続・サンタロガ・バリア  (第193回)
津田文夫


 山岸真さんとタニグチリウイチさんが大推薦していたので2時間ほど電車とバスを乗り継いで、遠くのイオンモールの映画館で見てきたのが『若おかみは小学生!』。他の映画館は朝早いか夕方以降なので、昼の2時からという動きやすい時間設定のスクリーンはここしかなかったため、態々出向いた次第。交通費だけで片道860円だ。
 1時前に着いたので、とりあえずチケットを買ったら77席が全席空きという状態。ということで真ん中ちょっと後ろの席を確保。昼飯を終えて入場アナウンスを待ってから入るとやっぱり自分一人だった。席について延々と流れる予告編(当然ながらアニメが多い)やらCMやらを半分目をつむりながら見ていたら、30代とおぼしきお兄さんが入ってきて、なんと真後ろの席に着席するではないか。76席空いていてそれをやるかいと、本編上映で照明が落ちた時点で席を立ち最後部近くの席に移動した。
 映画の方は何の予備知識も無く、少なくともメインキャラの絵柄からはオヤジの鑑賞はまったく期待されてないような印象だった。ところが、オープニングの神楽舞こそホンワカしていたが、主人公一家が高速を走るシーンになって、ああこれは事故るなあと思っていたら、そのシーンからの展開が異様に早く凝った作画と相まってあれよあれよで一気にエンディングまでもっていかれてしまう。
 クライマックスが主人公の負のテンションが極まって崩壊し、それを急転させてカタルシスに持ってく話なので泣けるが、まあ、そのように作ってあるのでもらい泣きである。主人公が客のポルシェに乗せて貰ってショッピングに出かけるエピソードがあるけれど、このポルシェの作画がすさまじく爆発的なBGMとともにちょっとやり過ぎな感じもしたが、話自体が重いのでこれくらいの振り幅は必要かも知れない。音楽はエンドタイトルを見ていたら鈴木慶一だったので、ビックリすると同時に納得もした。たぶん何回見ても面白い作品とは思うが、自分にはやや遠い感じがするので、追っかけはしない。わずか90分あまりの尺に非常に凝縮された表現が満載(その点は『この世界の片隅に』にも通じる)の作品ではある。
 ちなみに場内が明るくなった後、お兄さんはこちらを振り向いてから出て行った。

 50年前に読んだはずだけれど中村融氏の新訳で読んでみたら、こんな話だったっけと話の主筋さえ覚えていないことが判明したのがジョン・ウィンダム『トリフィド時代 食人植物の恐怖』(ちょっと副題はいらないような気が・・・)。
 大流星群の導入部は覚えていたが、トリフィドの設定をまったく忘れていて、大流星雨が直接関係してトリフィドが人を襲い出すように思っていたら、正確には大流星雨前にトリフィドは栽培産業が出来上がっていたのだった。
 そのあとのストーリーは、まあそれなりにシビアではあるが、訳者解説にも引用されているオールディスいうところの「心地よい破滅もの」である。懐かしいのは50年代イギリスSFらしい暗くくすんだ夜の雰囲気が味わえるところか。そのレベルでのリアリティからはウィンダムの作家としての実力がうかがえる。

 カート・ヴォネガットの短編集は『モンキーハウスへようこそ』から『人みな眠りて』まで買ってはあるけれど、実は読んでいない。邦訳長編は全部読んだし、大学時代にはまだ未訳だった『チャンピオンたちの朝食』をペイパーバックで読んで、英文リーダーのレポートを書いたこともある(枚数稼ぎにヴォネガットが描いたイラストも手書きで写して入れておいた)。
 ということで大森望監修『カート・ヴォネガット全短編1 バターより銃』はほぼ初読のものばかりということになった。
 いきなりの暗ーい雰囲気に驚いたのが、巻頭を飾る短編「王様の馬がみんな・・・・・・」。とてもヴォネガットの作品とは思えないヘヴィな設定で、あまりにも死の匂いがきつくてビックリし通しだった。晩年のエッセイならともかく最初期の作品がこんなにもシニカルだったとはねえ。
 とはいえそのあとはドイツでの捕虜経験を元に描いた作品群が続くし、そこにはすでにヴォネガットらしい哀しみとユーモアが漂っていた。テーマ的には同工異曲とも呼べそうな作品群であるが、作品構成上の出来不出来はあるもののどれもそれなりに面白く読める。 作品の内容とは関係ないことだけれど、ヴォネガットの短編を浅倉さんの訳でズーッと読んでいたところに、大森望訳のヴォネガットを読むと微妙に作品の雰囲気が変わるというか作品から受け取られるヴォネガット感が変わる。それはもちろん訳の善し悪しというレベルではなくて、おそらく訳語の持つ雰囲気や最初にどう訳すかという感覚の違いから生じていると思われる。大森訳は浅倉訳よりも明快だけれどやや温度が低いようだ。

 ヘンな小説と前々から若島正さんが取り上げていたのが、ドナルド・E・ウェストレイク『さらば、シェヘラザード』。タイトルにシェヘラザードが入った物語はいろいろとあるようだけれど、この話の中身は直接シェヘラザードとかかわらない。しかし、読み終わってみるとなかなか言い得て妙なタイトルであった。
 ライターズ・ブロックをネタにした小説もいくつかあったような気がするが、どれも短編だったように思う。これはプロ作家のゴーストライターとしてポルノを書き続けてきた男のライターズ・ブロックを長編として実践して見せたという点でユニークさが際立つ一品。いまならメタフィクションになりそうだけれど、これはあくまでもトラジコメディなエンターテインメントとして書かれている。
 訳者解説によると、ポルノ作家のライターズ・ブロックという題材は、実はウェストレイクが若い頃に別のペンネームで書いていたポルノ作家時代の実作/実体験がもとになっているらしいけれど、それをこんなユニークな手法でエンターテインメントに仕上げてしまうウェストレイクの技倆に感心してしまう。 

 ハードカバーで出たのが2000年で、18年経ってようやく文庫化されたリチャード・パワーズ『舞踏会に向かう三人の農夫』上・下を読んでみた。
 パワーズはこの処女作から非常に饒舌で、表紙に使われたタイトルどおりの写真から膨大な物語を紡いで見せている。表紙の写真はこの物語中での解説によれば、1914年の春にプロイセンで、市井の人々を撮影することに情熱を燃やす写真家が、自転車に積んできた撮影機材でこの三人の青年たちに被写体になるよう説得して撮った何枚かのうち、三人のポーズが一番良くそろった1枚ということらしい。
 1914年の春のプロイセンといえば、それは第1次世界大戦の勃発の年、セルビアのサラエボ事件が6月28日でオーストリア=ハンガリー帝国の宣戦布告がその一ヶ月後、玉突き状態でヨーロッパ全体が戦争突入して約4年、結果3つの帝国が消滅し生き残った大英帝国も衰退への道を歩み始めて、アメリカが世界の主導権を握ることになった。
 ということで、この物語は最初の語り手がこの作品が発表された1980年代半ばの自動車産業が衰退したビッツバーグの駅に立ち寄り、時間つぶしに入った美術館で偶然目にしたのが表紙の写真だったというところからはじまる。そして物語は表紙の3人を描く1914年のプロイセン/ヨーロッパに舞台を移し、そのあとふたたび現代へと戻るが、今度の舞台はニューヨークで、ビルの一室にあるコンピューター専門雑誌の編集部にいる男が窓から見たパレードの行列の中に赤毛の女を見つけ、その女に会いたいと強迫観念に取り憑かれる話がはじまるのだった。
 この3つの物語が交互に語られていくことで、表紙の写真と第1次世界大戦と写真を含むテクノロジーが各キャラクターの人生と絡み合いながら一大タペストリーとして織られていく。
 柴田元幸の訳者あとがきにもあるように、日本がアメリカ産業界を脅かしていた時代の作品なので、そこら辺への言及は隔世の感がなきにしもあらずだけれど、ここでの語りの強さはそれをものともしないレベルで、とても27才で書いたとは思えない物語を展開して見せている。
 文庫化に際しての解説がなんと小川哲で、この解説が徹底して27才にこだわっているところが面白い。小川哲が27才で『ユートロニカのこちら側』を書いていたとは。

 第1巻が面白かった林譲治『星系出雲の兵站2』は、いわゆる「己を知らず、敵を知らず」で局地戦を戦うとどうなるかを地で行く展開。目次を眺めているだけで話の筋が読めてしまうけれど、それでも面白いので文句はない。火伏兵站監が最終巻でどう動くのかが楽しみだなあ。

 単行本の出るのがそれほど間が空いたわけでもないのだろうけど、なんか久しぶりに読むような気にさせられたのが、藤井大洋『ハロー・ワールド』。器用仕事を得意とするIT技術者が主人公の短編5編からなる連作集。集中「行き先は特異点」が大森・日下コンビの年間日本SF傑作選で既読。
 藤井大洋の超ポジティブな前のめりのインターネット世界への信頼が読者に多幸感を振りまきながらも、作品としてまったく軽薄さを感じさせないのは恐れ入る。政治的な権力構造がもたらす負の圧力を深刻に捉えることよりも、未来の可能性の方を考える方が楽しいではないかと言われりゃ、ま、そうなんだけれどねえ。
 帯の「現実の話なのにSFに見せかけている不思議な構造」とあるのに笑ってしまったが、「ひろゆき」って誰だろうと思ってググったら、2チャンネル創業者のヒトでした。

 読んでも読んでも最後まで、なんなんだこの話は、と思い続けてしまったのがヴィクトル・ペレーヴィン『iPhuck 10』
 時は近未来で出てくるのは、おれはアルゴリズムだと名乗るAIで刑事文学ロボットのポルフィーリィ・ペトローヴィチ(『罪と罰』でラスコーリニコフを追い詰める予審判事の名前)とこのAIを警察から借り出した美術史家でキュレーターのマルーハ(マーラ)・チョウ(タマつき女)の二人(?)だけといっていいくらい。基本的にはこの二人のやりとりと独白で物語は進行する。
 とはいえ、タイトルのアイファック10はスマホならぬスマート・ディルドーで、マーラ愛用の自慰道具のことでもあるわけで、誑かしにもほどがあるというくらい人を食った話になっている。
 刑事文学ロボットと美術史家/キュレーターしか主要登場人物がいないとなれば、目次にある前書きは刑事文学ロボットの前口上だし、第1部「ギプス」はギプスと呼ばれる美術作品をめぐる話で、第2部「自分だけのための秘密の日記」はAIによるマーラ観察記、第3部「メイキング・ムービーズ」はマーラのAIをめぐる一人語りで、第4部「ダイバーシティ・マネージメント」は物語をたたむために書かれたエピローグという構成も納得のいくところではあるが、このエピローグだけは、人を食っている話には違いないけれど、SF読みにはわりと当たり前の、ちょっと古めかしいつくりのSFになっている。
 訳者による解説は、ゼロ年代から昨年この作品が出版されるまでのロシアの政治/文化状況の変遷に費やされていて、ペレーヴィンがその状況をリアルタイムで反映する作品を毎年のように発表していることを報告している。まあ、最近のペレーヴィンが落ち目だという批評に対していらだって自作で逆批評をしているという面もあるらしいが、読んでいる最中は何の話を読んでいるのかわからないところにありがたさがあるといえるかな。
 それにしても4000円を超える値段付けはどうかと思う。3200円ぐらいじゃないですか。
 


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