続・サンタロガ・バリア  (第198回)
津田文夫


 久しぶりに原作が傑作で映画化は難しいだろうなと思われるSF映画を2本見た。1本は、『移動都市/モータル・エンジン』で、県内では上映館が1館しかなく、電車を乗り継いで見に行った。
 原作は、おかげで最終巻の翻訳が出たフィリップ・リーヴの「移動都市」シリーズ。第1巻の内容を映画化したもので、いくつかのエピソードを刈り込んではいるものの、原作の設定を登場人物も含め、かなり踏襲している。残念ながら、原作の複雑な筋を2時間に押し込めるにはかなり説明不足になっており、ストーカー・シュライクとヘスターのエピソードなどはちょっとわかりにくい上に、ストーカーの退場のさせ方がもったいなくらいインパクトがない。映像的には移動都市ロンドンのイメージやアナ・ファンの船「ジェニー・ハニヴァー」のイメージが素晴らしく、登場人物たちやストーリーよりもこれらのイメージによって記憶に残る作品となっている。
 もう1本は、『アリータ:バトル・エンジェル』。こちらは複数館で上映されていたけれど、上映時間の関係でまたも電車を乗り継いでいこうとしたら、息子が見たいというので、車で移動。有料道路を使って1時間ほどで着いた。
 原作の『銃夢』は結構好きで読んでいたが、この映画はヒロインを見せることに焦点が絞られているので、『移動都市/モータル・エンジン』よりも話がわかりやすい。ここでも登場人物はほぼ原作を踏襲しているけれど、すべてヒロインとの関係がはっきりしているキャラばかりで、プロットも直線的なため、最後まで見おわって初めて分かる「第1部完」の拍子抜けな感じが意外と少ない。『移動都市/モータル・エンジン』が脚本の焦点が絞り切れていないように感じられて、ちょっと不満だったけれど、こちらはうまく出来てるじゃないか、という感じだった。まあアリータ/ガリィさえ魅力的に見えていればそれだけで許せるのかも知れない。

 2年越しの積ん読になっていたドーキー・アーカイヴの1冊、マイクル・ビショップ『誰がスティーヴィー・クライを造ったのか』をようやく読み終わった。
 目次ページをめくるといきなり「タイピング」と作中作のタイトル扉があって、ご丁寧にホラー小説と銘打ち、作者名がA・H・H・リプスコムと記されている。そしてはじまる電動タイプライターの故障に悩むライター兼未亡人(!)主婦のスティーヴィー・クライの不条理な物語、ということで、とっかかりがあまりにもクリシェで当時は読む気が失せていたのであった。
 ようやく気を取り直して読んでみると、たしかに電動タイプライターが勝手に打ち出す話がスティーヴィー・クライの現実を溶かしていくホラーになっているが、途中からだんだんメタ小説化しはじめて、最後はホラー小説どころではなくなってしまう。これって、どこかで似たような造りの話があったよなと思ったら、懐かしのノーマン・スピンラッド『鉄の夢』だった。そのことは、巻末の「三十年後の作者あとがき」で触れられていたので、まあロートルSFファンなら誰でも気がつくものだろうけれど、個人的には「作者あとがき」を読む前に『鉄の夢』が思い出せたのが嬉しかった。
 それにしてもマイグル・ビショップが文化人類学SFの大作“No Enemy But Time”の次にこんなヘンなものを発表していたとはねえ。

 昨年の読み逃しも読んでおこうと思い、ムア・ラファティ『六つの航跡』上・下を読む。「…宇宙船内で目覚めていた乗組員6人全員がなぜ殺されたのか?」という帯の惹句には、当方の趣味からして、あまりソソられなかったし、それに商策ではあるけれど、こんな薄い上・下というのはねえ、ということで敬遠してしまったのだ。
 でも読み始めると結構スイスイと読めて、少なくとも上巻の謎だらけ状態は楽しかった。ナゾを畳みにかかる下巻に入ると、すべてが大金持ちとメインキャラにからむ話にとして解けていくのが無理っぽく、期待したほどのものではなかったけれど、まあ各キャラクターのエピソードも良く出来ていたし、作品の全体を貫くミステリ的な状況が大がかりなSFの枠組みの一結果と化す結末も、甘いとはいえ現代的で、読み物としては水準以上の面白さでしょう。

 ついに最終巻となった小川一水『天冥の標X 青葉よ、豊かなれ PART3』は、延々と続く大スケールの戦闘シーンにビックリ。もうちょっとゆったりした感じで終わるのかと思っていたので、小川一水がここまでスペース・オペラにこだわっていたとは、と改めて感心した次第。もちろん最終ページにはゆったりとした断章が用意されていたけれど。 作者あとがきにあるように最初の構想から最終巻脱稿まで10年というのは、やっぱりスゴすぎだなあ。作者は当初から結末のイメージはあったと云っているけれど、10年という時間の長さは、誰にとってもその環境があらゆるレベルで変化せざるを得ないだけの重みを持っている。小川一水にとっての10年がこの「天冥の標」に現れているとするなら、いや現れざるを得ないのだが、それは第1部「メニー・メニー・シープ」や第2部「救世群」の頃の、題材の如何にかかわらず、ある種の明るさを湛えた世界が、10年後に最終巻を出す頃には、作品世界の持つその明るさを意識的に支えなくてはならない時代/気分になっていたことに象徴されるだろう。だから作品はどれほどエンターテインメントそのものであるスペース・オペラの形をとっていても、この作品の結末に現れるのは祈りなのだ。

 オキシタケヒコ『篋底のエルピス6 四百億の昼と夜』は、前巻から新章に入っての、とりあえずの謎解き編。サブタイトルどおりのスケールの大きさで、この世界の設定が語られて、それはそれで嬉しいんだが、語り口は前巻同様軽く、廃棄未来/捨環戦を描いた大迫力の第1部4巻本の印象からすると、フツーにラノベSFっぽく仕上がっている。
 とりあえず世界のナゾは解かれたので、つぎは派手なドンパチが待っているのかも。

 続けて読むのがちょっとつらいときもあるカート・ヴォネガット『カート・ヴォネガット全短編3 夢の家』は、読み終わってしまえば、結構面白い作品もあったと思うのだけれど、やっぱり続けて読むのはどうかなあという感触は残る。
 作品による優良可は当然あって、もともと50年代の風俗自体が古めかしいので、よく出来た作品というのは、その時代のエンターテインメントとしての枠を超えるヴォネガット節の濃淡によるのだろうけれど、それとはべつに続けて読むことに抵抗を感じさせるのは、短編集としてテーマ別になっている点にあるように思える。この巻では「働き甲斐VS富と名声」というテーマの下に多くの短編が集められているけれど、個々の作品が示す多様性のために、どうしてこのこのテーマで分類するんだろうと余計なことを考えてしまい、その分うっとうしいのだった。次巻で全短編も完結だけれど、もうちょっと時間を掛けて読んでもいいか。

 初の邦訳短編集であるピーター・ワッツ『巨星』は、読後感が荒涼としていて、それが気持ちいいと感じられるのは、作者のスタンスにハッタリ感があまりないからだろうな。 冒頭の「天使」は飛行殺戮兵器の視点で語られる戦闘リポートだけれど、いまとなっては設定自体に目新しさはあまりないと思われる。しかし読者に伝わるのは殺人兵器の「思考」から導き出される「倫理」の不気味さだろう。
 「遊星からの物体Xの回想」はタイトルどおりモンスター側の視点で人類が描かれる。モンスター側の論理からすれば、人間族は救いがたいが方法はあるだろう、ということで、シリアスながらブラック・ユーモアみたいな感じもある。
 「神の目」は、語り手が空港の搭乗前に犯罪予備軍判断システムにかかる話で、これも設定自体に目新しさはないけれど、殺人・宗教・幼児嗜好症などいろいろ絡めて、倫理的なテーマを冷たく押し出す。
 「乱雲」は1994年発表の初期作ということだが、雲が知性を持つというある種バカSF的な発想も、ワッツにかかると暗い情念の物語として姿を現す。最初からこういう持ち味の人だったんだなあ。
 「肉の言葉」も1994年の作品で、死の瞬間を捉える研究をしている主人公が、亡くなった妻(?)や現在一緒にいる女性のプログラム/ソフトウェアの相手をして結局は……という話。主人公の病み方が不気味と云うべきか。
 「帰郷」は、深海で生きられるように改造されたらしい主人公が人間的な思考をほとんど失ったままホームステーションを目指す話。異形のものと化した主人公の不気味さがよく出来ている。
 「炎のブランド」は、バイオ企業の失敗で人体発火現象が起きるようになった世界で、遺伝子書き換え技術者の女2人の会話で進むブラックな話。ベタなタイトルがユーモアなのかどうかは疑わしい。
 「付随的被害」はいわゆる民間人を巻き込む攻撃行為に材を取ったSF。ということで冒頭の「天使」とほぼ重なるテーマで、こちらは高性能化された女性兵士が行った攻撃がどのレベルの判断で行われるかをめぐって、反政府的な政治家の策謀に巻き込まれる話。シリアスに進む話だが結末もブラックで、これもユーモアの一種だろうか。
 「ホットショット」はワームホールを作り出しながら航行できる宇宙船というのが出てくる宇宙SFという設定だけれど、ここでは太陽が舞台になっている。反抗的な主人公の雰囲気がワッツらしい。
 表題作「巨星」は、「ホットショット」に出てくる宇宙船「エリオフォラ」が巨星をくぐり抜ける冒険ハードSF(?)でSFの醍醐味が味わえる。ここでは宇宙船のメインコンピュータ「チンプ」が大々的に出てきて、主要登場人物的な扱いになっている。
 巻末の1作「島」は、このシリーズに属する3作目。宇宙船「エリオフォラ」で眠りから目覚めさせたれた主人公の女性は、彼女を起こした先任の若者が遺伝子的に自分の息子であることを知るが、「チンプ」の言いなりであることも分かってしまう。彼女が目覚めさせられたのは、平凡な赤色矮星のそばに浮かぶ直径1.4天文単位の薄いガスの雲が見つかり、そこからは信号らしき電波が「エリオフォラ」に向けて発信されていたからだった……。
 ということで、これは久方ぶりに書かれた本格的SFとしての星雲型生命体とのファーストコンタクトものだった。いやあ、ヴァン・ヴォクトの短編を思い出すくらい、嬉しいねえ。この作者のことだから、結末は苦いけれど、それでもわくわく出来るお話になっている。
 この巻末の3部作は、このシリーズとして書かれた短編がもう1作あるとのことで、是非訳して欲しいなあ。

 ケン・リュウ『生まれ変わり』は、古澤さんのセレクトによる3冊目の日本オリジナル編集の短編集第3弾ということで、これまでの2冊以上に多彩なケン・リュウの作品世界が味わえる。
 ケンリュウが示すシリアスなテーマを持ったいくつものSF作品は、直接的にテーマを読み手に伝えるものから、読み替えや風刺的なスタイルのものまで、さまざまな様相を持った短編に仕上げられている。そのために繰り出されるワザの多さや工夫は、ケン・リュウの作家としての身上だと思われる。ましてや古典的なSFコメディを手際よく仕上げ、中国の古典の伝奇的なエピソードを悩める戦闘美少女の萌え小説に変換して見せたりとなると、その引き出しの多さはまったくもってすさまじい。
 ところで、これはこの短編集だけの感想ではないのだけれど、最近の優れたSFを書く作家たちが揃いもそろって、ウェットウェアがハードウェア+ソフトウェアに置き換えられる話にその興味の大半を注いでいるように思われる。
 それは前世紀に書かれたクラークの『都市と星』の記録人格から『ニューロマンサー』や『攻殻機動隊』あたりとは、もう一段上がったレベルで様々な作品として描かれているが、これってもしかして現代のフランケンシュタイン・コンプレックスなのかと、いまさらながら気がついた次第。そういえば『銃夢』もチップがネタの話だったなあ。ある意味ホットな話題のまま数十年が過ぎているということか。この題材がこれからもホットなままなのかという点で10年先が楽しみだが、そのころには耄碌して何も理解できなくなってる可能性が高い。

 ノンフィクションは1冊。
 生井英孝『興亡の世界史 空の帝国アメリカの20世紀』は、2006年に単行本が出たときは横目でにらみながら買わずじまいだったもの。昨年12月に文庫化されたので読んでみた。
 「興亡の世界史」とシリーズ名を打ちながら、これは歴史的な叙述ではなく、20世紀アメリカが航空機の文化史を体現していることに注目して書かれたもので、時系列を追った記述ではあるものの歴史書ではなくて、著者の興味とその視点から見える航空機の発達に伴うアメリカの飛行機にまつわる精神史に主眼が置かれている。
 もちろん航空機の発達と戦争は切り離せないものなので、第1次大戦から戦争続きのアメリカの航空機事情が紹介され、2000年代の空の状況、特に無人攻撃機やドローンへの考察を入れた文庫本用書き下ろし「補章」まで、戦史ではない視点から人殺しの機械としてのヒコーキにかなりのページが割かれている。でも「補章」の最後がフィリップ・ロスの『プロット・アゲンスト・アメリカ』の話で閉じられているように、この本があくまでも歴史書ではないことを示しているのだった。
 単行本出版時に手が出なかったのは当然で、仕事の役には立たないが、読み物としてはおもしろい。


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