内 輪 第337回
大野万紀
ジョン・ヴァーリイの最新長編、『IRONTOWN BLUES』を少しずつ読んでいました。ようやく読了。『スチール・ビーチ』、『The Golden Globe』(未訳)に続く三部作の最終話です。
どうもこのシリーズはどこかで時間線が別れたもう一つの〈八世界〉のようですね。ここにきてついにアンナ=ルイーゼ・バッハのシリーズと接続してしまったし、CCの位置づけも問題になる。短篇集の〈八世界〉とは設定が矛盾するのも当たり前だ。
もちろん70年代の〈八世界〉の瑞々しさはここにはなく、あの新鮮な驚きもない。でも別の驚きがある(とりわけクライマックスの展開にはびっくり)。作者には珍しい、激しく残酷な戦闘シーンの中で、賢いワンコたちが胸のすくような大活躍をします。
前半がやや退屈なだけに、後半のハインライン・オマージュを(やや批判的ながら)前面に出した展開が、やっぱり歳を取ってもヴァーリイだなあ、という感じで面白かったです。
それにしても未来の月世界が舞台なのに、60年代のTV番組の話が山ほど出てきて、ぼくは子どものころにリアルタイムで見ていたから大体はわかるけど、今どきの読者にはついて行けるのかしら。心配になります。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『七人のイヴ Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』 ニール・スティーヴンスン 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
本国ではぶ厚い一冊の本として出版されたが、邦訳は三分冊となった。というので、Ⅰ~Ⅲをまとめて読んだのだが、これはまあ正解だっただろう(でも時間がかかった)。
とはいえ、実際のところ、Ⅰ~ⅡとⅢは別の物語である。普通ならⅠ~Ⅱが本編で、Ⅲはエピローグとして短く描くところだろう。あるいはⅢが本編で、I~Ⅱがプロローグでもいい。Ⅰ~Ⅱは月が落ちてくるという近未来人類絶滅大パニックSFで、Ⅲはその5千年後という遠未来SFなのだから。
まずⅠ~Ⅱの話。いきなり「何の前ぶれもなしに、はっきりした理由もわからぬうちに、月が破裂した」という文章から始まる。たぶん今世紀のことだろう。近未来の話である。小惑星が落ちてくるというのはよくあるが、月が破裂するというのはなかなか破天荒だ。基本、非常に厳密に描かれたハードSFなのだが、ここの理由は科学的常識を越えていてさっぱりわからない(Ⅲのエピローグで仄めかしはある)。でも原因が何であれ、七つに分裂した月が指数関数的に分裂・衝突を繰り返して、ついには隕石の雨となって地球を死の星に変えるという成り行きは、人類滅亡ものの一つのパターンである。本書は、その大パニックの中で、何とか人類の一部を宇宙で生き残らせようという物語なのだ。
宇宙といっても火星や太陽系に広がるというのではなく、地球周回軌道の国際宇宙ステーション(ISS)という、今も飛んでいるあのちっぽけな人工衛星(もっともこの時代には、色々と拡張されていて、何よりも小さな小惑星を捕獲してくっつけているという設定だ)が舞台なのだ。たまたまそこにいた人々と、地球滅亡までのたった2年の間に、後からやって来た数千人が生き残るだけである。
本書では地球での絶滅の悲劇はほとんど描かれない。まあ描いていたら大変なことになるだろうが、そこはあっさりしたものだ。Ⅲに向けての伏線はあるが、それも背景に隠れている。主なストーリーは、たまたまISSにいた人々と、後から来た人々の、人類の生き残りをかけた苦闘にある。時間もない、リソースもない。それでもあきらめることなく、知恵と技術と勇気でサバイバルしていく。ⅠとⅡの前半は、基本的にそれが中心の物語だ。主人公格の登場人物は何人かいるが、ロボット工学者のダイナが主な視点人物となる。だがぼくのお気に入りは成り行きで指導者をやることになるアイヴィだ。彼女は決して権力志向な人間ではなく、たまたまISSで司令官をしていた東洋系アメリカ人で、物理学者の宇宙飛行士である。困難に直面してもいつも笑顔で、とても人類の生き残りを指導していくような力強い人間には見えないが、どこかホンワカしていて親しみがある。
ハードSF的な側面についていえば、本書では大量の小型ロボットや、ひしめき合う宇宙船の群れが、群制御で動的にコントロールされ、またチェーン状に繋がってムチやリングのように形状を変えたり、非常に奇妙な動きをするテザーの力学に重点が置かれている。これは従来の基本的に直線運動と円運動を中心とした宇宙空間の力学的イメージとは(同じ古典力学の範疇ではあるが)ずいぶんと違った、生物的なイメージを与える。とても面白いのだが、その分視覚的にイメージしにくい。ぜひとも映像で見たいところだ。なお、この多数の小さなものが繋がって協同的に動くという力学的イメージはⅢでも踏襲されていて、今まで見たこともないような不可思議な巨大建造物が描かれる。何しろ軌道上からテザーでぶら下げられた巨大都市なんてのも出てくるのだ。
Ⅱの後半では生き残った人々同士がまた反発し合い、政治問題が生まれ、そして何度かの悲劇によって、Ⅱの最後では、ついに人類の生き残りは8人の女性のみとなってしまう。うち1人は子どもを残せない年齢なので、七人のイヴというわけだ。Ⅱの帯に小川一水の「人類、生き抜きすぎにもほどがある」という惹句が書かれているが、まったくそう思う。いや普通に考えたら無理でしょう。でも生き抜いちゃうのだ。
人類滅亡を扱ったSFといえば無数にあるが、ぼくが印象を重ねたのは小松左京の『復活の日』だ。こんな局面になっても、人間ってホントにバカだよねえとか、それでも自分に出来る範囲で前を向いて進む姿とか。
そしてⅢだ。スティーヴンスンはもしかしたらこっちが本当に書きたかったものなのかも知れない。この世界を成り立たせる前日譚としてⅠ、Ⅱが必要だったのかも。
七人のイヴの子孫たちが宇宙で繁栄し、元の月軌道を巡るハビタット・リングを築き、テラフォームでようやく人の住めるようになった地球へ再び足を踏み入れる、あれから5千年後の物語である。これはワクワクするよ。でも、物語の前半は、新しい設定と世界観、見慣れない用語が続き、ちょっと入って行きにくいところがある。七人のイヴの子孫たちがそれぞれの人種となり、大きく二つに分かれて対立していたりするのだ。また描かれる未来技術が、群制御や動的安定性から発展したものなので、まるで目くるめくジェットコースターの中にいるような感じで、落ち着かない気分になる。でもその見たこともないような、巨大で奇怪なガジェットたちはとても魅力的だ。
地球の復興は、えっ、たった5千年で?という気もしないではないが、まあいいだろう。5千年といったらけっこうな時間だ。そこでの逆〈ファーストコンタクト〉というテーマも面白い。それにしても作者は、ここにポストヒューマンや人類の変貌や文化の継承と変質といった遠未来SFのテーマをこれでもかと詰め込んでいる。Ⅲの後半、物語が急速に動き出してからはがぜん面白くなって、それこそ、えっ、これで終わるの?という感じだ。物語自体はストレートなので、エピローグであっさりまとめたりせずに、シリーズ化していくらでもふくらませるだろうと思う。何だか続編がありそうな気がしないでもない。
『オブジェクタム』 高山羽根子 朝日新聞出版
著者の二冊目の短篇集で、中編一編と、短篇二編が収録されているだけだが、これまた傑作短篇集である。「太陽の側の島」は初めて読んだ時飛び上がって、文庫版『うどん、キツネつきの』の解説に無理やり押し込んだくらいだ。
「オブジェクタム」は、雑誌掲載時に読んだのだが、これまた何ともいえない記憶や思いがわき上がってきて、しばらく呆然としていた。SFかどうかなんてことはもうどうでもいいのだが、この謎めいてはいても超自然的なことは何も起こらない小説に、ぼくはとてもSF的なセンス・オブ・ワンダーを感じたのだ。そういう意味では、「太陽の側の島」や「L.H.O.O.Q.」とはまた幻想の質が違うのかも知れない。
「オブジェクタム」とは哲学用語で、主観・客観の客観を現す言葉だという。しかしさらに、「外部にある事物が心なり意識なりに投影され、いわば物に心が具現化された状態を意味している」という説明もネットで見つけた。そう言われればそうかも知れない。この物語では、壁新聞、祖父の秘密の行動、俳句教室、ガリ版、ホレリスコードを埋め込んだカード、家庭内暴力、手品、石を積み上げた謎のオブジェ、そしてチ-37号事件を想起させる千円札。そういった様々な事物、事象、オブジェクトが、主人公の少年の主観を通して思い出され、それが少年の祖父の謎めいた行動とつながっていく。個々のオブジェクトは極めてリアルで具体的で詳細に描かれる(淡々とした文章すばらしさもあって、本当に目に見えるようだ)にもかかわらず、それらは全体像を結ばない。大人になって生まれた町に戻ってきた主人公の行動と、過去のできごとがほとんどシームレスに描かれるが、彼が何をしようとしているのかも明確ではない。オブジェクトが明瞭なだけに、不安な気分が最後まで残る。
じいちゃんの言葉「この町のたくさんのデータを集める。単純な数字がつながって関係のある情報になり、集まって、とつぜん知識とか知恵に変わる瞬間がある。生き物の進化みたいに」と、「たくさんの小さな豆知識だとか浅知恵だとか、意見だとか、そういったものがいっぱい集まる。ふつうに考えて、関係ないような見当はずれな言葉でさえ、その集まったものが人間の脳みそみたいに精神とか、意志、倫理なんかを持っているように見える場合がある」は、ミームの集合が、すばらしい集合知を生み出す場合もあるが、とんでもないものを招き寄せる場合もあると言っているようにも思える。
コンピューターの世界では、オブジェクトというのはカプセル化されたひとかたまりのプログラムで、中身を細かく知らなくても、何かメッセージを与えれば、特有の処理をして答えを返すようなものである。この作品では、オブジェクトはきちんと定義されているものの、それらをつなぐメッセージのレベルで何かバグがあって、何か不穏な、とんでもないものを呼び出してしまったのではないか、という気がする。それが何かはわからないのだが。
「太陽の側の島」でも、戦時下の内地での妻と子の暮らしと、南の島での夫の開墾作業というオブジェクトが、手紙というメッセージでやりとりされながら、全体として食い違い、この世のものではないところへとつながっていく感覚がある。
そして「L.H.O.O.Q.」。短い作品で、妻に先立たれた夫が、妻の残した犬を連れて散歩に行くが、その犬に逃げられてしまうという話である。タイトルが意味不明だが、ネットで調べると、これはシュールレアリストのマルセル・デュシャンが、モナリザをパロディにした作品のタイトルで、「彼女はお尻が熱い」という意味だそうだ(ネット検索ができるようになって、本当に便利だと思う)。
その表題とこの作品との関係は、終わりの方でわかる。少しコミカルな普通の小説だと思って読んでいたものが、そこで不意に立ち現れる幻想性(あるいは奇想性)に戸惑うことになるのだ。この余韻がすばらしい。
『ランドスケープと夏の定理』 高島雄哉 東京創元社
第五回創元SF短篇賞を受賞した表題作に、その続編2編を書き足した連作中篇集である。それぞれは連続しているので、一つの長編として読むこともできる。帯には瀨名秀明の「日本SFの歴史を次の五十年に受け渡す傑作」との最大級の惹句があり、ネットを見ても、SFファンの間での評価は大変高いように思える。
ハードSF的な多数のガジェットと、宇宙論まで視野に入れた壮大な(突拍子もないともいう)アイデア、そして何よりも、それら全てに優先する〈姉〉SFというオタク的なモチーフが評判を呼んでいるようだ。
舞台は地球温暖化が進んだ近未来(2060年代と思われる)。グリーンランド生まれのテアとネルフの姉弟が主人公だ。姉のテアは超のつく大天才のマッドサイエンティスト。地球と太陽のラグランジュポイントの一つ、宇宙望遠鏡のあるL2(太陽-地球-L2と並ぶ、太陽から見て常に地球の裏側にあるポイント)に常駐して、何やら得体の知れない研究をしている。弟のネルスは地球にいて、やはり大天才なのだが、いつも自分勝手で突っ走る姉にこき使われ、無理難題を押しつけられている。そのせいか、大人しく思索的で、ややペシミスティックな性格である。そのネルスが発見し。卒論で数学的に証明したのが〈知性定理〉。それはこの宇宙に存在する(後には、この宇宙だけでなくすべての他世界――宇宙のランドスケープに含まれる、物理法則の違う宇宙も含めたすべての宇宙においても)あらゆる知性というものが、すべて普遍的に共通な論理パターン(共通辞書)をもつ、つまり原理的にはコミュニケーション可能であるというものだ。SF的にいえば、理解できない異質な知性はないとする反ソラリスな考えで、スペオペ有理な概念だ。そのネルスが本書の語り手であり、彼の視点から物語が語られる。
第一話「ランドスケープと夏の定理」では、ネルスはテアに呼び出され、L2までやって来る。研究モジュールの中には、テアが小惑星帯で見つけ、ここまで運んできた5メートルほどの岩石があった。その中には物理法則も異なる別の宇宙、ドメインボールがあるというのだ! びっくり! そしてテアは、共同研究者の青花(ティンファ)と共に、ネルスに協力してもらって(ネルスは姉には断れないので強制的にだが)、テアの意識を情報=演算対として抜き出し、ドメインボールの内部に送り込もうとしているのだった。
ここでまた大きなアイデアが出てくる。情報=演算対というのは、人格を情報としてコピーし、その処理機能自体とペアにしたもの(記憶データとその処理プログラムが一体になったもの)ということらしい。記憶データはともかく処理プログラムって何? とは思うけれど、まあ普通のSFでいう、人間の意識をまるごとコンピューターに乗せられる形に抜き出したものといっていいだろう。その意識を抜き出したり、また戻したりするところに量子ゼノン効果を使うというところが面白い。量子ゼノン効果というのは実際に研究されている現象だが、ここでは連続する意識の静止点を作るのに使うというのが、とてもSF的だ(コンピューターでもバックアップを取るときに静止点をどうするかというのが問題になるよね)。まあ本当にそんな必要があるのかとか(どうやって可能なのかという根本的な問題は置いとくとして)、疑問はあるのだが、山ほどある意識転移のアイデアにまた一つつけ加えた点は面白い。
実はネルスの意識を情報=演算対として抜き出す実験は以前に行われており、その時生まれたネルスの別存在として、量子コンピューター上にもう一人のネルス、姉に面白がって性別を変えられ、妹となったウアスラがいる。本書では、テアとネルスの関係が最重要なのだが、それにウルスラや青花がサブとして関わってくる。他にも重要な役割となる人物はいるが、ほとんどこの姉弟妹があたかも複数の側面をもつ一人のキャラクターのように動いて、展開していく。宇宙のすべてがこのキャラクターと関わる、セカイ系どころか多宇宙系の物語だ。
そして、結局テアは自分の分身をドメインボールの宇宙に送り込むのだが、そのときに自分を十兆人にコピーして転送するのだ。十兆人の姉! なるほど、お話としてはまさにグレッグ・イーガンの『シルトの梯子』を思わせる展開だ。でも十兆人の姉……。
続く「ベアトリスの傷つかない戦場」では舞台はまた地上に降りる。ネルスは大学を出て軍事企業に勤めているが、知性定理の研究を続けるため、今は北極海に浮かぶ小さな島にある大学へ来ている。その指導教官がベアトリスだ。姉と同い年だが、ナヴィエーストークス方程式の解の存在問題(これは実際に今も残る未解決問題の一つ)を研究している。彼女の研究室で、ネルスは知性定理を他宇宙にまで拡張しようとしているのだ。そのために、様々な理論の発展を理論地図として情報空間にマッピングし、人間の知性が拓いた全体像を観測できるようにしている。そこにはいくつかの空白領域があり、それは人間がまだ見つけていない未踏の理論が存在するということを示している。そんなとき、北極海で軍事的な事件が勃発する。温暖化で北極海航路が重要になっているところに、その政治的な利権を巡った争いが、北極圏共同体の軍事クーデターに発展したのだ。ネルスたちもそれに巻き込まれ、通信は途絶し、命の危険も迫ってくる。そこへこの理論地図が大きな役割を果たす。十兆人の姉たちのいるドメインボール(一つの宇宙)を超コンピューターとして利用することで、理論地図を時間発展させた〈理論の籠(かご)〉を作り、そこから実際に使える技術を得ようとするのだ。姉の協力を得て手に入れたレシピは、〈運動エネルギー非保存空間〉というものだった。そしてそれは――。
第三話「楽園の速度」はその後の話で、〈理論の籠〉を巡って〈翻訳戦争〉が起こっている。二兆年後の未来にまで拡張された〈理論の籠〉からは、翻訳によって未来に存在するはずの技術を現在に入手することができるのだ。それを巡って各国が暗躍しており、ネルスたちも狙われている。とはいえ、〈理論の籠〉を翻訳できるようなコンピューターは、今や千兆に増えた姉が存在しているドメインボールしかない。なのに、どうやらそのドメインボールを使ったとしか思えない、超技術の事象が発生する。物語は宇宙空間と、地球上を行き来しながら進むが、都市圏に人口が集中し、地方はほとんど空白地帯となった日本で、電動自転車で移動するといったシーンも描かれる。かなり緊迫した事態のはずなのだが、物語はのほほんとしていて、何と姉の結婚話が描かれるのだ。
とはいえ全然エモーショナルではなく、そこに物語の中心があるようにも思えない。結局最後まで、姉弟妹の一体化したキャラクターの物語が強力な中心力を持っているからだ。超技術が世界をどう変えていくかという事にも作者の興味があるようには思えない。
とても面白くは読んだのだが、そういうところに、やはりバランスの悪さというのをずっと感じていた。
とりあえず、イーガンじゃないよな。それをいうなら、バリントン・ベイリーだ。最新科学やハードSFの用語を多用して目くるめくような世界を作り上げているが、それはベイリーの奇想理論による思索と同様に、現実の宇宙を考えるよりも、面白い設定としての宇宙を作り上げる方向に向かっている。もちろんそれはそれでかまわない。ただベイリーのワイドスクリーンな感覚はなくて、姉SFというような閉じた世界へと向かうのが気になる。やっぱ、壮大な方向へ行って欲しいじゃないですか。
知性定理というのもぼくには納得できないところがある。ここでの知性の定義が翻訳可能というものであれば、その翻訳とは何かと考えるとトートロジーに陥ってしまう。作者は東大で物理を学んだ人なので、そんなことは初めから承知の上なのだろうが。
ところで作者は宇部高校出身だとか。このたびノーベル賞を取った本庶佑さんの後輩であり、エヴァンゲリオンの庵野秀明さんの後輩でもあるということだね。理系と文系の両方の才能があることは間違いないので、もう少し世界に向かって開いてくれたら、他者の存在を気に掛けてくれたら、はったりではない地味な科学も描いてくれたなら、きっとすごく現代的で本格的なハードSFを書いてくれることだろう。