妖怪資料を寄付した湯本豪一氏が行い、シンポジウムには荒俣宏、小松和彦、地元広島の安田女子大学名誉教授(近世文学)杉本好伸と国立歴史民俗博物館名誉教授常光徹及び湯本豪一の5人。時間の都合でシンポジウムの前半を聴いたところで退席したのだけれど、荒俣さんを生で見るのは何十年ぶりだった。まあ、テレビではよく見る人なのでそれほど変わった感じはないけれど、肩書きがいつの間にか京都国際マンガミュージアム館長になっていてビックリ。プロフィールを見ると荒俣宏と小松和彦は1947年生まれの同年代。そのほかのパネラーも名誉教授とあるように昭和22年から26年までの団塊前後の世代である。この世代が妖怪ブームを牽引してきたパイオニアたちだったというのは妙に得心のいく気持ちがする。
その意味では、「SFマガジン」6月号の横田順彌氏追悼特集が意外と手厚く充実したものであったことにも、そのパイオニアとしての影響力が示されているということかも知れないな。
前巻の最後でかっこよく現れたバロットの活躍は如何、と思いつつ読み始めた冲方丁『マルドゥック・アノニマス4』だったけれど、この巻は、そのシーンの続きとそこに至るまでのカットバックの連続でできていた。基本はバロット視点で書かれたカットバックの物語により敵方の主将ハンターの過去と現在の位置づけが明らかになって、ほぼこの作品の枠組み全体が見通せるようになった。
超能力合戦や謎解きは相変わらずページターナーの面白さではあるけれども、SFとしての目新しさはあまりないので、冲方丁もそういう方向の作家になってきたのかも知れない。
グレッグ・イーガン『ビット・プレイヤー』は久しぶりの短編集。ピーター・ワッツの短編集の新鮮さに較べると、如何にもイーガン節な作品集といえる。
とはいえこちらも相変わらず歯ごたえがある(ありすぎる)作品がそろっていて、倫理的なストーリーとハードSFのアイデアがもたらす衝撃はなかなかのものである。
冒頭の「七色覚」は、前半が視覚インプラントの拡張現実を題材としたジュブナイルという点で、アニメ『電脳コイル』を思わせる1作。話の後半はコマ落としで大人になった少年が最初の設定から何が生まれたかを示して終わる。テクノロジーと多様性の追求がテーマかな。
「不気味の谷」は長編『ゼンデキ』のメインテクノロジーだったサイドローディング(いわゆる人格ダウンロード)が不完全に行われたケースを描いてダウンロード人格が自分探しする話。ここら辺で、前回ちょっと言及したこの手のテクノロジーを用いた作品がフランケンシュタインコンプレックスじゃないかと気になりだした。
まあ、スーパーコンピューターについては、進化したコンピュータが人類など眼中になくなることをすでにレムが書いてしまってるし、『ニューロマンサー』でも描かれていたけれど、人格がソフトウェアとしてハードウェアにダウンロード出来ることが当たり前にSFのガジェットになって久しいのに、ダウンロードした人格が人格としてオリジナルと違っていたり、人格としては別の人間もしくは人格を保持していなかったり、、はてはレムのスーパーコンピューターのように変化していくような話というのはあまり読んだことがない。
シンギュラリティも含め人間による人間のためのオーバーテクノロジーが、かならずしも人間中心主義とはならないことは割とありそうな気がするのだが、そういう方向でSFを書いている作家はあまりいないようだ。ギャクSFとしてならいくらでも書けそうだけどねえ。そういう意味で人格がコンピューター上に再現される話はフランケンシュタイン・コンプレックスの一種ではないかと思われるわけだ。コンピュータが自意識を持つというのもそのバリエーションだろうな。チューリング・テストは人間らしさの大枠だとしても、コンピューターの自意識というのは人間的な自己愛の反映だろう。
などと考えながら、表題作を読んでいるとイーガンがどこまでこの手のテクノロジーに信を置いているのかが怪しくなる。いわゆるNPCたちが普通の人格としてゲーム世界内に存在したとすれば、それは一種のファンタジーだろう。イーガンの場合はハードSFファンタジーだが。
そのイーガンがハードSF的アイデアを使わずほとんど現代文学的な感触で時間SFををものにしたのが「失われた大陸」で、難民キャンプが我々に見せるものをイーガンは時間SFとして描いて見せた。ちょっと宮内悠介の作品を思わせる。
そしてイーガン節が炸裂の遠未来ハードSF中編2作「鰐乗り」と「孤児惑星」は、現在おそらくイーガンぐらいしか書けないスーパー・ハードSFおとぎ話。昔はロバート・L・フォワードがいたけれど。このタイプの物語についても、超長時間と人格保存(人の意識は変化しないのか)という点で、引っかかるものがあるのだけれど、それはまたいつか。
村上春樹『騎士団長殺し』第1部「顕れるイデア編」・第2部「還ろうメタファー編」が文庫になったので読んでみた。いつのころからか村上春樹の新作をハードカバーで読むまいと思うようになったが、今回もそうなった。
新刊出版時にタイトルを見て、今度はモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』かと思ったくらい。まあ小澤征爾と深くクラッシック音楽の話をした人なので、モーツァルトのオペラからタイトルを取ることも不思議はないなと思ったけれど、しかし、このオペラは冒頭で女たらしのドン・ジョバンニ(ドン・ファン)が、いつもの出来心で引っかけた騎士団長の娘から逃れようとしたところ、騎士団長と戦う羽目になり、騎士団長を殺してしまうことによって、オペラの終幕であるドンジョバンニが騎士団長の石像に引っ張られながらの地獄落ちへとつながるものなので、村上春樹がこの話をどこまでなぞったのかにはちょっと興味があった。
で、実際読んでみたら、主人公の画家が妻に離婚を言い渡され、美大時代からの友人の父である今は恍惚の人となって施設にいる有名な画家が以前使っていた山間のアトリエ兼住宅を借りることになるのだが、この「騎士団長殺し」というのはそのアトリエで主人公が発見した有名画家が人知れず残した絵画(日本画!)に描かれたシーンを説明する言葉だった。
読後、というか読んでいる最中から、この作品は村上春樹がこれまで書き続けてきた作品から紡がれた村上春樹という作家の特徴をまんべんなく兼ね備えた作品になっているんだなという事が分かる。いわば集大成であり、自己反復でもある。
考えてみれば村上春樹も70歳近くになっていきなり新機軸などを打ち出したりしないだろうし、長年作家として追求してきたものを、これまでの積み重ねの内から更に取り出せるものを取り出したにすぎないともいえるだろう。その意味で主人公が30代半ばに設定されていても、70代を迎える作家としての村上春樹は、まだ晩年とは言いがたいにしろ、みずからの作品に未来へ向けての明るさを付け加えている。それは闇の存在や地獄巡りなどこれまでの村上ワールドに存在していたものを出しながら、成長する少女や災難を逃れたであろう屋根裏のミミズクなどに託されている。
なお、イデアとして登場する「騎士団長」の特徴的ないいまわし「あらない」にはヴォネガットへの目配せが感じられる。
オペラ『ドン・ジョバンニ』の物語との関係はどうかというと、あくまでも「騎士団長殺し」という場面が作家のモチーフとして重要だったと云うことまでで、オペラの換骨奪胎というわけではなさそうだ。主人公を取り巻く女たちとのセックスがかなり執拗に描写されているにしろ。まあ、テレポートする精子というのは『1Q84』でも使われていたけれど。
「折りたたみ北京」が英語からの重訳で訳されてその出来の良さにビックリした郝景芳(ハオ・ジンファン)『郝景芳短編集』が、原語である中国語からの翻訳で出たので読んでみた。訳者解説によると第2短編集『孤独深処(孤独の底で)』からのセレクト訳とのこと。
「北京 折りたたみの都市」と改題されて訳された「折りたたみ北京」の読後感は、英語版から訳されたものよりもSF臭さが後退して、どちらかというと主人公老刀(ラオダオ)の視点に寄り添った物語として読めるものになっている。これはSF作家ケン・リュウのSF観で英訳され、SFを訳すことに慣れた日本の訳者がSFとしての雰囲気を日本語に移しているため、SFファンによりフィットした作品になっていたのだろう。どちらにしても30歳にもならない時点でこの作品が書けるのは大した才能だ。
この短編集では、あとは「弦の調べ」とそのスピンオフ「繁華を慕って」がSFらしいSFといえる。「弦の調べ」は、マーラーの交響曲を演奏している最中に遠くで爆発音がしてパニックになるが、それが異星人が地球人側の軍事力だけを排除する攻撃だったというところからはじまる。物語は、異星人が保護策を採る芸術のひとつとして攻撃から守られているオーケストラの主催者が、いわゆる優しい侵略に抵抗する手段として、旋律の振動を利用して宇宙エレベーターを共振させて月を破壊するというアイデアを実行するというもので、主人公はこの企みに巻き込まれた楽団員である。
アイデア自体だけだとバカSFで、ケン・リュウが訳せばそのSF的側面が強調されたかも知れないが、ここでは元凶となる振動がブラームスの第4交響曲終楽章のパッサカリアから取られていることに象徴されるように、シリアスで悲劇的な調子が前面に出ている。 スピンオフの「繁華を慕って」は、前作で主人公の説得を受けて陰謀に参加した女性が主役で、音楽留学生としてロンドンにいた時代に音楽家として異星人の誘惑を断ち切るエピソードと前作の主人公の説得を受け入れるまでを、これまたシリアスに描いている。
そのほかの短編は、生死のはざま」が自分は死んだはずと思いつつ、いかにも死後の世界のようなぼんやりした異界をさまよう話だけれど、オチが中国では誰でも知っているらしい孟母が死者に生前を忘れさせる水を飲ますという場面で終わるのがピンとこない。巻末の短い2編は、この短編集が『孤独の底で』とタイトル付けされたことが分かるテーマの作品だが、本来サタイアとして機能しそうな話が悲痛なものとして描かれており、SF的な面白さとは別物である。
この短編集の読後感は、郝景芳の生真面目さが前面に出ていてSFとしてのアイデアと物語の組み立ては素晴らしいが、全体としては暗く沈んだ感触が残る。生真面目ということでは昔原書で何冊も読んだパメラ・サージェントを思い出す。
ところでブラームスにチェロ協奏曲ってあったっけ。晩年に書かれた名曲「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」のことかなあ。
ハヤカワ文庫からSFコンテスト出身者の新作が3冊まとめて出たので、連休中に読めるかと思ったけれど、全然読めなくて同時期に出た林譲治『星雲出雲の兵站 4』しか読めなかった。
ついに最終刊と思ったら、帯に第一部完結とあるではないか。まあいいけどと、読み始めたら、ようやくガイナス星人の性質が分かり本拠地が分かったところで終わっていた。そこまで行くためにこれまで出てきた主要キャラが全員出てきて、当然カムバックした火伏兵站監は状況を見通す力が神がかっているわけだが、その点では主要キャラたちに能力を発揮させる場面が続くので、敵側に同情したくなってくるくらいだ。
「伝説の地球」への言及など楽しく読める点ではまったく文句はないけれど、もう少しハラハラドキドキしたいなあ。
昨年の京フェスで、新作の構想を作者の描いた主要キャラのイラスト付で聞いた酉島伝法『宿借りの星』がついに出た。ソフトカバーで3000円と翻訳書並みのお値段だけれど、作者自作イラスト入りで時には文字反転も使用していることを考えると造本に手間がかかっていることや、売れ行き予想からしてもこの値段でないと発刊できなかったのかも知れない。
しかし読み始めたら酉島伝法ワールドが全開で、読むのには時間がかかるけれども、その世界構築のすさまじさはほとんど読む者を酩酊状態に陥れるほどの効果を発揮する。あしかけ10年かかった『天冥の標』を別格とすると、今年読んだSFではダントツの1作だ。
話は、誼兄弟(ぎきょうだい)を殺してしまった主人公(もちろん人間ではなく兵器生物)が、クニを追放されて荒れ地をさまよい死にそうになったとき、いつもなら食べ物としか思わない短命な種族の者に助けられ、ようやくある街にたどり着くと、以前助けてくれた種族の者が賭場で絶体絶命になっているところを救い、誼兄弟のちぎりを結んでしまう、というところからはじまる。
この世界には多種多様な種族がいるが、そのすべては恐ろしい敵であるヒトからこの星を守るために存在していた、という大枠の設定がこの世界の成り立ちと運命を決定していることが物語の後半で分かる。しかし、そのSFの大仕掛けを読者に意識させないだけの酉島伝法のモディファイ語彙が異世界ファンタジーの現前を保証する。優れた作家が見せる精緻な二重世界という力業は時折あるけれども、酉島伝法の作り出す言語の鎧とイメージ喚起力は精緻な二重性というものからはみ出している。
酉島伝法の言葉の鎧は読むのが大変ではあるけれども、物語の原型は徹底的に通俗(作者の説明ではヤクザの渡世者の話)で、エンターテインメントそのものなので、その落差が、読む者に快感をもたらしているのである。兵器生物と人類の関係のネガポジ対照性や最後に出てくるSFとしての大技が、酉島伝法のSF心のふるさとを示していることもSF読みには嬉しいサービスだ。売れるといいなあ。
ノンフィクションは1冊。昨年10月に文庫化された小松左京『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』を読んだ。
「やぶれかぶれ青春記」は再読だけれど、悪童ぶりと戦時下の悲惨な学徒勤労動員生活が印象的だったのを覚えていた。今回は小松左京の子息が書いた補遺によって、小松左京の貧乏が旧制高校時代からで補われていたことがわかる。それにしても38歳で「青春記」という自伝を書くなんぞ、今の世代には思いもよらないだろうな。
一方「大阪万博奮闘記」は『文藝春秋』1971年2月号に掲載された「ニッポン・七〇年代前夜」と1966年に「万博博覧会資料」として書かれた「万国博はもうはじまっている」の2編からなっている。どちらも初めて読んだのだけれど、30代の小松左京の超人ぶりを彷彿とさせる文章で、一体このエネルギーは何だったんだろうという気にさせられる。まあ、それは「やぶれかぶれ青春記」で示されていると云うことなのだけれど、戦争と占領と放縦を見事に生き延びた強靱な精神というのはスゴイものだなあと、改めて感心する。