続・サンタロガ・バリア  (第195回)
津田文夫


 平成31年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。って、なんか変な感じだなあ。4月末まで平成で、5月から新元号になるけれど、新元号元年が1月1日に遡るので、平成31年というのはないことになる。昭和64年の時は当たり前に感じてたんだけれど、生前退位で新元号というのはちょっと違和感があるなあ。まあ元号なんて知らないよという人たちも多いとは思うが。

 12月はもちろんSF忘年会の日程変更と会場変更(京阪ユニバーサル・タワー!)で、なかなか変わった気分が味わえました。青木さんには改めてお礼申し上げます。今回は桐山さんのお誘いで同志社SF研の先輩斎藤さんがバイキングディナーに参加されてたので、久しぶりに先輩たちの話題で盛り上がってました。ホテルは展望風呂が良かったなあ。 しかし12月の最大イベントは3年ぶりに来日したキング・クリムゾンのライヴに大坂初日と地元広島と2回見られたこと。前回2015年は大坂初日のみで(高松公演にも行けば良かったといまにして思うけれど)、演奏自体はもちろん満足したけれど、演目としては他の公演よりも曲数が少なかったり、聴きたかった曲が入ってなかったりやや残念だったこともあって、今回は大阪のチケットを手配した後に地元に来るのを知って広島公演も行くことにした次第。
 大阪初日9日のグランキューブ公演は前回同様曲数が他の公演よりも1曲少なく、曲目もアルバム『RED』からは、アンコールに「スターレス」を演奏したのみ。まあ、3作目のアルバム『リザード』のB面を一気に演奏して見せたのには驚いたけれど。ほぼどの公演でも演奏したのが「ラディカル・アクション~メルトダウン~レヴェルファイブ」のメドレーで、大阪初日ではこのメドレーがラストソングだったためか、スゴイ迫力だった。グランキューブは3000席近い大ホールだったけれど、轟音が鳴り響いていたような気がする。
 14日広島公演の方は、『RED』から「RED」「ワン・モア・レッド・ナイトメア」「スターレス」が演目に入り、アンコールが「21世紀」で、「宮殿」「エピタフ」「ムーンチャイルド」も演奏していたから、ファースト・アルバムから「風に語りて」を除く全曲演奏という年寄りフレンドリーなプログラム。あと「太陽と戦慄パートⅡ」も演奏してくれたので、大阪で聴いたパートⅠ、パートⅣそしてレヴェルⅤと、Ⅲを除く「太陽と戦慄」シリーズを体験出来たのは嬉しい。ちょっと残念だったのは広島ではサックスのメル・コリンズとベースのトニー・レヴィンが風邪気味だったらしく(まあ歳だしツアーも終わりに近く疲れが出る頃だ)、席は大阪よりもずっとステージに近かったけれど、大阪公演の方が気迫があったような気がする。2公演見ても「サーカス」と「フォールン・エンジェル」が聴けなかったのが心残りだけれど、それは贅沢というもの。「次回」はあるんだろうか。

 前回の積み残しの1冊が、新☆HSFSで出たマット・ヘイグ『トム・ハザードの止まらない時間』
 読んでいる最中はイライラしっぱなしで、読み終わってもイライラが続いたというシロモノ。400年生きた「若者」というアイデアをもう少し真面目に考えてもバチは当たらないんじゃなかろうか。
 作中、主人公が大西洋を渡ってニューヨークで長命族のゴッドファーザーに初めて会うのが1891年、主人公はカーネギー・ホールでチャイコフスキーが指揮する音楽会に誘われて聴きに行っている。これはカーネギー・ホールのこけら落としの演奏会で、作中では室内楽ホールといっているけれどもちろん大ホールで大人数が演奏している。このときの曲目は「戴冠式行進曲」で、メインプログラムはチャイコフスキーではなく若手の指揮者が振ったベルリオーズの宗教曲「テ・デウム」だった。このコンサートの後で、長命族ゴッドファーザーがチャイコフスキーのことを「彼はブラームスよりはるかに優れていると思わないか?」と主人公に話しかけているけれど、これはチャイコフスキーがブラームスの音楽を退屈だと批判していたから出てくるセリフ。まさに悪役にふさわしいというか、こんなセリフを吐くヤツとコンサートに行きたくないね。
 ちなみに主人公は1599年のロンドンでシェークスピアに会い、少年リュート弾きとしてグローブ座の楽団員に雇われるが、グローブ座はこの年にオープンしている。歴史上の有名人と知り合ったり、歴史上有名な出来事に立ち会ったりする自慢話にページを割くのは退屈なタイムトラベラーものの典型だが、この主人公の語り口はそんなタイムトラベラーと一緒だ。

 ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』が昨年2月に漸く文庫化されたのだけれど、読めたのは11月だった。これは長編デビュー作(1994)で、これが文庫化されてウエルベックの長編はすべて文庫で読めるようになった(と解説に書いてある)。
 ということでウエルベックの邦訳長編を全部読み終わったんだけれど、ウエルベックは最初からエネルギーの枯渇した主人公を観察者として作り上げていた。それにしても中年にさしかかった男の暗い展望と彼が同僚の非モテ男を観察する視線は、読んでて何が楽しいのか分からないが、まあ読めることは確かだ。
 最初に読んだのがSFといえばSFな『素粒子』だったけれど、一番出来がいいのは、世評どおり『地図と領土』だろう。でも一番好きなのは前半の幸福感がすばらしい『プラットフォーム』かなあ。

 積み残し3冊目は、北野勇作『じわじわ気になる100字の小説』。一部でウワサのツィッター小説ですね。130編を書籍化するに当たっては3編おきにイラストが入っているとか、文字と余白のバランスがよく出来ているとか、そして真四角に近い造本とかいろいろ工夫されているけれど、なにより北野印の作品/散文になっているのがいい。ノホホンとした温かみとホラー的な不気味さとが同居しているのはいつものとおりだけれど、全体としては不気味さが上回っている。

 ここからはこのひと月に読んだもの。フィリップ・リーブ『廃墟都市の復活』上・下は大分間が空いたけれど、ようやく出た〈移動都市クロニクル〉4部作完結編。第1作が映画化された余波らしいけれど、ありがたいことです。
 ということで、オールスター顔見世グランドフィナーレ。第1作で衝撃的だった主要キャラにも容赦の無い物語づくりは、さすがに悪役に対するものだけになっているけれど、そこはまあ、元主人公たちの娘が主役を張っているので、性的な上品さを含めヤングアダルトの基本路線がきちんと墨守されている。一方若い時にハードな冒険人生を送った元ヒーロー父親トムと元ヒロイン母親ヘスターは、それぞれの過去に縛られていて悩める中年としてはもっともらしいが、まだ40才そこそこのはずで、物語の要請とはいえ、あの最後はもったいない。
 一方、娘の方の恋人役はアフリカ系だったり、ほかにも脇役で登場するキャラはアジア系やインド系と、人種に関してはバラエティに富んでいて、そこら辺の気配りもあって第1作の頃に較べると、ややおとなしくなったかなあと感じられるけれど、まあ、読者サービスはいっぱいあるので、それほど不満はない。

 第6回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作と帯に謳われた三方行成『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』はタイトルどおり有名童話(?)のエピソードをSF的トッピングでかなり自由に語り直したもの。下敷きになったのは「シンデレラ」・「竹取物語」・「白雪姫」・「さるかに合戦」・「おむすびころりん」・「アリとキリギリス」と何の一貫性もないようだけれど、標題の「トランスヒューマンガンマ線バースト」がこれらを連作として繋いでいるという身も蓋もないSFぶりがすばらしい。
 作品的にはやはり「竹取戦記」が面白く、前半の3編がよく出来ているけれど、人情小話的な「〈サルベージャ〉VS甲殻機動隊」など後半3編もそれなりに読める。この作者が自前のストーリーで面白いSFが書けるかどうかは分からないけれど、SFの使い方はわかってるようなので、次作も期待だね。

 前からちょっと気になってはいたんだけれど、中々手が出なかった残雪という中国の女性作家のデビュー長編が白水社の変形新書サイズ叢書uブックスで出ていたので、積ん読になるかもとと思いつつ買ってしまった。大きな本屋の書棚や平台を見て回っていると、ちょっとしたきっかけで買ってしまうんだなあ。
 結局積ん読にならなかった残雪『黄泥街』は、標題にルビはないけれど1行目の始まりが「あの町のはずれには黄泥街という通りがあった」となっていて「黄泥街」に「ホワンニーチェ」とルビが振ってある。
 この小説はこれまで読んだ小説の中に似たものを探して説明することが難しい。短いプロローグは「わたし」が「黄泥街」を訪れようとして、やはり短いエピローグでは「黄泥街」などという通りがないと知らされる。そしてその間に挟まれて本体である「黄泥街」で起きたてんやわんやが語られている。その形式自体は幻想小説/ファンタジイの典型的枠組みだけれど、「でんやわんや」の中身とそれを描く語り口が異常なのである。
 まあ、要約は手に余るので、本書カバーの裏にある内容説明書きを引用した方が早いのだが、それも面倒くさいので、いかにこの小説が説明しにくいかは、巻末に翻訳者である中国文学者近藤直子が書いた「わからないこと 残雪(ツァンシュエ)『黄泥街』試論」が掲載されている位である、ということで済ませておこう。
 この物語は通常のプロットはないといって良く、汚物や腐乱死体そして不快生物やキノコやカビといったものであふれているし、登場人物は誰一人まともな言動をしないし、奇妙な噂が常に蔓延している。そして作者はそれらに何かのリアリティまたは読者が作品世界に親しめるようなサービスを一切用いない語り口で「黄泥街」での出来事を作り出して見せている。ここにはエンターテインメントを拒否した作者にとっての「小説」を書こうという「狂気」に近い意志が感じられる。おそらくその気迫がこのわからない小説を読ませるものにしているんだろう。それが面白いかどうかは読む人次第だな。

 堀江敏幸『その姿の消し方』は8月に文庫化されたのを見逃していた1冊。一応長編小説だけれど、13章からなっていても200ページにも満たない。
 話は、作者を思わせる語り手が留学生(もちろんフランス)時代に入手した一枚の古絵はがきに短い詩のようなものが書き付けてあって、それは宛名の女性に向けて書かれていたとおぼしいのだが、語り手がその詩の作者に興味を持つと、ほかにもその作者の詩らしきものが書かれた絵はがきが見つかった・・・。ということでメインは無名の詩人にまつわる語り手の行動と体験そして思索の物語である。
 堀江敏幸の文体のもつ静けさは、小説でもエッセイでも大きな違いは無く、この小説が小説なのは必ずしも事実に即したかたちでは書けなかったからに過ぎないのだろう。その意味では物語が出来過ぎだと云うこともできるけれど、読んでいる最中は充分に興味を引くだけのエンジンとして仕掛けは動いている。仕掛けが気にならないのは言うまでも無く堀江敏幸の文体の効能である。

 モリミーの気合いの入った大長編ということで、なんじゃらほいな予感がした森見登美彦『熱帯』は、確かに集大成には違いないけれど、これまでのモリミー節を捨てるのかと不安に駆られる1冊でもあった。
 前半は、作家モリミーの「私」がスランプついでに「千一夜物語」読みながら、幻の小説『熱帯』まつわる話を始め、国会図書館勤務時代の友人に紹介されて「沈黙読書会」に参加すると、『熱帯』について語るグループに気づき『熱帯』を持ってきた女性の話を聞くところまでがプロローグ。
 第2章でこの女性が語るのは、『熱帯』を読んだことがあり求める少数の人々の集まり「学団」の話であるが、彼女は「どうも私には単純なところがあるわい」とつぶやくようないかにもモリミー作品にふさわしい女性である。しかし物語は彼女を「学団」に連れて行った男性が、彼女が会ったことで姿を消したもうひとりの「学団」の女性を追いかけて京都へ行き、その報告書が彼女に届き、それを読み始めることで、第3章に移る。語り手の男性は京都での『熱帯』をめぐる話を語るが、語り終えるところで男は想像の世界へと入り込んでゆく。
 この3章までがこれまでのモリミーの世界/ロウ・ファンタジーだったのだけれど、話の後半のはじまりである第4章「不可視の群島」からは「想像の世界」のハイ・ファンタジーに変化する。すでに第3章からモリミーの語り口調は普通の小説の語りに変化していたのだけれど、京都が舞台と云うこともあって気がつかなかった。「想像の世界」の語り手は第3章の語り手の口調をある程度受け継いでいることもあって、モリミーらしい丁寧さではあるが含み笑いが生じるような語り口は消えていて、かなり行儀の良い文体となっている。
 この後半のハイファンタジーの物語では、モリミーの幻想小説としての手品が楽しめるけれども、その達成具合は行儀の良い文体によってやや弱まってると感じられるところがある。そこら辺はモリミー印の面白さという点で後退しているといえるかも知れない。
 この作品が『太陽の塔』から『夜行』までのモリミーの集大成には違いないけれど、どちらかというと『夜行』よりかな。モリミーの「おとな」ぶりが今後どういう形になるのかが気になる。

 帰ってきた大森望編『NOVA 2019年 春号』は、標題どおり文庫雑誌を標榜していた。ま、雑誌になるかどうかは今後の刊行ペース次第で、オリジナル・アンソロジーであることに変わりはない。
 巻頭の1編が新井素子「やおよろず神様承ります」で、久しぶりにあの文体を読んだけれど、以前にも増して強力だ。内容の方も新井素子でなくては誰も思いつかない展開だろう。小川哲「七十人の翻訳者たち」はいわゆる「七十人訳聖書」の現場をネタにした一種のバカSFのように読めるけれど、日本のSF作家は宗教ネタで面白く書くことが出来る分、それらが英訳された時にどういう反応が出てくるのかが気になる。
 世間的には評価の高い『Ank:a mirroring ape』があまりにもホラー寄りのアクションSFだったので興ざめしたのだけれど、この佐藤究「ジェリーウォーカー」を読むと昔懐かしいタイプのモンスターホラーだった。なんとなくジョージ・R・R・マーティンのホラー体質に近いようなものを感じるなあ。マーティンのような強力なキャラづくりはまだ感じられないけれど。
 柞刈湯葉「まず牛を球とします」は、「外人」と呼ばれる地球外生命に東京が消滅させられた時代、主人公は食肉工場で見学者に製品工程の説明係をしているが、部屋に帰ると相方は見た目がシマウマだったりするという遺伝子改変時代の一種のディストピアもの。倫理的と云えば倫理的な1編。赤野工作「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」は、あいかわらず未来のゲームをネタにした人情小話だけれど、見えない相手に向けて語り手がひたすら吐き続けるセリフの量に感心する。
 小林泰三「クラリッサ殺し」はタイトルどおりレンズマンもの。小林泰三は本当に自分の小説のキャラに容赦が無いよなあ。
 高島雄哉「キャット・ポイント」は有名物理学者の猫好きとその理論の一部を絡めて広告の企画開発をする話。最後はシュレディンガーの猫ネタだけれど味わいはある。一方同じく猫の話とはいえ、まるでホラー落語みたいなのが片瀬二郎「お行儀ねこちゃん」。死んだ猫が踊るのはまあよいとして、エスカレートの方向とラストのオチのギャップがコワい。
 最後はおなじみベテラン二人で、宮部みゆき「母の法律」は、児童虐待や疑似家族問題をテーマに、未来の法律が巻き起こすシチュエーションを扱って重い印象を残す。飛浩隆「流下の日」は珍しくディストピアもので、一見手の込んだレジスタンスもののように読めてしまうが、結末の標題を意味する美しいシーンからは、これがそういう話なのかどうかを宙に浮かせる。

 創元版「NOVA」といわれる小浜徹也・笠原沙耶香偏『創元日本SFアンソロジー 一万年の午後』は大森望も云うように『NOVA』と収録作家が一人もかぶっていいないという短編SFアンソロジー。だけど、『NOVA』と同時に読むとどの作家がどっちに入っていたのか分からなくなると云うのは本当だ。
 巻頭の1編は新人久永実木彦の表題作。人間がいなくなった後、一元的な思考行動をするアンドロイドたちの一人に生じた違和感。非常にオーソドックスなSFの読み心地がする。
 作品数は少ないのにもはや新人とは感じさせない高山羽根子「ビースト・ストランディング」は編者のリードを読んでもヘンな話だが、実作はそれに輪を掛けてヘンな話が展開している。少女が怪獣を持ち上げるイメージだけでこんな話が作れてしまうと云うのはやはりヘンすぎる。AI付売店の女の子がヨシミなのはフレーミング・リップスのアルバム・タイトルから取られているのかと思ったよ。
 もはや中堅のイメージさえある宮内悠介「ホテル・アースポート」は宇宙エレベーターの待機ホテルでの殺人事件を扱ったSF。これちらは板に付いた仕上がりで、テーマは別にありそうだけれど、わりとスタンダードなSFミステリになっている。
 全然知らない作者だけれど、秋永真琴「ブラッド・ナイト・ノワール」はノワールというだけあってヤクザもの。実は映画『ローマの休日』のパロディ。水野英子の漫画版を思い出すなあ。
 松崎有理「イヴの末裔たちの明日」は、聖書の言葉が引用されているけれど、AIのおかげでクビになった主人公が試薬実験被験者に応募する話。これも一種の落語だけれど、オチがやっぱり実験論文につながるところがもはや執念というかなんというか、呆れる。
 倉田タカシ「生首」は『NOVA』の高山羽根子といい勝負のヘンな話だが、理屈はなくても読み手を納得させるところは、高山羽根子と違って倉田タカシらしい。ホラーでも落語でも寓話でもないところに作品の良さがある。
 宮澤伊織「草原のサンタ・ムエルテ」は「百合SF」じゃない創元短編SF短編賞受賞作「神々の歩法」の続編。ウルトラシリーズ愛好と軍事オタク知識が合体してオーソドックスなSF戦闘アクションものを紡ぎ出している。次代の山本弘ともいえるかも。
 最後はなんと堀晃「10月2日を過ぎても」。堀晃さんの日記は時々まとめ読みしているので、この作品がほぼ日記の内容をひきついでいるのがよく分かる。そしてフレッド・ホイルの代表作のタイトルのパロディへと続いていく。最近の堀さんの日記に妄想力の低下を自覚する文章があったけれど、それを踏まえての作品ともいえるのかな。
 創元日本SFアンソロジーは『NOVA』と違ってエッセイが2編入っているおかげで『NOVA』よりも雑誌らしいのは確かだね。

 ノンフィクションはまた来月。


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