続・サンタロガ・バリア  (第191回)
津田文夫


 とりあえず猛烈な夏が終わったようで、それは嬉しいんだけれど、なんともはやな夏だったなあ。

 8月お盆前、JRが不通でバス路線が大渋滞のため時間が読めない中、広島からフェリー経由で来呉されたのが蛸井さんでした。こうの史代『この世界の片隅に』原画展が呉市立美術館で開催中ということで、駆けつけてくれました。蛸井さん自身は、片渕須直監督のアニメ『マイマイ新子と千年の魔法』で片渕監督の大ファンになり、片渕監督の『この世界の片隅に』を通してこう史代にも強い関心を持つようになったとのこと。当方も原作は発刊当時に読んでいたものの、再読はしないまま片淵監督の映画をみて衝撃を受けたので、蛸井さんとはそこら辺で関心の持ち方が共通していたわけ。『この世界の片隅に』の原作及び映画版についての蛸井さんの精緻かつ膨大な考察は個人HP「糸納豆ホームページ」及びシミルボンで読めるので、同好の方々はアクセスされるがヨロシ。

 盆過ぎにその片淵監督が地元映画館で挨拶に来るというので、のぞきに行ってみた(地元映画館での鑑賞は10回目)。ビックリしたのは観客の半数以上が市外からの参加者で、監督が市外から来られた方は手を挙げてくださいといったら、バーッと手が上がった。監督が、「交通不便で大変な時期ですが、呉市は豪雨災害で観光客が激減している中、皆さんよく呉に来てくださいました」と挨拶されたけれど、確かにこの客席のノリはファン交流会特有のアレだった。
 この度の片淵監督来呉は翌日開催の大和ミュージアムでこうの史代さんとの対談がメイン、また9月1日には『この世界の片隅に』野外上映挨拶のために来呉と、最近来呉される頻度が高くなっている。なお、1日の時は、映画とは別に、最近片淵監督とその仲間たちの努力で里帰りした零戦「報國-515(廣嶋縣呉産報支部號)」(関係者のHPによれば昭和17年にガダルカナル島で墜落、最近オーストラリアに運び込まれたという)について大和ミュージアムで講演もされている。ありがたいことです。

 新作アニメで見てきたのが、森見登美彦原作/石田祐康監督『ペンギン・ハイウェイ』。JRが不通で、2時間近くバスと市電に揺られて上映館にたどり着いた。
 原作を読んでからずいぶん時間が経っているけれど、大まかな印象は未だに脳裏にあるので、その印象が映画の中でどう再生されるかは、それなりに楽しみにしていた。
 モリミー印のあのビミョーな感覚はさすがに再現できていないけれど、ソラリスの海が広い空き地に浮かんでいるシーンが現れたときは、やはり目頭に熱いものを感じた。ハヤカワSF文庫で『わが名はコンラッド』が出た当時、角田純男が表紙に描いた海の上に浮かぶ巨大な水晶玉のイメージはいまでも残っていて、モリミーの原作を読んでいたときもそれに近いものを思い浮かべていたような気がする。
 ヨーロッパ企画の上田誠脚本は原作を無理に理屈づけることなく、テンポ重視のスタイルだったようで、それは成功していると思う。
 客の入りは7割弱、子どもはあまりいなかった。

 単行本では今ひとつ読もうという気がしなかった『ウルトラ怪獣アンソロジー 多々良島ふたたび』が文庫になったので読んでみた。
 奥付でも著者名が羅列してあるので、編集というほどのことは主張してないようだ。収録作家は山本弘、北野勇作、小林泰三、三津田信三、藤崎慎吾、田中啓文、酉島伝法の7名。やはり自分と同世代に近い作家の初期ウルトラシリーズものが読みやすい。
 SF読みにはあまりなじみのないが三津田信三「影が来る」は、江戸川由利子のドッペルゲンガー現象を扱った1作。SFを目指したというよりは、ウルトラシリーズの放映されなかった作品をつくってみたという感じで、それ自体は悪くない。星雲賞を取った山本弘「多々良島ふたたび」や田中啓文「怪獣ルクスビグラの足形を取った男」はその作風が見事にハマっているのは当然といえば当然であろう。小林泰三「マウンテンピーナッツ」は邪悪な小林泰三の典型的アイデアで書かれている。『ウルトラマンF』の方が邪悪さは薄いかな。北野勇作「宇宙からの贈り物たち」はあとがきが切ない。藤崎慎吾「変身障害」は話自体のアイデアはタイトルどおりだか、中間小説的な雰囲気が漂う。トリを飾る酉島伝法「痕の祀り」は集中ではウルトラシリーズというよりもオリジナルな酉島SFを感じさせる仕上がりになっている。その意味では新鮮かも。

 世間では評判の良かった前作が今ひとつ肌に合わず、スルーする予定だったけれど、解説が鏡さんだったので、クレア・ノース『接触』をとりあえず読んでみた。
 語り手は人間の素肌が接触しさえすれば、人から人へ移ってゆける「意識(ゴースト)」。ということで、冒頭から読者を引っ張り回すスタイルは前作同様、遠い過去の思い出の語り具合も前作と同工異曲な感覚がついてまわって、一週間かかって100ページも進まなかった。ので、またもや休日の朝布団に寝っ転がってイッキ読みを試みる。
 まったくSFではなかった。幻想文学というには書き方が現代エンターテインメントなので、ファンタジーとさえ呼びにくい。まあそういうモノがいるということで、吸血鬼狩りでもいんだけれど、最後は内輪もめに収斂するという体たらくで、何を読まされたんだかなあという感じ。鏡さんの解説もあまりテンションが上がってないようでした。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ第4期のニール・スティーヴンスン『七人のイヴ』Ⅰ、Ⅱは、Ⅲが出たばかりだけれど、一応Ⅱで区切りがついているので、感想を書いておこう。
 ここにはもう『スノウ・クラッシュ』や『ダイヤモンド・エイジ』の頃のニール・スティーヴンスンはいない。この作品では、ベストセラー小説タイプはいえ大河ドラマ風だった『クリプトノミコン』からもかなり遠ざかった作風になったとしかいえない物語づくりがされている。
 いきなり月が割れるというシチュエーションから、人類地球脱出作戦のテクノロジカルなディテールへと走るドラマは、なんで月が割れた原因の研究を誰もしていないんだという根本的な疑問(もしかしたら超高次元文明のちょっとしたミスだったかも)を封印すれば、それなりにリアリスティックな物語として受け止めることが出来る。ところが、残念なことに、途中で地球と運命を共にするはずだった元アメリカ大統領が軌道宇宙船に乗り込んで来るという、いかにもタメするような安易さが展開を見えやすくしてしまい、物語の真実性を安っぽくしてしまっている。まあ、ベストセラーにするためのエンターテインメントはそんなモノなのかも知れないけれど。
 ということで、テクノロジカル・フィクションとしては見事な反面、政治的な物語進行は退屈というおかしな作品になっている。
 Ⅲは五千年後ということで、ニール・スティーヴンスンのSF的想像力に期待しよう。

 『約束の箱船』がオーソドックスなジュヴナイルSFだった瀬尾つかさ『ウェイプスウィード』は、ストレートなSF物話という点で、前作よりもシンプルな筋運びだけれど、前作よりはヤング・アダルト的な成長物語になっている。
 海面上昇でほとんど海に覆われた地球が、他の太陽系/軌道宇宙社会からタブー視されているという設定。そこへ調査に乗り込んだ研究者の青年が、着水に失敗し、たどり着いた島の巫女的な少女と出会う。青年は少女との交流を通じて、地球の海に一種ソラリスの海のような影響力をもたらすウェイプスウィードが存在していることを知る。
 ということで、3本の連作中編は、青年と少女の恋愛物語に偏することなく、SF的視野を優先した組み立てになっているところにSF作家としての作者の気概を感じさせる(もともとそういう方向に興味が無いのかも、とも思うけれど)。

 川端康成賞受賞とコシマキに謳っている円城塔『文字渦』は、漢字/文字を巡ってほとんどSF的としかいいようのない操作を施した平均25ページの短編が12編入って300ページという一冊。しかし1編1編を読むのに結構時間がかかる。
 冒頭の秦の始皇帝と兵馬俑の時代を舞台に俑づくりの天才少年を登場させて、漢字の魔法を現出させてみせる表題作を読んで思ったのは、このレベルで12編も書いているのかという驚きだった。
 まあ、結果的にはそんなことはなくて、きっちりエンターテインメントの基本を守った円城塔独特のユーモラスなシリーズ短編がいくつも読める。
 読んでてときおり白川静先生なら大笑い/苦笑いしそうだなあと思わせるアイデアがあって、どれどれと最後の参考文献を見ると白川静の名前はないのだった。
 それにしてもルビも含めてこの文字の贅沢な使いようは、校正者に匙を投げさせるに足るだろうな。というか作者以外に校正が出来ないんじゃなかろうか。文字渦はやはり文字禍だったのかも。

 高山羽根子『Objectum オブジェクタム』は、ようやく出たといえる作品集。でも長中編の表題作と短編2つしか入ってなくて、160ページという薄さだ。
 短編のひとつ「太陽の側の島」は大森/日下コンビのアンソロジーで既読のはずだったけれど、もう一つの短編「L.H.O.O.Q」と表題作の間に挟まれるとその読みやすさがとても目立つ。
 表題作は一応、ジイちゃんの秘密の壁新聞づくりを手伝っていた少年が、成長して故郷を再訪し、回顧しているはずの物語だけれど、何かしら不穏なものがずっと感知されるという点で、世界は語られているとおりのものではない感触に襲われる。
 この感覚は、亡き妻が飼っていた犬に逃げられ、犬探しをする話である「L.H.O.O.Q」にもあって、なんかヤバそうなのである。
 これを書きながらいま思い出したのは、スライ&ファミリーストーンの昔のアルバム『暴動』の、タイトルトラックが無音だったこと。

 ノンフィクションは川上和人『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』Ⅰ冊のみ。
 この本は、以前単行本が出たときに大野万紀さんが取り上げていたと思うけれど、文庫になったので読んでみた。
 単行本でどうなっていたかは知らないけれど、文庫では下段を注釈欄に使っていて、作者のいろいろなコメントが楽しめるようになっている。が、読み始めて気がついたのが、この作者のウケ狙いは結構スベるのだなあ、ということ。堅い読み物になることを避けるために編み出したと思われる、ちょっと恥じらいを含んだギャグと文体は結構ブレーキになっていて、分かるんだけれど、すらすらと読めない。
 まあ「鳥こそがあの恐竜(獣脚類の)進化した姿だったのだあ」という想いは十分に伝わるので、別にいいんだけれど。
 時折NHKの恐竜番組を見ていたとはいえ、もう恐竜情報には大分疎くなっていたので、ここで紹介される恐竜たちの名前の多くは初めて知るも同然だった。恐竜に羽毛が生えていた位は知っていたけれど。
 一番笑ったのが、プロの恐竜学者である小林快次(「よしつぐ」とルビが振ってあった)の解説で、作者ののぼせ具合をイナしつつ、恐竜は鳥に進化したのはほぼ事実だけれど、実は恐竜の祖先はワニ類なのでワニ派の挑戦を待つ、などと著者の蛮勇をふるった切なさをスルーしてしまうという荒技。ちょっとカワイソウ。


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