続・サンタロガ・バリア (第196回) |
はや2月ですね。1月に何があったかなあと思っても、「いまじにあんの会」の新年会と映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見たことくらいしか思い出せない。新年会は料理がうまかったのは覚えているが、何の話で盛り上がっていたのかはもう忘れている。
『ボヘミアン・ラプソディ』は地元のオンボロ映画館で見たのだけれど、デジタル化されて以前に比べれば良くなったとはいえ、普通の音響設備なので、いわゆるロック・コンサートの臨場感などとはほど遠い。ここで見た人の感想ブログには、この映画を見るのならシネコンに行った方が良いと書かれていた。もっとも当方にはクィーンやフレディ・マーキュリーにあまり思い入れがない(1973年にデビューアルバムを買ったが音の悪さに辟易して以降は買わずじまい)こともあって、映画自体は2時間以上あったけれど、こじんまりした作品に思えた。一番印象に残ったのがフレディ・マーキュリー役の主演男優の顔つきで、これならスティーヴン・タイラーやミック・ジャガーもいけそうだなあと思ったこと。もっとも、エアロスミスもストーンズも当分伝記映画は作られないと思うけど。
1月に読んだ本はなぜか続き物の中途巻が多く、1冊完結は2作品のみ。
新☆H・SF・Sのコニー・ウィリス『クロストーク』は、相変わらず分厚くて上下2段組で700ページもある。帯には「超常恋愛サスペンス大作」などと云うキャッチが踊っていてなんだかイヤな予感が・・・。
ということで、700ページの大半がおしゃべり/おしゃべり/おしゃべりで埋め尽くされたすさまじいシロモノ――本当のテレパシーはコワいぞ、というだけのアイデアなら30ページの短編で済むものを、コニーおばちゃんの果てしのない怒濤のおしゃべりが延々と結末を引き延ばしていく(その点では『航路』を彷彿とさせる)。「こ、こんなものを読むためにSFを読んでいるんじゃ・・・ウワァーッ(とおしゃべりの激流に流されていく自分が見える)」。コレを喜んで翻訳している大森望はやっぱり××××だ。
『BLAME! THE ANTHOLOGY』にオーソドックスなスタイルの読ませる短編を寄せていた九岡望『言鯨(イサナ)16号』は、これまたオーソドックスなスタイルで読ませるSF長編だった。
砂の海を渡る船と船乗りたちのエピソードからはじまり、砂の海を航海する者たちの存在の根源までを物語の流れの中で解いてみせるその手つきは、良質のジュヴナイルを思わせる。この作品から読み取れる九岡望のSFは、小説や漫画やアニメやゲームに使われたSFを見事に消化して自分の作品に仕上げているという印象が強い。まあうがった見方をすれば、アイデアと物語運びの手堅さは立派で文句の付けようはないけれど、ある意味のヘンさに欠けるのでそこがオーソドックスな印象をもたらしているともいえる。
ところでデューン/砂の惑星の空は青かったっけ。
カート・ヴォネガット『カート・ヴォネガット全短編2 バーンハウス効果に関する報告書』は、ようやく「セクション3 科学」でSF短編が読めると思ったら、たった11編しかなかった。そうか「ハリスン・バージロン」とかは一応SFだけど「科学」じゃないんだと思った次第だが、「科学」セクションの11編だってどこが「科学」なんだと首をひねるものもある。ということで戦争物以外の分類はあまりはっきりしてはいないようだ。「女」に分類されている「ジェニー」とかも一応SFだけれど、編者はテーマ的に「女」に分類している。SFではやはり有名な表題作が古典的な筋立てで、分かっていてもそれなりに読めるけれど、「科学」に分類された作品はSFとして読むとそれほどSFっぽくないのだった。まあ、SF読みじゃないヒトには、SFはあくまで手法であってテーマじゃないと云うことだね。
個々の作品のウケの良さという点では、やはり「ロマンス」に入っている短編が良くて、いかにも品の良い1950年代の女性誌にぴったりな感じがする。
驚いたのは小川哲の解説で、『舞踏会に向かう三人の農夫』でもその解説の面白さを褒めたけれど、ここでも面白い解説を書いていて、数をこなせば解説だけで1冊つくれるようになるんじゃないだろうか。
あとは続きものの途中巻ばかりなので簡単に。
待ちに待った小川一水『天冥の標X 青葉よ、豊かなれ』part1とpart2は、ついに姿を現した最終巻の始まりと中継ぎ。最終巻完結までこんなに待たされるとは。
物語は開巻早々エネルギー体の龍の大群と無人宇宙大艦隊のドンパチで、さすが打ち上げ花火の派手さで楽しませてくれる。しかしこれは序の口で、part2ではさらにスケールアップ(戦闘の方はあっさり片付けられているけれど)。一方のセレスは主要人物たちが人類同士の最後の戦いに挑む。
全体的な印象は、時折悲惨な戦いや宇宙の運命や如何にといったサスペンスが描かれるものの、「青葉よ、豊かなれ」という副題から醸し出されるポジティヴな雰囲気に包まれている。でも、よく考えると太陽系/地球がとっても寂しい状況なんだけれど、最終巻では副題どおりのファンファーレが鳴り響くんだろうか。
三部作と思っていた林譲治『星系出雲の兵站3』は、まだ露払いが終わって、これから物語が本格化するのかという印象を持たせる中継ぎの巻だった。火伏前兵站監はほとんど後景に引っ込んでしまって、次巻でついに火伏復活かというところ。話のつくりは相変わらず面白いけれど、パターン化しているともいえるので、次巻に期待したい。
帯に「新世代のル・グィン」とか「21世紀の『地球の長い午後』」とか謳われている新刊を50ページほど読んで投げたので、代わりにデニス・E・テイラー『われらはレギオン1 AI探査機集合体』を読んでみた。朝日新聞書評委員の一人が年末に選ぶ今年(昨年)の3冊に選んでいた作品だけれど、あらすじ読んだだけで大体の見当が付くような感じだったので積ん読にしておいたのに、結局手を出してしまった。
冒頭からSFファン丸出しのファニッシュな設定で、自分をたくさん複製して掛け合いマンザイをする(アメリカ/白人のおっさん)SFファンのはしゃぎっぷりがそれなりに笑わせるので、最初はわりと楽しく読んでいたのだけれど、初期人類と同程度のヒューマノイド生物を助けたり、核戦争で滅びかけている人類と地球脱出との話し合いを読んでいるうちに、さすがに「いい気ぶり」が鼻についてくる。まあ、無邪気な遊びではないかと言われればそうなんだけどねえ・・・。そういえば主人公がAIであることを自覚していて、性的な方向でのてんやわんやが一切出てこないところが珍しいと云えばめずらしい。
ところで、この作品でも太陽系/地球が寂しい状態なんだけど、『七人のイヴ』も含め、なんか今の時代に流行りのデフォルト設定なのか知らん。
ノンフィクションに移ると、文庫化された草森紳一『随筆 本が崩れる』は昨年12月のSF忘年会に行く途中大阪の駅の乗り換え途中で買ったもの。名前は昔から知っていたけれど、なぜか縁が無かった。表題の長いエッセイだけ帰りの新幹線で読んで、暫く放ってあった。
表題作は、地震で崩れた本で部屋に閉じ込められた話ではじまるが、途中で秋田へ旅に出る話に変わり、最後にまた本の話にもどる。まあ、融通無碍な文体の一種ともいえる。次の「素手もグローブ―戦後の野球少年時代」は、貧しい時代の少年として野球に熱中し、肩が弱く鈍足でそれほど恵まれた体格でもないのに、セカンドを守っては結構いい選手だったと自慢話が繰り広げられる。次の煙草呑みの自己弁護である「喫煙夜話「この世に思い残すこと無からしめむ」ともども「いい気なモノ」だけれど、そこは芸が勝つので、読んでる分には面白い。
文庫版の付録として短文が5つ入っている。最初の1編で、草森紳一が学生時代から師事した慶応義塾の奥野信太郎という中国文学の教授の思い出話から、草森の専攻が中文で詩人李賀に入れ込み、卒論に選んだことが知れる。おまけに最初の就職先が先生に紹介された「斯道文庫」だったとは。
昨年10月に光文社新書で出た松原隆彦『図解 宇宙のかたち 「大規模構造」を読む』は、そろそろ宇宙ものを読みたいなと思い読んでみたもの。
この本は標題どおり宇宙の「大規模構造」の解説に徹底していて、それはそれで著者が研究していることがよく分かるんだけれど、説明がわかりやすいかというと中々そうでもない。銀河系や銀河団から宇宙の「大規模構造」までスケールアップしていくにつれ、だんだん訳の分からないものになっていくと云うことの方が印象に残る。
138億年という宇宙年齢と宇宙マイクロ波背景放射が放出された場所が920億光年の広がりを持つことの関係が今ひとつピンとこない。いったい空間はどうやってひろがっているのだろうか。
読む前はお手軽本かと思っていたけれど、基本的な押さえがわかりやすく、結構面白かったのが、ジェームス・M・バーダマン/里中哲彦『初めてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)。バーダマンは早稲田の名誉教授で日本で云えば団塊の世代くらい、アメリカ黒人史の著作がある白人。里中哲彦は見た目40代後半くらい、ビートルズやロバート・B・パーカーの本を出しているので多分ポピュラー文化史系のヒトって、ちょっとググってみたら河合塾の英語の先生で1959年生まれでした。自分とほぼ同世代。
章立ては、アメリカン・ルーツ・ミュージック、ゴスペル、ブルーズ、ジャズ、ソウル/ファンク/ヒップ・ホップ、カントリーとフォーク、ロックン・ロールとオーソドックスで、刺激的という意味では全然刺激的じゃないけれど、自分がわりといい加減に覚えているアメリカ大衆音楽の基本知識が刷新されるので、それはそれでありがたい。まあ、ジャズの歴史をちゃんと知りたければ、前に紹介した油井正一の本を読んだ方がいいけどね。